2020年02月20日   多賀大社の「豆撒き」に寄せて

  つい先ごろ正月だったのに、はや、節が変わる節分を迎えていた。
冬と春の変わり目には、「気分が落ち込む」「体調がすぐれない」など心身の調子を崩しがちになる。この邪気(悪鬼)払いとして、豆撒きが行われてきた。

 「鬼は外 福は内」と語気を強めながら、部屋の奥から玄関まで順番に、悪鬼を家から追い出すかのように、豆を撒いたものである。かつて「立春」の前日には、どこの家からも、この声が聞こえてきた。母親が「早く、豆まきをすると、他の家の鬼がやってくる」と。そんな訳で、子供のころは眠くて仕方がなかった。でも、楽しみもあった。
年齢の数に1つ多く豆を食べる食習があった。加えて、両親の豆がもらえるのが、うれしかった。齢を重ねると、年齢の端数だけ食べ、残りは食べてもらえる特例があった。
 また、敗戦後の日本はまだまだ貧しく、悪鬼が臭いを嫌うとして「イワシ」を食べたものだ。 
 昭和45年ごろだったか。
世界に例のない高度経済成長期に入り、今迄なかった「恵方巻」の慣行が、はやり出した。それから、「恵方巻」にいろいろな食材が巻き込まれ、「イワシ」から美味しい「恵方巻」へとかわって行った。自ずと柊鰯(ひいらぎいわし)の仕来りも疎遠となったようだ。
 この恵方巻の食べ方だが、巻きずしを一本そのままで食べ、決められた方向で、しゃべってはいけないなど数々の決め事があった。母親は、この約束事を破ろうとすると、「破ったら、バチがあたる」だった。

 だがその内、私は、恵方巻の方位に関係なく、切って食べて出した。年も重ね、豆も端数だけ食すようになった。この様に豆撒きの習俗の一部が崩れ出すと、瞬く間に、全ての仕来たりが無くなって行った・・・・・。
 
 さて、古くから「お多賀さん」の名で親しまれる「多賀大社」午前11時/午後 2時の2回の節分祭へ仲間と、訪れる機会があった。

  10時前には境内には人影も疎らだったのに、祭典の時間が近付くにつれて、人だかりになった。 境内に優雅な笛の音と力強い太鼓の音が響きわたると、舞台に三人の鬼たちが現れ、「鬼の舞」が披露された。
  舞が終わると、特別仕立ての回廊で、きらびやかな衣装をした恐ろしい形相の鬼が、床を鬼棒で叩いたり、柵の上に乗り上げたりと、さんざん大暴れ・・・・・。この圧巻の「鬼の舞」・悪魔退散の仮面舞に心を奪われ、福豆・福餅何一つもらえなかった。
 
 ならばと午後は、舞台の最前列に陣取り、今日は多賀大社で1日中、遊ぶと決め込んだ。

 再び、赤い頭巾をかぶった福男・福女による特設舞台から豆撒きが始まった。今年還暦を迎えた年男・年女は、遠くに撒けないとの予測通り、帽子を差し出すと、「どっと」入れてくれた。
「独り占めは、福も逃げるだろう」と、お裾分け、福豆・福餅を各一だけ持ち帰った。残念だったのは、福扇・お種銭(たねせん)と引き換えてもらえる赤い福餅だが、手に出来なかった。

 本殿での祭典、拝殿にて追儺の神事、拝殿内での豆撒き、そして境内への豆撒きと今なお古式にしたがって綿々と節分祭が、受け継がれていた。何よりも、湖東のへんぴなところに、福を求めて約5000人の参拝者で賑わっていたことに驚かされた。

 節分祭が終わると、境内から蜘蛛の子が散るように人が立ち去り、辺りは、元の静けさを取り戻していた。
二十四節気に関わる伝統行事を見学して、豆撒きの原点に触れ、感慨深い一日を送ることが出来た。
















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2012年10月25日   初めての時代祭

 最近、私は「祭」という見出しに敏感に反応してしまうようだ。自然と「うきうき」感に浸ることが出来る。大津祭に引き続き、京都の三大祭を締めくくる時代祭に10月22日出かけた。

