2025年03月24日   薹の文字から見るフキノトウ

  冷たい冬の風がまだ肌を刺す頃、柿の木の木陰で今年も小さな命を見つけた。雪をまとったフキノトウだった。冬場の色彩の少ない景色の中で、若草色は一段と鮮やかで、ひときわ華やかだ。

 フキノトウと聞くだけで、その言葉の響きから、まさに早春にふさわしい香りとほろ苦さが思い浮かぶ。その姿には、まるで冬を乗り越えた大地からの贈り物のような懐かしさと力強さを感じさせる。
フキノトウを漢字で「蕗の薹」と書くことを知った時、普段見慣れない漢字「薹」に、なぜか特別な魅力を感じた。

 フキノトウの姿は、一見するとその丸みを帯びた形と密集した構造から、どこか「もっさり」とした印象を受ける。しかし、その「もっさり」とした奥には、寒さ厳しい冬の大地から現れた生命力が宿っている。そのギャップが私に気高さを感じさせるのだ。そして雪の残る地面から誰よりも早く命の息吹を伝えようとしている。冬の終わりを告げる使者としての存在感がある。
そのたくましい姿に引き寄せられるように手を伸ばし、小さな春の先駆けに触れてみた。

 この「トウ」の文字は、雪が降る「冬」でもなく、形が「頭」に似ているからでもなく、「薹」と書くのだ。「蕗の花芽」とでも言い換えてみたい気持ちもある。成長して「薹が立つ」と形容されるように、食用としての適期を過ぎたことを指しているのに、なぜ「薹」という漢字を用いるのかは興味深い。

 蕗の薹の一生を観察すると、ずんぐりした姿で蕗の薹があちらこちらから芽吹くのは、三月の始めごろ、まだ朝晩の冷え込みが厳しい時期に、雪解けの柔らかい土から顔を出す。その脇には後に葉っぱを持った茎がまっすぐに伸び、すらっとした姿で次々と新しい芽を出してきた。あまりにも姿・形が違うので違う植物に見られがちだが、同じ植物なのだ。地下茎でつながって生長しているのである。

 毎年、柿の木の周辺で、雑草に負けまいとあちらと思えばこちらと、場所を変えて群生している。昨年は北側の日陰で見つけたのに、今年は東側の斜面で発見した。フキという古名からもそのたくましい生命力がうかがえる。「山生吹(やまふふき)」という日本古来の呼び名には、山に自生し、生い茂り、吹き出すようにして成長するという意味が込められている。

 フキノトウが成長し終わった頃、その姿は鱗片に覆われた茶褐色の塊になっていった。やがて綿毛に種子を載せて新たな新天地へと飛散させていく様子を観察できた。子孫を残すためたくましい工夫をしていたのだ。フキノトウの一生涯を考察すると、フキは地下茎を地中に伸ばし増殖していく傍らで、蕗の薹を開花・結実させ新天地を求めているのだ。地下と地上、二つの戦略で生き延びる知恵がある。

 ここで注目すべきなのは、「薹」の文字だ。フキノトウの状態全体を記述する際に、単なる味や食用性の変化だけでなく、植物としての成長や自然のリズムを強調している点だ。フキノトウが厳しい冬を越えて芽吹く様子や、その後の変化を捉える際に、「薹」という言葉がその全体像を豊かに描き出す役割を果たしている。
 たとえば、「薹立ち」とは、植物が成熟し、次の世代へ命をつなぐ準備をする過程を指す。発芽 → 成長 → 薹立ち → 開花 → 結実 → 枯れるという一連の流れの中で、「薹が立つ」というのは、植物の最終段階へ向かう成長の一部なのだ。

 やはり、先人たちは、自然の細やかな変化を捉え、それに相応しい言葉として、「薹」を使ってきたのだ。
 









Posted by nonio at 18:23Comments(0)四季家庭菜園

2025年02月17日   「庭に咲く小さな旅人」草花イオノプシディウム・アカウレ

 我が家の庭の片隅に、ある朝、十字型の花弁を持つ小さな白い花を見つけました。その名は、イオノプシディウム・アカウレ。―はるかポルトガルを故郷とする異国からの訪問者だった。

 約10,770kmもの距離を隔てた地から、風に運ばれ、鳥に託され、あるいは人の営みに紛れて、この地で新たな生命を紡ぎ始めたのです。

 夏の蒸し暑さが残る庭に姿を見せなかったこの花は、秋の気配とともに芽吹き始めました。寒さが増すにつれ、高さ10センチほどの可憐な姿で、ハコベとともにカーペットのように広がっていきました。

