ある日、滋賀県南部と三重県境近くにある岩尾山へ、Aさんと出かけた。
山麓には「一本杉」の名で親しまれている古木がある。
この杉には、「最澄がここで食事をした後、地面に挿した箸が成長して大木になった」という伝説がある。平安時代に生まれ、1200年もの時を経たこの木は、日本の歴史そのものを見つめ続けてきた古木だ。その姿に会いたいと、ずっと願っていたのだが……。
この山は双耳峰なので、2つのピークを踏んで下山してきた。
Aさんが、何か珍しいものを見つけたのか、指をさした。指さした先に、それはあった。
木は太陽に向かって真っ直ぐに伸びていくのが常だ。だけど、その木
「すごいね、あんな形になっても、また太陽に向かって伸びていくなんて。自然の力強さを感じるよ」と、Aさんが驚いていた。
私は、その窮屈な姿に、不意に胸が締めつけられるような思いを抱いた。
なぜ木は輪を描いたのだろう?その曲がりは、風に押されたからか、誰かに踏まれたからか、それとも大自然のいたずれなのか。
もし金子みすゞさんがこの木を見たなら、どんな詩を綴るだろうか。そんな思いが頭をよぎった。
ぐるりと回る木は
涙顔なのか、それとも笑顔なのか。
その顔は、いつまでも
太陽を見つめていた。
「まわり道しても、空へ行くんだ」
そっと、太陽が囁く。
「まっすぐじゃなくても、いいんだよ」

若くして亡くなった金子みすゞさんの詩の中で、私は「大漁」と「曼珠沙華(ヒガンバナ)」が特に好きだ。自然の力に感嘆し、その背後に隠された切なさを描く視点に、心を揺さぶられる。
目の前に広がるぐるりと回る木。その姿に、金子みすゞさんの詩の中に通じる「自然へのリスペクト」と「隠れた切なさ」を感じた。そして、その木が教えてくれたような気がする――「どんな道を辿っても、空に届くことができる」と。

この杉には、「最澄がここで食事をした後、地面に挿した箸が成長して大木になった」という伝説がある。平安時代に生まれ、1200年もの時を経たこの木は、日本の歴史そのものを見つめ続けてきた古木だ。その姿に会いたいと、ずっと願っていたのだが……。
この山は双耳峰なので、2つのピークを踏んで下山してきた。
Aさんが、何か珍しいものを見つけたのか、指をさした。指さした先に、それはあった。
木は太陽に向かって真っ直ぐに伸びていくのが常だ。だけど、その木
「すごいね、あんな形になっても、また太陽に向かって伸びていくなんて。自然の力強さを感じるよ」と、Aさんが驚いていた。
私は、その窮屈な姿に、不意に胸が締めつけられるような思いを抱いた。
なぜ木は輪を描いたのだろう?その曲がりは、風に押されたからか、誰かに踏まれたからか、それとも大自然のいたずれなのか。
もし金子みすゞさんがこの木を見たなら、どんな詩を綴るだろうか。そんな思いが頭をよぎった。
ぐるりと回る木は
涙顔なのか、それとも笑顔なのか。
その顔は、いつまでも
太陽を見つめていた。
「まわり道しても、空へ行くんだ」
そっと、太陽が囁く。
「まっすぐじゃなくても、いいんだよ」

若くして亡くなった金子みすゞさんの詩の中で、私は「大漁」と「曼珠沙華(ヒガンバナ)」が特に好きだ。自然の力に感嘆し、その背後に隠された切なさを描く視点に、心を揺さぶられる。
目の前に広がるぐるりと回る木。その姿に、金子みすゞさんの詩の中に通じる「自然へのリスペクト」と「隠れた切なさ」を感じた。そして、その木が教えてくれたような気がする――「どんな道を辿っても、空に届くことができる」と。
金ランを探していた友人から、「今は、ウツギに癒されています」と報せてきた。「白・黄色・ピンク・少し赤と色んな色合いに夢中になっています」とも。
先日も、かつて乙女だった3人が、連れ添って花緑公園に行き、サラサウツギの下で長々とよもやま話をしていたようだ。
ウツギは普段、庭木や生垣として目にするので、それほど気が惹かれる木ではなかった。それで、友人に「ウツギねぇ~」と返信をしたものの、何となく花緑公園に出かけてみた。
ウツギは漢字で「空木」と書く。この漢字を読める人は少ないようだ。私は中央アルプスの空木岳に行っているので、「ウツギ」という読み方を知っていたが、確かに読みにくい文字だ。ウツギとは、幹や枝の中心が「髄」ではなく、空洞になっていることから「空木(うつろぎ)」がウツギと呼ばれるようになったと言われている。
花緑公園の案内板にはウツギの表示がなく、なかなか見つけられなかった。木の下に散らばっている枯れ木をひらい上げては、中空の枝を探した。一本ずつ確認するのに骨がおれた。何周も公園内を歩き回り、ついに空洞の枝を見つけた。ウツギの葉は細長い卵形で先が尖り、対生で生えており、まさにウツギであった。
その樹木は私よりも少し高く、根元から多くの枝が分かれていた。枝には純白の花弁が重なり合っており、花弁の付け根あたりにはわずかに愛くるしいピンク色が残っていた。花弁は中心部に密集し、外側に向かって複数の層になっていた。重なって咲いている花なので、何かを隠しているような秘密めいた雰囲気が漂っていた。そして、花弁は全て下を向いていた。枝から垂れ下がる花姿は、古風というよりも謙虚で温和に思えた。
この控えめで安心感のある花姿に、彼女らは自分たちの人生の思い出を重ねていたのであろう。
友人は「ピンク色の花が満開を過ぎると、薄くなっていました」と。季節の移ろいの中で、時の流れを感じ取っていたようだ。
そして、友人は「色々お医者さんと仲良くするような歳になりました」と結んでいた。歳を重ねたわが身を悔いるのでなく、この花の一枚一枚に、過ぎ去った自分たちの歴史を投影しては、「今」を楽しんでいたようだ。
ウツギに出会った友人の言葉は、思いもよらないところに、人生の意味を考えさせてくれた。
なお、ウツギの枝は全て中空だと思っていたが、実際にはそうでもなかった。庭にウツギを植えている別の友人に「ウツギの枝が中空か確認して」とラインを送ったところ、「山で見かけるウツギに似ているけど、枝は詰まっていた」と返信があった。「空木じゃなくて宇津木かもしれないね(笑)」と茶化してきた。


