そんな中、一冊の本に出合った。「雑草は踏まれても諦めない」である。この本は、踏まれても立ち上がってくる逞しい雑草について語られており、逆境に負けない生き方に憧れを抱いたサラリーマンにも読まれているようだ。

雑草とは何かを、「雑草は踏まれても諦めない」から引用してみる。
「ニンジン畑に生えてきたジャガイモ は雑草なのか」との問いに
ニンジンを栽培する立場から言えば、それ以外に生えてくるものはすべて邪魔者だ。だから、ニンジン畑のジャガイモは紛れもなく雑草なのである。
しかし、こんな考え方もある。「ニンジンばかりか、ジャガイモまで収穫できる。やれ儲かった」
要は、雑草と言う定義は、考え方しだい。つまり、雑草と言う概念は曖昧でくだらない分類であることを知らされた。 したがって、雑草と言わずに、「野草」と言うべきかもしれない。
また、雑草は、畑が居心地よく、むしろここに住み着いていると述べている。
自然界では沢山の植物の競争相手がいるので、雑草は片隅に追いやられた。しかし、人間がつくり上げた田んぼ、畑、道端、空き地に入り込んできて、はじめて繁栄できたと説いている。そこでは、いつも刈られたり、踏まれて住みにくいと思われるのだが、雑草はそれぞれ個性ある生き延びる戦略・戦術を駆使している。オオバコは「ふまれる」ことで殖えていく、シバの刈り取られてもびくともしない茎の構造・・・・・など興味深い切り口で語られていた。
単に、雑草を敵視するだけでなく、少し親近感をもって、わが畑に生えてくる雑草を徹底的に観察し、敵の正体を知る事にした。
冬の畑は、取り立てた作物の生長もないので、放置気味である。3月上旬になると、まだ肌寒いが、畑の畝と畝間の吹き溜まりは、温かい。冷たい風が吹き荒れていても、僅かな陽だまりは、居心地がいいのであろう。そこにちゃっかりと花を咲かしていた。名前は「オオイヌノフグリ」である。
意味不明の長い名前なので覚えにくい。 オオイヌの「フグリ」とはどういう意味なのか調べてみると、新しい国語辞典には載っていなかったが、かなり古い辞典には「陰嚢」と書いてあった。要するに、花の後につく実が2つ並んでいる形状が、雄犬の「フグリ」、つまり金玉に似ていることから命名したようだ。一方では、可愛い「ベロニカ」ともいう。
普通の植物は、太陽光を求め背丈を競って生長するものだが、オオイヌノフグリは、冬から早春にかけて、人目にもつかないように地面を這うように茎を伸ばし、多数の花を咲かせていた。春の終わりには、人に迷惑をかけないように姿をさっさと消してしまう、この処し方は見事である。他の植物が繁茂する夏場は苦手なのであろ、夏は、種で過ごすようだ。
畑の畝と畝間の陽だまりに繁茂している「オオイヌノフグリ」


日が射さない時の閉花状態 日が射した時の開花状態



日が射していない時には、5mm程度の蕾状態であったが、日が射してくると花びらは一斉に10mmまで開いた。 太陽の光を巧みに集めるパラボラアンテナのようになっていて、花の中の温度を上げている。花弁の中は長い冬を過ごした虫たちにとって、天国になるのであろう。
4枚のコバルトブルーの花びらには中央に向かって濃い瑠璃色の筋が中心に向かっているのが見られる。人が美しい模様と感じるためにつくっているのではなく、虫を蜜のある一番奥まで誘導するためのガイドラインである。 無論、オオイヌノフグリが次世代に命を繋ぐための受粉を促すためである。
野洲市の中央を流れている「平家物語」で知られる祇王井川(ぎおいがわ)には、夏になると、銀ヤンマが姿を現した。まだ、幼虫のヤゴが、水中に生息できる昔のままの水質が保たれているようだ。

この銀ヤンマの姿を眺めていると、生駒山山麓の田園地帯に住んでいた私の学童の頃が蘇ってきた。昼間の銀ヤンマは、餌を求めてそれぞれ勝手に行動しているのだが、夕方になると、銀ヤンマの群れが幾層にもなって天を埋め尽くした。それも、ゆったりと同じ方向に向かって。どこに行くのか確かめなかったが、山の方を目指していた。今では到底信じられない光景である。当時夏場になると、毎日繰り返され、見慣れたものであった。野原を駆け巡っていた私も家路につき、その日が終わった。
田んぼには、用水池がいたるところにつくられていた。そこには、自分の縄張りと言わんばかりに、銀ヤンマが池の上を行ったり来たりしていた。一匹で飛んでいるトンボを捕獲するのが難しかった。が、雌雄二匹つながった銀ヤンマを「ぎっちょ」?と呼んでいた。繋がっていると、何かと飛ぶのが不自由で、動きが鈍くなる。そこを網で捉えた。 オスを「らっぽ」と言い、上等なメスを「ドロメン」と言った。「ぎっちょ」でとらまえた「らっぽ」は、どうでも良かった。
メスの翅の色が大切であった。浅い茶色は、まずまず。成熟した「ドロメン」の翅色は、泥をぬったような濃い飴色になっていた。オスにとっては極上の美女なのであろう。兎に角、私は、ドロメンを捕獲したその夜が寝られないほど興奮した。
翌日、糸にくくりつけた「ドロメン」をくるくると飛ばせた。何処からともなく「らっぽー」が現れて、二匹が絡まって落ちたところを素早く捕まえた。「ドロメン」には何匹も何匹も寄ってきた。ガキ同士で竹かごの捕獲した「らっぽ」を見せ合ったものだ。
最近では到底考えられないかもしれないが、夏休みの子供たちは、トンボとりで殆ど毎日を過ごして遊んだものだ。ギンヤンマとこうして遊べたのは、私の夢物語になってしまったようだ。

