今年の夏は、いくら「暑い」と言っても収まらない日々が続き、「寒い」という言葉がなくなったかのように感じられた。しかし、ようやく紅葉の秋が訪れた。
友人から「キッコウハグマ(亀甲白熊)」をやっと見つけたと、誇らしげなメールが届いた。 この花、意外と咲かないようだ。
名前を聞いたことがなかった私は、特に気に留めなかったが、「ハグマ」という言葉が妙に気にかかった。以前読んだ植物学の本に、「ハグマ」と名のつく植物は、花びらの先端が時計回りに曲がっていると書かれていたのを、ふと思い出したのだ。
その記憶が引き金となり、実物を見に行くことにした。 キッコウハグマ──その名が示す「白熊」という漢字は、シロクマとは読まないこの花は、シロクマのように大きな白色かと勝手に思った。「亀甲」とは亀の甲羅の六角模様だろうか。そんな推測も、薄暗い林内の静寂の中に霧散してしまった。風景と一体化したその花を見つけ出すのは、至難なことであった。
小川の流れる谷筋を何度も行き来しているうちに、茎が15cmほどの高さに直径1cmほどの小さな白い花を見つけた。一つ見つけると次々と群生が確認でき、5~7輪ほど咲いていた。
花びらを注意深く観察すると、花びらの先が曲がっていた。時計回りで、全てが同じ方向に曲がっていた。花びらの先端を心持ち曲げることによって、それほどの意味があるのかなぁと思いつつ、その控えめな曲線に自然の工夫を感じた。
被子植物が地球上に登場したのは白亜紀、およそ1億年前のことだと言われている。キッコウハグマのような植物が現在の形に至るまでには、気の遠くなるような年月が必要だっただろう。その進化を考えると、人間の短い時間の中であれこれと語るのがどれほど小さな行為かと思い知らされた。
キク科のキッコウハグマの花が初めて花開いた時には、たぶんまっすぐな花びらを持っていたのだろう。しかし、悠久の時間が経つにつれ、親からの遺伝子を受け継がれずに突然変異が起きることもある。中には、時計回りに曲がった花弁や、逆方向に曲がったものも現れ始めるのであろう。
次々世代が進むにつれて、時計回りに花びらが曲がることで、生存に有利な特性が、次第に固定されていったのだろうか。
それとも、たまたま時計回りに花びらが偶然発生して、そのまま居ついたのかもしれないとも考えられた。
ヒメハギバハグマは逆方向に曲がっている。さらに、モミジハグマはねじれが少ないと言われている。全てのハグマが時計回りに曲がった花弁でもないのだ。
ランダムな遺伝子変異で生じた様々な花びらの方向性の中で、環境の選択圧力により右向きの花びらを持つものが生き残ったという進化のプロセスなのか、単なる確率的要素でその方向が決まったのかもしれない。どちらにしても、自然はその変化を受け入れながら形を保ち続けてきたのだ。
鏡山の奥深いところで、あたりをきょろきょろしている二人連れの女性に会った。
「キッコウハグマを探しに来た」と尋ねてきた。山野で自生している野草を見つけ出すには、並大抵の努力がいるものだ。 自生しているところを教えてやると、
「ここに、あっちにも」と興奮気味に走り回り、野草を見つけるごとに目を輝かせていた。
自然界の時間軸からすれば、人間の一生は一瞬にすぎない。その短い時間の中でも、自然の仕組みに驚き、進化の背景に思いを馳せることは意義深い。自然に向き合い、その魅力を探求することが、私たちの知識欲を育み、人類がここに生きる意味の一端なのだろう。



友人から「キッコウハグマ(亀甲白熊)」をやっと見つけたと、誇らしげなメールが届いた。 この花、意外と咲かないようだ。
名前を聞いたことがなかった私は、特に気に留めなかったが、「ハグマ」という言葉が妙に気にかかった。以前読んだ植物学の本に、「ハグマ」と名のつく植物は、花びらの先端が時計回りに曲がっていると書かれていたのを、ふと思い出したのだ。

