2010年07月08日    石積みの似合う門前町坂本

 地図

  比叡山延暦寺の門前町として栄えた坂本の町には、何度となく訪れている。比叡山から古道「本坂」を下山した時には、この門前町を縦断するようにして最短距離の道を選んでは、JR坂本駅へ向かったものだ。また、琵琶湖一周などでもこの町を、ただ早足で横切っていった。

 若い頃のある夕方、坂本駅ケーブルをおりて、日吉馬場と呼ばれる県道の坂道を下り、早足で日吉大社の鳥居を通過していった。その折、色んな大きさの自然石を巧みに積み上げた素朴な“石積み”を見かけた。 その脇の水路をほとばしり流れていく谷水の様子が無性に気になった。初めてここに訪れた時であった。
この日吉馬場は、坂本町中で最も広い通りで、琵琶湖から比叡山の山麓に向かっている日吉神社への参道である。そして、比叡山頂にある東塔の本堂根本中塔へと繋がっている道でもある。

 日吉馬場参道を中心にして左右に幾筋かの小道があり、名前がつけられ道もある。それぞれの通りに石積みに土塀をめぐらした里坊が並んでいる。この里坊とは、長年、比叡山で修行を積んだ老僧が隠居されている住まいだ。あちこちで石積みを見かけた。

 ここは、比叡山から張り出した東麓は、坂本の町の際まで迫っており、琵琶湖に向かって沈んでいる。坂本の町は、東側に傾いている地形に出来上がった門前町である。この急傾斜を整地し住処とするには、石積みをしなければならないところである。

石積みの似合う門前町坂本
 
 ある時、この坂本の町を「じっくり」見て回ろうと、鶴喜ソバ屋のある”作り道”を当てもなく散策した。この蕎麦屋は、創業280年の伝統を誇る蕎麦打ち本家で、山上へ、ソバを仕出していた老舗である。かつては比叡山で五穀断ちした修行者が、断食の行を終えて、弱った胃を慣らす為に、蕎麦を持ち運んでいたと言われている。この裏道をウロウロしていた。

 石垣が見事な里坊が数多く残っている中でも、「滋賀院門跡」は近寄りがたい雰囲気をした構えをしていた。ひときわ背の高い石垣の上に白壁に囲まれて、その前通りには、ゴミは無論のこと、落葉1枚もなかった。 藤波阿闍梨が話されていたが、千日回峰の業を行っている時でも、作務といって掃除・洗濯も修行だと言っておられた。この町に住まわれている僧侶方々は、何時も掃除を怠ることなくされているようだ。この町を清潔に保たれている要素のひとつと思った。

 石積みの似合う門前町坂本 

 今まで、この石組みが、「穴太積み」と呼ばれていたことは知っていた。が、小生にとって深く知りたいとも思わなかった。 琵琶湖一周を試み、坂本を通過したとき、「穴太(あのお)町」という地名を通過していったが、ただの通過点でしかなかった。先も遠いので、出切るだけ早く目的地に到達したいとの思いが強かった。

 その後、野暮用で京阪電気鉄道石山坂本線の始発点坂本駅に乗り込んだ時である。松ノ馬場、その次、穴太無人駅に停車した時、この「穴太」表示が妙に身近に感じられた。この近くには石工の穴太衆と呼ばれる石垣職人の集団が存在していたことを意識し出した。

  この技術を持っていた穴太衆が、坂本の大字「穴太」の一帯に室町時代の末頃、居住し、山門(比叡山)の土木営繕的な御用を勤めていた。その特色は加工しない自然のままの石面を巧みに用いて石積みの面を構成し自然の美しさを持たせる技法である。
高い技術を買われて、安土城の石垣を施工したことで、織田信長や豊臣秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになった。それ以降は江戸時代初頭に到るまでに多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られた。彼らは全国の藩に召し抱えられ、城石垣等を施工するようになった。

 一見粗野に積み上げただけのように見えるが、現在でも石積みが崩れず原型を保っている。詳しくは分からないが、見た目と違って、不等沈下・排水性など工夫をこらし、隠れたところに配慮がされた強固な積み方を会得していたのであろう。
 
 この結果、大小の整形していない自然の趣をそのままに使った自然石を巧みに積み上げた「穴太積み」が出来上がり、堅牢な“石垣”と樹木の緑が坂本を代表する景観となっている。

石積みの似合う門前町坂本 

 坂本の景観を作り出している要素として忘れてはいけないのが、清冽な谷水である。この比叡山は主峰の大比叡岳(標高843.3メートル)をはじめとして標高約700メートル前後の山なみが続いている。この山々から、大宮川、権現川などの小河川によってつくられた扇状地に坂本の町がある。東西約1km 長さ4~5kmの細長い町だ。谷水はこの幅の狭い坂本の町を一挙に、流れ下っている。

 比叡山の懐に抱かれ鬱蒼とした樹木に囲まれた日吉大社には、清らかに澄んだ大宮川が流れ、大宮橋付近で取られた水は大社の東に広がる里坊に配水されていた。また、この「東本宮本殿」横には「亀井水」と呼ばれている湧き水があり、年中涸れることがなく湧き出していた。ここには、地元の人がペットボトルを持参して自由に境内に入り、この水を汲みに訪れていた。無論、無料である。日吉大社自体は、水が豊富で境内を水路が回って水に潤わされたところであった。 
 
 大宮川・権現川などの水と比叡山の山麓という恵まれた地形から、「穴太積み」のある坂本の町が出来上がっていることを改めて知った。
 
 




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Posted by nonio at 17:33 │Comments( 0 ) 滋賀を歩く
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