2020年11月04日 京都に日本一高い三本杉
山に入ると、多くの“杉”の巨樹であったり老樹に出会った。なかでも、千草越えの杉峠での“杉”は、感慨深い樹であった。杉峠の立ち枯れした杉/鈴鹿千草越え
目下、「上古賀の一本杉」の巨樹に出合ったのがきっかけに、山仲間Sさんが、「花脊峠近くの『三本杉』が見事だった」と、話していたことが気になり出した。
この杉の高さは、レーザー計測器で62.3m。それが、今のところ樹高日本一であり、京都市内にあると言うのである。
いずれさらなる高い樹が発見されるだろう。それまでに、出合いたいことが、一層後押した。
さて、行くとなったら、大変。私にとって、京都市街地の北方に広がる山地が不案内。
この杉は、大悲山峰定寺(ぶじょうじ)の御神木であるので、「峰定寺の三本杉」また「花脊の三本杉」とも言われている。
とりあえず、鞍馬から府道38号線を北上して花背峠を越えた。さらにかつて材木・薪炭・檜皮などを、荷持の肩と牛馬の背で輸送していた山地をやたら走り続けた・・・・・。「別所」・「大布施」の集落を通過し、リゾート山村都市交流の翠峰荘までやってきた。
いまだ、三本杉のいどころが定まらなかった。
今回は、ここで昼食を頂いて引っ返そうと思案していた。
昼食の注文にやってきた店員に、このことを不安げに尋ねてみると、「ここから三本杉は近い」との思いがけぬ言葉に、たまげた。
「38号線をこのまま北上すると、京都バス停『大悲山口』で、三差路になっている。ここを右に進み、峰定寺まで行けば分かる」と事細かく道筋を教えてもらった。ゆっくり、「山菜そば」を頂いた。
教えられた府道の脇道をたどり、由緒ありそうな峰定寺までやってくると、橋に車の立ち入り禁止の立て札があった。車を駐車場に止め、寺谷川沿いの大悲山林道を歩いていった。三本杉まで700mの道標があり、この渓流を離れて緩やかな登り道を上り詰めると、いとも簡単にたどり着けた。
三本杉の前には十段程の石段が設けられ、周囲は低い石柱で大事に囲まれていた。
三本杉の根元は一つであるが、前に一本、後方に二本がある。後ろの右側の杉は少し右方向に傾いてはいるが、いずれもスラリと天空にそびえ立っていた。樹齢は1000~1200年もの歳を重ねているとは感じさせない瑞々しさを保っていた。
谷底と云う地理的条件も幸いして、台風や落雷にも遭わずにすくすくと成長してきたようだ。明治の頃、大林區署から伐らうとされた時もあったが、日本の歴史を遡ること、平安時代から現代までよくぞ生き延びてきたものだ。
ところで、この三本杉が江戸時代後期に刊行された京都に関わる「拾遺都名所図会」に、紹介されている。現在の写真付きの旅行ガイドブックに対して、鳥瞰図や風俗図などの挿絵をつけた名所案内記である。
「大悲山乳岩」の絵図は奇妙な絵柄であるので、補足すると、
乳石の形をした岩から水が流れ落ちている。その裏側をのぞく旅人がおり、あるものは、水を杓で受けている。この水は「お乳が出ない女性に飲ませるとお乳が出る」との言い伝えがあり、この霊験あらたかな水を求めて、来たのであろう。
大悲山は、京都市内から十里(40km)の距離があり、まさに歩けば一日がかりである。さらにこの乳石に来るだけでも、案内人なしには行けない深山幽谷の地である。
さて、三本杉は、乳石からさらに山奥に入ったところに画かれてあった。
ところで、この乳石が気になって探したが、見つからなかった。
たまたま、峰定寺周辺の清掃で、地元の人達が作業している時に出くわした。
「乳石」のことについて尋ねると、口を閉ざしてしまった。
ひつこく、同じ質問をほかの人にすると、「子供の頃行ったことがある」と返事してくれた。が、何か事情があるらしい。
【大悲山峯定寺】当山は洛陽の北の方にして行程十里、鞍馬寺よりは亥子の方にして坂路五里なり。其中間に別所 、大布施の二邑あり。大布施といふは大悲の片言なりといふ
「大悲山はくらまの遥奥なり。花瀬峠をこえ、別所村に至りて観音堂あり。平相国清盛のいとなみしとなり」。
「華表は乳石は より一町ばかりこなたにあり。都て此深谷嶮岨にして樵夫も歩しかね、不知案内にては見る事協ひがたし。乳石は谷に二町ばかり入と三本杉といふあり、大木にして又類稀なり」。