小川の流れる谷筋を何度も行き来しているうちに、茎が15cmほどの高さに直径1cmほどの小さな白い花を見つけた。一つ見つけると次々と群生が確認でき、5~7輪ほど咲いていた。
花びらを注意深く観察すると、花びらの先が曲がっていた。時計回りで、全てが同じ方向に曲がっていた。花びらの先端を心持ち曲げることによって、それほどの意味があるのかなぁと思いつつ、その控えめな曲線に自然の工夫を感じた。
被子植物が地球上に登場したのは白亜紀、およそ1億年前のことだと言われている。キッコウハグマのような植物が現在の形に至るまでには、気の遠くなるような年月が必要だっただろう。その進化を考えると、人間の短い時間の中であれこれと語るのがどれほど小さな行為かと思い知らされた。
キク科のキッコウハグマの花が初めて花開いた時には、たぶんまっすぐな花びらを持っていたのだろう。しかし、悠久の時間が経つにつれ、親からの遺伝子を受け継がれずに突然変異が起きることもある。中には、時計回りに曲がった花弁や、逆方向に曲がったものも現れ始めるのであろう。
次々世代が進むにつれて、時計回りに花びらが曲がることで、生存に有利な特性が、次第に固定されていったのだろうか。
それとも、たまたま時計回りに花びらが偶然発生して、そのまま居ついたのかもしれないとも考えられた。
ヒメハギバハグマは逆方向に曲がっている。さらに、モミジハグマはねじれが少ないと言われている。全てのハグマが時計回りに曲がった花弁でもないのだ。
ランダムな遺伝子変異で生じた様々な花びらの方向性の中で、環境の選択圧力により右向きの花びらを持つものが生き残ったという進化のプロセスなのか、単なる確率的要素でその方向が決まったのかもしれない。どちらにしても、自然はその変化を受け入れながら形を保ち続けてきたのだ。
鏡山の奥深いところで、あたりをきょろきょろしている二人連れの女性に会った。
「キッコウハグマを探しに来た」と尋ねてきた。山野で自生している野草を見つけ出すには、並大抵の努力がいるものだ。 自生しているところを教えてやると、
「ここに、あっちにも」と興奮気味に走り回り、野草を見つけるごとに目を輝かせていた。
自然界の時間軸からすれば、人間の一生は一瞬にすぎない。その短い時間の中でも、自然の仕組みに驚き、進化の背景に思いを馳せることは意義深い。自然に向き合い、その魅力を探求することが、私たちの知識欲を育み、人類がここに生きる意味の一端なのだろう。



彼岸花の色はピンクやクリーム色など華やかな色も存在するようですが、自然界に自生しているのは三つです。
赤、白、黄色の色が見られると言われていましたので、身の回りを丹念に探してみました。
ヒガンバナの色は主に「赤」ですが、白色が少しだけ、やっと「黄色」の彼岸花を一本見つけました。
花弁は妙に反り返り、縁のフリルが長々と同じように見えますが、これほどの印象の変化があるのでしょうか。
べにの彼岸花: 別れと再会、紅の花が語る。
白い彼岸花: 一途な思い、白い花が誓う。
黄色い彼岸花: 陽光の中で、黄色い花が笑っているようです。


赤、白、黄色の色が見られると言われていましたので、身の回りを丹念に探してみました。
ヒガンバナの色は主に「赤」ですが、白色が少しだけ、やっと「黄色」の彼岸花を一本見つけました。
花弁は妙に反り返り、縁のフリルが長々と同じように見えますが、これほどの印象の変化があるのでしょうか。
べにの彼岸花: 別れと再会、紅の花が語る。
白い彼岸花: 一途な思い、白い花が誓う。
黄色い彼岸花: 陽光の中で、黄色い花が笑っているようです。