確かに、私はドロメンを長く生かすため、弱った「らっぽ」を切り裂き、その肉を食わすむごいこともした。これ以上に、直接手を下していないが、人間は知らない間に、あんなにたくさん生きていた”とんぼ”を、今ではすっかりいなくしてしまった。生息域を住宅化し、田んぼに農薬を使ったりした。
人間と同じ生き物の死滅は、いずれ、人間にもしっぺ返しが・・・・・。
残念ながら、スウェーデン・アカデミーは9日、2014年のノーベル文学賞を、フランスを代表する作家の一人で、小説「イヴォンヌの香り」などで知られるパトリック・モディアノ氏(69)に授与すると発表した。
毎年のようにノーベル文学賞の噂がささやかれる村上春樹だが、受賞を逃してきた。2012年、受賞候補として最有力と見られたが、中国の莫言氏に持っていかれた。昨年はカナダのアリス・マンローさんであった。
今年も、英国ブックメーカーラドブロークスのノーベル文学賞受賞者を予想では、オッズ1位であった。これで3年連続であった。 今年こそはと、確信していたのに。
1987年発表された『ノルウェイの森』は上下430万部ミリオンセラーになった。 これを きっかけに村上春樹ブームが起こった。『1Q84』も出版界とくに小説の世界で大きな話題となった。(全3巻)は文庫本を合わせて 累計774万部の大ヒットを記録したとも言われ、爆発的に売れた。純文学作品としては、前例がないと、新聞がかきたてた。ハルキスト(村上春樹ファン)が日本だけでなく中国・韓国をはじめてとして、世界中で読まれていた。
兎に角、読まなければ始まらないので、村上春樹氏がノーベル賞を受賞する前に読んでみることにした。 『1Q84』 『ノルウェイの森』 『海辺のカフカ』の代表作を選んだ。
本屋のおばさんに、「1Q84のbook1を買います。この1冊だけかもしれませんが・・・・・」と、6冊の長編の1冊だけを買ったのがきっかけとなった。その後、立て続けに、この3冊(計10冊)を手に入れ、一か月で読み切ってしまった。
月が2つでてきたり、時間軸が無秩序であり、不可思議なことが起きたり、物語の非現実の世界に戸惑ったが、前に前にページをめくっていった。まさしく、 村上春樹氏本人が語っている小説技法にはまってしまった。
「良き音楽が必要とするのは、良きリズムと、良きハーモニーと、良きメロディ・ラインです。文章だって同じことです」、「文章を書くのは、音楽を演奏するのに似ています。最初にテーマを書き、それをインプロヴァイズします。そして結末に向かう……というような」と、語っている。「リズム」こそ、本人が「自分の文章でいちばん大事だと思っていること」らしい。この心地よいリズムに乗って読んだのでなく、読まされてしまった。
日本語の文体を重視し、事細かく、濃密な言葉を吟味した文章によって相手に伝えていく手法でなく、夢の中に誘い込み“ファンタジー”の世界に引き込んでいく、新しい手法に新鮮味が感じられた。 特に印象に残ったのが、比喩仕方がすごい。その小説の世界に更に引きこまれた。

だが、村上文学というのは、哲学や思想に関わるものが欠如しているのであろうか、「ノーベル賞」には馴染まないようだが、来年を期待している。

このウォーキングに出掛ける前に、仲間から『三島由紀夫「絹と明察」の小説に当時の浮御堂についての様子が描かれている』と聞いていた。どうも、三島の小説は難解だ。のっけから「存在と時間」のハイデッガー触れられ、先が思いやられたが、浮御堂に関する情景が描かれている記述のみ追ってみた。
更に、描かれている時期は、いつごろだろうか調べてみると、三島は、昭和29年に起こった近江絹糸争議を題材にした「絹と明察」を起稿するため、昭和38年8月~翌月6日滋賀に取材に訪れている。つまり、多少脚色されているかも知れないが、ほぼ50年前、作家三島が、浮御堂周辺を眼にした光景を記した箇所を抜粋し、当時の様子に慕ってみた。
現在の浮御堂辺りの河畔は、護岸工事が行き渡り、蘆もなくすっきりしていた。堅田港の桟橋には、鍵が付いた金網の扉が備えられ、あまり使われている気配も無いようだ。この堅田港付近より見える浮御堂は、特徴のあるそりのある屋根部分だけだ。蘆のあいだの破船はないが、小船が陳列されているかのように意味ありげに置かれていた。
町長の先導で、一行は窄(せま)い堅田の町をとおって、浮御堂のほうへ歩きだした。(略)ほとんど蘆(あし)におおわれた川面(かわも)にかかる小橋をわたる。蘆のあいだに破船が傾き、その淦(あか)が日にきらめき、橋をわたる人の黒っぽい背広や黒のお座敷着は、袂(たもと)の家の烈(はげ)しいカンナや葉鶏頭の赤によく適(うつ)った。


右側に見えるのが大津本堅田郵便局

郵便局の支店長に話を聴くと親切に教えてくれると友人から聞いたので再びこの場所に訪れた。「郵便局の建物は、豊郷小学校の保存活用問題で話題となった有名な建築家ボーリズが造ったようである。だが、昭和45年、先代が立て替えた。その当時は、擬宝珠(ぎぼし)のある木造の階段があり、2階の集配場には、多くの女性が働いていた」と当時を懐かしむように支店長が、振り返っておられた。
それは柴野大徳寺派の禅寺で、海門満月寺と称し、十世紀のおわりに横川の僧都(そうず)恵心が、湖中に一宇を建立(こんりゅう)し、千体仏を安置したのにはじまる。竜宮城の門によそえた小さな楼門のところで、住職が一行を出迎えた。松の影に充ちたせまい庭先に、すぐ湖へ突き出た浮御堂へ渡る橋があった。阿弥陀仏千体の半ばは、湖へ向かって、暗い御堂のなかに簇立(むらだ)ち、そこの欄干からは、対岸の長命寺や、遠く近江富士を眺めることができた。


