歳を重ねてきても、自分を自然の中に置くようにしている。それも高山に出かけるより、身近な三上山に出向くことが多くなった。この山、結構岩場が多い。何回も訪れていると、どこに岩があり、足をどう運べば、最も簡単に登り切れるかまで分かってくるものだ。何より、しみじみとした四季の移ろいも楽しみにしている。
生命あふれる初夏の季節になると、三上山のあっちこっちで、「シダ」が一斉に芽吹いてくる。中でも、希望が丘側の裾野の林床には、溢れんばかりに生い茂り、脇役が主役になっていた。
昨年までの濃い深緑色の葉色をした親の葉っぱから、一本の茎が、立ち上がり、その先端から新たに左右に一対の葉がすらりと伸びていた。この一帯は若葉によって黄緑色の大海原となっていた。 シダとは、葉が垂れている姿と結びついて「下垂れる」という意味である。が、この溌剌として伸び盛りの若葉の姿は、横に限りなく真っ直ぐであった。
一つひとつの若葉が、一斉に私を見詰めるようで嬉しくなる。時たま「イケズ」な向きをしているものもあるが、人間ほどでない。お互い僅かな光を分けあって住み分けながら、日が射す方向に行儀よく開いていた。
いずれの角度も同じ120度位であった。規則正しく同じ角度をしているのは、この植物にとっては大事なことなのであろう。この幾何学模様は神秘に満ち溢れていた。このようにして毎年葉を延ばし、2枚の葉の段が何世代か積み上がっていた。 写真に切り取った光景は、何時頃から始まったのであろうか。私の一生だけ ・・・。いや気の遠くなるほど太古から繰り返されてきた光景なのであろう。昨日今日、知った私が、あれこれ詮索するのが、烏滸がましい。
この山に来ると、色んな人に出会う。子供ずれの家族一家のハイキング、本格的な登山前のトレーニングで来る人、日課として来る人といろいろだ。私は、身体を鍛えるのでなく、ただ健康を維持するためである。
美しさに目を奪われ、シダの写真を懸命に撮っていると、「何を調べておられるのですか」と知人が近寄ってきた。
「シダだヨ」と返答すると、
葉っぱをひっくり返しながら「シダに違いないが、裏が白いので、ウラジロ」と呼ばれていると教えてくれた。
裏が白いとは、日本人の大切な心がけを表している言葉。正月飾りに使われている、あのウラジロであった。

生命あふれる初夏の季節になると、三上山のあっちこっちで、「シダ」が一斉に芽吹いてくる。中でも、希望が丘側の裾野の林床には、溢れんばかりに生い茂り、脇役が主役になっていた。
昨年までの濃い深緑色の葉色をした親の葉っぱから、一本の茎が、立ち上がり、その先端から新たに左右に一対の葉がすらりと伸びていた。この一帯は若葉によって黄緑色の大海原となっていた。 シダとは、葉が垂れている姿と結びついて「下垂れる」という意味である。が、この溌剌として伸び盛りの若葉の姿は、横に限りなく真っ直ぐであった。
一つひとつの若葉が、一斉に私を見詰めるようで嬉しくなる。時たま「イケズ」な向きをしているものもあるが、人間ほどでない。お互い僅かな光を分けあって住み分けながら、日が射す方向に行儀よく開いていた。
いずれの角度も同じ120度位であった。規則正しく同じ角度をしているのは、この植物にとっては大事なことなのであろう。この幾何学模様は神秘に満ち溢れていた。このようにして毎年葉を延ばし、2枚の葉の段が何世代か積み上がっていた。 写真に切り取った光景は、何時頃から始まったのであろうか。私の一生だけ ・・・。いや気の遠くなるほど太古から繰り返されてきた光景なのであろう。昨日今日、知った私が、あれこれ詮索するのが、烏滸がましい。
この山に来ると、色んな人に出会う。子供ずれの家族一家のハイキング、本格的な登山前のトレーニングで来る人、日課として来る人といろいろだ。私は、身体を鍛えるのでなく、ただ健康を維持するためである。
美しさに目を奪われ、シダの写真を懸命に撮っていると、「何を調べておられるのですか」と知人が近寄ってきた。
「シダだヨ」と返答すると、
葉っぱをひっくり返しながら「シダに違いないが、裏が白いので、ウラジロ」と呼ばれていると教えてくれた。
裏が白いとは、日本人の大切な心がけを表している言葉。正月飾りに使われている、あのウラジロであった。
気に入るまで撮り続けた中の1枚写真