タグ :彼岸花
私は、近場の自生している山野草を探して楽しんでいます。時には、「ラン類」に出会ったときは、その日は、大自然をより身近に感じ、心豊かになります。
野洲市には、近江富士として知られている三上山があります。加えて、鏡山(標高384m)が、湖南地域の北東端、湖東地域に接して、しなやかな丘のような山が張り出しています。そこには、荒川と善光寺川の二つの小川が、谷間を蛇行しながら流れています。その川辺にひっそりと山野草を育んでいるのです。 8月末から9月上旬、日野川に注ぐ善光寺川沿いの支流を遡り、球根性のランである「サギソウ」探しに、何回も足を運んできました。
さて、ここに自生している「サギソウ」は、園芸種のサギソウと一味違うのです。
菜園で栽培されたサギソウは、人の好みに合わせて柔らかな顔をしているのです。ところで、野生のサギソウは、シラサギの羽見立てられる細裂したギザギザ部分の花びらの切れ込みが鋭く、際立っているのです。
と言うのは、サギソウの花粉媒介者である「スズメガ科のガ」が、長いストローのような口を使い、花の蜜を吸いにやってくる際、花弁にとまりやすくしているのです。スズメガが地球上に現れたのはおそらく数千万年前、新生代の初めだったと考えられています。
たったこれだけのことですが、途方もない長い年月の共進化によって出現した姿なのです。
自然界では、突然変異や自然選択によって、生物の遺伝子が長い時間をかけて変化してきているのです。
植物たちは長年の進化の中で、遺伝子の突然変異がいつも不規則に起き続けていて、その内のどれかが子孫に受け継がれ、その形状や特性を磨き上げてきたのです。真白な花弁といい、シャープな切れ込みが、その結晶と言えるでしょう。
私は、植物の自生していることに、深い深い畏敬の念を呼び起こされます。
人が関与し、わずかな時間で創り出された「園芸種のサギソウ」と、自然の進化によってできたものとの対比は、考えさせられるものです。
人間は自然の神秘的なプロセスを理解しつつも、それを自分たちの都合に合わせて変更しようとします。自然界では、頻繁に起こりえないことを、園芸や育種において、植物の姿を変えてきました。また、自然界では滅多に起こりにくい遺伝子組換えまでおこない、本当に短期間でその姿を変えさせています。遺伝子組み換えで出来上がった美は、いかがなものでしょう。
自生しているサギソウが教えてくれることは、自然との調和が、本当の美しさと創造性の源であるということです。自然との関係を深め、植物と共存することは、私たちが持つ畏敬の念を育む一歩かもしれません。
この丘陵地帯に足を踏み入れると、素晴らしい清流と森が織り成す世界に魅了され、何度も訪れています。私がその一人です。


野洲市には、近江富士として知られている三上山があります。加えて、鏡山(標高384m)が、湖南地域の北東端、湖東地域に接して、しなやかな丘のような山が張り出しています。そこには、荒川と善光寺川の二つの小川が、谷間を蛇行しながら流れています。その川辺にひっそりと山野草を育んでいるのです。 8月末から9月上旬、日野川に注ぐ善光寺川沿いの支流を遡り、球根性のランである「サギソウ」探しに、何回も足を運んできました。
さて、ここに自生している「サギソウ」は、園芸種のサギソウと一味違うのです。
菜園で栽培されたサギソウは、人の好みに合わせて柔らかな顔をしているのです。ところで、野生のサギソウは、シラサギの羽見立てられる細裂したギザギザ部分の花びらの切れ込みが鋭く、際立っているのです。
と言うのは、サギソウの花粉媒介者である「スズメガ科のガ」が、長いストローのような口を使い、花の蜜を吸いにやってくる際、花弁にとまりやすくしているのです。スズメガが地球上に現れたのはおそらく数千万年前、新生代の初めだったと考えられています。
たったこれだけのことですが、途方もない長い年月の共進化によって出現した姿なのです。
自然界では、突然変異や自然選択によって、生物の遺伝子が長い時間をかけて変化してきているのです。
植物たちは長年の進化の中で、遺伝子の突然変異がいつも不規則に起き続けていて、その内のどれかが子孫に受け継がれ、その形状や特性を磨き上げてきたのです。真白な花弁といい、シャープな切れ込みが、その結晶と言えるでしょう。
私は、植物の自生していることに、深い深い畏敬の念を呼び起こされます。
人が関与し、わずかな時間で創り出された「園芸種のサギソウ」と、自然の進化によってできたものとの対比は、考えさせられるものです。
人間は自然の神秘的なプロセスを理解しつつも、それを自分たちの都合に合わせて変更しようとします。自然界では、頻繁に起こりえないことを、園芸や育種において、植物の姿を変えてきました。また、自然界では滅多に起こりにくい遺伝子組換えまでおこない、本当に短期間でその姿を変えさせています。遺伝子組み換えで出来上がった美は、いかがなものでしょう。
自生しているサギソウが教えてくれることは、自然との調和が、本当の美しさと創造性の源であるということです。自然との関係を深め、植物と共存することは、私たちが持つ畏敬の念を育む一歩かもしれません。
この丘陵地帯に足を踏み入れると、素晴らしい清流と森が織り成す世界に魅了され、何度も訪れています。私がその一人です。