「ヨシ群落保全区域」

建て込んだ浮御堂の前には、大きくはないが観光客用の駐車場も備えられ、観光地化されていた。作家三島が描いた情景には、味わいのある近江の情趣がそこはかとなく伝わってくるが、この地には、すでに昔日の風情はなくなっていた。

北陸本線木ノ本駅から湖西線永原間まで一日で踏破するには、余りにも距離が有りすぎたので、やむなく奥琵琶湖パークウエイを通らず、国道303号線を使って短縮を計った。これまで可能な限り琵琶湖の岸辺を辿るルートをとってきたのだが、・・・・。
最近、滋賀県・福井県境の野坂山地(乗鞍岳・芦原岳)から琵琶湖の竹生島を眺めていると、琵琶湖にせり出している菅浦のある半島を見つけ、やはり、ここに行くことにした。
92年、遠藤周作は、朝日新聞のコラム「万華鏡」に、「忘れがたい風景」と題して「私が年に一度はひそかに訪れると綴っている場所である」と、紹介している。
あまり多くの人に知られることを好まないと語りながら、「2月の午後、入り江のようなその地点の周りの山々は白雪に覆われ、冬の弱い陽をあびた湖面は静寂で寂寞としていた。まるでスウェーデンかノルウェーのフィヨルドに来ているような思いだった」と。その地名は明かしていない。が、これから冬にかけてそこを一人で訪れる方は、決して失望しないだろうと誘いかけているところだ。
更に『私の「忘れがたい風景」のある場所は、芝木さんの本を読み、探し歩いて、「ああ、ここなのか」と見つけられることをお奨めする』となぞ賭けをしているところだ。明らかに菅浦である。
野坂山地から菅浦のある半島を望む

芝木好子長編小説「群青の湖」は、琵琶湖のほとりに嫁いで、旧家の重圧と夫の背信から、子供を連れ東京四谷へ戻る。心に残る"湖の美”の再現を夢み、染織の世界に生きる物語である。
近江八幡は織田信長没後、豊臣秀次が築いた城下町である。古くから伝わる因習のある旧家を舞台にして重々しい話が展開していく中、四季折々の琵琶湖の情景がきめ細かく綴られている。文字と言う道具を使って、絵具をキャンパスに塗りたくるかのように、色彩豊な琵琶湖の様子が描かれている。
「群青の湖」に書かれた研ぎ澄まされた文章を抜粋してみた。
「冬が来て、東京に雪の降る日が続くと、瑞子は琵琶湖の雪景色を思った。北の湖にしんしんと雪が降るとあたりは白い紗幕に蔽われてゆき、群青の湖のみは白いあられをのみもみながら、昏い湖底へ沈めていく。雪が止み、陽が射すと、雪でふちどられた湖は蘇っていよいよあおく冴えかえる。・・・中略・・・瑞子は湖の永遠に触れて、片鱗でもいい一枚の布にとどめたいと思うようになった」
「初秋の気配であった。湖水も空も縹色(はなだ)で小舟もない、鏡のような湖・・・・」
「湖は深海よりも透明で、藍が幾重にも層を成して底から色が立つ・・・・」
「奥琵琶湖の秘した湖は、一枚の鏡のように冷たく澄んでいる。紺青(こんじょう)というには青く、瑠璃色というには濃く冴えて、群青とよぶのだろうか」
最後に、
「いま 私に見えているのは、湖の生命と浄化の雪と枯葦の明るい茶なの。清らかな鎮魂の布が織れたら、私の過去から開放され自由になれそうな気がするの。そうしたらこの次は、あなたをおどろかすような魅惑的な真っ赤な蘇芳(すおう)や、妖しく匂う紫や、老いた女の情炎のような鼠茶や、いろんな色を糸に乗せて、思い切り織ってゆきたい」と結んでいる。
奥琵琶湖の菅浦

滋賀県の地名として大津、近江八幡、大原、朽木、安曇川、そして菅浦が登場してくる。特に、菅浦に関する場面は、3回ほど出てくる。作家芝木好子にとっては、最も気に入ったところであったのであろう。
菅浦については次のように紹介している。
岬へと進むほどに深山幽谷の眺めになって、町で見る湖とは趣が違う。つづら折りの湖畔をまわりきって、視界が変わり、広々とした湖の浦が現われた時、その岸辺に打寄せられたように小さな集落があった。
風光の清らかな、寂とした、流離の里である。入り江に沿って漁船が舫っているが、人の姿はない。閉ざされた集落だが、どこからか侵入者を監視する眼を感じる。
里の入口に湖に面して神社があり、石の鳥居が立っていて、鬱蒼とした木立の山を背に、奥深く参道が伸びている。鳥居の脇に古びた要塞門があって、由緒ありげな隠れ里を思わせる。雪の残る山は深く敬虔な雰囲気を持ち、浮世の外に取り残された流謫(りゅうたく)の哀しみが漂って、心が惹かれた。
石段を登っていると森閑として、左右の繁みの下から狐狸でも現われそうだが、振り向くと琵琶湖がみえる。参道は長い傾斜道で、しばらく登ると急な石段の上に白木の神社が現われた。
履物を脱ぐこと、と立て札がある。
この作品は、昭和35年当時の話であるが、今も言葉通りの情景が伝わってくる。やはり、ここは流離の里であった。
余りにも寂としたこの場には居られず、友人に「もう帰る」とメールした。
須賀神社の参道