午前中は長雨模様だったが、午後から雨が上がった。雨水が空中の塵埃をすっかり持ち去ったのか、視界を遮るものがなくなった。
西日が射し込む頃になると、斜光は今まで見えていなかった比良山系の山襞の陰翳を鋭くさせ、クッキリとした山容に変貌させていった。この光景に引き寄せられ、琵琶湖河畔まで自動車を走らせた。だが、師走に入った釣瓶落としのこの時期、途中で、美しい山並みが暗闇に没してしまった。
それに代わって、比叡山のすそ野の山々に、雲の切れ間から光が漏れ、尾を引くように幾重もの光柱が地上へ降り注いでいた。この現象を「光芒」と言うようだ。「芒」は稲などの先端の針状を表し、細くとがった先端と言う意味らしいが、余りしっくりしない言葉である。
2014年12月1日、野洲・吉川漁港付近にて

西日が射し込む頃になると、斜光は今まで見えていなかった比良山系の山襞の陰翳を鋭くさせ、クッキリとした山容に変貌させていった。この光景に引き寄せられ、琵琶湖河畔まで自動車を走らせた。だが、師走に入った釣瓶落としのこの時期、途中で、美しい山並みが暗闇に没してしまった。
それに代わって、比叡山のすそ野の山々に、雲の切れ間から光が漏れ、尾を引くように幾重もの光柱が地上へ降り注いでいた。この現象を「光芒」と言うようだ。「芒」は稲などの先端の針状を表し、細くとがった先端と言う意味らしいが、余りしっくりしない言葉である。
2014年12月1日、野洲・吉川漁港付近にて
光芒の瞬間

タグ :光芒
私達は、生きとし生きている命をもらって生きています。肉や魚が食前にならぶと、「そうか」と、納得することがあります。でも、野菜や果物を頂く時には、何も思わないようだ。
植物も生きているのです。野菜などを育てていますと、その生命力のすごさを肌で感じられます。春になると段ボールに保管していた萎びたジャガイモは次の世代に命を繫ぐため、われ先に新芽を伸ばしてきます。このエネルギーの溢れる姿を目にすると、打ち捨てて置けないのです。

さて、自分で作ったジャガイモを種イモとして、病気になったり、矮小化することなしに、3年間以上続けています。
一昔前のジャガイモ栽培は、自前の種イモを使われていました。殺菌処理など一切せず、精々種の切り口に灰をつける程度でした。現在では、検査済みの種イモを使用する必要があると言われています。ウィルスに感染されたジャガイモを種芋にしますと、畑全体に病気が蔓延してしまい、収穫どころではなくなり、相当長期間ナス科がまったく作れなくなってしまうと、本気で脅かされています。
確かに、ジャガイモはウィルス病、細菌、害虫といったものに弱く、アブラムシなどによって葉っぱが黄色くなったり、芽や葉が枯れてきたり、下葉がスプーン状になったり、葉の裏表が黒褐色に変色したりします。種イモとして購入したものでも、どんな処理が施されているのか知りませんが、このような異常な株が発生したことが多々ありました。ですから、処理されたジャガイモと言われても、私は全面的に信用していないのです。
育て方として、決して植えっぱなしにしていません。葉っぱの様子や茎の生長状況を丹念に見て回ります。葉っぱの異常が見つければ、1週間ほど様子を見て、悪化していけば、その株を引き抜くことにしています。だが、今回、幸いにも発育異常のものは全くありませんでしたが。
話が少しずれますが、「そうか病」と思われる病気に一度見舞われたことがありました。ほうれん草の後に植え付けたところのジャガイモは、収穫も悪く表面がガサガサになったことがありました。自前の種イモを使用したことが、原因かと思いましたが、土壌のpHが高かったのでしょう。無論、種イモにせず廃棄。その後、ほうれん草などアルカリ性になった後地には、ジャガイモを植えつけないように心がけています。