 冬の静寂に包まれた朝、雪間から覗く白い花びらに心惹かれ、ガラスの器に水を湛えて一株を移してみました。花は三日間、私の傍らで健気に咲き続けましたが、やがて花びらを落としたので、再び庭土に還してやりました。

 この小さな生命は、私たちに深い気づきをもたらしてくれます。風に乗って種が運ばれ、鳥が大陸を越えて花を繋ぎ、季節の移ろいとともに命が息づいていく―自然界には、人が引いた境界など存在しないのです。だが今日、世界では為政者たちが国境や民族という人為的な壁を築き、争いと破壊の連鎖を生み出しています。

 毛利飛行士が「宇宙からは国境線は見えなかった」と語ったように、イオノプシディウム・アカウレもまた、その可憐な姿で同じ真実を私たちに伝えているのです。もし、あなたの庭にもこの白い花が咲いているのなら、じっくりと観察してみてください。きっと、地球という大きな庭で共に生きることの意味を、問いかけてくれることでしょう。










Posted by nonio at 10:08Comments(0)四季

2023年12月14日   春夏冬の三季になったら

  私にとって、「毎年、秋が来た」と分かる木が山野にあります。その木の名前は知りませんが、晩秋になると、葉っぱが様々な色に染まります。私はそれを「虹色の葉っぱの木」と呼んでいます。しかし、今年の夏は高温かつ少雨で、近畿地方では水不足が生じ、琵琶湖の水位が低下しました。葉の色つきも悪く、瞬く間に散ってしまいました。今年は秋がなく、冬がすぐに到来したようです。

         一昨年の紅葉                今年の紅葉
  

 友達に、「今年は急に寒くなったね。四季が春・夏・冬の三季になってしまったようだ。取り立てて聞く必要もないが、私は『秋がなくなることで、秋の季語がどうなるか』と案じています」とラインで友人に問いました。

様々な返答がありました。

「今年に関しては、秋が短くなったな。俳句は刹那を詠むもので、暑い夏に感じる秋を密かな期待はまだしばらく楽しめそう」
「山は錦色に染まり、野は草紅葉…素晴らしい秋の季節がなくなる前に人生をお終わりたい」
「うーまず侘び・寂がなくなり、人の性格が激しくなるかも」
「松茸や栗が味わえなくなるし、寒くなると高齢者が大変だ」
「私には問題が難しすぎますが、郷愁の言葉がなくなるかなぁ」
「…………」

 日本列島は海に囲まれ、狭い島国でありながら、海と山が極めて近い地勢である。海洋性気候を受け、朝夕の寒暖の差や季節ごとの気候の差が大きく出やすい環境にあります。春には桜が咲き、夏には暑い日が続き、秋には葉が色づき、冬には寒冷で雪が積もるところです。
地球上でも日本のような四季がはっきりとした国々はわずかです。春・夏・秋・冬の季節の移ろいの中で、世界に例を見ないあらゆるものに精霊が宿ると言う日本固有の文化がはぐくまれ、自然と共存してきました。

 滋賀にゆかりのある松尾芭蕉が四季折々の俳句を残しています。彼が目指したのは、静寂の中の自然・人生観を詠みこんだことです。

春: 「古池や 蛙飛び込む 水の音」
夏: 「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」
秋: 「秋深き 隣は何を する人ぞ」
冬: 「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」

秋の句は、晩秋の寂しさの中、隣から伝わる人の気配に思いを馳せ、温もりに満ちた世界を詠んだものでした。

 秋は、季節のうねりの中で夏の「動」から冬の「静」へ移行する間の一息つく季節です。この季節は、爽やかな風、紅葉の美しい彩りに包まれ、人々に静寂と調和をもたらしていました。その季節がなくなることで、人々の生活や感性にも変容が生じることになるでしょう。
GPT Chatにも同様に、「秋がなくなればどうなる。一言で」と質問をぶつけてみました。すると、環境問題などを述べることもなく、「寂寥」という言葉を差し向けてきました。あるべきものが無くなり、物悲しい感情が欠落するという言葉を選んできたことに感心しました。