三上山の中腹には、山地の斜面が裸地になっている一帯があります。毎年の真夏になると、ラン科のオオバノトンボソウ(大葉ノ蜻蛉草)が、ほぼ同じ場所に姿を現します。「今年も暑くなってきたなぁ」と四季の移り変わりを感じさせられます。
この周辺は常に土砂が崩れ落ち、土壌が流されていく場所です。その状態を「攪乱」と言います。大木が倒れ、日が射し込む場所です。成熟した森林で、新たな植物が競って発芽し・育つことができる、またとない場所なのです。人間社会において、このような災害が頻発する地域は心配されるかもしれませんが、逞しい植物にとっては、すばやく進出し、若干の危険を伴いながらも力強く成長する場所でもあります。
さて、オオバノトンボソウは、自らの生存のために攪乱された地に進出するのかどうかはわかりませんが、草丈35センチくらいのトンボソウが根を張り生き抜いています。先日、友人に自生しているオオバノトンボソウの写真を送ると、周囲を探し回ったようで、4枚もの写真を返信してくれました。オオバノトンボソウにとって、この傾斜部一帯が楽園になっているようです。
「蜻蛉草(トンボソウ)」という名前は、まるでトンボが枝に並んで止まっているようにも見えることから付けられました。同様に、千鳥の野鳥にちなんだチドリや、鈴虫に関連したスズムシソウ、そして蜘蛛に因んだクモキソウなど、山野に生える花には小鳥や昆虫の名前がつけられることがあります。なぜこれらの植物がこのような姿をしているのか不思議でならないです。大自然の奥の深さを感じさせられます。
それにしても、植物の花は虫を引き寄せるために黄色や赤色、紫色など鮮やかな色をしています。しかし、トンボソウは地味な草色で目立ちません。このままでは虫が寄ってこないのでは、と心配になります。
小さな蜘蛛が、トンボソウの一か所に住み着き、虫を捕食するための糸を張っていました。少し突いて意地悪をすると、一旦逃げ出しましたが、翌日になると、同じ場所に隠れ気味に構えていました。私には、迷惑な蜘蛛と思えたが、トンボソウにとっては案外共生しているのかもしれません。写真機のファインダー越しに、微笑ましい姿を眺めていると、神秘の世界にのめり込んでしまった。


