2010年11月09日 水争いの祇王井川
私が住んでいる野洲市には、祇王井川が市街地を縦断して流れている。季節によって多少水量が変化するが、涸れることなく常に流れている川である。 私が、この川にはじめて出合ったには、20年ほど前に野洲市に引越しのため、やってきた時だ。水草が流れに任せてうねうねしており、その水草の陰に急いで姿を隠す小魚のむれがあった。この光景を見て、ここに住む決心をする「引き金」になった。だが、当時の様子と比べると多少悪くなったようだ。
久野部東の住宅街付近には、東祇王井川と西祇王井川の分岐点がある。双方の川のレベルが違っているので、ラバーダムが設けられている。ここには鯉が放し飼にされている。また、親子の亀が同じ石垣によじ登り甲羅干しをしている姿も見受けられ、「すっぽん」まで時折見かける。
6月になると蛍が飛び飛び交っていることからして、たぶん蛍のエサとなるカワニナも生息しているのであろう。また、昨年、この場所より少し上流で、水中に白い花が点々とあることを見つけた。清流にしか自生しない梅花藻.には、驚いた。この祇王井川は、朝鮮人街道沿いに流れているが、上流も下流も分かっていないので、この川の源流から散策してみることした。
祇王井川の「井」の文字が気にかかった。流水や伏流水を取り入れる施設全般のことを「い、ゆ」と言い、その水路を「井川」「湯川」と言うらしい。つまり、人工の川である。 妓王寺縁起によると、平清盛に寵愛された祇王は、近江の国江部荘の出身と言われている。清盛の寵愛が深かったとき、水不足に苦しんでいた人々のため、祇王は清盛に頼んで江部荘に水路を引いてもらった。人々は大変喜び、この水路を祇王井と呼ぶようになったという。今から八百年余り前、承安三年(1173年)のこととされている。要するに、祇王井川は田畑用水路として江部荘がつくった川なのであるので、視点を昔に置き換えて眺めてみることにした。
祇王井川水源地
この祇王井川は、野洲川七間番から樋堰を通じて水が引かれていた。その取水跡に昭和52年記念碑が建てられていた。
この七間番(場)の地名は、野洲川堤防を護るため、一人で七間(12.7m)が割り当てられた。木や竹を植え堤防を固めてきたので、この地名が残っている。この辺りは水の恩恵を受けたが、かつ苦労もしたので、水に関わる地名が多く見られる。
かつて、野洲川は別名「近江太郎」と言われ暴れ川で、大洪水をもたらした。が、一方では、江戸時代の野洲川には78ヶ所もの井堰が造られ、中流から下流にかけて、びっしりと井堰が築かれていた。5年から10年ごとに起こった大規模な干ばつの度に絶えず水争いが行われたようだ。
史蹟 妓王井川碑
水源地近くの水路は生和神社まで流れ、ここで東・西に分流し、最後に新家棟川に合流する。この祇王井川のルートは、明治25年の地図に示した。
野洲市の滋賀県道26号大津守山近江八幡線を渡り、四ツ家付近で「史蹟妓王井川」と刻まれた石碑が立っていた。この付近で見つかった「領境大井川床限」と刻まれた小石柱も並んでいた。
妓王井川に関わる唯一残された道標である。
市三宅分岐
現在では、祇王井川に分流盤を設け、本流と市三宅の方面へ分岐されているが、昔は、祇王井川の下を潜って右から左へ流れていたようだ。この辺り、色々な水路があったようだ。
1670年の水論栽許図に埋樋・掛越樋・矢矧樋など当時の水路の様子が記載されている。水は稲作にとって最も大切もであった。農民は必死になって水の確保を行っていたようだ。
掛越樋
掛越樋とは河川の上を別の用水を通水させる装置であるが、祇王井川の上を通る掛越樋が大事に残されている。現在、水が流れていないようだ。
当時、この辺りには、色々な用水が張り巡らされていたようだ。この祇王井川の用水と区別させるため、埋設させたり、上を通させたり厳密に水管理がされていたことがうかがえる。
久野部の矢矧樋(やはぎ)
明治27年~32年にかけて、矢矧樋をめぐって久野部(久之部)と争論を生じていた。久之部が矢矧樋から多量の用水を取水しょうとして、江部庄三か村、祇王井矢矧樋につき水論の裁判が行われた。だが、久之部の主張が通らず敗訴した。
このような下流の江部庄(永原・北・中北)の三か村と上流の村と水利権をめぐって水不足のたびに争いが起こったようだ。
1670年、久之部より下流の富波澤村(富波乙)にある田地の用水をめぐって三か村が争った。三か村より「井口をふさがれ困っている」と訴えた。検使を派遣し究明したところ、三か村の申し立てが正しい事が判明し、祇王井は三か村の用水である事が認められた。その後、水論栽許図に裏書され双方に渡された。栽許図がその後の強力な先例のひとつとなったようだ。
祇王井川分岐点
生和神社裏で、祇王井川は西祇王井川と東祇王井川に分岐している。
この神社の横から奥にかけて、遊歩道が整備され、森林に囲まれ、落ち着いたところである。特に、夏場には涼を求めて憩いをとっている人を見かける。ここが祇王井川流域で一番美しいところだ。
永原の埋樋 家棟川(やなむねがわ)の河跡

