2020年11月23日   小さい秋を求めて

 
 地軸のちょっとした傾きが、四季のうつろいをうみだしたのか・・・・。

 小さい秋を求めて、山野の探景に出かけることにした。
生きとし生けるもの、すべて平等に秋がやってきていた。
言っても詮無いことだが、「すべて国民は、法の下に平等」と明記しなければならない人間社会とは大違いだ。
 
数センチに達しない、いたいけな草木も、秋を感じ取っていた。
紅葉や黄葉して冬支度。また、次の世代へとわずかに実もつけていた。

 
 大木にしがみついているツタ類を、広角レンズを装着のまま撮っていた。ピント合わせや深度調整に手間取っていた。

「何を撮っているの」と近寄ってきた人がいた。
「小さな秋をとっている」と返答すると怪訝な顔をしていたが、ツタの可憐な黄葉した葉っぱを見て納得したようだ。
このツタの名前がわからなかったので、そのひとと「ツルもみじ」となづけた。

 誰も、気に留めない小さな山野草に興味を示したので、少し話し込んでみた。
このあたりの生息しているランの話に及んだ。春ラン・柿ラン・コクランなど・・・・。
自生している場所が、驚いたことに、私の把捉しているところにほぼ一致していた。

この人は旧知だった。 
旧知と言っても私の一方的なこと、野洲図書館ギャラリーの「一本の木」の写真を通して。 





  




 
 




タグ :小さい秋


Posted by nonio at 07:23Comments(0)四季三上山

2020年10月12日   畑の周りにヒガンバナ

 
 昨年に続き、ヒガンバナの開花が遅れ気味だ。

水田が広がっているところに一か所だけ、周囲より盛り上がった台地状がある。そこでかなり昔から野菜が育てられてきた。私もその一角を借りて家庭菜園をしているのだが、モグラが住み着き厄介である。もぐらは穴を掘るだけで、直接的な被害はあまりない。問題は、その穴を通って野ネズミが、野菜を食い荒らすので困ったものである。

 長年、畑をしているおばさんは、その対策として、畑の周りに「ヒガンバナ」を植え付け、天敵から田畑を守っている。

「ヒガンバナを植え付けて効いているの」と、おばさんに聞いてみた。
「皆さんが言うほど、私のところでは野菜の実害がないなぁ~」。
この草は、毒があるので大丈夫と聞くと、
「あまり気にしてない」と、至って元気である。でも、私はヒガンバナを決して植え付ける気がしない。

 茎がニョキニョキと出始め、咲くのを今か今かと思っていると、一つのつぼみが開くと全部が競って深紅に染め上げた。

花茎が伸び始めて1週間。開花して1週間。それで、花も茎も枯れてしまった。否応なしに秋の気配を享受させられた。








タグ :ヒガンバナ


Posted by nonio at 08:52Comments(0)四季家庭菜園

2020年04月10日   シクラメンのフェイク

 手狭な私の部屋に友達からもらった「風らん」の鉢を置いたことがあった。
「風ラン」と呼ばれているのは、「風を好む」ということなのであろう。風に運ばれて、樹上などの風通しの良いところで、暮らす風流な蘭だと思っていた。が、この生き物、只者ではなかった。

 6~7月梅雨頃になると可憐な白色の花を精一杯咲かせた。次いで夕闇が迫る頃になると妖艶なる“かおり”を室内に満たし、私を引き寄せた。
そもそも「風らん」と夜行性昆虫は、気の遠くなるほどの歳月を費やし共進してきた間柄。だのに、「人」まで魅了してくるとは。

 この相棒、長年あれこれ世話を焼いたが、枯死した。

 最近、冬の鉢花の女王とも呼ばれている「シクラメン」の小鉢を身近に置いてみた。
椋佳氏の歌詞の「シクラメンのかほり」から、紅色かかった花が咲いたので、仄かな芳香を期したが、何もなかった・・・・。

 この題名は「・・・・かおり」と思っていたのだが、しっかり読むと「・・・・かほり」。小椋桂の奥方の名前は「桂穂里」。
タイトルから怪しい『小椋桂いたずらに』新潮文庫P90~93をAmazonから取り寄せ、パラパラめくっていると、興味深い記事を見つけた。

   『“シクラメンのかほり”“薄紫のシクラメン”は実在しないものです。これは完全に遊びです。言葉遣いに関しても、「清し」「季節がほほをそめて」「暮れ惑う」等は皆、北原白秋の詩からの借用です』と、本心を吐露していた。
 どうも、伝えたかったことは、未解決の問題が容赦なく過ぎて行く不安定の様子を“時が追い越してゆく”との言葉で言い表したかったようだ。
これに二人を追加したことによって恋歌となり、思わぬ方向に進んだようだ。

