鈴鹿山系の鎌ケ岳に登った。湯の山を出発して長石谷を遡上し鎌ケ岳へ。下山は長石尾根をくだり、長石谷コースとの合流地点に到着した。登山を終えて、重い足取りで、三滝川沿いの舗装道路を歩いていた時だった。
突然、Sさんが指さした。その方向を向くと、不規則な石が噛み合った構造物が川を跨いでいた。
不揃いの石どうしが、お互いを支えながら、微妙にバランスを保ったアーチ石橋であった。人工的に石を積み上げたものなのか、それとも長い年月をかかって下部が崩落してアーチ状石橋が出現したのか。 二人で、しきりに騒いでいた。
通りかかりの外人が「Oh my God」・・・・・・。
日本語でいうと「なんてことだ!」、「どうしてこんなものできたの」との意味だろう。
この石橋は各部材の自重が圧縮力に変換され、両端の支点へうまく伝達されており、意外にも堅牢な仕組みになっているようだ。


突然、Sさんが指さした。その方向を向くと、不規則な石が噛み合った構造物が川を跨いでいた。
不揃いの石どうしが、お互いを支えながら、微妙にバランスを保ったアーチ石橋であった。人工的に石を積み上げたものなのか、それとも長い年月をかかって下部が崩落してアーチ状石橋が出現したのか。 二人で、しきりに騒いでいた。
通りかかりの外人が「Oh my God」・・・・・・。
日本語でいうと「なんてことだ!」、「どうしてこんなものできたの」との意味だろう。
この石橋は各部材の自重が圧縮力に変換され、両端の支点へうまく伝達されており、意外にも堅牢な仕組みになっているようだ。


タグ :アーチ石橋
ススキの名所として知られる曽爾(そに)高原は、奈良県東北部と三重県の県境にある。ここに、行く機会を狙っていた。が、滋賀県から遠く離れた辺鄙なところでもあり、季節の巡り合わせとかで、中々行けなかった。
ところで、私はどうしたものか、ススキに対していささか思い入れがある。
そろそろ秋も終わりの頃になると、赤っぽく染まった花穂から、白い綿毛が銀色に輝いてくる光景が、脳裏に去来してくる。そんな折、チャンスがめぐり、国道針インターから曽爾高原へと向かっていた。
曽爾高原内のゆるやかなスロープに沿ったススキの草原は、予想にたがわず、秋風と共に花穂を持ち上げ、風にそよいでいた。
かつてススキは、花穂が獣の尾に似ていることから”尾花”といい、”カヤ”ともいった。
この山奥の集落では、ススキは屋根を葺く材料や、炭俵の材料等、家畜の餌など生活に切り離せない植物である。中でも、カヤぶき屋根に最適。多分、耐水性に優れているススキを”カヤ(茅)”と言っていたのであろう。
カヤぶき屋根を作るには、特定の森林を切り開き、広いカヤ場が必要であった。毎年、山焼きを行い、木々の侵入を食い止めながら、ここを村人達で守ってきた。 人々の営みによって、ススキが覆い尽くす空間を出現させたのだ。
自然の景観は美しいと言われるが、僅かに残されたカヤ場は、より繊細で美しい。

「曽爾高原山灯り」と言って池の周囲900メートルを囲むように灯篭が立ち、風流な演出がされていた。



ついでに、 日本300名山で曽爾村の最高峰倶留尊山(標高1038メートル)にも立ち寄った。
亀山峠から、ヤセ尾根を北に向かって登っていくと小屋に至った。折角ここまで登ってきたこともあって、私有地の倶留尊山・二本ボソの入山料500円を手渡した。ここには簡易モノレールが敷設され管理人が行き来しているようだ。
二本ボソ山の岩頭に立ち、ここから鞍部まで降下、登り返して、頂上に立った。ここからの眺望は、標高1000m前後の山々が独立峰のように隆起する火山群が一望。亀山峠で目にした特異な景観をしていた鎧岳を探したが、分からなかった。