この周辺は常に土砂が崩れ落ち、土壌が流されていく場所です。その状態を「攪乱」と言います。大木が倒れ、日が射し込む場所です。成熟した森林で、新たな植物が競って発芽し・育つことができる、またとない場所なのです。人間社会において、このような災害が頻発する地域は心配されるかもしれませんが、逞しい植物にとっては、すばやく進出し、若干の危険を伴いながらも力強く成長する場所でもあります。
さて、オオバノトンボソウは、自らの生存のために攪乱された地に進出するのかどうかはわかりませんが、草丈35センチくらいのトンボソウが根を張り生き抜いています。先日、友人に自生しているオオバノトンボソウの写真を送ると、周囲を探し回ったようで、4枚もの写真を返信してくれました。オオバノトンボソウにとって、この傾斜部一帯が楽園になっているようです。
「蜻蛉草(トンボソウ)」という名前は、まるでトンボが枝に並んで止まっているようにも見えることから付けられました。同様に、千鳥の野鳥にちなんだチドリや、鈴虫に関連したスズムシソウ、そして蜘蛛に因んだクモキソウなど、山野に生える花には小鳥や昆虫の名前がつけられることがあります。なぜこれらの植物がこのような姿をしているのか不思議でならないです。大自然の奥の深さを感じさせられます。
それにしても、植物の花は虫を引き寄せるために黄色や赤色、紫色など鮮やかな色をしています。しかし、トンボソウは地味な草色で目立ちません。このままでは虫が寄ってこないのでは、と心配になります。
小さな蜘蛛が、トンボソウの一か所に住み着き、虫を捕食するための糸を張っていました。少し突いて意地悪をすると、一旦逃げ出しましたが、翌日になると、同じ場所に隠れ気味に構えていました。私には、迷惑な蜘蛛と思えたが、トンボソウにとっては案外共生しているのかもしれません。写真機のファインダー越しに、微笑ましい姿を眺めていると、神秘の世界にのめり込んでしまった。


金ランを探していた友人から、「今は、ウツギに癒されています」と報せてきた。「白・黄色・ピンク・少し赤と色んな色合いに夢中になっています」とも。
先日も、かつて乙女だった3人が、連れ添って花緑公園に行き、サラサウツギの下で長々とよもやま話をしていたようだ。
ウツギは普段、庭木や生垣として目にするので、それほど気が惹かれる木ではなかった。それで、友人に「ウツギねぇ~」と返信をしたものの、何となく花緑公園に出かけてみた。
ウツギは漢字で「空木」と書く。この漢字を読める人は少ないようだ。私は中央アルプスの空木岳に行っているので、「ウツギ」という読み方を知っていたが、確かに読みにくい文字だ。ウツギとは、幹や枝の中心が「髄」ではなく、空洞になっていることから「空木(うつろぎ)」がウツギと呼ばれるようになったと言われている。
花緑公園の案内板にはウツギの表示がなく、なかなか見つけられなかった。木の下に散らばっている枯れ木をひらい上げては、中空の枝を探した。一本ずつ確認するのに骨がおれた。何周も公園内を歩き回り、ついに空洞の枝を見つけた。ウツギの葉は細長い卵形で先が尖り、対生で生えており、まさにウツギであった。
その樹木は私よりも少し高く、根元から多くの枝が分かれていた。枝には純白の花弁が重なり合っており、花弁の付け根あたりにはわずかに愛くるしいピンク色が残っていた。花弁は中心部に密集し、外側に向かって複数の層になっていた。重なって咲いている花なので、何かを隠しているような秘密めいた雰囲気が漂っていた。そして、花弁は全て下を向いていた。枝から垂れ下がる花姿は、古風というよりも謙虚で温和に思えた。
この控えめで安心感のある花姿に、彼女らは自分たちの人生の思い出を重ねていたのであろう。
友人は「ピンク色の花が満開を過ぎると、薄くなっていました」と。季節の移ろいの中で、時の流れを感じ取っていたようだ。
そして、友人は「色々お医者さんと仲良くするような歳になりました」と結んでいた。歳を重ねたわが身を悔いるのでなく、この花の一枚一枚に、過ぎ去った自分たちの歴史を投影しては、「今」を楽しんでいたようだ。
ウツギに出会った友人の言葉は、思いもよらないところに、人生の意味を考えさせてくれた。
なお、ウツギの枝は全て中空だと思っていたが、実際にはそうでもなかった。庭にウツギを植えている別の友人に「ウツギの枝が中空か確認して」とラインを送ったところ、「山で見かけるウツギに似ているけど、枝は詰まっていた」と返信があった。「空木じゃなくて宇津木かもしれないね(笑)」と茶化してきた。