 四季が三季に変わると、日本人の心情と文化にも深い影響が及ぶでしょう。季節の変化が日本の生活と共に息づいているため、それが減少することで、人々の感性や行動に変化が生じます。まず、日本人の季節感覚は深く根付いています。春の桜、夏の祭り、秋の紅葉、冬の雪景色といった季節ごとの風物詩が日常に溶け込んでいます。四季が三季に減ると、これらの風物詩が不足することで、人々の日常に寂寥感が漂うでしょう。季節感覚の薄れにより、人々は失われたものへの郷愁を感じることになります。









Posted by nonio at 06:58Comments(2)四季

2023年10月09日   彼岸花の多彩な色彩と意味

  彼岸花の色はピンクやクリーム色など華やかな色も存在するようですが、自然界に自生しているのは三つです。
赤、白、黄色の色が見られると言われていましたので、身の回りを丹念に探してみました。

 ヒガンバナの色は主に「赤」ですが、白色が少しだけ、やっと「黄色」の彼岸花を一本見つけました。

 花弁は妙に反り返り、縁のフリルが長々と同じように見えますが、これほどの印象の変化があるのでしょうか。
  
    
    べにの彼岸花: 別れと再会、紅の花が語る。
    白い彼岸花: 一途な思い、白い花が誓う。
    黄色い彼岸花: 陽光の中で、黄色い花が笑っているようです


 




タグ :彼岸花


Posted by nonio at 22:35Comments(0)四季山野草

2023年05月01日   ブロッコリーの花


  写真の模様は、何だと思う 
  ブロッコリーの花なんだ
  植物は花を咲かせて実をつけて、その一生を終える
  でも、ひとはつぼみを切って食べてしまう  
       
  せめて小さな花を咲かせてあげたかった



 ブロッコリーの花に対する思いやりと哀れみを表現しようと、金子みすゞさんの詩に似せて文章を綴ってみた。





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Posted by nonio at 22:03Comments(0)四季家庭菜園

2023年04月29日   3年越しに「銀ラン」/野洲市

 
  自生している銀ランを見つけた
  
  やっぱり真っ白だった

  もう言葉はいらない




  



タグ :銀ラン


Posted by nonio at 05:51Comments(2)四季山野草野洲ぶらぶら

2023年03月14日   比良山と菜の花あれこれ

 季節の移ろいを感じるのは、色の変化で察するようだ。

春夏秋冬の色のイメージは、人それぞれだが、黄色は早春がお似合いの色だ。殺風景な白色は淡泊過ぎ、高級感のある紫色や情熱感のある赤色は、重苦しい。その点、黄色は開放的で受け入れ易いのか、人が集まり易い色のように思える。

 琵琶湖の東側にある第一なぎさ公園には、温かみのある黄色の花が咲き出した。ここは、春の訪れをいち早く感じられるところである。
菜の花畑を背にして比良山系の山々が見え、冠雪の山々と黄色の菜の花の絨毯が絶景を生み出している。週末には、黄色に引き寄せられるかのように大勢な人がやってくる。地域興しの菜の花畑は「黄色い花」でなく「菜の花色」という固有の呼び名もつけられているぐらいだ。

 蓮実香佑氏によれば、昆虫にも花の色に好みがある。黄色い色が「アブ」。白い色が「コガネムシ」。紫色の「ミツバチ」、赤色「チョウチョ」と・・・・・。 
早春になると、菜の花・タンポポなど黄色い花が咲き出す。するとこの色を好むアブが蜜を求めて活動し始める。黄色は、開けっ広げで、どうしても移る気な色でもある。アブが黄色と見れば節操なく飛んでいくので、目移りさせないように、黄色い花のじゅうたんとなって群生しているらしい。黄色は、自然の生態にもかかわっているとは、興味深い。

 一週間後にやってくると、春を告げるあのむせるような甘い香りもなくなり、殺伐としていた。菜の花がバッサリ刈られていたのだ。切り忘れたのか、それとも生き返ったのか一本だけ健気に咲いていたのが、痛々しい。
 風景に黄色がなくなると、誰一人も寄り付かなくなっていた。が、渡り鳥がまだ居ついていた。人の注意の喚起にも使われてる黄色は、やはり、危ない要素を含む色かも。

 なぜ、ひとがここに集まってきたのか、よくわからなくなった。

「そこまで春がきた」との思いで、人が集まってきたとは、考えにくい。
ここに植えられている菜の花品種は、寒咲花菜(かんざきはなな)という名前の早咲きである。人工的作られた春であることを承知の上できている。