ところで、私はどうしたものか、ススキに対していささか思い入れがある。
そろそろ秋も終わりの頃になると、赤っぽく染まった花穂から、白い綿毛が銀色に輝いてくる光景が、脳裏に去来してくる。そんな折、チャンスがめぐり、国道針インターから曽爾高原へと向かっていた。
曽爾高原内のゆるやかなスロープに沿ったススキの草原は、予想にたがわず、秋風と共に花穂を持ち上げ、風にそよいでいた。
かつてススキは、花穂が獣の尾に似ていることから”尾花”といい、”カヤ”ともいった。
この山奥の集落では、ススキは屋根を葺く材料や、炭俵の材料等、家畜の餌など生活に切り離せない植物である。中でも、カヤぶき屋根に最適。多分、耐水性に優れているススキを”カヤ(茅)”と言っていたのであろう。
カヤぶき屋根を作るには、特定の森林を切り開き、広いカヤ場が必要であった。毎年、山焼きを行い、木々の侵入を食い止めながら、ここを村人達で守ってきた。 人々の営みによって、ススキが覆い尽くす空間を出現させたのだ。
自然の景観は美しいと言われるが、僅かに残されたカヤ場は、より繊細で美しい。

「曽爾高原山灯り」と言って池の周囲900メートルを囲むように灯篭が立ち、風流な演出がされていた。

ハイキングコースの上から、高原中央にひょうたん型のお亀池が一望

曽爾高原の地図を描いてきた幼い女の子

ついでに、 日本300名山で曽爾村の最高峰倶留尊山(標高1038メートル)にも立ち寄った。
亀山峠から、ヤセ尾根を北に向かって登っていくと小屋に至った。折角ここまで登ってきたこともあって、私有地の倶留尊山・二本ボソの入山料500円を手渡した。ここには簡易モノレールが敷設され管理人が行き来しているようだ。
二本ボソ山の岩頭に立ち、ここから鞍部まで降下、登り返して、頂上に立った。ここからの眺望は、標高1000m前後の山々が独立峰のように隆起する火山群が一望。亀山峠で目にした特異な景観をしていた鎧岳を探したが、分からなかった。



2017年4月9日、いなべ市と滋賀県東近江市の境界にある1,140mの「藤原岳」へ出かけた。福寿草が咲く時期になると、大勢のひとが押し寄せてくる山である。
「春には3日晴れなし」と言われるように、滋賀県はぐずついていた。が、太平洋側に面する三重県は晴れるとの予測に望みを込めて、無理気味だが出発した。
何はともあれ、春の短い命という意味合いから「春の妖精」とも人はそう呼ぶ福寿草に出会うには、出で立つタイミングが肝要。
聖宝寺道・大貝戸道8合目で合流し、その先は頂上へ達する代表的なコースを辿った。9合目辺りから石灰岩が露頭しだすと、福寿草に出合えた。
同時にガスってきた。天気予報は山嶺まで、保証してくれなかった。
まだ冠雪した山頂付近は肌寒く、その上視界が2~3m濃霧中、避難小屋を目指して、続々と人・ひとが登ってきた。 室内はぎゅうぎゅう詰め、入りきらないひとは屋外にあふれていた。勘定してないが、福寿草の花の数より訪れる人間の方が勝っていた。