サラサウツギは園芸種である。私にとっては、力強く自生しているウツギ探しに、鏡山へ向かった。善光寺川沿いに「タニウツギ」や「キバナウツギ」に出会えた。三上山は檜の二次林に覆われているが、北尾根縦走路には雑木林が多く、「タニウツギ」「コツクバネウツギ」「ノリウツギなどが自生していると聞いていたので、出かけたが、花がすでに散っていた。来年には、三上山周辺を散策したいと思っている。


先日も、かつて乙女だった3人が、連れ添って花緑公園に行き、サラサウツギの下で長々とよもやま話をしていたようだ。
ウツギは普段、庭木や生垣として目にするので、それほど気が惹かれる木ではなかった。それで、友人に「ウツギねぇ~」と返信をしたものの、何となく花緑公園に出かけてみた。
ウツギは漢字で「空木」と書く。この漢字を読める人は少ないようだ。私は中央アルプスの空木岳に行っているので、「ウツギ」という読み方を知っていたが、確かに読みにくい文字だ。ウツギとは、幹や枝の中心が「髄」ではなく、空洞になっていることから「空木(うつろぎ)」がウツギと呼ばれるようになったと言われている。
花緑公園の案内板にはウツギの表示がなく、なかなか見つけられなかった。木の下に散らばっている枯れ木をひらい上げては、中空の枝を探した。一本ずつ確認するのに骨がおれた。何周も公園内を歩き回り、ついに空洞の枝を見つけた。ウツギの葉は細長い卵形で先が尖り、対生で生えており、まさにウツギであった。
その樹木は私よりも少し高く、根元から多くの枝が分かれていた。枝には純白の花弁が重なり合っており、花弁の付け根あたりにはわずかに愛くるしいピンク色が残っていた。花弁は中心部に密集し、外側に向かって複数の層になっていた。重なって咲いている花なので、何かを隠しているような秘密めいた雰囲気が漂っていた。そして、花弁は全て下を向いていた。枝から垂れ下がる花姿は、古風というよりも謙虚で温和に思えた。
この控えめで安心感のある花姿に、彼女らは自分たちの人生の思い出を重ねていたのであろう。
友人は「ピンク色の花が満開を過ぎると、薄くなっていました」と。季節の移ろいの中で、時の流れを感じ取っていたようだ。
そして、友人は「色々お医者さんと仲良くするような歳になりました」と結んでいた。歳を重ねたわが身を悔いるのでなく、この花の一枚一枚に、過ぎ去った自分たちの歴史を投影しては、「今」を楽しんでいたようだ。
ウツギに出会った友人の言葉は、思いもよらないところに、人生の意味を考えさせてくれた。
なお、ウツギの枝は全て中空だと思っていたが、実際にはそうでもなかった。庭にウツギを植えている別の友人に「ウツギの枝が中空か確認して」とラインを送ったところ、「山で見かけるウツギに似ているけど、枝は詰まっていた」と返信があった。「空木じゃなくて宇津木かもしれないね(笑)」と茶化してきた。


サラサウツギは園芸種である。私にとっては、力強く自生しているウツギ探しに、鏡山へ向かった。善光寺川沿いに「タニウツギ」や「キバナウツギ」に出会えた。三上山は檜の二次林に覆われているが、北尾根縦走路には雑木林が多く、「タニウツギ」「コツクバネウツギ」「ノリウツギなどが自生していると聞いていたので、出かけたが、花がすでに散っていた。来年には、三上山周辺を散策したいと思っている。


