2011年06月11日   №10高島トレイル縦走踏破(乗鞍岳~黒河峠)

日付:4月29日(金)
山名:高島トレイル(乗鞍岳~黒河峠)
コースタイム: 
       愛発越(あらちこえ)9:00  乗鞍岳11:20  芦原岳13:10
       黒河峠 15:20

 今回第10回目高島トレイル(愛発越~黒河峠)が記念すべき最終高島トレイルとなった。イチゴ谷山が中央分水嶺・高島トレイルのきっかけになった。朽木の三国山から出発して愛発越(あらちごえ)まで80kmに及ぶ山旅となった。踏破した実距離は、毎回縦走路まで駆け登り、また麓まで下山しているので、3割増し以上。年月にして3年かかりだ。
 達成してしまうと、何か言いたいようで、何も言いたくない状態に陥るものだ。それでいて、辿ってきた景観が走馬灯のように駆け巡り、何を語ればよいのか落ち着かない。
 
”おぼしき事言はぬは腹ふくるるわざ”となり、結局選んだのがこの1枚の写真。駒が岳(高島)の蔓が巻きついたミズナラの樹 ←クリック

計画してくれた山の親友S氏には感謝している。以下に縦走してきた記録を整理した。 
イチゴ谷山・経ヶ岳・三国岳の山々の自然と暮らし

三国峠から桑原まで高島トレイル
第2回目高島トレイル(根来峠~三国峠)
第4回目高島トレイル(行者山~駒ヶ岳)
第5回目高島トレイルでやまひる(角川集落~桜峠)
第6回目高島トレイル(石田ダム~三重嶽)
第7回目高島トレイル近江坂・大御影山
№8高島トレイル(寒風~家族旅行村ビラデスト今津)
№9高島トレイル(三国山~赤坂山)
第10回目高島トレイル(愛発越~黒河峠)
残念だが、第3回目根来~百里ヶ岳は都合により参加していない。

 さて、滋賀県と福井県の県境である国境からスタートし、乗鞍岳を越えて黒河峠(くろことうげ)までを目指した。今回最終回であり、滋賀県にある乗鞍岳と言う名前からして、さぞかし素晴らしいところと期待した。だけど、電力供給用鉄塔が我慢ならないほど傍若無人に林立し、景観がぶち壊だ。
 
 ブナ林の林床には、イワカガミをはじめとして山野草が残雪を避けるようにあっちこっちに咲き始めていた。若いうぐいすが「ホーホケキョ」には程遠く「ホーホー・・・ケキョ」ともどかしく、まだまだメスを魅了するに至っていない。この未熟な鳴き声が巨像のような人工物に占領された深い森に響き渡っていた。うぐいすにとっては、この巨大な異物も分けへだてなく自然の創造物としての住みかとして辺りを飛び回り、さえずっていた。その事が、小生にとっては、より一層むなしく哀れに思えた。

 福井県嶺南地域(敦賀市、小浜市、美浜町、高浜町、おおい町、若狭町)には、原子力発電所14基、火力発電所2基が立地し、県内で発電された電気の大部分は関西方面に送電され、関西地区で消費される電気の約5割は、本県の原子力発電所から供給されており、これだけ原発が集中しているところは全国でここだけだ。そして、発電された電力は莫大な費用をかけて鉄塔や送電線を設置している。それも、人目に付かない滋賀と福井の県境の野坂山地を越えて何本もの送電ラインがあった。搦谷越から行者山の途中、粟柄峠、乗鞍岳~黒河峠。

一層のこと、地方に犠牲を強いるのでなく、ノンフィクション作家広瀬隆氏の危険な話「大阪(東京)に原発を!」ではないかと思った。





 出発点は、愛発越。ここは、7世紀半、近江国と越前国の国境に置かれた関所。東海道の鈴鹿関と 東山道の不破関とともに三関の1つで、現在、北陸への入口の国道161号である。愛発越の関跡は明らかではないが、敦賀市南部の旧愛発村付近と考えられる。

 国境スキー場の登山口が分らず、スキー場のゲレンデを進むことになり、いきなりの急傾斜の直登となった。ぶな林を通り過ぎ、北尾根から乗鞍岳山頂を目指した。2ツの電波塔の脇を通過し、周囲が刈り込んだ送電線鉄塔へ出て、芦原岳の到着。ここから送電線巡視路となり長い階段道を下っていくと猿ヶ馬場のブナ林へ。林道が越える黒河峠に着いた。後は白谷まで林道歩き。




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Posted by nonio at 06:40Comments(0)高島トレイル

2010年12月30日   №9高島トレイル(三国山~赤坂山)

 
日付: 2010年12月19日(日)
山名:三国山、赤坂山、寒風
コースタイム:黒河峠 10:00 三国山12:00 明王ノ禿13:15 赤坂山13:45
         寒風14:50 マキノ高原16:20
  
 高島トレイル縦走は三国岳を出発点して赤坂山付近までやってきた。これで9回目となり、後1回残すだけとなった。その間、メンバーもその都度少し代わってきた。今回は男2人対して女性5人の華やかな組み合わせとなった。 滋賀・福井県境の南部の野坂山地には、マキノスキー場から赤坂山へ、さらに足を延ばして三国山へとハイキングをする人が訪れ、春ともなると山野草を求めて、たくさんの人で賑わう山である。昨年、私も、黄色いスミレを求めて春先にきたこともある。赤坂山のオオバキスミレ

  前日からこの一帯には新雪が降り頻ったのであろう、この辺りは白銀の世界になっていた。黒河(くろこ)峠に向かう黒河林道は自動車の雪の轍(わだち)が上へ上へと続いていた。この轍に辿って進んでいったが、路面が凍てつきだした。トイレが完備された小屋まで徒歩となった。
 2名の運転手は下山予定のマキノスキー場に1台デポさせ、もう一台はアイスバーンが起こっていないところに駐車して長い距離を歩いて戻ってきた。この間予期せぬトラブルも発生して、遅めの10時出発となった。
 
  黒河越登山口から三国山へ入山している人の気配もない、全く手付かずの新雪の世界を独り占めできる機会に恵まれた。積雪量からしてそれほど厳しいラッセルではないが、一歩一歩新雪を踏み固めなければ進めなかった。ただ、吹き溜まりではずぼっと40~50cm踏み込むこともあった。 
 
 出発した時は、辺りが霧に包まれ視界も悪かったが、高度を上がるに従って霧が消えて見事に晴れ渡った。おまけに常時日本海側から横殴りの強風が吹き荒ぶところであるが、奇しくも風も凪でこの上ない雪山登山日和となった。なお、雪崩の危険がなかったが、辺りを注意しながら進んだ。

 黒河峠から三国山(876.3m)山頂の間、無積雪であれば、標準で1時間程度であるが、雪に手間取り所要時間が倍増してしまった。三国山山頂で丁度、12時となり、しばし休息を兼ねて昼食にした。熱々のヌードルをすすった。やはり、冬場は熱い食べ物が何よりのご馳走であることを知っている山仲間は、全員ヌードルであった。
 頂上は潅木林に囲まれていて、東側のみ開けていた。穏やかに晴れ渡った伊吹山や最終地点乗鞍岳の冬景色を堪能しながら、口々に「最高」を連発していた。

 雪が無ければ気づかなかったのだが、動物が縦横無尽に振舞っている足跡が見られた。獣なりに用事があったのであろう、あっちこっちと歩き回っていたり、獣道からこの山道を通っていつの間にか獣道に去っていった。獣の気ままに動いている様子が手に取るように分かり面白かった。足型からすると鹿、ウサギのようだ。