今回は、作家芝木好子が綴った文字から琵琶湖・菅浦を見たが、次回は真冬の雪が降り頻る中、静寂で寂寞としていた菅浦を訪ねてみたい。この寂を味わいながら、自分の言葉で琵琶湖・菅浦を語ってみたい。
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TVで第144回目となる芥川賞・直木賞(日本文学振興会主催)が、2011年1月17日、東京都内で発表され、このときの模様が放映された。
芥川賞には「きことわ」(朝吹真理子さん)と「苦役列車」(西村賢太さん)、直木賞には「漂砂のうたう」(木内昇さん)と「月と蟹」(道尾秀介さん)のそれぞれ2作品が選ばれた。(株)文藝春秋の創業者菊池寛が新人の小説作品に対して芥川賞・直木賞を創設し、以降年二回発表されている。

インタビューにも慣れていないのであろう、目の焦点も定まらない労働者風のがっしりとした「おっさん」が画面に映された。この賞とは場違いの人物を注目していると、受賞に対してのインタビューの第一声が奮っていた。
記者からの「(芥川賞の)受賞の報を受けたときは何をされていましたか?」との質問に、西村さんは、「自宅にいて、そろそろ風俗に行こうかなと思っていました 」
会場の注目が集まったのは、中卒のフリーターで、親子二代の逮捕歴を持つという芥川賞受賞者・西村賢太さんだ。時の人となった。
10名の選考委員のもとにより2時間に及ぶ討議が行われ受賞者が決定されたようだが、どのような話し合いが行われたのか不明である。だけど、各委員の選評により話し合われた内容は、ほぼ推察できた。
「苦役列車」の選評をひらい読みしてみると、評価は二分しているようだ。
「苦役列車は体臭の濃すぎる作品だが、この作者の「どうせ俺はー」と言った開き直りは、手先の器用さを超えた人間のあるジェニュイン (まがい物でない、本物)なるものを感じさせてくれる。超底辺の若者の風俗といえばそれきりだが、それにまみえきった人間の存在は奇妙な光を感じる」と石原慎太郎が語っている。愛すべきろくでなしの苦役が芥川賞につながったかと思うと愉快でたまらないとも評価されている。
一方では、苦役列車は「人間の卑しさと浅ましさをとことん、自虐的に、私小説風に描いている」と酷評されている。読むのも疎ましいと言わんばかりだ。
早速、文芸春秋を買い込み一挙に読みきった。
総てを削りおとした人間の姿とは、元来このようなもと立ち止まってしまった。現代社会の都市での底辺で生きている片隅で、食欲と性欲にだけ明け暮れ、住家は滞納家賃を踏み倒し、点々する駄目男であるかのように誇張した筆致で自分を描いている。
だが、少し観点を変えて小説を読むと、「卑しさと浅ましさで辟易‥」でもない。人間が自然を相手に何万年、いや何百年前から長年に渡って生延び、培われた本能を解き明かしている。人間が鎧のようにつけている理性であり、社会であり、文化など総てを剥ぎ取った後に、持っている生命力みたいなものを感じさせてくれた。読後、色んな思いが交錯したが、やはり印象に残ったのは最後の一節であった。
「最早誰も相手にせず、また誰からも相手にされず、その頃知った私小説家、藤澤清造の作品を常に作業ズボンの尻ポケットにしのばせた、確たる将来の目標もない、相も変わらずの人足であった」と締めくくっていた。
話が変わるが、設立当時から受賞者には正賞として懐中時計が贈られてきた。懐中時計と云えば、ひも・鎖で帯やバンドに結びつけて、ふところやポケットに入れて携帯する小型の時計である。西村賢太氏にロンジンの懐中時計が似合うであろうか‥。少し気がかりだ。
ところで、芥川賞を取らなかった名作があるから世の中救われる。
太宰治←クリックほど芥川賞を熱望した者も、珍しいといわれた。
太宰治が選考委員の佐藤春夫や川端康成らに宛てた受賞を請う手紙が残っている。「佐藤さん一人がたのみでございます。私は恩を知って居ります。私はすぐれたる作品を書きました。これからもっともっとすぐれたる小説を書くことができます」佐藤春夫宛書簡)「何卒 私に与へてください。一点の駆引ございませぬ」(川端康成宛書簡)。太宰治はこれらの要望書を送った。が、芥川賞が貰えず、文壇で大喧嘩となったことは有名である。 現在、代表作「人間失格」「走れメロス」は、若者層に異様なほどの人気を誇っている。夏目漱石の『こころ』と何十年にも渡り累計部数を争っている名作である。
中卒の西村賢太さん、芥川賞にあぐらを欠かず、東大生の太宰治のように邁進されたい。
小生、高校生の時「おい、地獄さ行ぐんだで!」という言葉で始まる[蟹工船」を読んだ。当時、親戚の大学生の姉さんから「何でそんな小説を読んでいるの」と言われたことがあった。