 どうも、黄色に集まったとも一概に言えないようだ。

 A友人に同じことをブツケテみると、「白と黄色のコントラスが素晴らしい」一言が返ってきた。
人を惹きつけているのは、日常生活では出会えない、黄色い花と白色の雪の『異彩な空間』を求めてやってきたかもしれない。
黄色の相性の良い色は青紫である。互いの彩度が増し、より鮮やかになる関係である。黄色と白色は、補色関係では無いが、自然界に余り存在しない彩度の大きい特異な風景を醸しだす組み合わせを期待していたようだ。

  ーひとは、複雑な生物であるー












Posted by nonio at 05:59Comments(2)四季

2023年03月02日   雪中のろうばい

今年は、雪がよく降る。
また降った。
雪が蝋梅の花弁に積もった。
淡い雪が黄色を冴え、顔花を凛とさせた。
辺りに上品な香りが漂い、私を誘ってきた。

突然、冷たい空気を破った。
ヒヨドリが雪を蹴散らし飛びまわった。
蜜を求めて。

早春がすぐそばに。








Posted by nonio at 01:53Comments(0)四季

2021年10月22日   小さい秋/ベニナギナタタケ

  私は、野山でキノコを見つけた時、「これ食べられる?」と聞き直すのが口癖だった。
友人が「観賞用キノコだ」との返答で、見方・考え方が一変したことがあった。

 三上山の希望が丘側の登山口で「ベニナギナタタケ」を見つけたとSさんがメールしてきた。 「このキノコは食べられるそうです。でも、食べる気にならない」と。
 
 送ってきた写真を見ると、鮮やかな紅色をした小さなキノコが、林内の樹の根に沿ってあちらこちらに束生していた。
カサや柄といったものがなく、ひょろひょろと伸びた奇妙な形状である。キノコとは言い難い。
その上、猛毒キノコ「カエンタケ」とも思われる赤みが気になった。野洲市の注意を促す表示板には、「赤いキノコは食べないこと、また、さわらないこと」との呼びかけもあり、出かけるのに躊躇いがあった。

 数日後、訪れた時には遅くに失してしまい、キノコが消え伏していた。
その後、雨が降ったりした時に、何度か再訪してみたが、その姿を見る事がなかった。
三上山に日参しているKさんも「今年はこの辺り一面に群生し、赤く染まっていた。が、急に消えていった」と教えてくれた。

 この「ベニナギナタタケ」達は、同時期に一斉に地上に姿を現したようだ。
皆で寄り集まって胞子を放出し、出会いを多くしながら、次の世代へと命のバトンタッチをしていたのだ。
こうしてみると、Sさんは、食べる・食べないと言うことではなく、知らず知らずに、野生の神秘な一コマを見ていたようだ。

 次に、Sさんが、山頂近くにある洞窟のある「姥の懐(ウバガフトコロ)」の山道で、黄色のナギナタタケを見つけたと、意味ありげに連絡してきた。

 このキノコの色は、紅色だけと思っていた。ところが、紅色のベニナギナタタケ・純白のシロソウメンタケ・黄色のナギナタタケ、そして出合ってないがムラサキナギナタタケなど多彩な色合いがあることが分かってきた。
 ナギナタタケ同志が互いに、色を競い合っているかのように見えるのだが、無毒のベニナギナタタケは、赤色の毒キノコ「カエンタケ」に似せた色・姿に擬態し、誰かに向かってアッピールしているようだ・・・。
 まさか人間に対して、警戒色を発しているわけ(理由)ではない。が、ひとは、このベニナギナタタケの気持ち悪さ・不思議さに惹きつけられていくようである。Sさんもしかりかも。 
いずれにしても、なぜ色を変える必要があるのかわからないが、自然界の多様性には驚かされる。

  だれかさんが だれかさんが
  だれかさんがみつけた
  ちいさい秋 ちいさい秋
  ちいさい秋みつけた

 私は、この歌を思い浮かべながら、丹念に三上山を散策。最盛期を終わり散生していた「ベニナギナタタケ」・「黄色のナギナタタケ」に出合えたのは、幸運であった。

打越付近でベニナギナタタケ


姥の懐付近で黄色のナギナタタケ


 「ベニナギナタタケ」の名前、私にとってはどうしても覚えにくい。
漢字にしてみると、「 紅長刀〈薙刀)茸」である。「長刀」または「薙刀」と書いて”なぎなた”と読ませている。
 誰が付けたのか知らないが、 ─ 薙刀とはね。──
その字が表すように長い刀で相手を薙ぎ倒す長い柄の先にそり返った刃をつけた様子が、“ナギナタ”に似ているらしい。時代がかった大層な命名である。地の人は、その姿が素麺に似ていることからソウメンタケとも言われている。わかり易いのだが。