目下、「上古賀の一本杉」の巨樹に出合ったのがきっかけに、山仲間Sさんが、「花脊峠近くの『三本杉』が見事だった」と、話していたことが気になり出した。
この杉の高さは、レーザー計測器で62.3m。それが、今のところ樹高日本一であり、京都市内にあると言うのである。
いずれさらなる高い樹が発見されるだろう。それまでに、出合いたいことが、一層後押した。
さて、行くとなったら、大変。私にとって、京都市街地の北方に広がる山地が不案内。
この杉は、大悲山峰定寺(ぶじょうじ)の御神木であるので、「峰定寺の三本杉」また「花脊の三本杉」とも言われている。
とりあえず、鞍馬から府道38号線を北上して花背峠を越えた。さらにかつて材木・薪炭・檜皮などを、荷持の肩と牛馬の背で輸送していた山地をやたら走り続けた・・・・・。「別所」・「大布施」の集落を通過し、リゾート山村都市交流の翠峰荘までやってきた。
いまだ、三本杉のいどころが定まらなかった。
今回は、ここで昼食を頂いて引っ返そうと思案していた。
昼食の注文にやってきた店員に、このことを不安げに尋ねてみると、「ここから三本杉は近い」との思いがけぬ言葉に、たまげた。
「38号線をこのまま北上すると、京都バス停『大悲山口』で、三差路になっている。ここを右に進み、峰定寺まで行けば分かる」と事細かく道筋を教えてもらった。ゆっくり、「山菜そば」を頂いた。
教えられた府道の脇道をたどり、由緒ありそうな峰定寺までやってくると、橋に車の立ち入り禁止の立て札があった。車を駐車場に止め、寺谷川沿いの大悲山林道を歩いていった。三本杉まで700mの道標があり、この渓流を離れて緩やかな登り道を上り詰めると、いとも簡単にたどり着けた。
三本杉の前には十段程の石段が設けられ、周囲は低い石柱で大事に囲まれていた。
三本杉の根元は一つであるが、前に一本、後方に二本がある。後ろの右側の杉は少し右方向に傾いてはいるが、いずれもスラリと天空にそびえ立っていた。樹齢は1000~1200年もの歳を重ねているとは感じさせない瑞々しさを保っていた。
谷底と云う地理的条件も幸いして、台風や落雷にも遭わずにすくすくと成長してきたようだ。明治の頃、大林區署から伐らうとされた時もあったが、日本の歴史を遡ること、平安時代から現代までよくぞ生き延びてきたものだ。
ところで、この三本杉が江戸時代後期に刊行された京都に関わる「拾遺都名所図会」に、紹介されている。現在の写真付きの旅行ガイドブックに対して、鳥瞰図や風俗図などの挿絵をつけた名所案内記である。
「大悲山乳岩」の絵図は奇妙な絵柄であるので、補足すると、
乳石の形をした岩から水が流れ落ちている。その裏側をのぞく旅人がおり、あるものは、水を杓で受けている。この水は「お乳が出ない女性に飲ませるとお乳が出る」との言い伝えがあり、この霊験あらたかな水を求めて、来たのであろう。
大悲山は、京都市内から十里(40km)の距離があり、まさに歩けば一日がかりである。さらにこの乳石に来るだけでも、案内人なしには行けない深山幽谷の地である。
さて、三本杉は、乳石からさらに山奥に入ったところに画かれてあった。
ところで、この乳石が気になって探したが、見つからなかった。
たまたま、峰定寺周辺の清掃で、地元の人達が作業している時に出くわした。
「乳石」のことについて尋ねると、口を閉ざしてしまった。
ひつこく、同じ質問をほかの人にすると、「子供の頃行ったことがある」と返事してくれた。が、何か事情があるらしい。
【大悲山峯定寺】当山は洛陽の北の方にして行程十里、鞍馬寺よりは亥子の方にして坂路五里なり。其中間に別所 、大布施の二邑あり。大布施といふは大悲の片言なりといふ
「大悲山はくらまの遥奥なり。花瀬峠をこえ、別所村に至りて観音堂あり。平相国清盛のいとなみしとなり」。
「華表は乳石は より一町ばかりこなたにあり。都て此深谷嶮岨にして樵夫も歩しかね、不知案内にては見る事協ひがたし。乳石は谷に二町ばかり入と三本杉といふあり、大木にして又類稀なり」。
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