この蟹工船と言うタイトルが気に入り、文庫本のカバーが赤と黒の刺激的なデザインであった。ただ、それだけの理由で読み出した。作者小林多喜二は、29歳で命を落とした青年で、プロレタリア作家であることは知っていた。
オホーツク海に向かっていく蟹工船…、妙に「糞壷」の言葉だけが、長年深く頭に沁みついていた。
どうしょうもなく荒れ狂い、凍てつく海の様々な姿とすえた臭いがする「糞壷」の様子が幾度となく描かれていた。工船と言う逃げ場のない完封された世界を舞台して、働く労働者の姿を克明にえぐりだしていた。
昭和初期には、大不況に直撃された。農夫・炭鉱工夫・肉体労働者の出稼ぎ労働者が集められ、 カムチャツカの沖で蟹を獲り、船上で缶詰に加工する工場施設を備えた工船 ...。外貨獲得の高価な製品を生み出しているにも拘わらず、船主である大会社の資本家達に、人間的権利まで剥奪されて酷使された。日本が辿ってきた近代の歴史であり、当時の秘められた社会構造のひずみを垣間見る事が出来た。
2008年、蟹工船が、新語・流行語大賞でトップ10に選ばれた。格差社会、世界的不況といった世相を反映したものである。 同年1月、ある対談で、フリーター、日雇派遣、ネットカフェ難民などの集会やデモに参加し、ワーキングプアの実態を知っていた作家雨宮が「蟹工船の描く世界が現在のフリーターの状況と似ている」との発言があった。
とある書店さんがこの記事を読んでピンとくるものがあって、「平台に置いてみると1週間に30冊、40冊と売れ始めたのが始まりである」と言われている。その後、全国紙が大きく取り上げ、蟹工船ブームが一気に爆発した。「蟹工船・党生活者」は、50年間に100万部の売り上げを記録し、最近は年間5千部の売れ行きだったが、2008年は1年間だけで50万部に迫る売り上げとなった。
「蟹工船」の読者は圧倒的に若者だそうだ。フリーター・ワーキングプアの人々は、蟹工船という過酷な状況を今の自分達の境遇に置き換えてみて共感を覚えたのであろう。
以前、フリーターといえば、将来の夢を持ち、人生を真剣に考える若者であった。パート・アルバイトなどの多様な働き方をしていた人々を「フリーター」と呼んでいた。だが、最近では、働く意志はあるが、正社員として就業していない人を広くフリーターとしてとらえられている。働いているのに、収入が生活保護受給水準以下である。格差社会が進み、リストラなどによって企業社会から落伍してしまうと、ふたたび浮き上がることが難しくなった社会構造になっている。
電話一本で呼び出される労働者でもあり、日単位の仕事について電話、メール等で派遣元からの指示を受け、マイクロバスに乗せられ送り込まれている。正しく、人材派遣会社の奴隷となった「現代版蟹工船」である。派遣先から仕事の依頼メールが携帯に届くと働きに出るという生活を繰り返しているのだ。
更に、定住場所を持たないネットカフェ難民は、深夜に長時間・低額料金で利用できるインターネットカフェや漫画喫茶で、寝泊まりしている。個室に仕切られた僅かなスペース、所謂「現在の糞壷」で生活を強いられている。
80年経った現在、以前の社会の本質に何ら変わっていない。今のこんな世の中だからこそ「蟹工船」が心に響くのであろ。
2008年5月2日読売新聞夕刊の一面に「蟹工船」再脚光...格差嘆き若者共感、増刷で売り上げ5倍(読売新聞) ...のタイトルが紹介されていた。特高警察の憤激を買い、拷問死させられた小林多喜二にとっては、命を張った結果がこれかよ…。いくら売れても本意でなかろう。
日雇い派遣で働く若者が悲惨な待遇を「それって蟹工じゃん」と言い合っているそうな。
小生、『蟹工船』で最も気に入っている一節。→追記をクリック

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筆者は電気工学科の出身である特異な経歴の持ち主である。著者の体験などを綴った自身の随筆で「大阪市立小路小学校、大阪市立東生野中学校と進学していった。『あの頃僕らはアホでした』、成績は『オール3』であり、また読書少年でもなかった」と振り返っている。興味ある作家だ。
読む気になったのは、東野圭吾作家の先輩にあたる同僚と10年近く仕事をしたことがあった。彼は、コンピューターが世間に行き渡っていない時代であったが、既に駆使していた。その思考方法は、限りなく論理的であった。もともとこの素質を持っていた上に、数学のかたまりである電気工学を学習することにより、より磨かれたのであろう。多分「東野 圭吾」著者もこのような頭脳の持ち主と思い読む気になった。