山中では鳥のさえずり、耳を澄ませると虫の声が聞こえる。が、静けさで支配され、寂しいぐらい森閑としている時もある。
聞こえるのは、急登にさしかかった私自身の荒い息づかいだけ。
カサコソと物音がした、次の瞬間。静寂を切り裂くように、メリメリとつんざく音・・・・。
あちこちで起こった。獣の動く様子もないが、人の気配が感じられた。
原皮師(もとかわし)だった。
手持ち用具は、へら・短棒とロープ・腰ナタだけ。太いヒノキ木の根元部分から、「へら」を差し込み檜皮を剥がしていた。
木によじ登るのは、短棒2本にロープを結びつけただけの簡単な道具である。 目線に短棒を幹に対して横にあてがって、ロープで結ぶのではなく巻き付けていた。
ロープの輪っかを作ると、そこに足をかけながら、体を持ち上げては、足場を築き皮を剥いでいた。
その作業が終わると、もう1本の短棒を同じように固定して、更に一段上へと上って行った。そこで目にしたのは、上から足でロープをたぐり寄せると、足場の短棒が解かれていたのだ。
「凄い技だねぇ」と話しかけた。
「先輩から教わったものだ。平安時代から受けつがれてきた『ブリ縄』だ」と自慢気に。
「作業はいつもやっているの」
「盆明けから桜が咲くころまで、山にはいっている」。
冬場の乾いた時期をえらんで、重要文化財など日本建築に欠かせない屋根用の檜皮を採取していた。一度皮を剥いで8~10年くらいたつと、新しい表皮ができるようだ。
「この作業をまたやらしてもらうので、原木に傷がつかないように気を使っている」と。
仕事の邪魔にならないようにと遠慮がちに若者と話しかけた。
持ち帰った皮は、コツコツたたいて一枚の皮に仕上げるには手間がかかる。年老いても、この檜皮を整形する居場所があり、一生食べていけるようだ。
「若者は、雑音まみれの都会に憧れるが、年をとると、故郷に戻ってくるものだ。まだ、時の向こうを見ていないからね」と問いかけると、
「そうかなぁ、でも、この作業は寂しい」と一言。
お互い私語もなく、3人の若者は、黙々と作業を続けていた。
この若者には、檜の香りが漂う今の仕事が、この上ない「静謐」(せいひつ)な空間だとわかるには、時間がかかるようだ。



聞こえるのは、急登にさしかかった私自身の荒い息づかいだけ。
カサコソと物音がした、次の瞬間。静寂を切り裂くように、メリメリとつんざく音・・・・。
あちこちで起こった。獣の動く様子もないが、人の気配が感じられた。
原皮師(もとかわし)だった。
手持ち用具は、へら・短棒とロープ・腰ナタだけ。太いヒノキ木の根元部分から、「へら」を差し込み檜皮を剥がしていた。
木によじ登るのは、短棒2本にロープを結びつけただけの簡単な道具である。 目線に短棒を幹に対して横にあてがって、ロープで結ぶのではなく巻き付けていた。
ロープの輪っかを作ると、そこに足をかけながら、体を持ち上げては、足場を築き皮を剥いでいた。
その作業が終わると、もう1本の短棒を同じように固定して、更に一段上へと上って行った。そこで目にしたのは、上から足でロープをたぐり寄せると、足場の短棒が解かれていたのだ。
「凄い技だねぇ」と話しかけた。
「先輩から教わったものだ。平安時代から受けつがれてきた『ブリ縄』だ」と自慢気に。
「作業はいつもやっているの」
「盆明けから桜が咲くころまで、山にはいっている」。
冬場の乾いた時期をえらんで、重要文化財など日本建築に欠かせない屋根用の檜皮を採取していた。一度皮を剥いで8~10年くらいたつと、新しい表皮ができるようだ。
「この作業をまたやらしてもらうので、原木に傷がつかないように気を使っている」と。
仕事の邪魔にならないようにと遠慮がちに若者と話しかけた。
持ち帰った皮は、コツコツたたいて一枚の皮に仕上げるには手間がかかる。年老いても、この檜皮を整形する居場所があり、一生食べていけるようだ。
「若者は、雑音まみれの都会に憧れるが、年をとると、故郷に戻ってくるものだ。まだ、時の向こうを見ていないからね」と問いかけると、
「そうかなぁ、でも、この作業は寂しい」と一言。
お互い私語もなく、3人の若者は、黙々と作業を続けていた。
この若者には、檜の香りが漂う今の仕事が、この上ない「静謐」(せいひつ)な空間だとわかるには、時間がかかるようだ。



