2010年08月17日 駒が岳(高島)の蔓が巻きついたミズナラの樹
現在、山仲間と高島トレイル80kmを縦走している。そんな中、駒ガ岳を目指した。安曇川の支流麻生川(あそうかわ)を辿ると百里ケ岳、駒ガ岳、行者山の山々が、麻生朽木を囲むように連なっている。 ここは日本列島の日本海側と太平洋側を区切る中央分水である。最近、登山道は 高島トレイル として整備されつつあるが、昔は、山人か山の玄人筋しか踏み入らないところだ。
この写真は、このブナ原生林の中で撮ったミズナラの樹である。ただ、数本の太い蔓が巻きついているだけだ。だが、小生にとって数ある写真の中で気にかかった1枚の写真である。この画像が何かを語ってきているがその何かがわからなくて、忘れるともなくそのままにしておいた。
滋賀県高島にある安曇川上流の渓谷に沿った谷盆地は、「朽木谷」または「朽木杣(くつきそま)」と呼ばれてきた。奈良時代、材木を東大寺の建築用材として筏で搬出したと言われている。安曇川から琵琶湖を経て、淀川、木津川とわたり、奈良へと越えて運ばれたとの記録もあるそうな。
また、高島トレイル縦走路より北側には、「三十三間山」と言う山がある。こんなところから京都の三十三間堂の棟木として切り出したようだ。
この辺り一帯は、名木の産地として古くから知られているところなのだ。江戸時代、貝原益軒(1630~1714)も、この奥深いところに訪れ、「朽木の杣は朽木谷の奥にあり、名所なり…」と記している。
今でも、この山深い僻地を正確に登りきるには、GPSで現在地を確認しながら、地図とにらめっこをしなければならない。何回も何回も地形を見ながら、地図と照らし合わせている内に、「百里ケ岳の東側木地山峠」、「麻生」、「ろくろ」など、聞き覚えのある木地師に関わる地名がたくさんあることに気づいた。ここはどうも木地師の世界に紛れ込んでいたようだ。
ところで、小生、木地師の存在を知ったのは、滋賀県に「コバ」と言う地名を知ってからである。この言葉、不思議と安らぎを覚えたので探る気になった。「漢字で木場と書き、切り出した木材を、一時集めておく、山間の平地」という意味らしい。「憩場」を指し、イコイバと呼び、訛って”コバ”になったと言われている。
「昔から木材の集積所として重要な場所で、杣人は、ここで休憩もしていたのであろう」との思いから、コバを探して鈴鹿山系をウロウロした。その内、八風街道に沿って流れる愛知川の支流、御池川沿いの小椋谷に蛭谷、君ヶ畑という集落に行き着いた。年老いた小椋さんが、球形の裸電球の下でロクロを挽いていた。この集落には何軒もの民家があるが、あまり生活をしている様子もなく、「ろくろ木地発祥の地」の立て札が、いやに物静かであった。
木地師と云えば、必ず「文徳天皇(もんとく)の第一皇子であった惟喬親王が皇位を弟に収奪され、近江にやってきた…云々」との話があるが、小生、正直全く知らなかった。と言うより、天皇家系図に興味がない。
さて、「湖の風回廊」の著者西本梛枝先生が、水上勉氏について語られた時、この写真の意味がわかった。 「近江・大和」の目次「近江六ヶ畑」にその答えを見出した。
水上勉氏が、木地師に興味を持ったのは、祖父は、木地師、父も宮大工だからであった。と振り返っている。
『私の祖父と父だけでなく、村のひとはみな、山に入るに、いつも腰にナタを下げていた。何をするでもなく、山へ入るには、ナタを持った。木を伐らなくても、ナタは持った。
…樵人や木地師はつるを見れば伐った、そうしてまっすぐに木を伸ばした。日本国じゅうの木地師たちが、この蔓伐りに歩いた姿を想起すると涙が出てくる。自然というものは人間が守り育てたことを私は知る』
この写真の背景に、木地師の末裔が関与しているのであろう。通称絞め殺しの木と呼ばれているツタをたたき伐ってあった。木の周りにツタを絡みつけ中の本木を枯らせてしまうことを防いだのだ。
木地師の教えを今も守っている人達の業にちがいない。
駒ガ岳から何か言われがあるような名前の「与助谷山」から木地集落へ向けて下山した。大きな2本のカシの老木が、植付けられたように並んでいて目立っていた。このカシの樹は、木地師が使わないのだが、与助谷山の入口の目印のようである。
尾根通しにルートが付けられ労せず集落に導いてくれる。山を知り尽くした山人が作った作業道である。下っていくと簡易な朽ち果て寸前の木の鳥居があった。辺りを見ると愛宕神社跡と書かれていた。山火事で樹を失わないように切に願ったのであろう。