Posted by nonio at 19:14Comments(0)四季三上山

2021年02月25日   蝋梅あれこれ

 
  「 沙沙貴神社の蝋梅が咲いた」とTVで放映され、寒さがつのる時期になったものだ。
「どうして、こんな時に花を咲かせるのか」と問いかけながら、兎に角、神社にでかけることにした。
 蝋梅は厳冬時期に、そっと黄色い花を咲かせる。この控えめな姿から、「ゆかしさ」「慈しみ」との引き合い言葉が与えられている。だが、私にとっては、少し異なっていた。蝋梅の文字からして花弁は、梅のように可憐だが、花を模したつくり物めいたものにしか見えなかった。

 加えて、私は、山野によく出かけるのだが、自生している蝋梅と出会うことが滅多になかった。種子には毒があることが知られていることから、鳥などの持ち運びする仲立ちがいないのであろう。見かけるのは、神社・公園そして庭であり、盆栽や生け花である。まさに、人とのかかわり合いの中で、その生息範囲を広げてきたようだ。

 この人工的な花は、人によって好みが分かれるところである。

 朝早く出かけたのに、すでに写真を撮っている人に出会った。境内には5~6本の蝋梅が、下向きかげんに花弁を枝いっぱいにつけていた。朝日に照らされた半透明のにぶいツヤのある黄色い花に近寄ってみると、私を魅惑するように上品で甘味な匂いが立ち込めていた。
厳冬期の花粉を運んでくれるポリネーターも少なくなり、芳香を放つのであろう。冬に花を咲かせるだけあって、万世から培われた技をもっていた。

 さて、「蝋梅」を季語とした俳句は意外に多い。この200首の内で、香に関わる言葉が最も多く、ほのと香りて・香のたちこめ・香に包まる・香の強ければ・香を満たす・・・など。なかでも、芥川龍之介は、「蝋梅の匂い」に思い入れがあったようだ。
筑摩書房芥川龍之介全集8巻を目を通してみた。総作引から蝋梅のキーワードにして俳句・作品を探ってみると、蝋梅の俳句2首・小品1と詩2の5点見つかった。このうちの2点を抜き出してみた。

[蝋梅小品]

 芥川家は代々徳川将軍家の奥坊主を務めた幕臣であった。「わが家やも徳川家瓦解の後は、多からぬ扶持さへ失ひければ、・・・・今はただひと株の臘梅のみぞ十六世の孫には伝わりける」と記し、「わが裏庭の垣のほとりに一株の蠟梅あり。ことしも亦筑波おろしの寒きに琥珀に似たる数朶の花をつづりぬ」と。

 「臘梅や 雪うち透す 枝の丈」 
 雪と葉っぱのない黄色い花が響きあいながら、やたらに真直ぐな枝が目に付くのだが、この蝋梅の姿形を、見事に読み込まれている有名な一句である。子孫に唯一残された蝋梅に託して、読み手としての今のわびしい存在をこの句に忍ばしている。
1925年(大正14年5月)『蠟梅』という短い随想録に著述している。

「蝋梅詩」

 臘梅の匂いを知つてゐますか? 
 あの冷やかにしみ透る匂いを。
 わたしは――実に妙ですね、――
 あの臘梅の匂いさへかげば 
 あなたの黑子を思ひ出すのです。


 蝋梅は冷やかにしみ透る匂い。この匂い、愛しい貴女の放つ匂いにほかならない。この匂いは“あなたのほくろ”を思い出すと。
龍之介は何気なく“ほくろ”と言う文字をつかっている文章がみかけられるが、ここでは やたら意味ありげだ。
ついに、蝋梅は、花粉の運び手にとどまらないで、日本を代表する文豪芥川龍之介をも虜にしてしまったようだ。もしかしたら、蝋梅は龍之介の五感をもこえて、たましいまで引き込んでしまったのか。 

 いずれにしても、文人たちの感性は、万人には、窺い知れない世界があるものだ。











 








Posted by nonio at 06:31Comments(0)四季