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山に入ると、多くの“杉”の巨樹であったり老樹に出会った。なかでも、千草越えの杉峠での“杉”は、感慨深い樹であった。杉峠の立ち枯れした杉/鈴鹿千草越え
目下、「上古賀の一本杉」の巨樹に出合ったのがきっかけに、山仲間Sさんが、「花脊峠近くの『三本杉』が見事だった」と、話していたことが気になり出した。
この杉の高さは、レーザー計測器で62.3m。それが、今のところ樹高日本一であり、京都市内にあると言うのである。
いずれさらなる高い樹が発見されるだろう。それまでに、出合いたいことが、一層後押した。
さて、行くとなったら、大変。私にとって、京都市街地の北方に広がる山地が不案内。
この杉は、大悲山峰定寺(ぶじょうじ)の御神木であるので、「峰定寺の三本杉」また「花脊の三本杉」とも言われている。
とりあえず、鞍馬から府道38号線を北上して花背峠を越えた。さらにかつて材木・薪炭・檜皮などを、荷持の肩と牛馬の背で輸送していた山地をやたら走り続けた・・・・・。「別所」・「大布施」の集落を通過し、リゾート山村都市交流の翠峰荘までやってきた。
いまだ、三本杉のいどころが定まらなかった。
今回は、ここで昼食を頂いて引っ返そうと思案していた。
昼食の注文にやってきた店員に、このことを不安げに尋ねてみると、「ここから三本杉は近い」との思いがけぬ言葉に、たまげた。
「38号線をこのまま北上すると、京都バス停『大悲山口』で、三差路になっている。ここを右に進み、峰定寺まで行けば分かる」と事細かく道筋を教えてもらった。ゆっくり、「山菜そば」を頂いた。
教えられた府道の脇道をたどり、由緒ありそうな峰定寺までやってくると、橋に車の立ち入り禁止の立て札があった。車を駐車場に止め、寺谷川沿いの大悲山林道を歩いていった。三本杉まで700mの道標があり、この渓流を離れて緩やかな登り道を上り詰めると、いとも簡単にたどり着けた。
三本杉の前には十段程の石段が設けられ、周囲は低い石柱で大事に囲まれていた。
三本杉の根元は一つであるが、前に一本、後方に二本がある。後ろの右側の杉は少し右方向に傾いてはいるが、いずれもスラリと天空にそびえ立っていた。樹齢は1000~1200年もの歳を重ねているとは感じさせない瑞々しさを保っていた。
谷底と云う地理的条件も幸いして、台風や落雷にも遭わずにすくすくと成長してきたようだ。明治の頃、大林區署から伐らうとされた時もあったが、日本の歴史を遡ること、平安時代から現代までよくぞ生き延びてきたものだ。
ところで、この三本杉が江戸時代後期に刊行された京都に関わる「拾遺都名所図会」に、紹介されている。現在の写真付きの旅行ガイドブックに対して、鳥瞰図や風俗図などの挿絵をつけた名所案内記である。
「大悲山乳岩」の絵図は奇妙な絵柄であるので、補足すると、
乳石の形をした岩から水が流れ落ちている。その裏側をのぞく旅人がおり、あるものは、水を杓で受けている。この水は「お乳が出ない女性に飲ませるとお乳が出る」との言い伝えがあり、この霊験あらたかな水を求めて、来たのであろう。
大悲山は、京都市内から十里(40km)の距離があり、まさに歩けば一日がかりである。さらにこの乳石に来るだけでも、案内人なしには行けない深山幽谷の地である。
さて、三本杉は、乳石からさらに山奥に入ったところに画かれてあった。
ところで、この乳石が気になって探したが、見つからなかった。
たまたま、峰定寺周辺の清掃で、地元の人達が作業している時に出くわした。
「乳石」のことについて尋ねると、口を閉ざしてしまった。
ひつこく、同じ質問をほかの人にすると、「子供の頃行ったことがある」と返事してくれた。が、何か事情があるらしい。
【大悲山峯定寺】当山は洛陽の北の方にして行程十里、鞍馬寺よりは亥子の方にして坂路五里なり。其中間に別所 、大布施の二邑あり。大布施といふは大悲の片言なりといふ
「大悲山はくらまの遥奥なり。花瀬峠をこえ、別所村に至りて観音堂あり。平相国清盛のいとなみしとなり」。
「華表は乳石は より一町ばかりこなたにあり。都て此深谷嶮岨にして樵夫も歩しかね、不知案内にては見る事協ひがたし。乳石は谷に二町ばかり入と三本杉といふあり、大木にして又類稀なり」。