 午後からは先頭の負荷が厳しいので、100歩ごとに最後尾につき2番手が先頭につく体制に切換え進むことにした。潅木林の深い積雪帯を抜けて、ガレ場の奇岩が林立する明王ノ禿と呼ばれている独特の風景をしたところにやってきた。ここを回り込むようにして明王ノ禿の上部にでた。目の前に、なだらかな赤坂山が広がり、その背後には辿ってきた山々が澄み渡り眺める事ができた。これほど霞みもなく遠望できる日は滅多にない。



 ここから、境尾根を通って鞍部に降り、一気に登り返して「赤坂山」を目指した。この辺りになると踏み跡も見られ人が入山してきている気配があった。
 
 この上り坂で、2人連れと出合った。人に会うのは初めてである。「これからどちらへ」と尋ねると
「三国山から黒河峠へ向かう」と言っていた。
雪の様子など不安げに聴いてきたので、「この辺りより積雪量がかなり増える」と返事をした。
2言と3言であるが、山ではお互いそれなりの苦労もあるので、親近感がわく。

 最後の急勾配の坂を登りきると赤坂山(標高823.8m)の山頂に出た。誰一人といない寒々とした山並み広がり、無風で静寂であった。

 振り向くと、今し方雪に悩まされた三国山の頂が遠望でき「ここまで来たのか」との想いに深けた。既に太陽も傾きかけ人影も長くなってきていた。心持ち気も焦りを感じはじめ、自ずと行動も早まった。

 急ぎ足で下って行くと何本もの送電線の鉄塔がある粟柄(あわがら)峠に出た。この峠は、若狭と近江を結ぶ交易路として海産物や木炭を運ぶ重要な峠道として明治まで利用されてきた。人馬が荷物を背負って往来した古道である。ここは、標高770mの高所にあり、冬季に雪が降り、強風が吹きぬけ旅人も苦しめた粟原越えであった。

 現在、この道は美浜町新庄の嶺南変電所から送られてきた送電線の鉄塔の巡視路として使われているようだ。若狭側に細々と続く道端で関西電力の作業者数名が、寒空のもとで保守作業を行っていた。我々は声をかけることもなく、先を急いだ。分水嶺の尾根を南下し寒風に向かった。

  下りから緩やかな上りを辿った。阿弥陀頭の裾野を左に回り込んでその先の大塚P841mへと上りが続いた。この辺りになると積雪量も少なく歩きやすく足が雪に潜ることは殆どなくなった。
 
 太陽が西の山の端へと近づき、雪面に落とした人影は、益々長くなっていった。寒風から下山する尾根が見え始め、やっと分岐点の道標にたどり着いた。
 全員が揃うまで時間があったので、寒風を通り過ぎ、長大な尾根筋の近江坂が見えるところまで足を進めた。前回大谷山側から楽しみにしていた風景であったが、雨雲のため、見損じたところである。

 寒風から縦走路を外れ下山にかかった。雪もなくなり、後1時間程度で山麓へ戻れるところまで下ってきた。ここまで来ると安堵感も漂い、それぞれが辿ってきた風景を思い浮かべながら、眼下の暮れ行く琵琶湖に目をやっていた。

 マキノスキー場に出てきた時には、すっかりと夕暮れとなり、辺りが見え辛くなっていた。
 今日は雪山を満喫できる一日となった。


 

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Posted by nonio at 12:10Comments(2)高島トレイル

2010年11月24日   第7回目高島トレイル近江坂・大御影山

  
日時    11月03日
山名 高島トレイル(三重嶽~大御影山)
コースタイム 河内谷林道ゲート前 8:40 三重嶽登り口 9:10 三重嶽 10:40
       北尾根P943 11:15~11:45(昼食)  P889 12:20
       大日尾根分岐 12:45  大御影山 14:00  近江坂林道14:50
       河内谷林道ゲート前16:10

 いよいよ、高島トレイルコースの滋賀県北西部最深部になる大御影山(おおみかげやま)にやってきた。三重嶽から北尾根を通り、大日尾根から大御影山と、続くコースだ。
 高島市河内谷林道ゲート前に車を駐車して、尾根筋を一周縦走してもとに戻ってくる長距離。今回メンバーに新に一人が加わった。I氏は大日尾根から三重嶽の間で激しい藪に阻まれ前進不能に陥り、引返したことがあった。平成17年(2005年)「中央分水嶺 高島トレイル」が誕生する以前の話である。彼はこのリベンジのためやってきた。

 さて、近江坂は、若狭の「能登野」と近江の「酒波(さなみ)」をつなぐ長大な峠道である。なぜかこの道、近江峠とは言わない。なだらかな頂上を持つ大御影山を山越えしていくのだが、上りと下りがはっきりせず、「峠」と言いにくかったのであろうか…近江坂と呼ばれている。
 30kmにおよぶ馬道で江戸時代以前から通行していた古道である。明治以降、軍の地図に「近江坂」の名が載り、その後、こう呼ばれるようになったようだ。

 三重嶽の頂上に向かう途中、東側の方向にこれから訪れる近江坂と大御影山の緩い稜線が望めた。 この近江坂、これほど一直線に長々と延びている様は珍しく、際立っていた。造形品のように美しい。私にとっては、高島トレイルの地形の中で、強く心に残る情景であり、望外の出合いであった。

 
 
 三重嶽の頂上に辿るルートは、色々あるが、河内谷林道から登ることになった。この山、四方に大きな尾根が張り出しているが総て辿ることになった。

 奥深い河内谷に入るには、箱館山スキー場を経由する道路が、最も近道となる。しかしながら、途中で土砂崩れのため引返さざるを得なかった。仕方なく「家族旅行村ビラデスト今津」を迂回し、河内谷林道ゲートにたどり着いた。

 渓谷沿いの施錠がかけられたゲートの向こうは、別世界のように思えた。そこは、誰一人居ない、何か恐れ多いところでもあり、人をよせつけない雰囲気があった。出発前には、「元気で戻ってこられるだろうか」との不安になり勝ちで、より一層そう考えてしまうのかも知れない。
 
 谷底に漂う凛とした冷たい空気は、紅葉の時期も早め、渓谷を彩る樹木は、色とりどりになっていた。30分ほど渓流沿いの河内林道を辿っていくと三重嶽登山口の標識があった。本谷橋近くに、三重嶽への正式な登山路があるが、手前の能登又谷ルートから頂上を目指した。

 標識が立っている割に、入口辺りは、木が伐採されたまま放置され、踏み跡が分からないほど状態で荒れていた。出足をくじかれたが、方向が分かっていたので、辛抱しながら登っていった。その内、急斜面に補助ロープも張られた登山道に出た。
後は、登山路が頂上まで導いてくれた。

 このルートあまり登山者に利用されていないが、登山路周辺には「しゃくなげ」が、広範囲に群生していた。来年開花の準備のためか、大きなつぼみも見られ穴場かもしれない。

 尾根に近づいてくると強い風が吹き込んできた。辺りの潅木も横倒し気味になってきたので、頂上が近いと肌で感じ取った。 頂上直下に「本谷橋1.7km」「落合4.3km」分岐点の標識を確認し、続いて三重嶽頂上(974m)に立った。

  三重嶽山頂から、西方向に進むと、武奈ヶ嶽と大御影山との分岐があった。標識には大御影山まで6,1km。これからいよいよ、縦走路の稜線歩きとなった。
 視界に草原が現れ、その向こうには山々が広がっていた。遮るものがない尾根筋は、日本海から強い風が容赦なく吹き付けてきた。潅木の葉っぱは、風にもっていかれ、幹だけの丸裸にされていた。下草も枯れかけて、平地より一足早く冬支度の殺風景な様相に変わりつつあった。

 
 視界のよい尾根筋を進んだ。P887mから大御影山は横に見えるが、河内川の本谷が深く食い込んできているので大日尾根まで行き、大きく回り込まなければならない。このため三重嶽山頂から大御影山まで標準時間で3時間の長丁場になっていた。大御影山には反射板が設置されており、光ってよく見えるので、当面の目印となった。ルートによって遠ざかって見えたり、思わぬ方向に見えたりして思うようには近づかない。はがゆかった。