やはり印象に残ったのは『容疑者Xの献身』であった。シンプルな条件設定からはじまり、複雑な過程を辿っていく難解な数学の方程式を解く様である。実際、筆者は「書くに当たって、数学者の先生にも会いましたし、自分自身、大学時代にかなり専門的な数学をやっていました」と語っていた。本書でも世界的超難問数学のP≠NPが問われていた。
『放課後』は、密室殺人事件を扱っている。この物語の展開は「必要十分条件」の証明問題を解く方法で謎解きを行っている。つまり、殺人は明白な事実である。この命題成り立たたせるための十分な条件を探し「誰が」に導いて行くのだ。この必要にして十分条件を求めている。
「誰が」⇔「条件1」⇔「条件2」⇔・・・・・⇔「殺人」
つまり」「条件1」は」は「条件2」であるための十分条件である。また、「条件2」は、「条件1」であるための必要条件である。「殺人」と言う結論が「誰が」と言う「仮定」との両方が成り立っているときは必要十分条件が同値となり、証明が出来たことになる。このような、数学の証明の基本になっている手法をイメージしたのであろう。
『秘密』は、作風が変わっていた。論理の追求でなく、意外性が面白かった。娘から最初に発せられたのは「あたしよ、あたし、直子なのよ」という言葉だった。筆者が何気なく投げかけてきた伏せ線が、最後に意味を成し予想外の展開が起こり、物語を全く別物にしてしまった。結論も決定的のものでなく、色んな解釈が可能な余韻を持った終わり方であった。
人気作家だけあって「講評」・「あら捜し」などは、枚挙(まいきょ)に遑(いとま)がない。仔細な矛盾点を発見しては、悦に耽っているブログも多い。その最たる例は、推理作家の二階堂黎人が自身のウェブサイトである。何れにしても、騒ぎ立てられるのは人気作家としのバロメーターでもある。
ただ一言「一度、読み始めると次から次と物語が展開していくので、最後の最後まで気が抜けず、夢中になって一気に読んでしまった。さすがに、図書館で借れないほど、人気があることを実感した」
3冊のアウトライン(続き読む)
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森谷 敏夫(もりたに としお)の「生涯現役おもしろ健康科学」を拝聴する機会があった。学生が選ぶ、京都大学で受けたい授業No.1。女子大生には、ダイエットについても話されるのであろう人気のある京大教授である。
風貌は紳士風である。いきなり、関西弁交じりで慇懃無礼な口調で話し出した。とにかく、「コマネズミ」のようにステージを走り周り、エネルギッシュだ。
「吉本興業が呼びに来るほど話がうまいでー」と本人が言っていたが、「綾小路きみまろ」の長年かかって辿り着いた毒舌で罵倒するお得意の芸風にも引けを取らない話術だ。
2時間会場を沸かせ、約250人の聴衆者全員を引き込んでいった。 「活習慣病における運動の重要性を説き、有酸素運動を推奨する」堅苦しいテーマであるのに拘わらず、肥満の怖さと運動の大切さをきっちりと教え込まれ、運動する気にさせた。
ダンディでスリムな先生は、1日8km走っておられ、今年59歳、体脂肪率9.8%の肉体を持たれている。 ...お米好き。NHKためしてガッテン、生活ホットモーニング、土曜フォーラムなどテレビ出演、そして講演にも、引張りだこの評判の高い先生である。
中高年の太ったへそ回り85センチのおじさん、90センチ以上のおばさん、ダイエットの失敗した若い女の人は、「森谷 敏夫」と言う名前の講演があれば是非行ってください。衝撃的なエネルギーをもらえ、運動する気になりますよ。
森谷教授の持論は、寝たきりや肥満、糖尿病、高血圧などの生活習慣病はすべて運動不足から来ているというのである。単に太っているだけと思っているが、医者から「肥満症」といわれると、これは立派な病気なんだと言い切られた。内蔵脂肪のたまった人は、お腹のなかに時限爆弾がオンになっている状態だ。肥満症、糖尿病、高脂肪症、高血圧症は死の四重奏といわれ、どれかひとつでもあれば死亡率は2倍、4つ揃えば16倍にもはねあがる。とくに、血管ボロボロ病といわれている糖尿病は、すごい勢いで増えている。昭和25年頃は米食中心の和食であったので糖尿病はほとんどなかったが、肉類、揚げ物など脂肪を摂取する食生活になってから糖尿病は激増していると警告された。
残された人生をイキイキと元気にすごすのか、それとも病に苦しみ悩みながら生きていくのか、そのどちらを選択しますか?というのが問いかけであった。
太りにくい体質を作るための7カ条は、1に運動、2に運動…7に運動とすべて体を動かすこと。
食事の在り方にも言及された。
そもそも、人類の歴史は絶えず飢餓と戦ってきた。その結果、1g当たり9kcalの脂肪は美味しく感じるようになり、体に溜め込んできたと言うのである。
昔、アメリカでラットを使った実験で、米でも肉でも食べて余ったエネルギーは脂肪に変わったという結果からヒトも同じと思われていた。 最近、スイスの科学者ジャクアの実験報告では、「人間を使って同じ実験をしたところ、ヒトの肝臓はラットと違って糖質を脂肪に変換する能力はほとんどない」という論文が発表された。
人間が24時間小部屋で、生活できるようにして、コンピュータで室内の空気を分析して、ヒトの体で何を燃料にして、何を燃やしたかが正確に計測した。さて、この結果、1日に1000Kcalの炭水化物をたべても10g以上の脂肪にならなかった。炭水化物は、肝臓と筋肉のグリコーゲンになったと言うのである。
人間の脳が動く栄養は、たった一つしかなく、それは糖質なんだ。 人間の脳とラットの脳は明らかに大きさや使用度が違う。ラットは脳より体の脂肪の方が生きるために必要で、摂りすぎた糖分は脂肪に変えて貯めておくらしい。ところが、人間は脳が大きく良く使うので、糖は、他の動物よりたくさん必要な栄養分なのでどれだけ糖をとっても脂肪には変わらないと解説された。
ここが大事なところで、ヒトの肝臓は、ラットと違って糖質を脂肪に変換する能力は殆どない。したがって、炭水化物を食べると肝臓と筋肉のグリコーゲンになる。その結果、三倍の水が結合し蓄えられので、体重が一時的に増える。
つまり、ご飯を食べると、今度は見かけより三倍体重が重くなる。いつしか女性の間でご飯をたべると太るといわれるようになった。
「ダイエットしたければ、米を食え!」エッ?と思うが、奥さん・おばさん方に聞き耳を立ててもらいたい。ご飯をちょっと少なくすると、実際より3倍も早くスパット痩せられる。
「焼肉の食べ方」の話がされた。