目下、「上古賀の一本杉」の巨樹に出合ったのがきっかけに、山仲間Sさんが、「花脊峠近くの『三本杉』が見事だった」と、話していたことが気になり出した。
この杉の高さは、レーザー計測器で62.3m。それが、今のところ樹高日本一であり、京都市内にあると言うのである。
いずれさらなる高い樹が発見されるだろう。それまでに、出合いたいことが、一層後押した。
さて、行くとなったら、大変。私にとって、京都市街地の北方に広がる山地が不案内。
この杉は、大悲山峰定寺(ぶじょうじ)の御神木であるので、「峰定寺の三本杉」また「花脊の三本杉」とも言われている。
とりあえず、鞍馬から府道38号線を北上して花背峠を越えた。さらにかつて材木・薪炭・檜皮などを、荷持の肩と牛馬の背で輸送していた山地をやたら走り続けた・・・・・。「別所」・「大布施」の集落を通過し、リゾート山村都市交流の翠峰荘までやってきた。
いまだ、三本杉のいどころが定まらなかった。
今回は、ここで昼食を頂いて引っ返そうと思案していた。
昼食の注文にやってきた店員に、このことを不安げに尋ねてみると、「ここから三本杉は近い」との思いがけぬ言葉に、たまげた。
「38号線をこのまま北上すると、京都バス停『大悲山口』で、三差路になっている。ここを右に進み、峰定寺まで行けば分かる」と事細かく道筋を教えてもらった。ゆっくり、「山菜そば」を頂いた。
教えられた府道の脇道をたどり、由緒ありそうな峰定寺までやってくると、橋に車の立ち入り禁止の立て札があった。車を駐車場に止め、寺谷川沿いの大悲山林道を歩いていった。三本杉まで700mの道標があり、この渓流を離れて緩やかな登り道を上り詰めると、いとも簡単にたどり着けた。
三本杉の前には十段程の石段が設けられ、周囲は低い石柱で大事に囲まれていた。
三本杉の根元は一つであるが、前に一本、後方に二本がある。後ろの右側の杉は少し右方向に傾いてはいるが、いずれもスラリと天空にそびえ立っていた。樹齢は1000~1200年もの歳を重ねているとは感じさせない瑞々しさを保っていた。
谷底と云う地理的条件も幸いして、台風や落雷にも遭わずにすくすくと成長してきたようだ。明治の頃、大林區署から伐らうとされた時もあったが、日本の歴史を遡ること、平安時代から現代までよくぞ生き延びてきたものだ。
ところで、この三本杉が江戸時代後期に刊行された京都に関わる「拾遺都名所図会」に、紹介されている。現在の写真付きの旅行ガイドブックに対して、鳥瞰図や風俗図などの挿絵をつけた名所案内記である。
「大悲山乳岩」の絵図は奇妙な絵柄であるので、補足すると、
乳石の形をした岩から水が流れ落ちている。その裏側をのぞく旅人がおり、あるものは、水を杓で受けている。この水は「お乳が出ない女性に飲ませるとお乳が出る」との言い伝えがあり、この霊験あらたかな水を求めて、来たのであろう。
大悲山は、京都市内から十里(40km)の距離があり、まさに歩けば一日がかりである。さらにこの乳石に来るだけでも、案内人なしには行けない深山幽谷の地である。
さて、三本杉は、乳石からさらに山奥に入ったところに画かれてあった。
ところで、この乳石が気になって探したが、見つからなかった。
たまたま、峰定寺周辺の清掃で、地元の人達が作業している時に出くわした。
「乳石」のことについて尋ねると、口を閉ざしてしまった。
ひつこく、同じ質問をほかの人にすると、「子供の頃行ったことがある」と返事してくれた。が、何か事情があるらしい。
【大悲山峯定寺】当山は洛陽の北の方にして行程十里、鞍馬寺よりは亥子の方にして坂路五里なり。其中間に別所 、大布施の二邑あり。大布施といふは大悲の片言なりといふ
「大悲山はくらまの遥奥なり。花瀬峠をこえ、別所村に至りて観音堂あり。平相国清盛のいとなみしとなり」。
「華表は乳石は より一町ばかりこなたにあり。都て此深谷嶮岨にして樵夫も歩しかね、不知案内にては見る事協ひがたし。乳石は谷に二町ばかり入と三本杉といふあり、大木にして又類稀なり」。



「滋賀県の巨木めくり」書籍の表紙を飾る大木、「上古賀の一本杉」が気になっていた。妻と自動車で出かけた。
大正2年に刊行された「近江銘木誌」から割り出したこの樹の所在地は、「廣瀬村大字上古賀字西野一ノ瀬谷入口」。かつて集落もあったと考えられるが、場所を特定できない。取り敢えず、湖西、高島安曇川駅から西に向かう上古賀を目指した。重ねて、安曇川に架かっている両台橋、大吉牧場を仮目印に進んだ。
右往左往しながら、饗庭野の陸上自衛隊演習場へと導かれる山道にさしかかった。車がやっと通れるだけの狭い道を無理やり進むと、手入れされた杉の森林帯に出た。
突如、この地に長年君臨し続けている“ぬし”だと言い張る、どでかい杉が現れた。そこだけ日常とは違う空気に包まれていた。
二本のけたちがいの太い幹が、根本に近いところから両側に張り出し、その主幹は、苔むし、シダも宿していた。
杉の語源は「直ぐな木」から言われているが、この樹から到底杉とは思えなかった。山嶽のような雄偉な姿に圧倒されてしまった。
根元には祠が祀られいた。妻は「こんな大木の写真を撮ってもいいの」といぶがしがった。「日本の巨樹・巨木林 環境庁編」では、伝承600年と記されている。その頃とは、近江を二分した応仁の乱が勃発した室町時代である。日本の歴史を縦断してきた遥か彼方に生命を宿した生物が、現存してきたことになる。
「ここまで、よくぞ命を繋いできたことか」と仰ぎ見ながら、もしかして、精霊が宿かすかもしれないと考えてしまった。
安曇川町昔はなし第一集では、 一本杉と弘法大師
昔、弘法大師が朽木の途中へ行こうとして、一ノ瀬谷の入口で、お昼の弁当を開き、道のそばの杉の枝を折って箸にし、食べ終って、その箸を地面に挿したところ、その箸が杉の木になりました。杉の木は、ぐんぐん大きくなって、上古賀の一本杉と言われるようになり、饗庭野への道しるべとなりました。
昭和51年上古賀有志老人の話し合いからつづられた記述である。
今では、この樹に訪れる人も、知る人も少なくなっている。が、大正4年頃、今よりしっかりとした枝ぶりのもとに、着物姿の人が通行している写真があった。かつて、「上古賀の一本杉」は、南饗庭野の入口の道標として、シンボル的な存在だったようだ。
尚、この樹は個人の所有のものだが、市の天然記念物に指定されている。
ここには、見張り小屋の兵士に「演習中だ」と拒まれたり、その他色々で3回以上出向いた。