 P943mからP889には小ぶりのブナが、はいつくばるように密集していた。このあたりヌタ場がいたるところにあり、動物の足跡もあった。

 仲間のI氏が言うには「どうもこの辺りが、以前通過できなかったようだった」
現在は高島トレイルで山道が整備され問題なく通過していった。 

 P858を過ぎるとすぐに大日尾根分岐にやってきた。それまでの道とはうって変わって急に道が良くなった。ここは近江坂という、かつて人々が良く使った道だ。一旦鞍部まで下り、大御影山まで登り返しとなった。道はしっかりしており、下草の生える潅木帯を辿っていった。これまで誰にも出会わなかったが、夫婦二人連れに出会った。「これから、三重嶽を目指す」と言っていた。

 2言~3言交わすだけだが、親近感を覚える。彼等の道程がこれから長いことを案じながら、穏やかな上りをゆっくりと登っていった。電波塔に着き、そこから大御影山に予定時間どおりに到着した。 
 
 大御影山で一休みして、下山にかかった。昔から良く踏まれてきたU字状に抉れた道が続いていた。昔、600巻の般若経典が運ばれていったと言う歴史を感じながら、気持ちの良い林に囲まれた尾根道をどんどん下って行くと、中木の明るいブナ林帯に入っていった。すでに紅葉も始まり山道には落葉が積もり踏みしめると「カサコソ」と鳴っていた。

 この近江坂は、「家族旅行村ビラデスト今津」の平池から、森林浴であり、ブナ林の観察にと訪れるひとが多いようだ。 樹間から西側を望むと、いましがた歩いてきた三重嶽の山塊がそびえたっていた。しばらく進むと、近江坂分岐にきたが、抜土へ行かずに、そのまま林道へと急いだ。

 近江坂林道に下りてきたのが、14時50分。ここから河内谷林道を通ってゲート前までかなりの距離がある。自動車が通る林道であるので、むやみと急勾配がとれず一定の勾配がつけられた道路がうねうねと続いていた。
 挑戦が終わり、今見てきた、あれこれの風景を思い返しながら重い足取りであるが、歩み続けた。すでにいくらか太陽が沈み加減になってきた。ただ、11月に入ると「つるべ落としと」と言い。釣瓶が井戸にストンと落ちていくように、西日が一気に沈み、あっという間に暗闇になる。歩みも自然に早まった。



 
 








Posted by nonio at 16:17Comments(0)高島トレイル

2010年10月20日   第6回目高島トレイル(石田ダム~三重嶽)

日付2010年10月7日(木)
山名 武奈ヶ嶽・三重嶽 
コースタイム 石田ダム8:00 武奈ヶ嶽10:30 水谷 11:50~12:30
       三重嶽 13:20 P844m 14:00 林道(落合) 15:00
       石田ダム 16:00  

 高島トレイルの山行きについては、今年6月19日(土)角川集落~桜峠以来ずっと中断していた。これには理由があった。ひとつは、水坂峠付近で「やまひる」に襲われたことだ。もうひとつは、親友S氏の心労があった。彼の同僚が山の遭難死により何回も捜索に加わり、心身の疲労が激しかった。最近になって、「やまひる」に襲われることがない季節になり、彼もやっと心も癒えて山に行く気になり、誘ってきた。 

 第6回目高島トレイルは石田ダムから武奈ヶ嶽・三重嶽を挑戦することになった。標高974.1mの三重嶽は、高島トレイルコース上の最高峰である。 
武奈ヶ嶽・三重嶽地図←クリック

 この山を目にしたのは、昨年6月であった。家庭旅行村ピラデスト今津を訪れ、処女湖から石田ダムに向けて、通り抜けた時であった。石田川沿いの切り立った崖にしがみつく様な道路の脇に三重嶽、武奈ヶ嶽登山口の標識を見かけた。急峻な谷間の合間から見え隠れする峰々に対して、どこを手掛かりにして山頂を目指すのかと戸惑いさえ感じた。さらに、数十頭の猿の群れに行く手を阻まれ、ここは奥深い山峡であるとの印象を持った。

 さて、武奈ヶ嶽・三重嶽について、草川啓三氏は語っている。
「滋賀県の山の番付なるものを作るとすれば、この三重岳は三役ぐらいには絶対に入れたい山である。‥‥千メートル以下でまっさきに思い出すのは三重岳だ」と褒め称えている。この山は滋賀県湖北の県境にあるゆったり広がる頂上から四方に大きな尾根を延ばし、谷は険しく切り込んでいて、標高千メートルに満たないのに、近寄りがたいような雰囲気を抱かせた孤高の山である。

 この表現からすれば、山岳雑誌にも当然案内されるべき山である。が、山と渓谷社の分県登山ガイド(全47巻)の「滋賀県の山」には、武奈ヶ嶽・三重嶽(さんじょうだけ:さんじょうがだけ)が記載されていない。私には全く解せない。多くの登山者が手にしている本であるゆえに、不思議でならない。
 
 石田川ダムは、石田川沿いの洪水被害の軽減とかんがい用水の補給のために、石田川の上流に建設したダムである。
昨年6月20日(土)訪れた時と同じく、ダムには水がなく湖底が見えていた。 最近、ダム建設などについて知事を巻き込んだ議論がされているので、余計に、このダム、本当に機能しているのであろうかと疑問を持ってしまった。


 

 登山口を捜しながら石田川ダム駐車場を出発した。左側の急な斜面に作業道らしき道跡があったが、そのままやり過ごしていくと、『武奈ヶ嶽登山口』の道標が立っていた。  杉林内のジグザグの急登が始まった。支尾根に取り付くが急登には変わりない。小さな平坦地なP588m標高をいつのまにか通り過ぎていた。少し緩斜面をゆっくりと登っていくと、すこし広がった頂上部が見えてきた。見通しもなく何処が山頂だかはっきりしない三角点のある赤岩山だ。

 ここは、前回角川集落から登ってきたルートとの合流点だ。今回のコースは、武奈ヶ嶽を通過して三重嶽へ向かう最短コースをとったので、距離は前回と比べて半分以下に短縮された。だが、その分、急登になったようだ。 
ここで一息入れた。 →地図をクリックすると拡大

 赤岩山から少し下り、すぐに登り返しで、高島トレイル縦走路に入った。急な登りから開放されたが、武奈ヶ嶽頂に向かってまだ登りが続いた。振り返ると、予報どおり晴れ渡り、山並み越しに湖北が広がり、対岸沿いの陸地線さえ見られた。


 武奈ヶ嶽の頂上は潅木に囲まれて展望がなかったので、少し休憩をして出発した。今度は、左手に展望が広がった。若狭の海が見え、はるか遠くに一際飛びぬけた青葉山がくっきりと見えた。正面にはなだらかな稜線の三重嶽が、眼前に広がった。この一帯はどことなくのびやかだ。
 左横の山並みの続きに 轆轤山、三十三間山がみえた。轆轤(ろくろ)と云えば木地師の領域の世界である。8月には、訪れる予定であったが、雨で流れてしまった。次にいつ往けるか分からないので、山容をしっかりと眺めておいた。この山に思い入れがあったので、素通りするのは名残惜しかったので。

 

  水谷分岐で昼食をとった。昼食後20分ほど進みP855mを通過後、三重嶽頂上付近が見えてきた。さらに左に大日・大御影山(近江坂)に向かう分岐を見送り、頂を目指した。

 三重嶽と呼ばれるのは、3ケのピークがあるからだと言われている。確かにこれが最後の頂と思っても次々ピークが現れた。三角点のある東の端までやってきた。以前既に来た仲間は、「この辺りに、ヤグラが組まれていた」と言っていたが、ピークには何もなかった。