地割れも起こり、葉も黄色くなって、茎も幾分倒れてきたので、晴天日を選んで、収穫しました。


以前、色んな種類の、ジャガイモを栽培していましたが、今はホクホクした食感の「きたあかり」だけに絞って作っています。土地との相性もありますが、「男爵」に比べどうしても収穫量が2~4割ほど落ち、くず芋もできます。出来るだけ収穫時期を長くして、くず芋を少なくしたいのですが、あまり長期間置いておくと、幾らでも肥大化して、大味になってしまいます。したがって、食味を大事にして、収穫時期は若干早めとしています。
新じゃがの3㎝ぐらいのクズ芋を電子レンジで蒸し、うす皮をむいて、みずみずしい採り立ては、すこぶる美味しい。黄色いホクホクした品種「きたあかり」は格別。

自家製を種イモにすることはあくまで、家庭菜園の範囲の自己責任で行うもので、推奨しているわけではありません。何年も同じことを繰り返すとジャガイモが小型化したり、ウィルス性の病気に感染して生育が悪くなったりします。その様な場合には、しっかりとした信用のある国の検査に合格した「合格証票」のついた新しく種イモを入手したほうがよいかと思います。私も来年春は考えますが、どうなることやら?
植物も生きているのです。野菜などを育てていますと、その生命力のすごさを肌で感じられます。春になると段ボールに保管していた萎びたジャガイモは次の世代に命を繫ぐため、われ先に新芽を伸ばしてきます。このエネルギーの溢れる姿を目にすると、打ち捨てて置けないのです。
3月14日段ボールに保管していたジャガイモ(きたあかり)

1~2本勢いのよい芽を残す

さて、自分で作ったジャガイモを種イモとして、病気になったり、矮小化することなしに、3年間以上続けています。
一昔前のジャガイモ栽培は、自前の種イモを使われていました。殺菌処理など一切せず、精々種の切り口に灰をつける程度でした。現在では、検査済みの種イモを使用する必要があると言われています。ウィルスに感染されたジャガイモを種芋にしますと、畑全体に病気が蔓延してしまい、収穫どころではなくなり、相当長期間ナス科がまったく作れなくなってしまうと、本気で脅かされています。
確かに、ジャガイモはウィルス病、細菌、害虫といったものに弱く、アブラムシなどによって葉っぱが黄色くなったり、芽や葉が枯れてきたり、下葉がスプーン状になったり、葉の裏表が黒褐色に変色したりします。種イモとして購入したものでも、どんな処理が施されているのか知りませんが、このような異常な株が発生したことが多々ありました。ですから、処理されたジャガイモと言われても、私は全面的に信用していないのです。
育て方として、決して植えっぱなしにしていません。葉っぱの様子や茎の生長状況を丹念に見て回ります。葉っぱの異常が見つければ、1週間ほど様子を見て、悪化していけば、その株を引き抜くことにしています。だが、今回、幸いにも発育異常のものは全くありませんでしたが。
話が少しずれますが、「そうか病」と思われる病気に一度見舞われたことがありました。ほうれん草の後に植え付けたところのジャガイモは、収穫も悪く表面がガサガサになったことがありました。自前の種イモを使用したことが、原因かと思いましたが、土壌のpHが高かったのでしょう。無論、種イモにせず廃棄。その後、ほうれん草などアルカリ性になった後地には、ジャガイモを植えつけないように心がけています。
5月7日、2回土寄せを行い順調に生育

地割れも起こり、葉も黄色くなって、茎も幾分倒れてきたので、晴天日を選んで、収穫しました。
6月17日収穫


以前、色んな種類の、ジャガイモを栽培していましたが、今はホクホクした食感の「きたあかり」だけに絞って作っています。土地との相性もありますが、「男爵」に比べどうしても収穫量が2~4割ほど落ち、くず芋もできます。出来るだけ収穫時期を長くして、くず芋を少なくしたいのですが、あまり長期間置いておくと、幾らでも肥大化して、大味になってしまいます。したがって、食味を大事にして、収穫時期は若干早めとしています。
新じゃがの3㎝ぐらいのクズ芋を電子レンジで蒸し、うす皮をむいて、みずみずしい採り立ては、すこぶる美味しい。黄色いホクホクした品種「きたあかり」は格別。
3㎝ぐらいのクズ芋で一杯