 時代祭りの背景がよく分からなかったので、若い学生風の売り子から「時代祭」の冊子を購入した。12時開始まで時間がかなりあったので、手持ちの書籍やこの冊子に目を通しながら時間をつぶした。

 京都には、鎌倉時代中期から明治時代初頭まで歴代天皇が住んでいました。が、明治維新に東京に移ってしまった。天皇がおられなくなった京都は、著しい衰退を見せ始めたといわれています。
 京都市長が立ち上がり、京都を活気づかせるため、「京都の町おこしのイベント」が考え出されました。時代祭は、平安神宮の創建と平安遷都1100年祭を奉祝する行事として、始まったのです。

 コースは、正午、京都御所建礼門前を出発、烏丸通、御池通、河原町通、三条通から平安神宮まで4.5キロとされました。東京奠都以前の京都の風俗を遡る時代行列が提案され、「時代祭り」と呼ばれるようになったようです。
 明治維新から延暦時代へさかのぼって、順次風俗、文物の変遷を再現。現在は18列、2000人に達し行列の長さは2キロに及ぶ壮大な行列になりました。
 

京都御所の正門である建礼門前から南に延びる大通りは、大勢の人が詰め掛けていたので、芝生地と松の木陰で待つことにした。外国人の家族も繰り出していた。



明治維新時代の維新勤王隊列
「ピーヒャラ、ラッタッタ」と軽快なリズムに乗って維新勤王隊列が先頭に、後に、幕末の維新志士列が続いた。



江戸時代の徳川城使上洛列
徳川城使上洛列は、大礼や年始などの際に親藩または譜代の諸侯が城使として 上洛したものを再現。一般の大名行列より盛大で格式が高かった。



安土・桃山時代の織田公上洛列
天下統一のため織田信長が兵をひきいて上洛したときの様子を再現。あまりにも凛々しいので写真を撮った。



中世婦人列
大原女・桂女・淀君・・・静御前など平安時代後半から桃山時代の中世の婦人の一行の中で、目の引いた一人の大原女をパシャリ。



室町時代の室町幕府執政列
足利将軍を中心とした当時の軽武装した行列が河原町御池から河原町三条に直角に曲がると時、正面から写した。



安土・桃山時代の豊公参朝列
行列は戦国の世を制し天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の一行。特に盛儀に使われた最高の牛車。



どこに行っても、ひと・ひと・・・・。特に、御所から丸太町通・烏丸通の沿道は身動きが出来なかった。なお、御池通、平安時宮近辺も混んでいた。
 ゆっくり見物できるところを求めて、兎に角、御所建礼門前から平安神宮まで歩いた。三条大橋を渡り市営地下鉄東山駅周辺の見物客が少なかったので、再び戻ってきた。近くにはコンビにあり、飲み物・食べ物を手に入れ、道路の縁石に座り込みすべての行列を見ることにした。

時代祭の後陣を勤めているのが、丹波の弓の名手たち。これにて御苑のパレードは終了した。最後尾はパトカー。



最後に、行列の先頭を勤めるのは誰か気になるもだ。やはり、京都府知事・市長・府議会議長を乗せた御用馬車でした。大きな態度で乗っていたが、時代祭を立案した立役者であったので、先達を受け持っていることに納得。





 

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2012年10月09日   初めての曳山大津祭

 10月7日、湖国三大祭の一つである大津祭に赴いた。JR大津駅の改札口をでると何時もは閑散としているが、この日は人で賑わっていた。駅前には、大津祭の臨時案内所が設けられていた。様子をうかがっていると、背中に「大津祭 長柄衆」と書かれた法被を着た人が近寄ってきた。
 「曳山巡行を見学したのだが・・・・」と問いかけると
 「大津祭見て歩きマップ」を示して丁寧に道順を教えながら、大津祭のパンフレットを差し出してくれた。 続けて、初めてなので、曳山の見どころを聞いてみた。
 「13基の曳山が巡行されます。俗に狸山と言う「西行桜狸山」が先頭です。というのは、祭日の天気を守ることになったのです。それに因んで、この山は毎年くじ取らずで、先頭で巡行するようになったんです。龍門滝山の見送りは、ゴブラン織りで重要文化財に指定されています。刺繍などの伝統ある豪華な幕が飾られます。最後が「月宮殿山」です」と3基の曳山の説明を受けた。中央大通りを通り、早足で中町通りを目指した。