 三重嶽の山頂付近は、なだらかな形状だ。やってきた太尾尾根、真っ直ぐ南下する南尾根、少しだけ、東よりの東南尾根、さらに北に延びる北尾根があり、まさに四方八方に尾根を延ばした雄大な山容であることが判った。
 
 下山道としては、東南尾根を選んだ。頂上のすぐ下の標識には「本谷橋1.7km」「落合4.3km」と書かれた分岐点があった。後者を選んだ。河内谷と間谷の間にある長い尾根筋だ。

   この時期になると、秋の実りが見られた。後で確認してもらったのだが、キノコはクリタケらしい。煮物、炒め物、汁物、天ぷらなどオールマイティらしい。ナメコも腐った木に少しだが付いていた。
 道端には山栗が広範囲に落ちていたが、中身は無くイガだけだ。ぬた場もあり、ここは獣の生息地であるようだ。

 下ってくると深く掘れた山道も見られ、また杉の植林もあり、昔から使い込まれた道であった。この道は、人里からかなり離れたところに付けられた山道であるが、意外にも山人に踏み込まれた作業道のようだ。地図のP844、P762を確認しながら、どんどん高度を下げていった。このルートは高島トレイルから外れているので、黄色でなく赤テープであったが、しっかりとルート上に付けられていたので、迷うことはなかった。




 最後はP592mの腹を巻いていくと、石田川の谷を騒がす水音が聞こえ出し、眼下に林道が見えた。
 山頂から下山に要した時間は1時間40分。林道に到着したときは全員汗まみれになった。平坦な場所になって「やっと終わった」との実感を持った。身支度を整えてから、林道沿いに歩き、ダムサイトの駐車場に戻って行った。






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Posted by nonio at 12:04Comments(0)高島トレイル

2010年07月04日   第5回目高島トレイルでやまひる(角川集落~桜峠)

日付 6月19日(土)
山名 第5回目高島トレイル(角川集落~桜峠)
コースタイム 角川集落 8:30 赤岩山 10:00 P620 10:30
         水坂峠11:30~12:00 二の谷山 13:05 桜峠 14:15 
         搦谷越(桜峠) 15:00
高島トレイル地図
 
 既に梅雨入りとなっていたが、その合間を縫って高島トレイルに挑んだ。今回のコースは、あまり知られてない地味な山並みが連なっている。特筆する事もないが、あえて言うならば、二の谷山が高島トレイル縦走路80kmの中間点になっている。我々縦走している者にとっては、記念すべき地点になる。しかし視点を変えると、何の意味もない地点だが…。

 ところで、愛用のカメラを忘れたため、携帯電話の内蔵カメラで写す破目になった。写した画像の撮影サイズ1600X1200ドットの高画質に選定した。容量オーバーによりEメールでの送信が拒絶されてしまった。無論、画像の縮小操作もできず、行った証しになる画像があるが、取り出せないもどかしい状況に陥った。

 要するに、「携帯電話の内蔵カメラで写した画像をパソコンに取り込みたい。それを安価で」これだけのことだが、私にとっては中々厄介なテーマになった。携帯取扱い店、家電・パソコン・ホビーの大型専門店などに問い合わしたが、もうひとつ要領が得なかった。マイクロSDメモリカード、USBケーブル、挙句の果て赤外線通信まで…的確な答えが得られなかった。

 右往左往したが、携帯用マイクロSDメモリカードを800円程度で購入すれば、SD変換アダブタも付いていることが判った。ここがミソだ。メモリカードは非常に小さいので、PSとの差込に苦慮していたのだ。
 まず、取扱説明書に従って、画像データをマイクロSDメモリカードに送り込み、これを携帯電話から取り外し、パソコンの差込口に直接メモリカードを差し込めないので、SD変換アダブタを介してPCに差し込む。たったこれだけのことだが、相手が素人と思うと店員は大袈裟にあれやこれやと売りつけてくる。真に煩わしい。
 誰一人として、SDメモリカードを購入した時、SD変換アダブタが、付いていることを教えてくれなかった。

 前置きはこのぐらいにして本論に戻ろう。
 まず、今津町角川集落から赤岩山(標高740m)を目指した。取り付き点が判り難く、ウロウロしていると、地元の人が、光明寺脇にある道を教えてくれた。踏み跡が不明瞭であったが、そのまま植林帯を登っていくといつの間にか、踏み跡もハッキリした山道になった。この道は、地元の人達の作業道であったようだ。
 P457を通り急登を昇りきると三等三角点の赤岩山に出た。石田ダムから登ってくる登山路と合流していた。ここは、展望が利かないただのピークであった。更に、高島トレイル縦走路にある赤石山西峰(730m)の出会いに出た。

 ここから水坂峠へと高度を下げていく縦走路に入った。辺りは見晴らしがよいが、あいにく曇空のため、辺りの山並みの全貌が見えなかった。黄色いテープを頼りに、岩場を通過し、程なくP620のピークにやってきた。
 少し休憩後、更にアップダウンを繰り返しながら高度を下げていった。国道303号線の水坂トンネルの上に達した。植林帯で枝葉が伐採されたところで、嫌な予感がした。「キャー」と言う悲鳴と共に「やまひる」との叫び声が聞こえた。高島トレイルで「やまひる」に襲われた情報もなく、ヤマヒルノック忌避剤などの準備もせず無防備であった。

 急いで水谷峠の舗装道路に出た。そこで、全員山靴を脱ぎ、靴下も脱ぎ捨てた。足回り、腕、顔と体中チェックし、建て直しを図った。
 
 私は、2箇所に喰いつかれていた。足、耳の後から血が止まらない。 山ひるは、前吸盤の中央にある歯で皮膚を傷つけ、血液を固まらせない物質を出し、また痛みを感じさせないで吸血してくるので、たちが悪い。

 ついに、「やまひる」の恐怖に慄き何人かは下山することになった。ここ水谷峠は、国道303の水坂トンネルができる前の旧道である。この道路を下っていけば、安全に今津町保坂に出るので、ここで2班に分かれて行動することになった。

 余談になるが、ここだけの話として、植林帯で枝葉が伐採されたところを通過する時は、「やまひる」が生息していると考えた方がよい。グループで行動していた場合、先頭より、2~3番手がやられ易い。兎に角、止まらない事。早足で通り抜けることだ。

 気を取り戻して、国道303の旧道沿いの「二ノ谷山登山口」道標を辿っていった。 この山は、標高608mの地味な山並みで送電線巡視路を目印に登られていた程度の山であるが、東側は石田川から琵琶湖へ、南側は寒風川から北川となり小浜湾へと太平洋と日本海を分けているれっきとした分水嶺線上にある山だ。

  小さなコンクリート製の施設がある登山路を通り、高圧鉄塔からP480m標高点まで一気の急登になった。「やまひる」に注意をめぐらしながら登っていくと、「すずめバチ」の表示により一層緊張が走った。できるだけ脅かさないようにしながら登り切った。ここから、南方向に進んだ。黄色のテープに誘導されながら、小さなアップダウンの稜線を進むと「板戸の鎧岩」と書かれた道標に出会った。

 最後の山頂稜線を登り詰めると山頂手前の道標(左方向桜峠、右二の谷山山頂)が立っていた。更に山頂に到着。この頂は、一方が自然林、反対側にヒノキの植林で覆われ、三角点の標石があるだけの平凡なものであった。だが、ここが高島トレイルの中間点であることを意識した。

 少し、息を整えるため一休みして、P545・桜峠に向かって下山を開始した。高低差のない台地状を進んだ。  右手が植林、左手が雑木林の歩き易い尾根が続いた。途中何ヶ所かのテープを確認しながら歩いているとP477m標高点の尾根を過ぎた辺りからそろそろ下降すると思っていたら、眼下に、禿げ上がった採石場跡が見えた。
 