「


これほどの多くの人が、雪解けに花をつけ、夏まで葉をつけると後は地下で過ごす気ままな福寿草に出合うため、往復6時間半もかけて、何故でかけていくのか・・・・不思議でならない。
今西弘子さんは、 花をどのようにイメージしているかを、現代日本の都市で生活する人に、10年ほど繰り返しアンケート調査を行っている。
花は美しいものというよりも、やすらぎや自然としてイメージしている人の割合が多い。
また、花を求める「感じ」を尋ねると季節感が一番強く求められ、やさしい感じ、可愛い感じ、清楚で質素な感じ、素朴で気取らない感じなども比較的強く求められている。これに対して、豪華な感じ、はなやかな感じ、派手な感じは求められていない。
野の花の雰囲気のある花と、品種改良して手をかけて栽培された花とでは、野の花の雰囲気のある花の圧勝であった。
・・・・・
多くの人は、人間のほうが少し我慢しなければならないようなことがあったとしても、より自然な形で花や緑とつき合っていきたいと考えています。美しくデザインされて飾られた花よりも、少し不格好でも生き生きと元気そうに、自由に咲いている花のほうに安らぎと自然を感じはじめているようです。
「花と人間の新しい関係を求めて」に記されていた。 現代の人達が苦労しても出向いてくる気持ちが語られている。同感だ。
では、人間はいつごろから花への関心や興味を持つようになったのであろうか・・・・。
花と人間の関係は6万年以上も前のネアンデルタール人が死者に花を手向けたことに始まるとされている。シャニダールの洞窟遺跡に埋葬された人の遺体の周りに多く花粉が発見されたことによって死者に手向けられた花であったと言われている。この時以来、人類は花が安らぎを与えてくれるものとして、意識し始めたようだ。
ところで、山野で人を惹きつけるために、花が大きかったり、色が多様であったり、場合によっては香りを出したりしているのであろうか。
そうではない。目立っているのは、主に昆虫に対してである。
花と昆虫の関係は古く、木の樹液が固まり 化石化した琥珀に閉じ込められた1億1000万年前の昆虫と花粉が発見されたことで、ハチが受粉に一役買うようになったのは約1億年前と言われている。
花は蜜を提供して昆虫に受粉をしてもうため、昆虫に気に入れられるよう形・姿に変化させ共進してきのだ。この関係は、恐ろしいほどの歳月が費やされている。
そこに割ってはってきたのが人間である。
人間と花の関係が築かれたのは、時間経緯からすると、ほんの昨日・今日の話である。
それも、人の身勝手な”癒し”と言うのか新たな視点から花と人間の構図が、新たに出来上がってきたのだ。
自然界に存在している昆虫も人間も生物と言う括りでは同じである。だから、花をみて、昆虫も人間も同じような感性を持ち合わせているのだろう。私事だが、一鉢だけ風ランを手元で育てたことがあった。花が咲くころ、夜々、可憐な姿で芳香を放ち魅惑されたと感じたことがあった。いずれにしても、花は、昆虫だけにとどまらないで、人類まで魅惑してくる不思議な魔力を持っているようだ。花は、昆虫的共進だけでなく、将来必ずや、人間も巻き込んだ新たな進化が生じるだろう・・・・。
ゆっくりと福寿草など自然を味わうには滋賀県側の茶屋川を遡行し、西尾根の秘境ルートで藤原岳を目指しては・・・。
「春には3日晴れなし」と言われるように、滋賀県はぐずついていた。が、太平洋側に面する三重県は晴れるとの予測に望みを込めて、無理気味だが出発した。
何はともあれ、春の短い命という意味合いから「春の妖精」とも人はそう呼ぶ福寿草に出会うには、出で立つタイミングが肝要。
聖宝寺道・大貝戸道8合目で合流し、その先は頂上へ達する代表的なコースを辿った。9合目辺りから石灰岩が露頭しだすと、福寿草に出合えた。
同時にガスってきた。天気予報は山嶺まで、保証してくれなかった。
まだ冠雪した山頂付近は肌寒く、その上視界が2~3m濃霧中、避難小屋を目指して、続々と人・ひとが登ってきた。 室内はぎゅうぎゅう詰め、入りきらないひとは屋外にあふれていた。勘定してないが、福寿草の花の数より訪れる人間の方が勝っていた。