サラサウツギは園芸種である。私にとっては、力強く自生しているウツギ探しに、鏡山へ向かった。善光寺川沿いに「タニウツギ」や「キバナウツギ」に出会えた。三上山は檜の二次林に覆われているが、北尾根縦走路には雑木林が多く、「タニウツギ」「コツクバネウツギ」「ノリウツギなどが自生していると聞いていたので、出かけたが、花がすでに散っていた。来年には、三上山周辺を散策したいと思っている。


先日も、かつて乙女だった3人が、連れ添って花緑公園に行き、サラサウツギの下で長々とよもやま話をしていたようだ。
ウツギは普段、庭木や生垣として目にするので、それほど気が惹かれる木ではなかった。それで、友人に「ウツギねぇ~」と返信をしたものの、何となく花緑公園に出かけてみた。
ウツギは漢字で「空木」と書く。この漢字を読める人は少ないようだ。私は中央アルプスの空木岳に行っているので、「ウツギ」という読み方を知っていたが、確かに読みにくい文字だ。ウツギとは、幹や枝の中心が「髄」ではなく、空洞になっていることから「空木(うつろぎ)」がウツギと呼ばれるようになったと言われている。
花緑公園の案内板にはウツギの表示がなく、なかなか見つけられなかった。木の下に散らばっている枯れ木をひらい上げては、中空の枝を探した。一本ずつ確認するのに骨がおれた。何周も公園内を歩き回り、ついに空洞の枝を見つけた。ウツギの葉は細長い卵形で先が尖り、対生で生えており、まさにウツギであった。
その樹木は私よりも少し高く、根元から多くの枝が分かれていた。枝には純白の花弁が重なり合っており、花弁の付け根あたりにはわずかに愛くるしいピンク色が残っていた。花弁は中心部に密集し、外側に向かって複数の層になっていた。重なって咲いている花なので、何かを隠しているような秘密めいた雰囲気が漂っていた。そして、花弁は全て下を向いていた。枝から垂れ下がる花姿は、古風というよりも謙虚で温和に思えた。
この控えめで安心感のある花姿に、彼女らは自分たちの人生の思い出を重ねていたのであろう。
友人は「ピンク色の花が満開を過ぎると、薄くなっていました」と。季節の移ろいの中で、時の流れを感じ取っていたようだ。
そして、友人は「色々お医者さんと仲良くするような歳になりました」と結んでいた。歳を重ねたわが身を悔いるのでなく、この花の一枚一枚に、過ぎ去った自分たちの歴史を投影しては、「今」を楽しんでいたようだ。
ウツギに出会った友人の言葉は、思いもよらないところに、人生の意味を考えさせてくれた。
なお、ウツギの枝は全て中空だと思っていたが、実際にはそうでもなかった。庭にウツギを植えている別の友人に「ウツギの枝が中空か確認して」とラインを送ったところ、「山で見かけるウツギに似ているけど、枝は詰まっていた」と返信があった。「空木じゃなくて宇津木かもしれないね(笑)」と茶化してきた。


サラサウツギは園芸種である。私にとっては、力強く自生しているウツギ探しに、鏡山へ向かった。善光寺川沿いに「タニウツギ」や「キバナウツギ」に出会えた。三上山は檜の二次林に覆われているが、北尾根縦走路には雑木林が多く、「タニウツギ」「コツクバネウツギ」「ノリウツギなどが自生していると聞いていたので、出かけたが、花がすでに散っていた。来年には、三上山周辺を散策したいと思っている。


ひと肌が恋しい時期になりました。
秋も深まり、木々は紅葉真っ盛りに。
地面に這いつくばるようにしたリンドウを一株見つけました。
寒かろう、一輪だけ花弁が開いていた。
木々の冬支度の行く秋に、どうして、花を咲かせるのだろうか。