 先頭のグループでは、数頭の鹿を砂採場で発見したようだが、我々に気配を感じたのか後続者には確認できなかった。急で脆い山道を気をつけ下っていくと、国道を車の行き交う桜峠に到着。 国道の向こう側に湖西環境センターの立派な建物があった。

 二の谷山を通過した時には「やまひる」には襲われなかった。したがって、国道303の水坂トンネル周辺だけに生息していたようだ。

 りーダの友人S氏は、疲れ気味であった。どうしたと尋ねると「先日、射能山(しゃのうざん=通称ブンゲン)で遭難事故があった。行方不明者は、以前同じ職場の同僚であったことを知り、捜索に2日間加わった」と憔悴していた。彼は、改めて単独登山の危険性を語っていた。

 




Posted by nonio at 18:08Comments(0)高島トレイル

2010年05月26日   第4回目高島トレイル(行者山~駒ヶ岳)

 山名:№4高島トレイル(行者山~駒ヶ岳)
日付: 2010年5月16日(日)
コースタイム:野洲駅6:20 桜峠8:30 からみ谷越え9:00 行者山 10:00
       横山峠10:30 P693 11:30 池原山分岐 12:00
       山上の池 12:20~13:00  駒ヶ岳13:30~13:50
       池河内越14:30  木地山BS15:40
高島トレイル地図
 山仲間S氏主催の№3高島トレイル(百里ヶ岳)は、都合がつかず断念。№4高島トレイル行者山~駒ヶ岳を経由して池河内越から下山するコースに参加した。
 かって、この辺りに入山するのは、地の山人か、中級以上の岳人しか訪れることがなかったが、今は、全長80kmに及ぶ高島トレイル縦走路が整備され、誰もがハイキング気分で入山できるように黄色いテープもつけられた。
 我々は野洲駅で3台の自動車に分乗し、朽木新本陣から国道367号を通り、搦谷越(からみだにごえ)から入山した。
高島トレイルは山深いところである。それにしても交通の便が悪い。運転手さんはご苦労さんだが、下山場所、木地山バス停に自動車を配置しなければならない。

 彼等が戻ってくるまでの間、桜峠手前から搦谷越まで平坦な自動車路を「ぶらぶら」進んだ。この辺りは、空気も澄み、日本離れした光景が広がっていた。

優しい黄緑色の草越しに整然と並んだ木々が僅かに青味かかり濃い緑色を呈していた。自然が放つ色彩は素朴だが心に触れる。その上、人気もなく、我々だけだ。
 
 
 運転手が戻ってくるのを待って出発していった。関西電力の若狭幹線甲・乙2本の鉄塔付近で、目指す行者山を捕らえた。写真では、なだらかな山頂が遥か遠くに見えるが、ここから右手に回り込みながら約1時間の行程だ。
 今回の最高峰の標高は駒ヶ岳780mだが、まずは行者山(587m)を目指した。登山入口との標高差310mは、たいしたことはない。
 
 今回の中央分水嶺のコースは、南北に若干蛇行しており、ルート間違いを起こす可能性がはらんでいたが、その通りになった。

 メンバーの中に何人かは読図できる。シルバコンパスで、行者山に目標をセッテングし、リングの矢印を地図に書き込まれた磁北線に合わした。グループ全体で行動しているので、ルート間違いが生ずると誰かが言い出し修正しながら進んだ。ところで、小生は本能的な勘だけだ。
 少し手間取りながら、行者山の頂上にやってきた。三角点が設置されている事からすると、当時は測量が出来、展望もよかったと思われた。今は薄暗い植林地帯の真ん中にあった。

 出発してから1時間半で、横谷越にやってきた。横谷林道は麻生と椋川を結ぶ生活道らしく舗装路になっていた。横谷峠は山を掘削し、深い切通しになっていた。ここを通り越すには、今までやってきた地形と異なり急下降・急登を強いられて、歩くリズムが狂ってしまった。息を整えながら、横谷峠(450m)P693m、池原山分岐P744mと小さなアップダウンを繰り返しながら、少しずつ高度を上げていった。P693m辺りの尾根筋では、ブナなどの自然林もあるが、植林もされていた。


  駒ヶ岳西尾根辺りから百里ケ岳がくっきりと見えた。どこから見ても目印になる山だ。
「 百里ケ岳」の山名は、百里離れたところから見えると言うのか、百里が見渡せると言うか分からなかったが、一等三角点も設置されており、どうも頂上から百里四方が見渡せるというのが名の由来のようだ。
  尚、一里と云えば4㎞であるが、相当な距離になる。昔の一里は大体430m前後とも言われ、これ以上だとも言われ諸説が入り混じっている。すると、どの辺まで見通せたのであろうか…。地名には百里に1里遠慮した千葉県の九十九里浜もある。この方が奥ゆかしい。

 「福井の山」著者増田迪男氏によれば、百里ケ岳はもともと木地山と呼ばれていた。明治20年福井県全図にもこの山は木地山と記入されていると指摘されていた。
 百里ケ岳の東側には、木地山峠、麻生川沿いの木地山バス停、ろくろ橋などの地名があることから、木地師達が、鈴鹿山地からやってきて住み着いたのであろう。この辺りの木地山に分け入りお椀、盆などの木材を求めたに違いない。蛭谷集落の一軒で丸電球の下で懸命にロクロを回している老人を思い出した。日本コバ周辺を探索

 池原山分岐から少し進むと、山上の池にやってきた。この池には数年前ブログ山の花さんに連れて来てもらったことがある。
 木々が水面に映る幻想的な様子は以前と少しも変わりなかった。変わっていた点は、以前はモリアオガエルの卵が水面上にせり出した木の枝に白い泡の卵が付いていた。今回は、産卵した気配はない。まだ繁殖時期になっていないのだろう。モリアオガエルの姿が見えないが、あちこちから静寂を打ち消すようにしきりに鳴き、辺りに響いた。もう直ぐに恋の時期になるのであろう。

 ここは海抜670mにある僅かな水がある池である。鬱蒼としたブナ林に囲まれ、涸れることなく自然湧水がある好適な条件が揃いモリアオガエルが生息していた。いとも簡単に壊れそうな小宇宙ではあるが、健全な姿を保っていたのでほっとした。このまま通過するのも惜しいような雰囲気である。景色を楽しみながら昼食となった。



 かってブナは本州中部から東北地方の大部分を広く覆っていた。だが、ブナの木は木偏に無と書き、「役立たず」を意味し、多くが伐り倒され替わりに檜や杉などが植林された。現在では伐り倒した木を運び出すのが難しい山地のブナが僅かに残っている。ここ、駒ヶ岳周辺にはブナ林が残され、大木が育っていた。

 3月22日(月)の積雪期、高島トレイルに訪れた時のブナの枝先は赤く見えていた。冬芽は茶褐色の芽鱗(がりん)に覆われていた。一部芽鱗の色が明るくなり、膨らみ出す気配が感じられる程度であった。
そして4月28日、№3回目高島トレイルで、この辺りにやってきた仲間の話では、まだ僅かな若葉であった。
 それが、今回、5月中頃になると、尾根全体が新緑に包まれた風景を見て驚いていた。芽吹きした萌黄色の葉が、日の光に輝き、風雪に耐えてきた樹木は一挙に春を謳歌していた。

 分水嶺の尾根を辿ってきたが、池河内越から木地山集落に向かっている尾根に乗って下山にかかった。少し下ったところに、ワイヤーが幹に食い込んでいた。炭焼きなどの伐採時、そのままにしておいたものだろう。
 
 このルートは、補助的なものと思っていたが、地元の人達が使い込んだ作業道のようだ。歩きやすくどんどん下っていくと、簡易な木の鳥居が建っていた。もう集落が近いと思っていたら、林道が見えた。