時が二人を追い越してゆく
呼び戻すことができるなら
僕は何を惜しむだろ う


 作詞・作曲した小椋佳さんが「この歌が僕の代表曲になるのでしょうか 何か物足りない気がしているんです 未だになぜこの歌が一番評判になったのかわからないです」と綴られている。 1975年に大ヒットし、日本レコード大賞、日本歌謡大賞、FNS歌謡祭などで最優秀グランプリを受賞した。

 「偽り」に固められた「シクラメンのかほり」であった。が、こんな楽しいフェイクはいかが!

 いまや、世界へ広がりつつある新型コロナウイルスによって、新聞・TV・ラジオもずっとコロナウイルスで持ち切り。この不安な状況下では、「トイレットペーパーが不足する」とのフェイクニュースが出た。

 2/27午前10時「トイレットペーパーが中国から輸入できず、品切れになる」という投稿に火がついた。「大半が国産だよ」「落ち着いて」といったデマを否定する投稿が、翌2/28までの2日間で累計32万件にも達した。が、デマと分かりながら、トイレットペーパーの買い占め騒動に発展。 火消が、むしろ、火勢を強めたデマ否定リツイートだった。

 人は噂話が好きで、信じてしまい、色んなことが起こるものだ。

 ところで、全世界で1200万部売れたという「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著を読んでみたら。
10万年前の地球にネアンデルタール人など6種類の人類が生存していた。その中で、なぜホモ・サピエンスのみが唯一生き延び、現代文明を築いたか?我ら祖先のホモ・サピエンスは、特別優れた能力を持ち合わせていなかったが、噂話が好きだった。

 
 















Posted by nonio at 06:21Comments(2)四季気になるニュ-ス

2019年11月21日   畑の害虫に異変

   野菜作りは、植物の生長を通して自然との一体感を得られ、何よりも、四季の移ろいをしっかりと感受できる。そういうことで、止めることもなく、何十年も続けているのかもしれない。
 野菜作りをすると判ることだが、害虫とのおつきあいでもある。葉っぱは穴があいたり、果実は完熟するとかじられたり、これからだと思っている矢先に茎が立ち枯れたりする。 
 ところで、店頭に並ぶ野菜は、立派できれいだ。
作ろうと思えば、せっせと農薬をまき、化学肥料をふんだんに施肥すればいい。そんなもの食べたいと思うかなぁ~どくろ

 サツマイモと云えば、“鳴門金時”と言われる。“安納いも”は焼き芋屋さんがもっぱら扱っていると聞いてから、これを育てている。
今年のさつま芋の出来が悪かった。いくらか野鼠にもっていかれたが、まともなものは数本だけ。いつも出合うおばさんの畑でも「今年は余りとれないネ」といっていた。

 最近、何かおかしい・・・・・。
白菜の大敵の「シンくい虫」。中心の新芽を食い荒らしてしまい、どうしょうもない。だから、葉っぱが巻きだし始めた頃に、手でつまみだすのだが、今年全くいなかった。
 玉ねぎのベト病だが、どこかの畑で発生すると、カビの胞子が風などで飛んで、瞬く間に蔓延してしまうのである。枯れ始めた葉っぱは除去するが、手のほどこしようがない。この状態が最近4~5年続いていたのだが、昨年、ぴたりとなくなった。

 田畑の害虫は縄文時代の終わりから弥生時代からずっと続いている嫌な存在ではある。が、内心は強い嫌悪感を持っているわけでもない。自然界の同じ生き物である。 単なる偶然かもしれないが、最近の地球環境の変化に戸惑っているのであろうかiconN05

いつもは、干し芋をつくるのだが、あまりにも少ないので、「芋けんぴ」に挑戦してみた。美味しかったけど、パリパリ感が不足・・・・一工夫が必要だ。


 



Posted by nonio at 11:19Comments(0)四季

2019年09月11日   醒ヶ井の梅花藻に誘われて

 
 TVで「醒ヶ井の梅花藻が8月末まで見頃」と報じられていたので、妻と出かけた。 JR 醒ヶ井駅前から交差点を南へ行きすぐに左折、道なりに進むと「観光客様無料駐車場」という看板を見つけ、自動車を停めた。 地蔵川沿いの中山道は、昔ながらの風情のあるたたずまいが並んでいた。朝が早かったのか見物客も少なく、ひっそりしていた。