これほどの多くの人が、雪解けに花をつけ、夏まで葉をつけると後は地下で過ごす気ままな福寿草に出合うため、往復6時間半もかけて、何故でかけていくのか・・・・不思議でならない。
今西弘子さんは、 花をどのようにイメージしているかを、現代日本の都市で生活する人に、10年ほど繰り返しアンケート調査を行っている。
花は美しいものというよりも、やすらぎや自然としてイメージしている人の割合が多い。
また、花を求める「感じ」を尋ねると季節感が一番強く求められ、やさしい感じ、可愛い感じ、清楚で質素な感じ、素朴で気取らない感じなども比較的強く求められている。これに対して、豪華な感じ、はなやかな感じ、派手な感じは求められていない。
野の花の雰囲気のある花と、品種改良して手をかけて栽培された花とでは、野の花の雰囲気のある花の圧勝であった。
・・・・・
多くの人は、人間のほうが少し我慢しなければならないようなことがあったとしても、より自然な形で花や緑とつき合っていきたいと考えています。美しくデザインされて飾られた花よりも、少し不格好でも生き生きと元気そうに、自由に咲いている花のほうに安らぎと自然を感じはじめているようです。
「花と人間の新しい関係を求めて」に記されていた。 現代の人達が苦労しても出向いてくる気持ちが語られている。同感だ。
では、人間はいつごろから花への関心や興味を持つようになったのであろうか・・・・。
花と人間の関係は6万年以上も前のネアンデルタール人が死者に花を手向けたことに始まるとされている。シャニダールの洞窟遺跡に埋葬された人の遺体の周りに多く花粉が発見されたことによって死者に手向けられた花であったと言われている。この時以来、人類は花が安らぎを与えてくれるものとして、意識し始めたようだ。
ところで、山野で人を惹きつけるために、花が大きかったり、色が多様であったり、場合によっては香りを出したりしているのであろうか。
そうではない。目立っているのは、主に昆虫に対してである。
花と昆虫の関係は古く、木の樹液が固まり 化石化した琥珀に閉じ込められた1億1000万年前の昆虫と花粉が発見されたことで、ハチが受粉に一役買うようになったのは約1億年前と言われている。
花は蜜を提供して昆虫に受粉をしてもうため、昆虫に気に入れられるよう形・姿に変化させ共進してきのだ。この関係は、恐ろしいほどの歳月が費やされている。
そこに割ってはってきたのが人間である。
人間と花の関係が築かれたのは、時間経緯からすると、ほんの昨日・今日の話である。
それも、人の身勝手な”癒し”と言うのか新たな視点から花と人間の構図が、新たに出来上がってきたのだ。
自然界に存在している昆虫も人間も生物と言う括りでは同じである。だから、花をみて、昆虫も人間も同じような感性を持ち合わせているのだろう。私事だが、一鉢だけ風ランを手元で育てたことがあった。花が咲くころ、夜々、可憐な姿で芳香を放ち魅惑されたと感じたことがあった。いずれにしても、花は、昆虫だけにとどまらないで、人類まで魅惑してくる不思議な魔力を持っているようだ。花は、昆虫的共進だけでなく、将来必ずや、人間も巻き込んだ新たな進化が生じるだろう・・・・。
ゆっくりと福寿草など自然を味わうには滋賀県側の茶屋川を遡行し、西尾根の秘境ルートで藤原岳を目指しては・・・。
所属 している山グラブの機関誌名が「福寿草」である。 日ごろこの言葉を耳にしているので、山仲間から、「雪が解ける頃、福寿草を見に行こう」とささやかれるとついその気になった。
福寿草が自生している場所は、藤原岳の九合目付近や霊仙山の西南尾根などの鈴鹿山系の北の方と決め付けていた。ところが、御在所岳より南下した入道ヶ岳で見られるというのである。
目指は、入道ヶ岳の二本松尾根と北の頭から伸びた北尾根に挟まれた井戸谷。非難小屋を通過後、通報ポイント5番と6番の標示板の間である。
兎に角、半信半疑でこの話に乗った。

椿大神社を通り越し、少し奥まった井戸谷の広河原に駐車。右にある道標から、椿神社の山の神を通過して沢に出た。この沢を登り詰めると井戸谷避難小屋に到着。目印のスタート地点である。
ここから注意深く通報ポイント5から6の標示板を探したが、思うように見つからなくドンドン登って行った。
その内、登りの山道に対して反対方向にしっかりした踏み跡を見つけたので、元気でよく気が利くSちゃんがこの脇道を偵察しにいった。
すると、「福寿草も人も・・・・」との声がした。
自生している福寿草の様子を見にきたおじさんに出会った。 地元なので、頻繁に来ているようだ。
「この花も盛りを過ぎ、1週間前ではもっとしっかり咲いていた」と話しかけてきた。
福寿草は、日中、晴れた日に花を開くが、気温の低い日や、夜間は花を閉じてしまう特性がある。終盤を迎えても、花弁の開きも十分でなくなるようだ。
「他のところにも福寿草が自生しているところが、ありますか」と尋ねると、面倒くさそうに「ここだけだ」。
「石灰が露頭しているところはここだけ」と説明。福寿草は石灰質の山肌でないと育たないのだ。 おじさんは、「まだ気になる場所がある」と言い残して、頂上に行かずに下山していった。
兎に角我々は福寿草に出会えて幸運だった。この微妙な分岐点を見逃す人達も多い。頂上で、「福寿草に出合えた」と確認して来た人もいた。
福寿草は幸福の「福」と長寿の「寿」の2文字を繫いだ、”めでたい”草である。
旧暦の元日に咲く、きわめて鮮やかな黄色い花なので、江戸時代に”福告ぐ草”ともてはやされた。その後、この語呂が悪いとして〝告ぐ”を〝寿”に差し替えられ”福寿草”になった。 このようにありがたい花名を持っているが、強い毒を持つアドニトキシンという成分を含んで自らを守っている。
芽が出 たばかりの福寿草はフキノトウに似ているので、誤食は禁物だ。
なんでも綺麗なもには毒が・・・。気をゆるさなように。