 予定よりかなり早く朽木麻生の集落に下山してきた。ここには、高島市営バスの最終地点。2人のおばあさんが出迎えてくれた。「そこに、谷から引いてきた水を呑みや」 と言いながら話しかけてきた。    
 家の前に備えられた縁台に座って毎日、長話をしているようだ。

 「最近、鹿が出てきて、畑の作物を食い荒らす」話から「昔は、ここには、細い道でした。朽木にはあまり行かず、朽木麻生集落の人達は、木地山峠から上根来を通って小浜に魚を買いに行った」「五右衛門風呂の入り方」「冬2mほどの積もった暮らし方」など次から次と話しかけかけてきた。
一方、おじいさんは、老犬を相手にしながら、まだ明るい内から、マキをくべながら五右衛門風呂を沸かしていた。
 
 ここで刻まれる時間は、格別「ゆるり」とした別次元の世界だ。









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Posted by nonio at 11:54Comments(4)高島トレイル

2010年04月11日   第2回目高島トレイル(根来峠~三国峠)

  第2回目高島トレイル(根来峠~三国峠)
日付 3月22日(月)
距離 約8km
コース 焼尾地蔵堂 9:00 根来峠 9:40 おにゅう峠10:20
    P659 11:10 オクスゲノ池 11:40~12:20
    P709 12:50 三国峠 13:45 針畑ルネッサンスセンター15:30 
高島トレイルマップ 第8区分~第9区分

 高島トレイルで問題になるのは、目的地に行くまでのアクセスである。
朽木と云えば人里から離れた場所にあると思われている。が、朽木生杉(おいすぎ)はさらに奥深いところである。
 この集落は、滋賀県の西北端に位置し、山間地であるがいくらか平地を持った中心的なところである。針畑川に沿って、平良・桑原・古屋の集落が続き、最も奥深いところだ。ここは、福井県・京都府と滋賀県を走る中央分水嶺の山々百里ケ岳・三国岳などにはばまれている。  
 
 この辺りの集落歴史は、奈良時代、東大寺の建築用材がこの地域から運びだされていた記録もあり、また昭和の中頃、杉の造林が盛んになり、林業がこの辺りの生活基盤になっていた。生活を営むため、中央分水嶺をまたぐように山道が切り開かれ、かって、盛んに往来があった峠がいたるところに残っている。その中の根来峠・おにゅう峠・ナベクボ峠・三国峠を訪れた。 

 針畑ルネッサンスセンターからおにゅう峠に向かう林道は直ぐに地道となった。前日降雪したのであろう。辺りは薄っすらと白くなり、凍てついていた。焼尾地蔵堂までやってくると林道はアイスバーン状態になっていたので、おにゅう峠まで、行かずに、焼尾地蔵堂を出発点とした。今回の計画では根来峠・三国峠間を目指していたので、三国峠(ポイント26)近くの林道ゲート休憩舎に1台自動車をデポさせておいた。



  
 左の写真は「おにゅう峠」。左の写真は「根来峠」。高島市の針畑地区と福井県小浜を結ぶ峠道、所謂、鯖街道である。

   
 2003年10月、滋賀県の朽木村小入谷と福井県小浜市上根来を結ぶ「林道上根来・小入谷線」は、生活道や観光道として期待され開通した道路である。峠の名前が「おにゅう」と平仮名なのは、「new」に「お」をつけのではなくて、滋賀県側の小入谷(おにゅう)と福井県側の遠敷(おにゅう)と双方の呼び方から洒落たネーミングがされたと聞く。最近、ここの雲海が新聞でも紹介されたことから、多くのカメラマンが訪れるようになった。今日も爆音を発てたバイクが2~3台やってきていた。

 我々チームは、無粋にも山肌を容赦なく切り開かれた林道には全く興味もなく、できるだけ早く鯖街道を辿りたいと思った。残念ながら、林道は、根来峠に通ずる古道に並んで付けられていたので、否応なしに林道と共にしなければならなかった。
 
 辺り一面雪に覆われ肌寒いが、薄日も射してきて、気持よいスタートとなった。林道に割かれた古道を見つけ出し根来峠へと向かった。

 谷間から百里ケ岳がくっきりと見え何年ぶりかの再会である。「百里」は一度聞くと忘れない山名である。百里離れたところから見えると言うのか、百里が見渡せると言うのか定かでないが、ヒトを惹きつける良い名前だ。この付近で標高900mを超える部類に入り、目印になる山だ。

 後を振り向くと、山並みが幾重にも重なり、最も遠くに見えるのが、山の容から比良連峰であることが分かった。
 雲海を見たことがないが、10月頃になると、谷間を雲が埋め尽くす光景が容易に想像できた。

雑木林を進んでいくと根来峠にやってきた。
 
 現在では、この峠を使って小浜までいって、用を足すヒトはいないだろう。だが、峠にはお堂にお地蔵さんが祀られていた。出発点の花が生けられていた焼尾地蔵堂といい、この根来峠の地蔵さんにも赤いエプロンを着せられ、地元のヒトに今尚、大事にされていた。

 歴史ある峠には、地蔵さんを見かけることが多い。通行する人々の道中の安全を願い、村の外的の禍から守る意味も込められているのであろう。小生、信仰心は持ち合わせていないが、素朴な地蔵さんには、つい自然と手を合わせてしまう。
 一休みして、おにゅう峠に向かった。峠には、山を無造作に削り取った林道に、とってつけたような真新しい地蔵堂と石碑が立てられていた。辺りの風景と馴染まず、むしろより殺風景にさえ感じられた。
 
  おにゅう峠に別れを告げて、ブナ林の尾根伝いの県境縦走路に入った。 まだ、シーズンオフなのか、このコースを辿るチームと出会うことがなかった。
 歩き易い山道を辿っていくと、若木から大木のブナが次々と現れた。すでに雪も解け始め、心ゆくまで森林帯を味わい、楽しむことが出来た。朽木側、小浜側とも展望が開けた。P697・P659を地図で確認しながら、ブナ林を進んだ。
よく整備されており、登山路に1ケ所倒木のみあったが、ごみも見あたらず、全員疲れも感じない快適な山行きとなった。

  オクスゲノ池でP803を眺めながらの昼食となった。山での食べ物は、粗食が良いと前々から思っていた。まだまだ肌寒いこの頃では、熱いものが何よりのご馳走になる。ザックから取り出すのは、カップヌードルとおにぎり1ケ、そして1リットル用保温水筒だけだ。そして、よく持っていくのを忘れる箸。

 発泡スチロール製の容器に乾燥麺が入った3分程度短時間で出来上がるカップヌードルが一番。お湯は朝早く1㍑用保温水筒を十分に温めてから容器に熱湯を注ぐ。0.5㍑では冷めてしまうので駄目。 

 今回は、ふきのとうの味噌炒めを包み込んだ特別仕立ての「おにぎり」だ。野趣溢れるおにぎりを頂き、口いっぱいに広がる香りとほろ苦さを味わった。ブナ林の中では、この素朴な食事が何よりもうまい。

  食事後、これから登るピーク803mを眺めながら、やってきた道筋とこれからのルート確認を地図で話し合った。ピーク803mの頂上には行かずに、腹を巻くように進みナベクボ峠に向かった。前回の計画では、若走路谷から同峠に行くつもりであったが、谷ひとつ間違いどうしても辿り着けなかった因縁の峠であった。

 今回は、あっさりとナベクボ峠の標識にやってきた。前回、あれだけS氏がGPSを駆使して、探し回ってもこの峠には行き着くことが出来なかったのに。

    
 さらに、三国峠に登り詰めた。この辺りでは頂であるのに峠と呼ばれているので、頂に登らなければならない。このため、地図によっては「三国岳」と記載されていることもある。
こうなると、 この尾根続きのトレイル終点に同名の三国岳があり益々紛らわしくなる。そこで、平仮名で「さんこくだけ」と読ませ区別しても不十分である。このようなことからして、頂に登りきらねばならないが三国峠がよろしいようで…。