自家製を種イモにすることはあくまで、家庭菜園の範囲の自己責任で行うもので、推奨しているわけではありません。何年も同じことを繰り返すとジャガイモが小型化したり、ウィルス性の病気に感染して生育が悪くなったりします。その様な場合には、しっかりとした信用のある国の検査に合格した「合格証票」のついた新しく種イモを入手したほうがよいかと思います。私も来年春は考えますが、どうなることやら?
9月19日、今年の秋の彼岸の入り、この時期を待っていたかのように曼珠沙華が咲きました。夏の花々が色をあせる頃、別称彼岸花は、一夜にして、茎をにょきっと伸ばし、その先に真紅の花をつけました。
葉っぱもつけない茎に、細長く強く反転する花弁を持つさまには、何か不吉なことが起こりそうな妖気な気配が漂う、この姿が忌み嫌われ墓地の花とされました。
だが、秋の彼岸が来るたびに、なぜか気になるのがヒガンバナです。

家を捨て、妻子も捨て社会も捨てた放浪流転した俳人、山頭火が詠った「分け入っても分け入っても青い山」はあまりにも有名。 山頭火は、色あせた法衣にすげがさ、地下足袋という托鉢のいでたちで、目的地もなく、風の吹くまま、気の向くまま、ただただ、歩いた。
行乞流転のはかなさであり独善孤調のわびしさである。私はあてもなく果もなくさまよひあるいてゐたが、人つひに孤ならず、欲しがつてゐた寝床はめぐまれた。
昭和七年九月二十日、私は故郷のほとりに私の其中庵を見つけて、そこに移り住むことが出来たのである。
曼珠沙華咲いてここがわたしの寝るところ
山野を跋扈し、自然を愛で、自ら自然に没入した山頭火は、彼岸花にちなんだ句を多く詠っている。
彼岸入りといふ晴れたり曇つたりして
歩きつづける彼岸花咲きつづける
曼珠沙華のみ眼に燃えて野分夕空し
曼珠沙華のところどころ落葉するまつのしづけさに
彼岸花の赤さがあるだけ

樹木希林CMと山頭火←クリック
葉っぱもつけない茎に、細長く強く反転する花弁を持つさまには、何か不吉なことが起こりそうな妖気な気配が漂う、この姿が忌み嫌われ墓地の花とされました。
だが、秋の彼岸が来るたびに、なぜか気になるのがヒガンバナです。

家を捨て、妻子も捨て社会も捨てた放浪流転した俳人、山頭火が詠った「分け入っても分け入っても青い山」はあまりにも有名。 山頭火は、色あせた法衣にすげがさ、地下足袋という托鉢のいでたちで、目的地もなく、風の吹くまま、気の向くまま、ただただ、歩いた。
行乞流転のはかなさであり独善孤調のわびしさである。私はあてもなく果もなくさまよひあるいてゐたが、人つひに孤ならず、欲しがつてゐた寝床はめぐまれた。
昭和七年九月二十日、私は故郷のほとりに私の其中庵を見つけて、そこに移り住むことが出来たのである。
曼珠沙華咲いてここがわたしの寝るところ
山野を跋扈し、自然を愛で、自ら自然に没入した山頭火は、彼岸花にちなんだ句を多く詠っている。
彼岸入りといふ晴れたり曇つたりして
歩きつづける彼岸花咲きつづける
曼珠沙華のみ眼に燃えて野分夕空し
曼珠沙華のところどころ落葉するまつのしづけさに
彼岸花の赤さがあるだけ