大正2年に刊行された「近江銘木誌」から割り出したこの樹の所在地は、「廣瀬村大字上古賀字西野一ノ瀬谷入口」。かつて集落もあったと考えられるが、場所を特定できない。取り敢えず、湖西、高島安曇川駅から西に向かう上古賀を目指した。重ねて、安曇川に架かっている両台橋、大吉牧場を仮目印に進んだ。
右往左往しながら、饗庭野の陸上自衛隊演習場へと導かれる山道にさしかかった。車がやっと通れるだけの狭い道を無理やり進むと、手入れされた杉の森林帯に出た。
突如、この地に長年君臨し続けている“ぬし”だと言い張る、どでかい杉が現れた。そこだけ日常とは違う空気に包まれていた。
二本のけたちがいの太い幹が、根本に近いところから両側に張り出し、その主幹は、苔むし、シダも宿していた。
杉の語源は「直ぐな木」から言われているが、この樹から到底杉とは思えなかった。山嶽のような雄偉な姿に圧倒されてしまった。
根元には祠が祀られいた。妻は「こんな大木の写真を撮ってもいいの」といぶがしがった。「日本の巨樹・巨木林 環境庁編」では、伝承600年と記されている。その頃とは、近江を二分した応仁の乱が勃発した室町時代である。日本の歴史を縦断してきた遥か彼方に生命を宿した生物が、現存してきたことになる。
「ここまで、よくぞ命を繋いできたことか」と仰ぎ見ながら、もしかして、精霊が宿かすかもしれないと考えてしまった。
安曇川町昔はなし第一集では、 一本杉と弘法大師
昔、弘法大師が朽木の途中へ行こうとして、一ノ瀬谷の入口で、お昼の弁当を開き、道のそばの杉の枝を折って箸にし、食べ終って、その箸を地面に挿したところ、その箸が杉の木になりました。杉の木は、ぐんぐん大きくなって、上古賀の一本杉と言われるようになり、饗庭野への道しるべとなりました。
昭和51年上古賀有志老人の話し合いからつづられた記述である。
今では、この樹に訪れる人も、知る人も少なくなっている。が、大正4年頃、今よりしっかりとした枝ぶりのもとに、着物姿の人が通行している写真があった。かつて、「上古賀の一本杉」は、南饗庭野の入口の道標として、シンボル的な存在だったようだ。
尚、この樹は個人の所有のものだが、市の天然記念物に指定されている。
ここには、見張り小屋の兵士に「演習中だ」と拒まれたり、その他色々で3回以上出向いた。



無残な立枯れた樹の姿は、言葉で言い尽くせないとのおもいで、日の入り時期を狙った一枚の写真だけを投稿した。
その後、「ブログにアップされた朽木、どこに・・・・」と、Sさんからメールがあったので、文字を綴ってみた。
この哀れな樹は、祇王井川の水源地から琵琶湖へ流れ込む河川を散策した時、童子川の土手で巨体を現した。既に、一枚もの葉っぱもなく、先端の枝も切り落された痛々しい姿であった。でも、まだ樹皮は生き生きしていた。
10年後、枯死しかかった巨木は、すでに倒伏しているだろうか心配になったので、再訪してみた。
幹はしっかりと大地をわしづかみに突っ立っていた。
いずれ、この材はボロボロと崩れていく。が、私より永く存在しているだろう。
その後、「ブログにアップされた朽木、どこに・・・・」と、Sさんからメールがあったので、文字を綴ってみた。
この哀れな樹は、祇王井川の水源地から琵琶湖へ流れ込む河川を散策した時、童子川の土手で巨体を現した。既に、一枚もの葉っぱもなく、先端の枝も切り落された痛々しい姿であった。でも、まだ樹皮は生き生きしていた。
10年後、枯死しかかった巨木は、すでに倒伏しているだろうか心配になったので、再訪してみた。
幹はしっかりと大地をわしづかみに突っ立っていた。
いずれ、この材はボロボロと崩れていく。が、私より永く存在しているだろう。

タグ :童子川
桜と云えば、ソメヨシノ。
「満開だなぁ~」と思っていた矢先に、くすみだす。
その上に、一斉に咲き一斉に散る。
出来れば、バラバラで咲いてほしいのだが・・・・。
ことしは、滋賀を駆け回った。
「満開だなぁ~」と思っていた矢先に、くすみだす。
その上に、一斉に咲き一斉に散る。
出来れば、バラバラで咲いてほしいのだが・・・・。
ことしは、滋賀を駆け回った。







山城と鏡山の縦走路間で、若木のリョウブが山腹を埋め尽くしていた。芽生え前の木だが、樹皮は薄く剥がれやすく、剥がれたあとは滑らかな薄い茶褐色となり、木肌の模様が面白いので、名前がすぐに判った。