 休憩舎まで降り、運転手を乗せて焼尾地蔵堂まで自動車を取りにいった。残されたものは、動かないと寒いので、針畑ルネッサンスセンターへと歩き出した。

 廃家も多く、田畑には雑草が生茂り荒れ放題になっているところもあった。若者が都会に流れ、働き手を失い、残された親たちも高齢化が進み過疎化が進んでいた。既に、ここでは林業が生業とならなくなってきている。イチゴ谷山・経ヶ岳・三国岳の山々の自然と暮らし 

 そんな中、5歳に満たない女の子が垣根もない殺風景な庭で一人で遊んでいた。ここは都会では味わえない木々の緑と清い清流がある自然一杯の中での「ままごとごっこ」。だが、一人だけの無邪気な姿がいやに痛々しく映った。


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Posted by nonio at 12:03Comments(1)高島トレイル

2009年11月29日   三国峠から桑原まで高島トレイル

日付2009年11月21日(土)
山名     高島トレイル(三国峠~桑原)
コースタイム 生杉林道出発9:20 三国峠11:30 地蔵峠12:30       
        P818 14:15 桑原分岐点16:00  桑原17:15

地図   高島トレイルマップ 第9区分

 前回、三国峠~桑原間の高島トレイルは、今年初の冬将軍の到来で雪・降雨にたたられ断念。2度目の挑戦となった。安曇川を渡り、針畑川沿いの生杉(おいすぎ)までやってきた。
 ルネッサンス山菜加工前には、10名以上の消防・警察関係などの人達が、物々しいいで立ちで、道路を閉鎖するように立っていた。自動車を止められ、ビラを手渡された。ビラには「山を侮るな!11月5日、8日、三国峠から岩谷峠間で道を間違って、遭難事故が相次いで発生した」と警告していた。

 早速、登山計画書を提出するようにと要請された。若い警察官は、「この地域のトレイルトレッキングに人気があり、インターネットで調べて、安易に出かけてくる人が多くなった」と嘆いていた。

 ところで、我々も他人事ではなかった。まさか道に間違い、みぞれにも遭い、日暮れ時間との戦いに苦心惨憺させられる羽目になるとは、予想だにしなかった。この時期16時30分を過ぎると日が落ち、谷筋では真っ暗になることはわかっていた。まさしそのようになってしまった。全員、桑原の林道に辿り着いたときには「ほっと」した。
 
 三国峠にいくため若走路(わかんび)谷を詰めて、「クチクボ峠」を目指したつもりだった。だが、谷をひとつ間違えてしまった。沢筋を詰めて行くと、とんでもない尾根筋に入ってしまっていた。 入口部に赤テープの目印があったので、つい踏み込んでしまった。後から判ったことだが、赤テープは非常に高い位置に付けられ、積雪期用ルートであった。
 戻ろうとの意見もあったが、GPSで現在場所が確認出来ているので、前に進むことになった。お陰で、手付かずの自然に親しみ触れることができる森に出会えたことは、幸いであった。
 
 既に秋も深まり落葉樹は、紅葉を過ぎ落葉となっていた。倒木には、淡い緑色の様々な苔が張り付いて、太陽光が差し込み、春を感じさせる長閑な情景があった。一般道では見られない自然が広がっていた。
 先行してルート探しをしていた時、右手の藪で異常な速さで横切って行くものがあった。どうも、動物の生息地に入り、邪魔をしたようだ。大声を出して相手側に存在を知らしめた。この辺りは、熊の爪あとの付いた幹があっちこっちにあり、原生の自然林であることが分かった。
 進む方向が定まらないので、兎に角、尾根筋に這い上がり、目印になる三国峠を探した。



 
 さ迷い歩いた結果「クチクボ峠」を通過したかどうかわからないまま、三国峠直下の長池にでた。この長池には、水がない湿地状で落葉に埋まっていた。
ここから、一段と高くなったところが、若狭、近江、丹波を分けている三国峠頂上であった。この山は三国峠と呼ばれているが、れっきとした775.9mのピークである。この地域では、頂上を峠とよんでいた。三国岳の西側には、野田畑峠、また、東側にはクチクボ峠と通じていた。頂上から、枕谷へ下っていけそうであったが、確実を期するため、地蔵峠までの表示板のある箇所まで戻り、地蔵峠に向かった。

 三国峠から地蔵峠まで1.4kmの表示板にしたがって県境尾根の分水嶺を辿った。この間には「中央分水嶺高島トレイル」と書かれた黄色いテープが、いたるところに取り付けてあった。多分、道を間違う人があったので、取り付けたのであろう。

 ここで、にわか雨が降ってきた。口にはしていなかったが、「右手に降った雨は、針畑川から琵琶湖に注ぎ、右手は、由良川から日本海に注ぐ。少しのことでこれだけ変わるのか…。また谷ひとつでも大騒動になったこともあり、今までの暮らしにも当てはまるなー」などたわい無いことを考えていた。ズバリここが分水嶺の尾根筋であった。
 地蔵峠に到着したのは、12:35とかなり出遅れてしまった。この林道の先は、芦生の入口の京大演習林で、頑丈な鉄柵に「これより先利用許可証がなければ入林禁止」の表示があったので、近づくのも止めた。

 昼食後、地蔵峠から岩谷峠までの縦走路は、いたるところに紛らわしい支尾根があった。この間には、赤色テープがあるが、黄色テープが殆どない。この黄色テープは、高島トレイルを通過していることが確認できるが、赤テープだけでは、不安が残った。P818には、道標も無く、支尾根に入り込みやすいと事前の指摘もあったので慎重に道を選んだ。
 我々は、GPSで確認しながら進んだので、ルート選択には大間違いがなかったが、この間の道は未整備で迷いやすいところだ。兎に角、進行右手の芦生の京大演習林を避けるように、針畑川を意識してルートを探った。

 この辺りはブナ、ミズナラ、アシュウスギの混生林で、 原生の自然を感じさせる尾根歩きであった。登山路の両脇には巨木が次から次に現れ、この中でも大型巨木をよく眺めると、立ち枯れていた。たまに老木であるが僅か一部の枝に葉っぱを付け生きながらえている幹もあった。

 動物と違って、これらの樹木を見ていると生きているのか、死んでいるのか、この境がよくわからない別の世界に思えた。そのような原生林が生きずいていた。

 何回かアップダウンを繰り返して岩谷峠までやってきた。

 この峠は、朽木村の古屋に住む人が丹波の方に行くため使われたものである。今はこの峠も忘れられ、道標も半分朽ち果てていた。
 天候も優れず、みぞれが降る中、先を急いできので、体調を悪化させる者も出始め、体力回復のため立ち休憩を行った。すでに辺りは暗くなり、一層のこと古屋に降りようとも考えたが、桑原分岐点から桑原へのルートは、何回か経験もあるので、計画通り先へと進んだ。

 迷うことのない一本道を6回程度登ったり下ったりした。それも大した勾配がないものの、疲労もたまってきているので登りは喘ぎ喘ぎになり、降りで息の調整を図った。
 同じような情景が次々を現れてきたが、待ち構えていた桑原分岐点に到着したのは16時。天候も悪く益々薄暗くなり、山道の岐路の判断が出来なくなってきた。ヘッドランプを装着して下山にかかった。林道に辿り着いたときには、日もとっぷりと暮れてしまった。兎に角、全員無事に帰還した。
 
 今回の地蔵峠から岩谷峠間は、時間的に追い込まれ、且つ天候にも見放され、自然の息吹きをじっくりと感じとる余裕すらなかった。ここは捲土重来のところとなった。
 
 