樹木希林CMと山頭火←クリック
タグ :山頭火
あかね色をしたトンボが田んぼに群れていました。早稲の稲は刈り取りされ、田んぼは、切り株だけの裸になっていました。あれだけ飛んだり跳ねたりしていたイナゴはどこに行ってしまったのだろう・・・・・。
すみかをなくした一匹のイナゴが、私の畑にやってきて、アスパラの茎にしがみついていました。
イナゴは周りの色にとけ込もうとして、稲の色に合わして緑色から黄緑色さらに褐色とかわってきました。ところが、留まったところが悪かった。アスパラはまだまだ鮮やかな緑色で、本人の保護色とはかけ離れていました。でも、保護色なので姿をかき消したつもりなのでしょう。
カメラを近づけると、イナゴは、 慌てて逃げてしまわなで、茎の反対側に回り込み、身を隠してしまいました。仕方なく、「くるくる」と追い続けました。何回も繰り返している内に、相手は疲れてしまったのか、身を隠すことを止めました。この瞬間を写真でパチリ・・・・・。
夕方、畑に水をやりに行きましたが、居ませんでした。アスパラに身を隠すには、色が違いすぎると思い、この場を去ってしまっていたようだ。
見過ごすようなこんな生き物にも、「小さい秋」がきていました。

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すみかをなくした一匹のイナゴが、私の畑にやってきて、アスパラの茎にしがみついていました。
イナゴは周りの色にとけ込もうとして、稲の色に合わして緑色から黄緑色さらに褐色とかわってきました。ところが、留まったところが悪かった。アスパラはまだまだ鮮やかな緑色で、本人の保護色とはかけ離れていました。でも、保護色なので姿をかき消したつもりなのでしょう。
カメラを近づけると、イナゴは、 慌てて逃げてしまわなで、茎の反対側に回り込み、身を隠してしまいました。仕方なく、「くるくる」と追い続けました。何回も繰り返している内に、相手は疲れてしまったのか、身を隠すことを止めました。この瞬間を写真でパチリ・・・・・。
夕方、畑に水をやりに行きましたが、居ませんでした。アスパラに身を隠すには、色が違いすぎると思い、この場を去ってしまっていたようだ。
見過ごすようなこんな生き物にも、「小さい秋」がきていました。

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昨日、昼下がり暑い最中、開けっ放しの部屋で本を読んでいた。
いきなり、「ツクツクツクボーシ・ツクツクボーシ」の鳴き声に振り返ると、何を間違えたのか、せみが金網戸に掴まっていた。
そっと、近づいていっても逃げる気配がなく、この金網の掴まりぐわいが、よほど気に入ったようだ。ひとしきり、鳴き続けた。「ウイヨース!」を数回、そして最後に「ジー…」と鳴き終わった。
しばらくたつと、最初から、「ツクツクツクボーシ・ツクツクボーシ」と再びやり出した。
いつの間にか、公園から聞こえていた「シャンシャンシャンシャン」とけたたましく鳴いていたクマゼミに代わっていたことも、この時、気づかされた。
日中は限り無く暑いが、いよいよ、朝夕、涼風が吹く季節に変わろうとしていることを知りました。

いきなり、「ツクツクツクボーシ・ツクツクボーシ」の鳴き声に振り返ると、何を間違えたのか、せみが金網戸に掴まっていた。
そっと、近づいていっても逃げる気配がなく、この金網の掴まりぐわいが、よほど気に入ったようだ。ひとしきり、鳴き続けた。「ウイヨース!」を数回、そして最後に「ジー…」と鳴き終わった。
しばらくたつと、最初から、「ツクツクツクボーシ・ツクツクボーシ」と再びやり出した。
いつの間にか、公園から聞こえていた「シャンシャンシャンシャン」とけたたましく鳴いていたクマゼミに代わっていたことも、この時、気づかされた。
日中は限り無く暑いが、いよいよ、朝夕、涼風が吹く季節に変わろうとしていることを知りました。

いつも、それほど注意して雲を見ているわけではないが、一仕事が終り、感傷的な気分になる時、空を眺めることがある。
この日は猛暑。湖北に点在する十一面観音像を求めてさんざん寄り道をした。滅多に開帳されない観音さんが観られるとのことで、夢中になった。
終わったのが午後4時ごろ。ふと、上を向くと空一杯に夏特有の雲が広がっていた。積雲やそこからちぎれて流れ出した生まれたての綿雲、さらに、空を覆っている片積雲。決まった形を持たず、どんどん気ままに、移り変わっていく姿が、うらやましく眺めていた。自然は思わぬものを用意してくれるものだ。
「カキ氷」を食べ、ほてった体をクールダウンさせ、1日が終わった。