 ゆったりと散歩していた上品な年配の女性が親しげに、 
「水面に顔を出して咲く花は、梅の花に似て可愛いネ」と話しかけてきた。
 私は、この花は水の中で咲く“水中花”と決めつけていたので、「みなもで咲く」とは何となくしっくりしないなぁ~と思っていると・・・・(沈黙)。
言外を察したのか「でもネ、湧き水が多くなったときには、花が水中に沈んでしまうの」と付け加えた。花は受粉を目的として咲くのだから、常時水中にいるもでないと心の中で、自問自答した。

 間を置いて、TV画面では赤い花が見えていたので、「梅花藻は可憐な赤い花も咲く」と尋ねてみた。

 「ピンクの花は、さるすべりの木の花だヨ。上流から流れてきたもの。流れを調整して、白い梅花藻に添ってこの花びらが自然に咲いているようにしているノ。綺麗でしょう」。だが、私は、敢えて写真に収めなかった。
 
 「居醒の清水(いさめ)は、梅花藻を育てているが、美味しい醤油もそだてているヨ」と。
この女性は、程近くで、創業110年にもなる老舗の大女将であった。






 











Posted by nonio at 17:32Comments(0)四季山野草

2019年07月20日   滋賀のアジサイ園を巡る

 
 アジサイは、誰もが認めている梅雨の季節に似合う花である。ところで、梅の実の熟する頃に降る雨を「梅雨」と書き記すのは、アジサイにとってしっくりしない。「雨、雨、アジサイ雨」の歌詞から一層のこと、「紫陽花雨」でいかがでしょうか・・・・。

  昨年は、半野生したガクアジサイに群がる熊蜂を追ってみた。今年は、滋賀県で気に入ったアジサイ園を3~4か所選び出し、日毎丁寧に見てまわることにした。

 余呉湖あじさい園・水辺に広がるもりやま芦刈園は、その規模10000株と言われ、大勢のひとを集めていた。大型バスでも乗りつけて。

 余呉湖畔に広がるアジサイ園には、青・赤の手毬アジサイが主に植えつけられていた。特別珍しいものでもないが、昨年に続いて赴いた。この湖は別名「鏡湖」とも呼ばれ、アジサイ越しの吸い込まれるような鏡の世界に惹きつけられたからだ。
湖面が太陽から放たれる光線によって様々な紋様を映し出し、湖面に穏やかに吹きつける気まぐれな風が、まだら紋様のさざなみをつくりだしていた。 あれこれカメラアングルを変え求めた。時間のたつことも忘れて。

 守山の芦刈園のアジサイは、外国から色とりどりの豪華絢爛に品種改良されたものが里帰りして、華やかさを増していた。 湖南エリアに位置する芦刈園は、アジサイ越しに見える端正な比叡山・三上山の山容が、画になるところであった。 他には、読売新聞に掲載されていた川沿いの宮荘紫陽花にも訪れた。

 さて、今年はいきなり、東北北部が梅雨入りとなった。西日本の入梅がかなり遅れ、花もかなり傷んでいた。そんな中、どうしても訪れてみたいと思ったのが、鈴鹿山脈の西山腹に在る湖東三山のアジサイ。

 まず、「七段花」や「白まいこ」の珍しい品種も見られるとのことで、西明寺へ赴いた。
 
 受付の女性にアジサイについて尋ねると、「数年前に鹿に喰われて全滅しました」。───殺生ができない山寺では、積極的な対応ができないのだろう。───
近くの金剛輪寺に行くようにと勧められた。

 紅葉の時期と違って、金剛輪寺前の大きな駐車場はガランとしていた。いつもは参道を辿って山門から本堂、三重塔へと歩いていくのだが、入園料を支払い、本堂まで自動車で乗り付けた。

 山深い金剛輪寺本堂付近は、入梅が遅れても水の霊が住んでいるか、生き生きとした青色の手毬アジサイが育っていた。
そもそも、あじさいとは、あづ=あつ(集)、さい=さあい(真藍)から、青い花が集まっているという意味から来ている。 そんな事から、清らかさと楚々とした味わいを兼ね備えた青色アジサイは、古くから日本人に慣れ親しまれてきた。 本堂が、信長の焼き討ちの難を免れたと云う歴史の重みにも呼応できる紫陽花とも思えた。
 
 居合わせたのは、樹木に囲まれ日陰を好むアジサイを世話されていた上品なおばさんだけ。物音もせず、辺りは静まりかえっていた。ここは、神秘、静寂、安心感が漂う青色アジサイが住みやすい舞台であった。
 