福寿草を観察後、頂上に向かった。アセビの群落の間の道を行けば、笹原になり一気に展望も開けた。三重県側の山では、最も人気のある山で、平日と言うのに、続々と隊を作ったチームがきていた。
下山は、北の頭から東へ延びる尾根を辿る北尾根コースを取った。結構長い下りだった。
福寿草が自生している場所は、藤原岳の九合目付近や霊仙山の西南尾根などの鈴鹿山系の北の方と決め付けていた。ところが、御在所岳より南下した入道ヶ岳で見られるというのである。
目指は、入道ヶ岳の二本松尾根と北の頭から伸びた北尾根に挟まれた井戸谷。非難小屋を通過後、通報ポイント5番と6番の標示板の間である。
兎に角、半信半疑でこの話に乗った。
井戸谷通報ポイント5番と6番の標示板の間に咲く福寿草

椿大神社を通り越し、少し奥まった井戸谷の広河原に駐車。右にある道標から、椿神社の山の神を通過して沢に出た。この沢を登り詰めると井戸谷避難小屋に到着。目印のスタート地点である。
ここから注意深く通報ポイント5から6の標示板を探したが、思うように見つからなくドンドン登って行った。
その内、登りの山道に対して反対方向にしっかりした踏み跡を見つけたので、元気でよく気が利くSちゃんがこの脇道を偵察しにいった。
すると、「福寿草も人も・・・・」との声がした。

「この花も盛りを過ぎ、1週間前ではもっとしっかり咲いていた」と話しかけてきた。
福寿草は、日中、晴れた日に花を開くが、気温の低い日や、夜間は花を閉じてしまう特性がある。終盤を迎えても、花弁の開きも十分でなくなるようだ。
「他のところにも福寿草が自生しているところが、ありますか」と尋ねると、面倒くさそうに「ここだけだ」。
「石灰が露頭しているところはここだけ」と説明。福寿草は石灰質の山肌でないと育たないのだ。 おじさんは、「まだ気になる場所がある」と言い残して、頂上に行かずに下山していった。
兎に角我々は福寿草に出会えて幸運だった。この微妙な分岐点を見逃す人達も多い。頂上で、「福寿草に出合えた」と確認して来た人もいた。
福寿草は幸福の「福」と長寿の「寿」の2文字を繫いだ、”めでたい”草である。
旧暦の元日に咲く、きわめて鮮やかな黄色い花なので、江戸時代に”福告ぐ草”ともてはやされた。その後、この語呂が悪いとして〝告ぐ”を〝寿”に差し替えられ”福寿草”になった。 このようにありがたい花名を持っているが、強い毒を持つアドニトキシンという成分を含んで自らを守っている。
芽が出 たばかりの福寿草はフキノトウに似ているので、誤食は禁物だ。
なんでも綺麗なもには毒が・・・。気をゆるさなように。
井戸谷の急登を登り切ったところで一休み