尚、以前「木地師の業に支えられた樹」としてブログに載せたが、今回加筆、修正をした。
この写真は、このブナ原生林の中で撮ったミズナラの樹である。ただ、数本の太い蔓が巻きついているだけだ。だが、小生にとって数ある写真の中で気にかかった1枚の写真である。この画像が何かを語ってきているがその何かがわからなくて、忘れるともなくそのままにしておいた。

滋賀県高島にある安曇川上流の渓谷に沿った谷盆地は、「朽木谷」または「朽木杣(くつきそま)」と呼ばれてきた。奈良時代、材木を東大寺の建築用材として筏で搬出したと言われている。安曇川から琵琶湖を経て、淀川、木津川とわたり、奈良へと越えて運ばれたとの記録もあるそうな。
また、高島トレイル縦走路より北側には、「三十三間山」と言う山がある。こんなところから京都の三十三間堂の棟木として切り出したようだ。
この辺り一帯は、名木の産地として古くから知られているところなのだ。江戸時代、貝原益軒(1630~1714)も、この奥深いところに訪れ、「朽木の杣は朽木谷の奥にあり、名所なり…」と記している。
今でも、この山深い僻地を正確に登りきるには、GPSで現在地を確認しながら、地図とにらめっこをしなければならない。何回も何回も地形を見ながら、地図と照らし合わせている内に、「百里ケ岳の東側木地山峠」、「麻生」、「ろくろ」など、聞き覚えのある木地師に関わる地名がたくさんあることに気づいた。ここはどうも木地師の世界に紛れ込んでいたようだ。
ところで、小生、木地師の存在を知ったのは、滋賀県に「コバ」と言う地名を知ってからである。この言葉、不思議と安らぎを覚えたので探る気になった。「漢字で木場と書き、切り出した木材を、一時集めておく、山間の平地」という意味らしい。「憩場」を指し、イコイバと呼び、訛って”コバ”になったと言われている。
「昔から木材の集積所として重要な場所で、杣人は、ここで休憩もしていたのであろう」との思いから、コバを探して鈴鹿山系をウロウロした。その内、八風街道に沿って流れる愛知川の支流、御池川沿いの小椋谷に蛭谷、君ヶ畑という集落に行き着いた。年老いた小椋さんが、球形の裸電球の下でロクロを挽いていた。この集落には何軒もの民家があるが、あまり生活をしている様子もなく、「ろくろ木地発祥の地」の立て札が、いやに物静かであった。
木地師と云えば、必ず「文徳天皇(もんとく)の第一皇子であった惟喬親王が皇位を弟に収奪され、近江にやってきた…云々」との話があるが、小生、正直全く知らなかった。と言うより、天皇家系図に興味がない。
さて、「湖の風回廊」の著者西本梛枝先生が、水上勉氏について語られた時、この写真の意味がわかった。 「近江・大和」の目次「近江六ヶ畑」にその答えを見出した。
水上勉氏が、木地師に興味を持ったのは、祖父は、木地師、父も宮大工だからであった。と振り返っている。
『私の祖父と父だけでなく、村のひとはみな、山に入るに、いつも腰にナタを下げていた。何をするでもなく、山へ入るには、ナタを持った。木を伐らなくても、ナタは持った。
…樵人や木地師はつるを見れば伐った、そうしてまっすぐに木を伸ばした。日本国じゅうの木地師たちが、この蔓伐りに歩いた姿を想起すると涙が出てくる。自然というものは人間が守り育てたことを私は知る』
この写真の背景に、木地師の末裔が関与しているのであろう。通称絞め殺しの木と呼ばれているツタをたたき伐ってあった。木の周りにツタを絡みつけ中の本木を枯らせてしまうことを防いだのだ。
木地師の教えを今も守っている人達の業にちがいない。

駒ガ岳から何か言われがあるような名前の「与助谷山」から木地集落へ向けて下山した。大きな2本のカシの老木が、植付けられたように並んでいて目立っていた。このカシの樹は、木地師が使わないのだが、与助谷山の入口の目印のようである。
尾根通しにルートが付けられ労せず集落に導いてくれる。山を知り尽くした山人が作った作業道である。下っていくと簡易な朽ち果て寸前の木の鳥居があった。辺りを見ると愛宕神社跡と書かれていた。山火事で樹を失わないように切に願ったのであろう。
尚、以前「木地師の業に支えられた樹」としてブログに載せたが、今回加筆、修正をした。
Posted by
nonio
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