焼き肉屋さんへ行った時、焼き始めたら、あっという間の「早食い」「ドカ食い」、それにビールが脳に沁み込んで食欲のコントロールは野放し状態。やっと帰路につく頃に脳細胞が「主食の糖質(ブドウ糖)をまだたべてへんやん、どないしてくれる」と、ご主人様におでなりをする。
大脳のエネルギーはブドウ糖などで焼肉の膨満感はあっても、血糖値が上がらないと満腹感が得にくい。「ほな、駅前のラーメンでも食うて帰ろうか」になってしまい、完全にたべ過ぎ。胃の膨満感と脳の満腹感のダブルパンチで「メチャメチャ食いすぎてしもた」となり、反省…。たべたものは、脂肪細胞に詰め込まれる。
学生を焼肉店に連れて行く時には、必ずライスを先にとらせる。これをやらないとお金がいくらあっても足りません。(笑い)同僚と行くときは、お酒は自分で払う。そうすれば、食べ過ぎ、飲み過ぎが多少とも防げる。焼肉を食べる前にお茶碗1杯のご飯を食べておけば、いい具合に満腹中枢を刺激してある程度でお腹がいっぱいになって食べ過ぎないそうです。
では、どんな食事が良いのでしょうか。それは、お米中心の和食です。お米は、満腹感が得られやすく、食後の熱生産(食事をすると汗をかいたり、体が熱くなる感覚)を高め、ほとんど体脂肪にならないからです。果物、野菜も多く摂ったほうがいいでしょうと推奨された。
肥満になりたくなかったら、お米と味噌汁をしっかり食べ、運動して自律神経を活性化しなさい。「1に運動、2に運動、3・4がなくて5に運動」と。太りにくい体質にするため1日5分でいいから散歩すること。階段があれば「ありがとう」と感謝しなければ!。
続けて、体重が減るのと脂肪が減るのは違うとおっしゃった。
例えば、高橋尚子がフルマラソンを走ってとしょう。その時の消費するエネルギーは2500Kcal。もし1Kgの体脂肪をなくそうと思ったら100Km走らなければならない。仮に、体重が50Kgの女性が1Kgの脂肪をなくすには、やはり100Km走らなければならない。「ジョギングして2Kgもやせた」と言う人に聞いてみたい。「あなたは、いつ200Kmも走ったのですか?」と。
「あなたが減ったと喜んでいるのは、単なる水なんですよ」。
1日1Kgの体脂肪を取ろうなどと無謀なことを考えるからいけないのです。そんなことより毎日10分歩いてはどうでしょう。そして運動をするように習慣づけることです。階段は筋力アップのパートナーです。階段を見つけたら両手を合わせ最敬礼してのぼることです。
太りにくい体質を作る7か条
1)1に運動、2に運動3、4が無くて5に運動。
2)階段は筋力アップのパートナー
3)ストレスは過食の原因、ガンのもと。運動で心も体もリフレッシュ!
4)歩幅大きくグイグイ歩く。
5)長電話合間に出来るスクワット(森光子さんもスクワット毎日なさっているそうです)
6)快食・快便・良く笑え。
7)お腹のたるみは心のたるみ。
最後の言葉「食事という字は 人を良くすることです。好きに食べることは 餌といいます」で講演が終わった。
講師が執筆した下記書籍5冊を通読した。
「スポーツ生理学」朝倉書店1994年
「人は必ず太る しかし 必ずやせられる」 講談社 1999年
「からだと心の健康づくり」 中央労働災害防止協会2001年
「自律神経を鍛えればあなたも必ずやせられる」講談社2001年
「メタボにならない脳のつくり方」扶桑社2008年
「メタボにならない脳のつくり方」の本がお勧め。図解入りは「自律神経を鍛えればあなたも必ずやせられる」。若い女性は「人は必ず太る しかし 必ずやせられる」。専門家になりたいなら「からだと心の健康づくり」「スポーツ生理学」。
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NHKクローズアップ現代(2009年6月22日放送) にて「生誕百年 太宰治はなぜうける作家…」について井上ひさし, 国谷 裕子によるTVが放映された。
世を去って60年以上経つにもかかわらず、太宰治の作品群は現代の若者層に異様なほどの人気を誇っています。代表作「人間失格」は、昨年の発行部数が前年の5倍に、「走れメロス」は7倍に。また、戦後の売り上げは新潮文庫だけでも累計600万部を突破しており、夏目漱石の『こころ』と何十年にも渡り累計部数を争っています。
特に、中高生の読書感想文に、教育現場では敬遠されがちの『人間失格』が圧倒的に多く、大学の卒論にも太宰を取り上げているようです。また、「走れメロス」は教科書にも掲載され、多くの人達に読まれています。
太宰治は津軽の屈指の大金持ちの生まれ。彼は、凶作の度に百姓に金を貸し、土地を召し上げた新興大地主に反発、津軽と言う田舎ものに劣等感を持っていた。東京帝国大学に入学するが、放蕩に明け暮れ、家から勘当をいい渡された。太宰は、家庭を顧みず、乱れた破天荒な生活に明け暮れた。
「人間失格」は、これまで犯してきた自分の恥の総決算として執筆に取りかかり、昭和23年5月12日脱稿。そのおよそ1ヶ月後、太宰は玉川に入水心中し、愛人・山崎富栄とともに生命を絶つ数奇な運命を辿った。
39年の生涯で4回の自殺未遂を繰り返しながら、小説を執筆してきた。太宰が退廃的で極限の世界を描くとき、同じ境遇にならなければ真の小説は書けないと考え、人間の根幹にかかわる「生死」を描くために、実際に「生死」をさ迷っています。
では、太宰治の「人間失格」の一節を示します。実に多岐にわたって悩むのです。
「隣人の苦しみの性質、程度がまるで見当つかないのです。」ここから、読点「、」はありますが、句点は「。」まで長い一節になっています。
「プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ、しかし、それこそ最も強い苦痛で、自分の例の十個の禍など、吹き飛んでしまう程の、凄惨な阿鼻地獄なのかもしれない、それは、わからない、しかし、それにしては、良く自殺もせず、発狂もせず、政党を論じ、絶望もせず、屈せず生活のたたかいを続けていける、苦しくないんじゃないか?エゴイストになりきって、しかもそれを当然のことと確信し、いちども自分を疑ったことがないんぢゃないか?それなら、楽だ、しかし、人間といふものは、皆そんなもので、……考えれば考えるほど、自分にはわからなくなり、自分ひとりまったく変わっているような、不安と恐怖に襲わればかりです」
途中割愛していますが、ひとつの文章は20から50字ぐらいが理想とされています。だが、約1000文字。ここまで長くなると、主語がどれで述語がどれか分からなくなってきます。 しかし、長い文章によってしか獲得できない文学的効果を狙っているのでしょう。