このリョウブはどちらかと言えば、森林を構成する樹種でもなく、パイオニア的傾向が強いと言われている。が、 この写真では、リョウブが群生していた。どうしてこうなったのか、頭を絞ってみた。
私は滋賀県の森の女王といわれる数々のブナ林の姿を見てきた。横山岳・音波山の若木・安蔵山の成熟したミズナラとブナ林の原生林・ 音波山のブナ倒木後の世代交代・椿坂峠近くの生き延びた巨木・三重嶽のねじ曲がったブナ・・・・・・など。
若齢林では細いブナがびっしりと林立している。片や、成熟期を迎えているブナ林になると、一本毎の幹は太くなるが、極端に本数が減少している。何年もかかって自然淘汰されたブナ林帯を形成していた。
また、巨木のブナが何らかの原因で倒木していた。 それまで日陰で待機していた若木がこれから成長し、世代交代がこれから始まろうとしていた。ブナ林はいつも同じ姿をしているわけではなく、その時々の発達段階を見せていた。
さればと、「森林の遷移」を多少とも理解できるので、このリョウブ林について、勝手なストーリーを描いてみた。
この一帯は、風化しやすい花崗岩からなり、地滑りしやすい地形である。縦走路の尾根筋で、台風や大雨により多量の土砂崩壊が発生したのだろう。山崩れの証として、緩斜面に大石がかなり堆積していた。
山地の斜面が、根こそぎ土壌が流され、裸地面が露出したと思われる。そして崩落を免れたリョウブの木の種子が、さまざまな方向を裂開して、飛び出したのであろう。発芽・生長し、今の姿を出現させていた。それにしてもおびただしい種子である。
何気ない風景であるが、お互い若木同士は、熾烈な争いが起こっているのだ。
若木は、太陽に向かって、枝葉を競り合い懸命に張り合っているのである。僅かでも、先んじて太陽光を受けることができれば、周りの木を圧倒して、生き残れる。既に競争に負け、何本かの枯れ木もみかけられ、より一層このように感じ取れた。
これから何年もかかって、強いものが、勝ち残っていくのだろう。その上、陽樹のリョウブ林は陰樹に脅かされ、さらに生存が厳しくなるであろう。
希望が丘文化公園内には森・山・川が存在し、自然そのままの姿を残されている。人間よりはるかに永い寿命を持つ樹々の一コマは次のように語っている。
「我々森林が生き残っていく間に、洪水・火災・土砂崩壊などにより破壊されることがある。これを「攪乱」と言われる。人間社会において、これらは災害であると捉えられる。しかし、すでに生えている我々樹木たちには大きなダメージを受ける、一方で、新たに根づき、生育する木が出てくる新しいチャンスを産んでいる。まさに、我々森林は撹乱に適応し、育っているのだ」と。
☞滋賀の印象深いブナ林・ブナ林のある音波山・椿坂峠のブナ巨樹の語らい


このリョウブはどちらかと言えば、森林を構成する樹種でもなく、パイオニア的傾向が強いと言われている。が、 この写真では、リョウブが群生していた。どうしてこうなったのか、頭を絞ってみた。
私は滋賀県の森の女王といわれる数々のブナ林の姿を見てきた。横山岳・音波山の若木・安蔵山の成熟したミズナラとブナ林の原生林・ 音波山のブナ倒木後の世代交代・椿坂峠近くの生き延びた巨木・三重嶽のねじ曲がったブナ・・・・・・など。
若齢林では細いブナがびっしりと林立している。片や、成熟期を迎えているブナ林になると、一本毎の幹は太くなるが、極端に本数が減少している。何年もかかって自然淘汰されたブナ林帯を形成していた。
また、巨木のブナが何らかの原因で倒木していた。 それまで日陰で待機していた若木がこれから成長し、世代交代がこれから始まろうとしていた。ブナ林はいつも同じ姿をしているわけではなく、その時々の発達段階を見せていた。
さればと、「森林の遷移」を多少とも理解できるので、このリョウブ林について、勝手なストーリーを描いてみた。
この一帯は、風化しやすい花崗岩からなり、地滑りしやすい地形である。縦走路の尾根筋で、台風や大雨により多量の土砂崩壊が発生したのだろう。山崩れの証として、緩斜面に大石がかなり堆積していた。
山地の斜面が、根こそぎ土壌が流され、裸地面が露出したと思われる。そして崩落を免れたリョウブの木の種子が、さまざまな方向を裂開して、飛び出したのであろう。発芽・生長し、今の姿を出現させていた。それにしてもおびただしい種子である。
何気ない風景であるが、お互い若木同士は、熾烈な争いが起こっているのだ。
若木は、太陽に向かって、枝葉を競り合い懸命に張り合っているのである。僅かでも、先んじて太陽光を受けることができれば、周りの木を圧倒して、生き残れる。既に競争に負け、何本かの枯れ木もみかけられ、より一層このように感じ取れた。
これから何年もかかって、強いものが、勝ち残っていくのだろう。その上、陽樹のリョウブ林は陰樹に脅かされ、さらに生存が厳しくなるであろう。
希望が丘文化公園内には森・山・川が存在し、自然そのままの姿を残されている。人間よりはるかに永い寿命を持つ樹々の一コマは次のように語っている。
「我々森林が生き残っていく間に、洪水・火災・土砂崩壊などにより破壊されることがある。これを「攪乱」と言われる。人間社会において、これらは災害であると捉えられる。しかし、すでに生えている我々樹木たちには大きなダメージを受ける、一方で、新たに根づき、生育する木が出てくる新しいチャンスを産んでいる。まさに、我々森林は撹乱に適応し、育っているのだ」と。
☞滋賀の印象深いブナ林・ブナ林のある音波山・椿坂峠のブナ巨樹の語らい
今年の桜前線は一気に北上していった。咲いたと思ったら瞬く間に散っていった。余韻すらなく。
信楽の「畑のしだれ桜」を狙っていたが、既に散り。もうひとつ、最近カメラマンが集まりだした長浜市の「神田溜」も無理とのこと・・・・・・。
そこで、今迄、見向きもしなかった野洲市を流れている祇王井川の川沿いにある身近な桜並木に日参した。
「春はあけぼの」で始まると言われるように、夜明けに出掛けて、川面に映り込む色味薄い桜の風情を楽しんでみた。
桜の花言葉には、「優れた美人」「純潔」「精神美」そして「淡泊」か。