春になると桜前線が北上し、日本列島を駆け抜けていきます。東北南部でも開花の報告が届き始め、滋賀県の中で開花が遅い海津大崎にもちらほらと咲き始めたようです。
わが野洲市のあっちこっちでも開花し始めました。春の陽気に誘われ何時も歩いている三上山周辺を一周する気になりました。桜は、一気に咲き、一気に散ってしまうからこそ、駆り立てられるように出かけました。
朝鮮街道沿いの祗王井川土手、銅鐸博物館の敷地内にある弥生の森歴史公園、辻 ダムの堰 、近江富士付近の若宮神社、三上神社、そしていたるところの公園には、桜がいまを盛りに咲き誇っていました。ほんのりと淡い紅色、花びら5枚のソメイヨシノばかり。漢字で「染井吉野」と書き、江戸時代、今の東京都豊島区の染井で吉野桜の名前で売り出されたものです。
さて、「バナナは、人に食べられることにより繁殖してきた」との怪しげな記事を目にしたことがありました。バナナにとっては、怪しからん表現ですが、これは、本当なんです。
バナナは熱帯域を中心に世界の広い範囲で栽培され、20世紀末の時点で全世界での年間生産量は約 1 億トン。日本人は週に1本は食べているらしいが、小生は、週に7本食べています。人に食べられるようになったので植栽され、そのお蔭で子孫繁栄となったのです。
バナナの起源は紀元前5千~1万年頃に“偶然できた”種なしバナナなのです。人間によりバナナを挿し木によって広められてきました。人間との共存以外生き延びる術を持っていないのです。したがって、繁殖の術を持たないバナナは、将来絶滅する恐れもあります。
同じく、ソメイヨシノも最初は1本から始まったものです。
日本の人々に美しさを与えことによって子孫繁栄してきたのです。江戸時代中期~末期に園芸種として創られたソメイヨシノは、短い期間、花を一斉に一面に咲き、そして散る。日本人の持っている気性にあったのでしょう。種ができないこの花にとっても、人間の手によって以外に広まる手立てがないのです。
そうなんです。バナナは「食べられるため」、ソメイヨシノは「見られるため」に存在しているのです。自然の摂理に逆らって、人間の欲望を満たすためだけに、創られた植物なのです。この事実は悪いことではありません。が、地球上の自然界にとっての存在理由があるのかどうか正直よく分かりません…。

人との共存の道を選んだソメイヨシノは、明治以来徐々に広まりました。街、公園で見かけるのは、殆どこの花になりました。従来から育っていた山桜は、見かけなくなりました。
三上山周辺を一周して、山桜に出くわすのは数本に過ぎませんでした。人里を離れた「希望が丘」近くの山林に見られただけです。ソメイヨシノは、葉より先に花が咲き、華やかであること好まれ、いまや日本の桜前線の開花状況が基準にもなり、日本の象徴とされた桜にのし上がってきたのです。
では、ソメイヨシノ誕生までは、サクラといえば山桜でした。開花と同時に赤茶けた若葉が出てきますが、あっちの桜が咲いて散っては、こっちの花が咲く、といったように長期間にわたり、花がぽつぽつと咲きます。
ソメイヨシノの植栽が普及する前の花見は、このように長期間にわたって散発的に行われるものでした。短期間の開花時期に集中して花見をする必要もなく、おっとりとした花見をしていました。ゆっくりと移り変わっていく花の咲き方、散り方を目にして”はかないものや、うつろいゆく”山桜に美を感じたと考えられます。
現代では、短期間に、桜の花が一斉に一面に咲き、そして散る。これはソメイヨシノの生み出した光景で、明治以降、創られた光景なんです。この姿に心が揺さぶられソメイヨシノが植え付けられ増え、続けてきたのです。
桜は、昔から武士道のような潔さを尊ぶ気質にマッチしていると言われますが、およそ150年前にソメイヨシノを見せつけられ新しく生まれたものなのです。
今は先人により植付けられたソメイヨシノを楽しんでいますが、樹齢は以外に短い。それほど花見に関心を抱かない現代の若者は、国花である桜をどう見ているのであろう。
100年後、いや500年経てば 移り気な日本人の気性からして、どうなるやら…。