「自分には、禍のかたまりが十個あって、その一個でも、隣人が背負ったら、その一個だけでも充分に隣人のいのちとりになるのではあるまいかと、思った事さえありました」続けて、「めしを食えたらそれで解決できる苦しみ」と、とにかく、大した悩みでもないのに大袈裟に話が展開します。
ひとつを語るのに、「ああでもない、こうでもない」と色んな側面から、くどいほど表現されています。浮かんでくる言葉をとりとめもなく、読点だけで、次から次に続けどんどんつないでいくように見えます。実際の太宰の原稿は、単純に言葉を繋いだわけではなく、文章を推敲されているのですが…。
この文体は、若者のブログの中で見かけると指摘されています。女子学生が、とり止めもなく、しやべっているようだとも言われています。したがって、太宰の小説は、若者にとって馴染みやすい文体であるので、違和感なく受け入れられるようです。且つ、共通した悩みを一緒に悩んでくれているように思うのでしょう。
更に、読んでいて気づいたことですが、太宰治は、主人公の名を借りて、自分を語っているのですが、一方では、読者に向かっても語りかけてくるのです。この語り口は、何回も繰り返して不安と恐怖の悩みや葛藤を、文字の向こうにいる読者に向かっているのです。
特に社会との違和感を持っている多情な若者達にとっては、自分にだけに語りかけてくるように誘い込まれ、手放しで心酔してしまうようだ。 この語り口は、太宰小説の真骨頂であり、現代の若者に支持されているところのようです。
小説は、「恥の多い生活を送ってきました」からはじまります。彼の生き様と相まって、「恥の多い生活」との言葉から出発したのでしょうか。
「原文では「私」を消して「自分」として代えられていますが、より親近感を持たせたのでしょう。手記全体にわたりその一人称が使われ、主人公大庭葉蔵の語る過去には、太宰自身の人生を色濃く反映したと思われる部分が多々あり、自伝的な小説ともいわれています。
大庭葉蔵は、女性遍歴で様々の女に惚れられ、破滅していく男の心の動きを自ら語っていきます。はしがきは第一の手記、第二の手記、第三の手記からなっています。繊細な感覚の持ち主で、人と会話が出来ないため、他人の前で道化を演じてみせることで人と繋がることが出来たと言います。
それで結果として、欺瞞的な人たちに対しては、孤独を選択していきました。葉蔵の名前を借りて、太宰自身の性格を語っているのかもしれませんが、『人から与えられると自分の好みに合わなくても拒むことができない、この性格が「恥の多い生涯」の原因になっていると振り返っています』。性格はもどかしいほど弱々しく語ると思いきや、慇懃無礼な態度もとり、ナイーブで複雑です。
何より表現が大げさで、かつ些細なところでこだわる主人公に、どう対応すればよいのか戸惑ってしまいます。それも語り口が、淡々と軽妙な文体で語ってくるのです。
旧制高校に進学してからは、人間への恐怖を紛らわすために悪友についてまわり、酒とタバコと淫売婦と左翼運動に走り、やがてゆきずりの女性と心中未遂事件を起こし、自分だけが生き残ってしまうのです。
葉蔵は「淫売婦たちと遊んでいるうちに、いつのまにやら、忌まわしい雰囲気を身辺にいつもただよはせる…」と嘆いていますが、いつの間にか底辺の世界に馴染んでしまい。「貧乏くさいだけのツネ子に親近感が胸にこみ上げ…微弱ながら恋の心の動くのを自覚しました。」
そして葉蔵は、いとも簡単に死の提案に気軽に同意します。
「女の人は、死にました。そうして自分だけ助かりました」と淡々と自殺の場面を描いています。
それも、この「貧乏くさいツネ子から」と表現していますが、この言葉は、小説を面白く演出するためか。それとも太宰がこのような女に安らぎを覚え、世間の苦悩から断ち切りたかったのか、小生では、どのような態度を取ったか…。色々考えされる場面です。つまり、これは太宰のことを語っているのか、作り物なのか、詮索しながら読み進めることが出来、面白い。
そして、葉蔵の心情も語っています。「実感としての『死のう』と言う覚悟はできていなかったのです。どこかに「遊び」がひそんでいました」と付け加えています。そこまで語るのかと言うより、作家太宰の純粋で正直な性格が現れているように思えた。
いずれにしても、「死」の臭いがする世間とはずれた特異なテーマを題材としていますが、葉蔵自身の性癖なのか、人生の下降線をへらへら辿っていく姿を、陰惨さはなく面白く、且つ物悲しく描かれています。貧乏くさいツネ子の言葉には、より一層哀れみを誘い、その中に、太宰治の影も、ちらついてくるように思えた。特に、太宰はこの「人間失格」の小説のなかで、「侘しい」と言う言葉は恐怖・不安から離れることが出来るとして大切にしていたことが味わい深く、印象がつよい。
その後、大庭葉蔵は、子持ち女性やスタンド・バーのマダム等と明日の無い生活にはまり込み、だんだんと人生が絶望的な状況になっていった。その果てには内妻ヨシ子が小男の商人に、犯されます。「自分の若白髪は、その夜からはじまり、いよいよ人を底知れず疑い、この世の営みに対する一切の期待、よろこび、共鳴などから、永遠になれるようになりました。実に、それは自分の生涯に於いて決定的な事件でした。…」「神に問ふ。信頼は罪なりや」「果たして、無垢の信頼心は、罪の源泉なりや」「無垢の信頼は、罪なりや。」神の答えは得られるままに…」と悩み抜きます。
葉蔵はアルコールを浴びるほど飲み、その勢いで睡眠薬を用いて発作的に自殺未遂を起こしました。助かったものの酒に溺れるようになり、その後、薬に走りモルヒネ中毒となり、実家に金を無心するようになりました。やがて葉蔵は脳病院へ入院させられます。ここで葉蔵は、狂人として扱われたと思い、「もはや、自分は、完全に人間でなくなりました」つまり人間失格だと悟るのです。
以上が「人間失格」のあらすじですが、なんとも不思議な世界に引き込まれてしまいました。
最後に残した言葉に、「今は、自分には、幸福も不幸もありません。…人間の世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。ただ一さいは過ぎていきます。自分は今年、二十七になります。白髪がめっきりふえたので、たいていの人から四十以上にみられます」と言う手記で終わっています。
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