タグ :秋リンドウ
TVで「醒ヶ井の梅花藻が8月末まで見頃」と報じられていたので、妻と出かけた。 JR 醒ヶ井駅前から交差点を南へ行きすぐに左折、道なりに進むと「観光客様無料駐車場」という看板を見つけ、自動車を停めた。 地蔵川沿いの中山道は、昔ながらの風情のあるたたずまいが並んでいた。朝が早かったのか見物客も少なく、ひっそりしていた。
ゆったりと散歩していた上品な年配の女性が親しげに、
「水面に顔を出して咲く花は、梅の花に似て可愛いネ」と話しかけてきた。
私は、この花は水の中で咲く“水中花”と決めつけていたので、「みなもで咲く」とは何となくしっくりしないなぁ~と思っていると・・・・(沈黙)。
言外を察したのか「でもネ、湧き水が多くなったときには、花が水中に沈んでしまうの」と付け加えた。花は受粉を目的として咲くのだから、常時水中にいるもでないと心の中で、自問自答した。
間を置いて、TV画面では赤い花が見えていたので、「梅花藻は可憐な赤い花も咲く」と尋ねてみた。
「ピンクの花は、さるすべりの木の花だヨ。上流から流れてきたもの。流れを調整して、白い梅花藻に添ってこの花びらが自然に咲いているようにしているノ。綺麗でしょう」。だが、私は、敢えて写真に収めなかった。
「居醒の清水(いさめ)は、梅花藻を育てているが、美味しい醤油もそだてているヨ」と。
この女性は、程近くで、創業110年にもなる老舗の大女将であった。


ゆったりと散歩していた上品な年配の女性が親しげに、
「水面に顔を出して咲く花は、梅の花に似て可愛いネ」と話しかけてきた。
私は、この花は水の中で咲く“水中花”と決めつけていたので、「みなもで咲く」とは何となくしっくりしないなぁ~と思っていると・・・・(沈黙)。
言外を察したのか「でもネ、湧き水が多くなったときには、花が水中に沈んでしまうの」と付け加えた。花は受粉を目的として咲くのだから、常時水中にいるもでないと心の中で、自問自答した。
間を置いて、TV画面では赤い花が見えていたので、「梅花藻は可憐な赤い花も咲く」と尋ねてみた。
「ピンクの花は、さるすべりの木の花だヨ。上流から流れてきたもの。流れを調整して、白い梅花藻に添ってこの花びらが自然に咲いているようにしているノ。綺麗でしょう」。だが、私は、敢えて写真に収めなかった。
「居醒の清水(いさめ)は、梅花藻を育てているが、美味しい醤油もそだてているヨ」と。
この女性は、程近くで、創業110年にもなる老舗の大女将であった。



入口で、保全協力金として 大人400円を徴収された。
受付の女性から半券も切りとらずに入場券を手渡され、「この券は来年も使える」と、分からないことを言われた。
取り敢えず、シャクナゲ渓まで自然歩道を歩いている内に、その意味合いが判ってきた。「昨年・一昨年は咲いていたが、今年は花の付きが悪い」との情報を写真仲間から得ていた。が、予想外の惨状に驚いた。
ここには、約4万㎡に2万本のホンシャクナゲが咲くとのふれこみである。
谷間一面に淡紅色に染め上げていると勝手に想像していたのだが・・・。
私の見立てでは、咲いている樹が50本も満たない。深い谷合の陽の当らないところで、わずかに花をつけていた。最も、立派な花をつけていたのは、シャクナゲ渓まで1㎞の距離を歩くまでもなく、皮肉にも入口の手前にあった。
手つかずの入場券を手渡したのは、誠意を示したかったのであろう。



余談になるが、山行している小生のシャクナゲの関わり方は、遠くからそっと観察するのではなかった。
自生しているシャクナゲ群落は樹々が絡み合い、行き手を阻む。かき分けかき分け、時には押し倒さなければ通り抜けない。このような淡紅色に染め上がった群落の中で、花弁に触れ、まじまじと見てきた。