 中央大通りは湖岸に向かって縦方向になだらかに下っており、琵琶湖に対して平行に3本の道路がそれを交わるように走っていた。この横軸の三筋が京町通り・中町通り・浜通り曳山の巡行路になっていた。

  中町通りの道路は、いささか狭いように思えた。道路を挟んだ両側に町家が並んでいた。何か、いにしえの雰囲気が漂うところであった。二階の窓が開けられ、軒先に白と赤の幕が張られている家があった。その時、何なのかわからなかった。

 西方向に向かって人を掻き分けながら進んでいった。しばらくすると、かねや横笛などで囃子を奏でながら「コンコンチキチン」が聞こえてきた。西行桜狸山と書かれた「のぼり」を持った一行に出くわした。この曳山祭りが始まったとされる塩売治兵衛の狸面の伝承を持つ先頭集団であった。

 所望との声がかかり、曳山が止められた。なぜ止まったのかわからなかった。責任者の方が五色布を結んだ指揮棒をつきあげ、これを合図に「からくり」が動き出した。この「からくり」を披露するために止まったことが判った。 演技が終わると見ていた人達から一斉に歓声と拍手が起こった。私もじっとしているのも「ばつ」が悪いので、皆と同じように手を叩いた。こうすることが、「からくり」を見物するための作法であり、行動を共にすることにより、いち早く祭りの雰囲気に馴染めることも分かってきた。
「大津祭見て歩きマップ」を眺めると、この所望場所が、辻や各曳山町など24箇所で決められていた。

 この曳き手は、年々人気が高まり、毎年公募されているようだ。この曳き手の中に、外国人も混じっていた。法被姿になると違和感なく、日本人に溶け込み綱を引っ張っている姿が微笑ましかった。




  曳山の高さが結構高い。家の二階からのながめが絶好の桟敷になっていることがわかった。涼しい顔をした人の家へ向かって、何やら投げ入れていた。不思議な行為であった。
 「粽(ちまき)撒き」である。天孫神社の宮司さんのお祓いを受けた粽は、玄関先や軒下などにつるしておくと、無病息災・厄除けになると言われているものであった。

 たまたま「湯立山」の後をつけていた。この曳山は 天孫神社の祭事に湯を奉献する行事がある。このことからつけられた名前である。からくりはお湯を捧げる神楽舞を納める舞で、からくりが終わったとき、曳山の乗り手から五穀豊穣、悪疫退散、商売繁昌する縁起を祝って、湯に見立てて紙吹雪がまかれた。見物客が大勢いたのでサービスのつもりで、「どっさり」とまかれた。裃を着け取り仕切っている人の頭に紙吹雪が降りかかってしまった。曳山の乗り手に向かって「まき過ぎ」と叱責する一場面もあった。(笑い)


  時には、路上にも投げられていた。中年女性が、「夫が今年厄年」と言いながら、懸命に縁起物の「ちまき」を投げて貰えるように手を振っていたが、中々手にすることができなかった。中には、何本もの「ちまき」持っている若い女の子もいたのだが・・・・。

 誰もが欲しがっていた「湯立山のちまき」が、ついに私の周辺に投げられ、何人もが殺到したが、幸運にも手にすることができた。いいことが起こるかもしれないと願いつつ、わが部屋に飾って置くことにした。

 このような古い仕来りの「ちまき」投げは、大津祭の華やかさに彩りをそえる粋な計らいであった。

 最後の曳山が「月宮殿山」。見送り幕は、龍門滝山と同じのベルギーのブリュツセルで織られた毛綴で重要文化財に指定されたものである。この乗り手がもっとも祭りを盛り上げ目立っていたのでパチリと写真に収めた。 市街地を巡行し、正午ごろ中央通りに全13基が勢ぞろいした。
今日は、日ごろ行かない大津の古い町家に触れ、古の時代に舞い戻り、ゆったりとした気分になった。さらに、子供のころ味わった祭りの「ウキウキ」感の余韻にしたって、家路についた。
























Posted by nonio at 11:47Comments(0)