祇王井川は、富波甲と永原の境で道路の下を潜って屋棟神社横を流れ出ている。昔は、この祇王井川は旧家棟川を暗渠木製伏樋で水を流していた。
家棟川は文字通り家の棟より高いところを流れていた天井川である。
家棟川の源流のある希望が岡流域は、花崗岩を主体とした山地である。雨が降ると、花崗岩質が風化した砂や細かい礫が、一気に押し流されてきた。繰り返すごとに河底は上昇し天井川になった。さらに、輪をかけたのが、田畑を冠水しないように人力で堤防を高くしたため、より一層天井川が形成した。その結果、川底が家の棟より高いところとなり、川を上らなければならなかった。明治26年この川底にトンネルが掘られたようだ。現在、この辺りに6棟の野洲市の市営住宅が建てられている。
新家棟川
東祇王井川は、旧朝鮮人街道沿いに流れて新家棟川に入る。昭和22年、家棟川は新家棟川となって高木、小南へと流路が変えられた。
西祇王井川(童子川)
生和神社の裏で分岐した西祇王井川は北東に流れて、中ノ池川に注ぎ、童子川と合流する。 童子川の名前の由来は、祇王井川の開削作業が難航していたとき、童子が現れて川の経路を示したという伝説がある。この西祇王井川は東祇王井川と合流し、琵琶湖へ。
祇王井川のルート

参考資料
平家物語と祇王 祇王井開削・祇王没後八百年
編集発行:野洲町立歴史民族資料館 1990年10月26日発行
気に入ったらクリック願います。

にほんブログ村

6月になると蛍が飛び飛び交っていることからして、たぶん蛍のエサとなるカワニナも生息しているのであろう。また、昨年、この場所より少し上流で、水中に白い花が点々とあることを見つけた。清流にしか自生しない梅花藻.には、驚いた。この祇王井川は、朝鮮人街道沿いに流れているが、上流も下流も分かっていないので、この川の源流から散策してみることした。
祇王井川の「井」の文字が気にかかった。流水や伏流水を取り入れる施設全般のことを「い、ゆ」と言い、その水路を「井川」「湯川」と言うらしい。つまり、人工の川である。 妓王寺縁起によると、平清盛に寵愛された祇王は、近江の国江部荘の出身と言われている。清盛の寵愛が深かったとき、水不足に苦しんでいた人々のため、祇王は清盛に頼んで江部荘に水路を引いてもらった。人々は大変喜び、この水路を祇王井と呼ぶようになったという。今から八百年余り前、承安三年(1173年)のこととされている。要するに、祇王井川は田畑用水路として江部荘がつくった川なのであるので、視点を昔に置き換えて眺めてみることにした。
祇王井川水源地

この七間番(場)の地名は、野洲川堤防を護るため、一人で七間(12.7m)が割り当てられた。木や竹を植え堤防を固めてきたので、この地名が残っている。この辺りは水の恩恵を受けたが、かつ苦労もしたので、水に関わる地名が多く見られる。
かつて、野洲川は別名「近江太郎」と言われ暴れ川で、大洪水をもたらした。が、一方では、江戸時代の野洲川には78ヶ所もの井堰が造られ、中流から下流にかけて、びっしりと井堰が築かれていた。5年から10年ごとに起こった大規模な干ばつの度に絶えず水争いが行われたようだ。
史蹟 妓王井川碑

野洲市の滋賀県道26号大津守山近江八幡線を渡り、四ツ家付近で「史蹟妓王井川」と刻まれた石碑が立っていた。この付近で見つかった「領境大井川床限」と刻まれた小石柱も並んでいた。
妓王井川に関わる唯一残された道標である。
市三宅分岐

1670年の水論栽許図に埋樋・掛越樋・矢矧樋など当時の水路の様子が記載されている。水は稲作にとって最も大切もであった。農民は必死になって水の確保を行っていたようだ。
掛越樋

当時、この辺りには、色々な用水が張り巡らされていたようだ。この祇王井川の用水と区別させるため、埋設させたり、上を通させたり厳密に水管理がされていたことがうかがえる。
久野部の矢矧樋(やはぎ)

このような下流の江部庄(永原・北・中北)の三か村と上流の村と水利権をめぐって水不足のたびに争いが起こったようだ。
1670年、久之部より下流の富波澤村(富波乙)にある田地の用水をめぐって三か村が争った。三か村より「井口をふさがれ困っている」と訴えた。検使を派遣し究明したところ、三か村の申し立てが正しい事が判明し、祇王井は三か村の用水である事が認められた。その後、水論栽許図に裏書され双方に渡された。栽許図がその後の強力な先例のひとつとなったようだ。
祇王井川分岐点

この神社の横から奥にかけて、遊歩道が整備され、森林に囲まれ、落ち着いたところである。特に、夏場には涼を求めて憩いをとっている人を見かける。ここが祇王井川流域で一番美しいところだ。
永原の埋樋 家棟川(やなむねがわ)の河跡


祇王井川は、富波甲と永原の境で道路の下を潜って屋棟神社横を流れ出ている。昔は、この祇王井川は旧家棟川を暗渠木製伏樋で水を流していた。
家棟川は文字通り家の棟より高いところを流れていた天井川である。
家棟川の源流のある希望が岡流域は、花崗岩を主体とした山地である。雨が降ると、花崗岩質が風化した砂や細かい礫が、一気に押し流されてきた。繰り返すごとに河底は上昇し天井川になった。さらに、輪をかけたのが、田畑を冠水しないように人力で堤防を高くしたため、より一層天井川が形成した。その結果、川底が家の棟より高いところとなり、川を上らなければならなかった。明治26年この川底にトンネルが掘られたようだ。現在、この辺りに6棟の野洲市の市営住宅が建てられている。
新家棟川

西祇王井川(童子川)

祇王井川のルート

参考資料
平家物語と祇王 祇王井開削・祇王没後八百年
編集発行:野洲町立歴史民族資料館 1990年10月26日発行
気に入ったらクリック願います。

にほんブログ村
Posted by
nonio
at
08:05
│Comments(
0
) │
野洲ぶらぶら
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。