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Posted by nonio at 09:08Comments(2)高島トレイル

2009年11月13日   イチゴ谷山・経ヶ岳・三国岳の山々の自然と暮らし

 実直で頑強な山仲間S氏からイチゴ谷山に行こうと誘いがあり、10月中頃から11月上旬にかけて、この山周辺に、続けて3回出かけて行った。
 この山は滋賀県最西端に位置し、西は京都府、北は福井県に接する付近にあり、高島トレイル最終地点三国岳から、経ヶ岳・イチゴ谷山へと900mそこそこの尾根続きになっている。
 経ヶ岳まで足を延ばす人はいるが、イチゴ谷山まで行く人は稀である。イチゴ谷山の登山口平良(へら)は、京都府京都市から福井県三方上中郡若狭町に至る国道367号から安曇川を渡り、県道783号の麻生古屋梅ノ木線に入り、針畑川を遡る山深いところである。  地図平良
             平良集会所
 
 第一回目は、健脚4人でイチゴ谷山・経ケ岳・三国岳を目指した。平良集会所に自動車を駐車させ、平良分校まで戻って、オキナ谷の手前から作業道を伝ってイチゴ谷山に向かった。
 各自コンパスを目指す尾根にセットして、動物よけの扉を開けて入山した。はじめは作業道であったが、直ぐに踏み跡もなくなった。無論、テープもなくGPSで現在位置を確認しながら進んだ。谷に入らず尾根筋を求めて直登し、イチゴ谷山に通じる尾根に這い上がった。そこからは僅かな踏み跡を辿りイチゴ谷山頂上(892m)に達した。
 
 一休みしていると雨雲となり、通り雨になってきたので先を急いだ。ずり落ちた鹿除けのネットの横を辿っていくと、既に雨も止み、見事な三角錐の経ケ岳(889m)が見え始めた。だが、そこに達するルート探しで30分以上ロスとなった。この辺りは、細々と続く踏跡を辿ることになった。なお、藪はそれほど気にするほど深くなかったが、尾根幅が広くなり行き先が不明瞭となって、迷ってしまった。

 経ケ岳までくると稜線沿いの山道もはっきりしてきた。この「経」が付く山は、日本中の山に多く見かけられ、多分、この頂上付近に経典を埋めた事から付けられた山名だと思う。三国山(959m)までは、一本道の尾根縦走となった。さらに、三国山から朽木桑原に下山して平良集会所まで戻ってきた。

イチゴ谷山頂上         経ケ岳頂上         三国岳頂上
     
写真をクリックすると拡大

               鯖街道峠茶屋跡 
 第二回目は、桑原橋を渡って、お墓の前を通り抜け、丹波越えの道を辿った。急な登りが始まった途端に、踏み跡を見失ったが、直ぐに尾根上のルートに戻っていくと正規の道に出た。稜線に出る手前で「鯖街道峠茶屋跡」と書かれた札が、僅かな広場の前にぶら下がっていた。
 「近江百山」の西澤明によれば、「私の先祖が茶店を営んでいた。峠の直下に水が湧き出すところがあり、茶屋が設けられていたといわている。その昔、鯖街道として使われていた山岳街道で、鯖街道の元祖らしい。桑原から能見峠を越え花背・鞍馬・京都へ続いている…」との記述を思い出した。近江の山には、人々の生活と繋がりを持った古道が数多くあるが、とりわけこんな奥深いところでも、生活をしていた痕跡が残っていることに驚いた。

 ここ登り越えると峠状の鞍部に出た。御林谷(おはやしたに)峠とも呼ばれ、経ケ岳1.2km三国岳1.9km桑原橋2.5kmの3方を示した真新しい道標があった。ここから久多側に真っ直ぐ下ることが出来ないようだ。稜線に沿ってどちらにいって峠越えしなければならない。少し変わった峠であった。
 
ここからピストンで経ケ岳を目指し、再び三国岳に向かった。
              桑原に建つ農家の屋根に雪          

 第三回目、桑原に訪れると、11月3日であるのに、民家の屋根には、既に白い雪が積もっていた。急勾配の屋根を見ただけでも豪雪地帯と分かったが、やはりここは、厳しい自然が待ち構えているところであることを肌で感じとれた。

イチゴ谷山・経ヶ岳・三国岳の山並みの縦走路には、鬱蒼と茂った木々が手付かずのまま残されていた。                              苔むした木に「きのこ」
    

 陽光の差さ込まない木々は苔むし、「きのこ」が生えていた。第一回目のときは、立ち枯れる木に「なめたけ」が群生しているのを見つけたが、写真を撮らなかった。今回は、とりあえず写真に「きのこ」を収めた。
 後日、「きのこ」に詳しい友達に尋ねると「たぶん、ヒラタケと思われます。確信度70%。足の付け根が、分からなかったので 毒茸のツキヨタケの可能性が15%程あります。ムキタケ(食茸)の可能性も10%あります。観察のためのキノコ写真は、背側、腹側、足の全体の写真がないと同定が難しいです」とのことであった。
 彼は、「きのこ」を採ってくるとまず少し口にする。様子をみるためである。2~3日嘔吐、腹痛、下痢など何もなければ食べだすと言っていた。無論、何冊もの「きのこ」の図鑑で複数確認をするとのこと。ところで、小生、野生の「きのこ」に関心があるが、やはり食べたことがないし、食べる勇気もない。

                  枯れかかった巨木 

 経ケ岳と御林谷峠の間に、多分アシュウ杉と思われる大木が、落雷も受けているのであろう、立ち枯れていた。よく観察すると、根元に近いところで一本の枝に若葉が甦っていた。この樹木の本体は、殆どが死に絶えているが、僅かに一本の枝に生命を繋いでいた。植物の底知れぬ力強さを見せ付けられ、命の尊さをあらためて感じとった。

 平良は、人間より動物の方が多い村とも言われ、村外れには、クマ用と思われる大型の獣用の檻が設置してあった。また、獣よけの音が平良村を守るように周期的に音がして、谷あいにこだましていた。多分、カーバイトを使って一定間隔でドーンという音が鳴り響く、爆音器が備え付けてあるのであろう。この辺りは、クマの生息域でもある。
       
              クマ用と思われる大型檻
 また、高島トレイル終点地山の菜摘み農園「じゅうべえ」のお上さんは、最近「しか」が増えすぎ、笹の若葉を食べ尽くされ、笹が枯れ始め、植物の生態系が変わって来たと話していた。我々も縦走路の脇の笹が、かなりの範囲で立ち枯れていたことを確認している。いずれにしても、 この一帯では、鹿、いのしし、熊、きつね、渡り鳥やら、とんび等などの関わりを持った昔ながらの暮らしがあった。       木材の切り出し用大型ヘリ
 
 辺りが暗くなってきた針畑川沿いの県道783号の麻生古屋梅ノ木線を下山してくると、突然、大型ヘリが轟音をたてながらこの道路の真上に現れた。木材の切り出し作業をしていた。
 ある山の頂きにヘリがいっては、戻ってきた。また新たな山並みに消えていったと思うと戻ってきた。あっちこっちで伐採した木材を回収作業していたようだ。ロープに吊るされた木材は直径1mもある巨木だけであった。
 道路を一時閉鎖している作業者に聞くと、「細い木材では採算が合わないが、このぐらいの木材であれば、何とかなる」と言っていた。

 後日、地のおばさんと話をした時、「昔は、木を伐採してトラック一杯運び出すと、1ケ月は食べられたが、今では、トラックの運賃代出しか買い上げてくれないので、木材では生計が立たない」と言っていた。 現在では、林業で食べていけない時代になったようだ。植林された木々が、放置され、巨木のみ搬出されている現状を垣間見た。
       日没間際の一時集積場へ大木の降ろし作業





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Posted by nonio at 12:08Comments(1)高島トレイル