 この森閑に、 つくづくと付き合った。



















Posted by nonio at 10:43Comments(0)四季

2019年06月30日   滋賀の「麦秋」に身を置く

 
 滋賀には、「広々とした田畑が広がり」、 開放・爽快に満ち満ちていることが心地よく、心穏やかに暮らせるところだと・・・・。
 カメラを携えて京都の旧跡名所に訪れていた時、「どこから」と聴かれ、滋賀県からと答えると、そのように言われた。

 今年の梅雨入りが大幅に遅れ、大地はカラカラ。
たわわに実った麦はいよいよ黄金色に染まった。むせるような匂いを発し、穂が爽やかな風に靡いていた。

ゴッホの絵を彷彿させる爛熟した麦の穂波の草いきれ


 麦が、収穫期を迎えた初夏の頃の季節のことを、麦秋と呼んでいる。この読み方は「ばくしゅう」である。この呼び名は語調のひびきもよく受け入れやすいが、初夏なのに秋の文字とは、戸惑いをぬぐえない。

 秋という漢字は穂のある穀物と云う意味の「禾」と収める意の「火」組み合わせてある。秋は“熟禾を取り入れる時“を表した文字である。成熟・収穫の意味合いから、秋の文字が使われていることは解かるが、二次的な解釈をしなければたどり着かない。───どうしてもしっくりしない───。

 一層のこと、四季の移りを軸にして、「麦夏」にしてはいかがなものか。

三上山を背後に麦秋色の麦畑と新緑色の青田のコントラストが見事
 







Posted by nonio at 09:37Comments(0)四季

2019年05月11日   ふれあい鯉のぼり祭り「真野」

 
 毎年4月中旬~5月中旬ごろになると、琵琶湖大橋を渡って、「途中」までの道中で、鯉のぼりを目にしていた。

 うねうねと曲がった真野川堤防沿いに鯉のぼりが、その数100匹もいるらしい。それも、毎年新しい鯉のぼりを製作されている様である。
ここ真野は元々が「風の通り道」になっているのであろう、清々しい朝日の中で、元気よく鯉のぼりが空に向かっていき良いよく泳いでいた。

  






Posted by nonio at 05:53Comments(0)四季

2019年05月08日   花が見かけない鎌掛谷ホンシャクナゲ2019年

 
  4月24日三上山の麓にある滋賀県立近江富士花緑公園の「シャクナゲの森」にでかけた。植物園の東側斜面に和・洋の色とりどりのシャクナゲが咲き誇っていた。気に掛けていた県花のホンシャクの花弁も見かけたので、5月初旬、久しぶりに日野町の「鎌掛谷ホンシャクナゲ群落」に行く気になった。

 入口で、保全協力金として 大人400円を徴収された。
受付の女性から半券も切りとらずに入場券を手渡され、「この券は来年も使える」と、分からないことを言われた。

 取り敢えず、シャクナゲ渓まで自然歩道を歩いている内に、その意味合いが判ってきた。「昨年・一昨年は咲いていたが、今年は花の付きが悪い」との情報を写真仲間から得ていた。が、予想外の惨状に驚いた。

 ここには、約4万㎡に2万本のホンシャクナゲが咲くとのふれこみである。
谷間一面に淡紅色に染め上げていると勝手に想像していたのだが・・・。

 私の見立てでは、咲いている樹が50本も満たない。深い谷合の陽の当らないところで、わずかに花をつけていた。最も、立派な花をつけていたのは、シャクナゲ渓まで1㎞の距離を歩くまでもなく、皮肉にも入口の手前にあった。

 手つかずの入場券を手渡したのは、誠意を示したかったのであろう。

 


 余談になるが、山行している小生のシャクナゲの関わり方は、遠くからそっと観察するのではなかった。

 自生しているシャクナゲ群落は樹々が絡み合い、行き手を阻む。かき分けかき分け、時には押し倒さなければ通り抜けない。このような淡紅色に染め上がった群落の中で、花弁に触れ、まじまじと見てきた。


 



 

 



Posted by nonio at 07:56Comments(0)四季山野草

2019年04月19日   桜ぶらり旅

 
 桜と云えば、ソメヨシノ。

「満開だなぁ~」と思っていた矢先に、くすみだす。
その上に、一斉に咲き一斉に散る。
出来れば、バラバラで咲いてほしいのだが・・・・。

ことしは、滋賀を駆け回った。





















Posted by nonio at 05:47Comments(1)四季樹木