入道ヶ岳の頂上の鳥居から帰路の北尾根コースを眺める

山頂付近はなだらかな笹原にはまだ残雪

圧倒的な存在感のある鎌ヶ岳

福寿草を観察後、頂上に向かった。アセビの群落の間の道を行けば、笹原になり一気に展望も開けた。三重県側の山では、最も人気のある山で、平日と言うのに、続々と隊を作ったチームがきていた。
下山は、北の頭から東へ延びる尾根を辿る北尾根コースを取った。結構長い下りだった。
2013年1月12日(土)堀坂山・観音岳に出掛けた時、この掘坂山の続きにある見事な「高見山(標高1248.3m)」の鋭鋒を眺めることができた。
是が非でもこの三角錐の尖峰に発生する霧氷に出合いたいとの思いで、三重県松阪市と奈良県吉野郡東吉野村の境界にある高見山へ、2月6日出発した。天気予報からして「雪」を期待したのだが、自然はままならない。一日中、「しとしと」と降る小雨になった。 計画コースは小峠を経由して高見峠(大峠)から山頂を目指した。
旧伊勢南街道の小峠
高見山登山口バス停から少し戻り、民家の横から山裾に取りついた。冬季のこの時期、道は、凍りつき足元に注意を払いながら、慎重になるのだが、凍てつきも無く、辺りの様子を伺いながら、なだらかな尾根道をゆっくりと上って行った。
以前気づかなかったのだが、この登山路は旧伊勢南街道。古代から伊勢参宮の南街道であった。表示板には、「紀州・大和・伊勢を結ぶ塩の道、米の道・魚の道の交易路でもあり、かっては伊勢参宮の道であり又紀州徳川家が、江戸参勤交代の街道にこの街道を利用した」などと記されていた。古市跡や所々昔の石畳が残り風情があった。
更に進んでいくと、左手に雲母曲と書いて「きららひじ」と読む道標が現れた。意味ありげなところと思われたが、判らないままやり過ごして小峠にやって来た。ここにも高見山を詠んだ万葉集石上大臣と本居宣長の二首の歌が紹介されていた。この峠道は、古い時代先人が切り開いた由緒ある街道であったことを、改めて知った。そして、何時も思うのだが、こういった古道は、地形を配慮して無理せず高度を稼ぎながら峠へと導いてくれる工夫が凝らされていた。今では、訪れる人は限られるが、以前には多くの人達が行き来したのであろう。歴史的な情緒を感じられる街道であった。
吾妹子を いざ見の山を高みかも 大和の見えぬ国遠みかも
万葉集 石上大臣
きくがごと まこと高見の山なれば わが里見せよ雲居なりとも
本居 宣長

「小峠」から「大峠(高見峠)」にどうしても行きたかったのだが、「この先の工事箇所において山が崩落するおそれがあるため登山道及び村道への立ち入りを禁止します。東吉野村」との赤字の警告の立て札があった。仕方なく「小峠」まで引き返し、鳥居を潜り頂上に向かった。
例年では、「小峠」から急登になるので、アイゼンを装着するのだが、山道は地肌そのままであった。
鳥居を潜り、石幅の狭い急な階段が登り、尾根道にでると、まもなく平野か尾根伝いの道になった。登っていくとブナ林が広がり傾斜もゆるくなってきた。この辺りから樹氷が見られるのだが枝には水滴がつき、辺り一帯は雪すら見当たらないただの斜面。謂れのある国見岩、揺岩、笛吹岩など命名した岩があったが、興味もなく通過していった。

ここまで登ってくると冠雪も無く、霧氷をほとんど諦めていた。が、自然は予期しないことが突如起こり、いろいろ演出をしてくれるものだ。
山頂まじかの笛吹岩から上部にやってきた。突然、猛烈な突風が吹き上げてきたと思うと、辺りが過冷却された霧に蔽い尽くされ、まったく前が見えなくなってしまった。指の先が無感覚になりはじめたので、見ると手袋の表面に細く白色の糸状の氷ができていた。見ている間に霧氷が、枯れ草に出来上がっていった。風上側へ向かって羽毛状の霧氷が成長していった。半端な寒さに耐え切れず、頂上直下の非難小屋に飛び込んだ。
出来上がった霧氷を眼にすることがあったが、短時間に成長していく霧氷を見たのは初めての体験であった。

この小屋に長居は無用と一休みして下山にかかった。あたりは、打って変わって霧氷の華が咲いていた。

是が非でもこの三角錐の尖峰に発生する霧氷に出合いたいとの思いで、三重県松阪市と奈良県吉野郡東吉野村の境界にある高見山へ、2月6日出発した。天気予報からして「雪」を期待したのだが、自然はままならない。一日中、「しとしと」と降る小雨になった。 計画コースは小峠を経由して高見峠(大峠)から山頂を目指した。
旧伊勢南街道の小峠