朝鮮街道沿いの祗王井川土手、銅鐸博物館の敷地内にある弥生の森歴史公園、辻 ダムの堰 、近江富士付近の若宮神社、三上神社、そしていたるところの公園には、桜がいまを盛りに咲き誇っていました。ほんのりと淡い紅色、花びら5枚のソメイヨシノばかり。漢字で「染井吉野」と書き、江戸時代、今の東京都豊島区の染井で吉野桜の名前で売り出されたものです。
さて、「バナナは、人に食べられることにより繁殖してきた」との怪しげな記事を目にしたことがありました。バナナにとっては、怪しからん表現ですが、これは、本当なんです。
バナナは熱帯域を中心に世界の広い範囲で栽培され、20世紀末の時点で全世界での年間生産量は約 1 億トン。日本人は週に1本は食べているらしいが、小生は、週に7本食べています。人に食べられるようになったので植栽され、そのお蔭で子孫繁栄となったのです。
バナナの起源は紀元前5千~1万年頃に“偶然できた”種なしバナナなのです。人間によりバナナを挿し木によって広められてきました。人間との共存以外生き延びる術を持っていないのです。したがって、繁殖の術を持たないバナナは、将来絶滅する恐れもあります。
同じく、ソメイヨシノも最初は1本から始まったものです。
日本の人々に美しさを与えことによって子孫繁栄してきたのです。江戸時代中期~末期に園芸種として創られたソメイヨシノは、短い期間、花を一斉に一面に咲き、そして散る。日本人の持っている気性にあったのでしょう。種ができないこの花にとっても、人間の手によって以外に広まる手立てがないのです。
そうなんです。バナナは「食べられるため」、ソメイヨシノは「見られるため」に存在しているのです。自然の摂理に逆らって、人間の欲望を満たすためだけに、創られた植物なのです。この事実は悪いことではありません。が、地球上の自然界にとっての存在理由があるのかどうか正直よく分かりません…。


人との共存の道を選んだソメイヨシノは、明治以来徐々に広まりました。街、公園で見かけるのは、殆どこの花になりました。従来から育っていた山桜は、見かけなくなりました。
三上山周辺を一周して、山桜に出くわすのは数本に過ぎませんでした。人里を離れた「希望が丘」近くの山林に見られただけです。ソメイヨシノは、葉より先に花が咲き、華やかであること好まれ、いまや日本の桜前線の開花状況が基準にもなり、日本の象徴とされた桜にのし上がってきたのです。
では、ソメイヨシノ誕生までは、サクラといえば山桜でした。開花と同時に赤茶けた若葉が出てきますが、あっちの桜が咲いて散っては、こっちの花が咲く、といったように長期間にわたり、花がぽつぽつと咲きます。
ソメイヨシノの植栽が普及する前の花見は、このように長期間にわたって散発的に行われるものでした。短期間の開花時期に集中して花見をする必要もなく、おっとりとした花見をしていました。ゆっくりと移り変わっていく花の咲き方、散り方を目にして”はかないものや、うつろいゆく”山桜に美を感じたと考えられます。
現代では、短期間に、桜の花が一斉に一面に咲き、そして散る。これはソメイヨシノの生み出した光景で、明治以降、創られた光景なんです。この姿に心が揺さぶられソメイヨシノが植え付けられ増え、続けてきたのです。
桜は、昔から武士道のような潔さを尊ぶ気質にマッチしていると言われますが、およそ150年前にソメイヨシノを見せつけられ新しく生まれたものなのです。
今は先人により植付けられたソメイヨシノを楽しんでいますが、樹齢は以外に短い。それほど花見に関心を抱かない現代の若者は、国花である桜をどう見ているのであろう。
100年後、いや500年経てば 移り気な日本人の気性からして、どうなるやら…。
近畿各地では桜の開花宣言をされているようだ。しかし、滋賀県では聞かれない。
滋賀の桜の開花情報をインターネットで調べてみると「つぼみ」で全く開花していないが、唯一「滋賀県立近江富士花緑公園」が開花していことが分かった。一週間前、友人から「近江富士花緑公園で桜が開花した」との話を聞き置いていたこともあったので、早速、確認しに行った。
桜カレンダー 滋賀県立近江富士花緑公園

