2017年、鯖街道沿いの葛川細川過疎集落で行われた「遺された村の美術館」を訪れた際、案内状の背表紙に写された一枚の写真が私を引きつけた。これを機に、樹の枝が幹から分岐する「節」に心を留めるようになった。この自然が織りなす有形物には、独特な力が存在し、私を特異な世界へと誘う入口であることを悟った。
さて、私は三上山の頂上までいかず、少し手前を到着点と定めている。そこには座り心地の良い出来合いの石座があり、不思議な形をした「樹の節」がある。
ある冬の朝、この樹が雪をまとい佇んでいた。幹の分かれ目に積もった雪が不思議な表情を浮かび上がらせ、「また来てくれたか」と無言の息遣いが聞こえてくるように思えた。私はふと、この樹に宿るその姿に「木霊」の存在を感じ取った。雪が静かに降り続けると、風の音や木のざわめきさえも雪の結晶に吸収されたのだろうか、耳には「雪の静けさ」として知られる深遠な静穏が満ちていた。
冷たい空気が肌を刺すその静けさの中で耳を澄ますと、雪が地面や木の葉にあたる微かな音が、無数の小さな声のように囁き合うのが聞こえてきた。この心地よい「不思議な音」は、木霊が私に何かを伝えようとしているかのように感じられた。枝先に積もる雪の重みに耐え、この地に根を張り続ける木霊は、私を見ていた。「誰もいない、と思うなかれ」と。その静穏の中で、私は自分自身と向き合い、心に広がる静かな安らぎを感じ取っていた。目には見えぬ山の精霊と交わる瞬間こそが、自然の醍醐味なのかもしれない。
木霊に出会ったのは、これが初めてではない。高島市今津町深清水の平池の山中で、カキツバタが盛りを過ぎ、森が静寂を取り戻している頃のことだ。背丈が高い杉林に囲まれた平池一帯には、木々から醸し出される芳醇な匂いと深山特有の冷気が漂い、風に揺れる木々のざわめきや、時折聞こえる鳥の鳴き声が響いていた。その静けさに包まれる森は、ただそこに身を置くだけで癒しを感じられ、木々には時を超えて宿る木霊の存在を深く確信した。
さらに奥深い森林帯に足を踏み入れると、「上古賀の一本杉」という巨木に出会った。その堂々たる姿の前に立つだけで、自ずと頭が下がった。千年もの長きにわたる巨木の時間感覚と、短い人の一生との対比の中で、魂の深い部分で共鳴する神秘を感じた。この瞬間、「木霊(こだま)」が住んでいると強く確信したのだ。
木霊は、日本の豊かな自然と、人々の想像力、そして自然への畏敬の念が育んだものである。目には見えないけれど、確かにそこに息づいている木霊の存在は、私たちに自然の神秘と調和の大切さを教えてくれる。現代においても、木霊の概念は日本文化の中に、そして私たちの心の奥底に静かに息づいている。それは自然との対話を忘れた現代人への静かなる警鐘でもあるのだ。
また、樹の節が見せる形は、私の心の状態や天候によってさまざまに変わることに気づいた。あるときは荒れ狂う獣のように、またあるときは意地悪く微笑む木霊のように。ふと、自分の感情がその姿に投影されているのではないかと思うことがある。怒り、不安、そして穏やかさ。そのすべてを映し出す鏡として、樹の節はそこに在り続けている。



さて、私は三上山の頂上までいかず、少し手前を到着点と定めている。そこには座り心地の良い出来合いの石座があり、不思議な形をした「樹の節」がある。
ある冬の朝、この樹が雪をまとい佇んでいた。幹の分かれ目に積もった雪が不思議な表情を浮かび上がらせ、「また来てくれたか」と無言の息遣いが聞こえてくるように思えた。私はふと、この樹に宿るその姿に「木霊」の存在を感じ取った。雪が静かに降り続けると、風の音や木のざわめきさえも雪の結晶に吸収されたのだろうか、耳には「雪の静けさ」として知られる深遠な静穏が満ちていた。
冷たい空気が肌を刺すその静けさの中で耳を澄ますと、雪が地面や木の葉にあたる微かな音が、無数の小さな声のように囁き合うのが聞こえてきた。この心地よい「不思議な音」は、木霊が私に何かを伝えようとしているかのように感じられた。枝先に積もる雪の重みに耐え、この地に根を張り続ける木霊は、私を見ていた。「誰もいない、と思うなかれ」と。その静穏の中で、私は自分自身と向き合い、心に広がる静かな安らぎを感じ取っていた。目には見えぬ山の精霊と交わる瞬間こそが、自然の醍醐味なのかもしれない。
木霊に出会ったのは、これが初めてではない。高島市今津町深清水の平池の山中で、カキツバタが盛りを過ぎ、森が静寂を取り戻している頃のことだ。背丈が高い杉林に囲まれた平池一帯には、木々から醸し出される芳醇な匂いと深山特有の冷気が漂い、風に揺れる木々のざわめきや、時折聞こえる鳥の鳴き声が響いていた。その静けさに包まれる森は、ただそこに身を置くだけで癒しを感じられ、木々には時を超えて宿る木霊の存在を深く確信した。
さらに奥深い森林帯に足を踏み入れると、「上古賀の一本杉」という巨木に出会った。その堂々たる姿の前に立つだけで、自ずと頭が下がった。千年もの長きにわたる巨木の時間感覚と、短い人の一生との対比の中で、魂の深い部分で共鳴する神秘を感じた。この瞬間、「木霊(こだま)」が住んでいると強く確信したのだ。
木霊は、日本の豊かな自然と、人々の想像力、そして自然への畏敬の念が育んだものである。目には見えないけれど、確かにそこに息づいている木霊の存在は、私たちに自然の神秘と調和の大切さを教えてくれる。現代においても、木霊の概念は日本文化の中に、そして私たちの心の奥底に静かに息づいている。それは自然との対話を忘れた現代人への静かなる警鐘でもあるのだ。
また、樹の節が見せる形は、私の心の状態や天候によってさまざまに変わることに気づいた。あるときは荒れ狂う獣のように、またあるときは意地悪く微笑む木霊のように。ふと、自分の感情がその姿に投影されているのではないかと思うことがある。怒り、不安、そして穏やかさ。そのすべてを映し出す鏡として、樹の節はそこに在り続けている。