以前気づかなかったのだが、この登山路は旧伊勢南街道。古代から伊勢参宮の南街道であった。表示板には、「紀州・大和・伊勢を結ぶ塩の道、米の道・魚の道の交易路でもあり、かっては伊勢参宮の道であり又紀州徳川家が、江戸参勤交代の街道にこの街道を利用した」などと記されていた。古市跡や所々昔の石畳が残り風情があった。
更に進んでいくと、左手に雲母曲と書いて「きららひじ」と読む道標が現れた。意味ありげなところと思われたが、判らないままやり過ごして小峠にやって来た。ここにも高見山を詠んだ万葉集石上大臣と本居宣長の二首の歌が紹介されていた。この峠道は、古い時代先人が切り開いた由緒ある街道であったことを、改めて知った。そして、何時も思うのだが、こういった古道は、地形を配慮して無理せず高度を稼ぎながら峠へと導いてくれる工夫が凝らされていた。今では、訪れる人は限られるが、以前には多くの人達が行き来したのであろう。歴史的な情緒を感じられる街道であった。
吾妹子を いざ見の山を高みかも 大和の見えぬ国遠みかも
万葉集 石上大臣
きくがごと まこと高見の山なれば わが里見せよ雲居なりとも
本居 宣長
旧伊勢南街道の表示板

「小峠」から「大峠(高見峠)」にどうしても行きたかったのだが、「この先の工事箇所において山が崩落するおそれがあるため登山道及び村道への立ち入りを禁止します。東吉野村」との赤字の警告の立て札があった。仕方なく「小峠」まで引き返し、鳥居を潜り頂上に向かった。
例年では、「小峠」から急登になるので、アイゼンを装着するのだが、山道は地肌そのままであった。
鳥居を潜り、石幅の狭い急な階段が登り、尾根道にでると、まもなく平野か尾根伝いの道になった。登っていくとブナ林が広がり傾斜もゆるくなってきた。この辺りから樹氷が見られるのだが枝には水滴がつき、辺り一帯は雪すら見当たらないただの斜面。謂れのある国見岩、揺岩、笛吹岩など命名した岩があったが、興味もなく通過していった。
国見岩、揺岩、笛吹岩を通過中の小雨に濡れた木々

ここまで登ってくると冠雪も無く、霧氷をほとんど諦めていた。が、自然は予期しないことが突如起こり、いろいろ演出をしてくれるものだ。
山頂まじかの笛吹岩から上部にやってきた。突然、猛烈な突風が吹き上げてきたと思うと、辺りが過冷却された霧に蔽い尽くされ、まったく前が見えなくなってしまった。指の先が無感覚になりはじめたので、見ると手袋の表面に細く白色の糸状の氷ができていた。見ている間に霧氷が、枯れ草に出来上がっていった。風上側へ向かって羽毛状の霧氷が成長していった。半端な寒さに耐え切れず、頂上直下の非難小屋に飛び込んだ。
出来上がった霧氷を眼にすることがあったが、短時間に成長していく霧氷を見たのは初めての体験であった。
頂上直下の非難小屋前の霧氷の枯れ草

笛吹岩付近の樹木に成長した霧氷

2013年1月12日(土)堀坂山・観音岳に出掛けた。この山は、滋賀県に隣接する三重県にあるのだが、はじめて聞く山名であった。この堀坂山(757.4m)は局ヶ岳、白猪山とともに「伊勢三山」または「伊勢の三つ星」と呼ばれ、また「伊勢富士」の別名を持っている。松阪の人達にとって、堀坂山は朝な夕なに仰ぎ見る山で、「ほっさかさん」の愛称で親しまれている。この日も、先生に引率された数十人の高校生、犬を連れた人、若夫婦から老夫婦と沢山の人達に出会った。
県道45号の堀坂峠から鳥居をくぐり、はじめはかなりの急登であるが、登り詰めていくと次第に楽になっていった。ほぼ30分程度で堀坂山の頂上に立てた。途中、大日如来・不動明などが祀られ、山頂にも「おんな権現」が祀られていた。この山は、近郷の村人が毎年雨乞い祈願の祭りが行われている信仰の山であった。

