2012年12月23日    三島由紀夫が見た浮御堂

 
(三島由紀夫「絹と明察」新潮文庫)
三島由紀夫が見た浮御堂
  11月上旬、「金曜ウォーキング」の仲間3人で「野洲・堅田琵琶湖縦断ウォーク」を行った。コースは、JR野洲駅を起点として野洲川の堤防沿いの道路を北上、琵琶湖に向かった。 さらに、河口よりやや西方にある対岸の堅田と結ぶ琵琶湖大橋を渡り、JR堅田駅に到った。帰りは、バスによりJR守山駅経由で帰宅。今回の目的地は浮御堂を訪れることであった。

 このウォーキングに出掛ける前に、仲間から『三島由紀夫「絹と明察」の小説に当時の浮御堂についての様子が描かれている』と聞いていた。どうも、三島の小説は難解だ。のっけから「存在と時間」のハイデッガー触れられ、先が思いやられたが、浮御堂に関する情景が描かれている記述のみ追ってみた。
更に、描かれている時期は、いつごろだろうか調べてみると、三島は、昭和29年に起こった近江絹糸争議を題材にした「絹と明察」を起稿するため、昭和38年8月~翌月6日滋賀に取材に訪れている。つまり、多少脚色されているかも知れないが、ほぼ50年前、作家三島が、浮御堂周辺を眼にした光景を記した箇所を抜粋し、当時の様子に慕ってみた。

 現在の浮御堂辺りの河畔は、護岸工事が行き渡り、蘆もなくすっきりしていた。堅田港の桟橋には、鍵が付いた金網の扉が備えられ、あまり使われている気配も無いようだ。この堅田港付近より見える浮御堂は、特徴のあるそりのある屋根部分だけだ。蘆のあいだの破船はないが、小船が陳列されているかのように意味ありげに置かれていた。
 
 「桟橋(さんばし)につく。左方の繁(しげ)みから、浮御堂の瓦屋根(かわらやね)が、その微妙な反(そ)りによって、四方へ白銀の反射を放っている。町長が桟橋へ出迎え、駒沢に慇懃(いんぎん)に挨拶をし、大社長連へいちいち名刺を出して廻った。それが彼の引き連れた出迎えの人たちの央(なか)だから、桟橋はひどく混雑し、端のほうの人は落ちないように前の人の背中につかまっていた。
 町長の先導で、一行は窄(せま)い堅田の町をとおって、浮御堂のほうへ歩きだした。(略)ほとんど蘆(あし)におおわれた川面(かわも)にかかる小橋をわたる。蘆のあいだに破船が傾き、その淦(あか)が日にきらめき、橋をわたる人の黒っぽい背広や黒のお座敷着は、袂(たもと)の家の烈(はげ)しいカンナや葉鶏頭の赤によく適(うつ)った。

      
  護岸からの浮御堂
三島由紀夫が見た浮御堂


堅田港の周辺 
三島由紀夫が見た浮御堂

                          右側に見えるのが大津本堅田郵便局
三島由紀夫が見た浮御堂 
三島が通ったと思われる道路を辿っていった。今では自動車が通るには狭いが、当時では普通の道路であったのであろう。右手に郵便局があり、その道を突き当って、左折すると、竜宮城の門に似せた浮御堂があった。堅田港から浮御堂までの位置関係は当時と同じようだ。

 郵便局の支店長に話を聴くと親切に教えてくれると友人から聞いたので再びこの場所に訪れた。「郵便局の建物は、豊郷小学校の保存活用問題で話題となった有名な建築家ボーリズが造ったようである。だが、昭和45年、先代が立て替えた。その当時は、擬宝珠(ぎぼし)のある木造の階段があり、2階の集配場には、多くの女性が働いていた」と当時を懐かしむように支店長が、振り返っておられた。
 一行は軒先に午後の日ざしが当った古風な郵便局の前をとおった。まだ去らぬ燕(つばめ)の巣も軒にあって、乱れた藁(わら)の影を壁に映していた。その道を突き当って、左折すると、そこがもう浮御堂である。(略)

 それは柴野大徳寺派の禅寺で、海門満月寺と称し、十世紀のおわりに横川の僧都(そうず)恵心が、湖中に一宇を建立(こんりゅう)し、千体仏を安置したのにはじまる。竜宮城の門によそえた小さな楼門のところで、住職が一行を出迎えた。松の影に充ちたせまい庭先に、すぐ湖へ突き出た浮御堂へ渡る橋があった。阿弥陀仏千体の半ばは、湖へ向かって、暗い御堂のなかに簇立(むらだ)ち、そこの欄干からは、対岸の長命寺や、遠く近江富士を眺めることができた。


竜宮城の門の似せた浮御堂
三島由紀夫が見た浮御堂

湖へ突き出た浮御堂
三島由紀夫が見た浮御堂

                                 「ヨシ群落保全区域」
三島由紀夫が見た浮御堂 現在、浮御堂周辺にはまったく蘆が見られないが、堅田港より琵琶湖大橋側のところに、2m以上のヨシが繁茂していた。この一画には「ヨシ群落保全区域」が設けられ、水質浄化や生態系を保全するためヨシ原の復元活動が行われ、当時の原風景を彷彿させていた。 欄干から身を乗り出して、山口紡績の社長が若い芸者と言い争っている。そこから見下ろす汀(なぎわ)には、蘆のしげみが絵巻の雲のような配置の妙を見せ、その蘆の根を二三十センチにも及ぶ透明な魚が泳ぎ抜ける。その影は浅い水底の、薄茶の泥の上に閃いた。

 建て込んだ浮御堂の前には、大きくはないが観光客用の駐車場も備えられ、観光地化されていた。作家三島が描いた情景には、味わいのある近江の情趣がそこはかとなく伝わってくるが、この地には、すでに昔日の風情はなくなっていた。
浮御堂前の駐車場
三島由紀夫が見た浮御堂



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Posted by nonio at 09:12 │Comments( 0 ) 滋賀を歩く 書籍
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