信楽の「畑のしだれ桜」を狙っていたが、既に散り。もうひとつ、最近カメラマンが集まりだした長浜市の「神田溜」も無理とのこと・・・・・・。
そこで、今迄、見向きもしなかった野洲市を流れている祇王井川の川沿いにある身近な桜並木に日参した。
「春はあけぼの」で始まると言われるように、夜明けに出掛けて、川面に映り込む色味薄い桜の風情を楽しんでみた。
桜の花言葉には、「優れた美人」「純潔」「精神美」そして「淡泊」か。

タグ :祇王井川
師走のマキノ高原にあるメタセコイア並木の様子伺いに赴いた。
韓国ドラマの『冬のソナタ』が火付け役となってメタセコイア並木もすっかり有名になった。まっすぐに伸びる道路に、見栄えのいい高木の三角錐の樹形が、植えつけられると、日本離れしたおしゃれな景観となり、訪れてみたくなるものだ。
赤坂山・寒風の山々はすっかり冬景色。並木道の500本ほどのメタセコイアは、赤茶色の紅葉も既に盛りを過ぎ 、まだいくらか残っている葉っぱが、靄って、淡いセピア色となっていた。
この樹の葉っぱは、針状の細長い葉を持っていた。針葉樹なので、常緑かと思っていた。が、そうでなく秋に紅葉して落葉するのだ。
茎の節に2枚向かい合った枯れた葉は、一枚一枚がばらばらに落ちるのではなく、そよ風で小さな枝ごとポロっと落ちていった。
紅葉を終え、残り葉のタセコイアは、秋の深みから冬の到来へと四季の移ろいを知らせていた。
さて、メタセコイアは、地球上から姿を消したと考えられた。恐竜などでなく現在の生物が出現したとされる新第三紀の古い地層で、落葉樹の化石としてしか観ることができなかった。
ところが、人間が地球上にあらわれるよりもかなり前から、ほとんど姿を変えることなく中国の四川省磨刀渓村の狭い地域に力強く生息していることが、日本の化石学者により示された。だから、メタセコイアは「生きた化石」とも呼ばれている。
その後、人の手厚い保護のもとに、世界中に広がり、このメタセコイアも中国からもたらされたものである。


韓国ドラマの『冬のソナタ』が火付け役となってメタセコイア並木もすっかり有名になった。まっすぐに伸びる道路に、見栄えのいい高木の三角錐の樹形が、植えつけられると、日本離れしたおしゃれな景観となり、訪れてみたくなるものだ。
赤坂山・寒風の山々はすっかり冬景色。並木道の500本ほどのメタセコイアは、赤茶色の紅葉も既に盛りを過ぎ 、まだいくらか残っている葉っぱが、靄って、淡いセピア色となっていた。
この樹の葉っぱは、針状の細長い葉を持っていた。針葉樹なので、常緑かと思っていた。が、そうでなく秋に紅葉して落葉するのだ。
茎の節に2枚向かい合った枯れた葉は、一枚一枚がばらばらに落ちるのではなく、そよ風で小さな枝ごとポロっと落ちていった。
紅葉を終え、残り葉のタセコイアは、秋の深みから冬の到来へと四季の移ろいを知らせていた。
さて、メタセコイアは、地球上から姿を消したと考えられた。恐竜などでなく現在の生物が出現したとされる新第三紀の古い地層で、落葉樹の化石としてしか観ることができなかった。
ところが、人間が地球上にあらわれるよりもかなり前から、ほとんど姿を変えることなく中国の四川省磨刀渓村の狭い地域に力強く生息していることが、日本の化石学者により示された。だから、メタセコイアは「生きた化石」とも呼ばれている。
その後、人の手厚い保護のもとに、世界中に広がり、このメタセコイアも中国からもたらされたものである。