今回辿ったコースは、三重県松阪市の森林公園から観音岳605.9mに登り、一旦県道45号線の堀坂峠に下り、更に堀坂山をピストンした。

歳を重ねてくると、感動を覚えることも少なくなってくる。ただ、大自然に抱かれている時、心を動かされることがある。 体力も確実に衰えてくると、自分の存在もいつかは大自然に還元しまうことを意識し始めるようだ。
本来、ひとは大自然の「一部」であるのに、人間が作り上げた快適で便利な都市社会で生活するようになった。そこで繰り広げられたことは、地位や、財を獲得するため人間同士が競い、贅沢な生活を夢見て働いてきた。そして何もかも手に入れることができると信じてきた。でも、そこには、求めていた充実感は無かった。
大自然から生命を育まれたひとは、すでに組み込まれたこの潜在意識に導かれるのであろう。山などの風景に思慕を覚え、心休まる山にいくのであろう。老境になると、益々、大自然への傾注(帰依)が強くなるようだ。
眺望のよい山頂で、遠くにうねるような山並みを見るのが、山行の楽しみの一つにある。 私は近いうちに、この掘坂山の続きにある樹氷の「高見山」にいきたいとの思いで、高見台地の山々を眺めていた。
そのうち、仲間も一緒になって「高見山」を探しはじめた。
「あの山はなんと言う名前。あれでもない。これでもない。その横のピークがそうだ」とか言いながら探した。
ピークの鋭い峰を探し出すと、全員で感動し深い感銘を受けた。
仲間とのたわいない話だが、大自然が安住の地であるとの共通の認識を持った仲間にしか通じないかもしれないが、お互いに対象を見ながら心の弾みを分かちあえる誰かがそばにいて、感動を伝えながら満足していた。こうして、ひとつひとつ風景の画像を仲間と重ね持ちながら、大自然を一歩一歩と取り込み、大自然へ帰って行くのであろう。
この写真、鋭いピークが全員で「高見山」と断定した。間違っているかもしれない。でも、そんなことどうでもよかった。

大きな地図で見る
県道45号の堀坂峠から鳥居をくぐり、はじめはかなりの急登であるが、登り詰めていくと次第に楽になっていった。ほぼ30分程度で堀坂山の頂上に立てた。途中、大日如来・不動明などが祀られ、山頂にも「おんな権現」が祀られていた。この山は、近郷の村人が毎年雨乞い祈願の祭りが行われている信仰の山であった。
堀坂山の途中の大日如来像

今回辿ったコースは、三重県松阪市の森林公園から観音岳605.9mに登り、一旦県道45号線の堀坂峠に下り、更に堀坂山をピストンした。
観音岳から対峙している堀坂山を望む

歳を重ねてくると、感動を覚えることも少なくなってくる。ただ、大自然に抱かれている時、心を動かされることがある。 体力も確実に衰えてくると、自分の存在もいつかは大自然に還元しまうことを意識し始めるようだ。
本来、ひとは大自然の「一部」であるのに、人間が作り上げた快適で便利な都市社会で生活するようになった。そこで繰り広げられたことは、地位や、財を獲得するため人間同士が競い、贅沢な生活を夢見て働いてきた。そして何もかも手に入れることができると信じてきた。でも、そこには、求めていた充実感は無かった。
大自然から生命を育まれたひとは、すでに組み込まれたこの潜在意識に導かれるのであろう。山などの風景に思慕を覚え、心休まる山にいくのであろう。老境になると、益々、大自然への傾注(帰依)が強くなるようだ。
眺望のよい山頂で、遠くにうねるような山並みを見るのが、山行の楽しみの一つにある。 私は近いうちに、この掘坂山の続きにある樹氷の「高見山」にいきたいとの思いで、高見台地の山々を眺めていた。
そのうち、仲間も一緒になって「高見山」を探しはじめた。
「あの山はなんと言う名前。あれでもない。これでもない。その横のピークがそうだ」とか言いながら探した。
ピークの鋭い峰を探し出すと、全員で感動し深い感銘を受けた。
仲間とのたわいない話だが、大自然が安住の地であるとの共通の認識を持った仲間にしか通じないかもしれないが、お互いに対象を見ながら心の弾みを分かちあえる誰かがそばにいて、感動を伝えながら満足していた。こうして、ひとつひとつ風景の画像を仲間と重ね持ちながら、大自然を一歩一歩と取り込み、大自然へ帰って行くのであろう。
この写真、鋭いピークが全員で「高見山」と断定した。間違っているかもしれない。でも、そんなことどうでもよかった。
中央の鋭いピークが「高見山」

堀坂山・観音岳の地図
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