肌寒い雨の中で観る桜は、華やかさがなかった。やはり、桜は、温かくなった春に咲くのが似合っているようだ。
滋賀の桜の開花情報をインターネットで調べてみると「つぼみ」で全く開花していないが、唯一「滋賀県立近江富士花緑公園」が開花していことが分かった。一週間前、友人から「近江富士花緑公園で桜が開花した」との話を聞き置いていたこともあったので、早速、確認しに行った。
桜カレンダー 滋賀県立近江富士花緑公園

肌寒い雨の中で観る桜は、華やかさがなかった。やはり、桜は、温かくなった春に咲くのが似合っているようだ。

アシ博物館館長・西川嘉廣氏の「ヨシ」について含蓄ある講義があった。
葦に関わる哲学者パスカルの話から…近江八幡丸山のヨシの歳時記、ヨシ群落保全とラムサール条約の話まで及んだ。そしてユーモアを交えられた話しぶりに聞き入ってしまった。
まず、「ヨシ」「アシ」は異なるかどうかと、いきなり詰問された。よく分からないので、全員(20名)押し黙っていると、…(静)。
「ヨシ」「アシ」は植物学的には同じである。だが、言い方が変わってきたと解説されはじめた。
先生、万葉歌約4500首を丹念にしらべたようだ。『奈良時代には「アシ」と歌われた言葉が多く見かけられたが、「ヨシ」と言う言葉がなかった。さらに、平安末期に、「なにはわたりには、あしとのみいひ、あずまのかたには、よしといふ」と記されていた。つまり、関東では「アシ」を「ヨシ」と言っていた。その後、アシが「悪し」と同音なのを嫌い「善し」に通じるヨシに変わってきた』と言うのである。その結果、現在では「ヨシ」と言うのが主流になったというのである。
この話、どっちでも良い話であるが、聞いていると中々面白い。
更に話が難しくなってきた。「ヨシ」の漢字では、「葭・蘆(芦)・葦」が用いられていた。実際の使い分けは正しく守られていないと話されていた。
この説明では分からないので少し、調べることにした。
3ツの漢字はすべて「あし」と読み、「よし」とも読む。漢字「葭」は、まだ生長した葦になっていない状態を示す漢字である。「蘆」はアシが密生した様を表し、「葦」は穂が出て他の草とは違って飛び抜けて高いアシの意味を表している。このように、ヨシの生長に従って文字が決められている。
江戸時代後期、日本最大の本草学書になった「本草網目啓蒙」という書物によると、次のように定義付けられている。「葭は初生(しょせい)ナリ、蘆ハ長ナリ、葦ハ已成(いせい)ナリ、而シテ蘆ハ其総名ナリ」と区別している。語源からすると明確な意味があるようだ。
ところで、先生「人間は考える葦である」というパスカルの話になった。この話をすると1日かかってしまうとして途中で終わってしまった。小生、この話はどっちでもよかったのだが、漢字「葦」が気になった。「蘆ハ其総名ナリ」からすれば「人間は考える蘆である」と書いてもよさそうだが、この字で書いたものは見当たらない。谷崎潤一郎の小説「蘆刈」では、蘆の漢字を使っているが…。
江戸時代から四百年続いたヨシ卸商の長男、西川嘉廣さんは、昔を振り返りながら、滋賀県の江州ヨシは品質がよくて一本も残らず高値で取引された。かつてヨシは、生活の用具としてすだれやヨシ葺き屋根によく使われていた。ところが、生活様式が洋風化と共に見向きもされなくなった。
「すだれがすた(廃)れた」と真顔で話された。(漏れ笑い)

琵琶湖の汚染が問題化するにつれて、ヨシの水質浄化、生態系などに影響を果たしていることが分かってきた。最近、日本だけでなく世界中でヨシの働きが見直されている。琵琶湖・淀川水系の水を使っている近畿の1700万人の人々、実に日本の人口のおよそ1/10がこの琵琶湖の水に頼っていると胸を張って述べられていた。尚、重要文化的景観第1号として近江八幡市の水郷が平成17年1月26日に選定された。


今でも、ヨシ刈りは機械化されず、鎌で行われていた。 我々は鎌の扱いも慣れていないので、ヨシを1本ずつ握っては、根の近くで刈っていた。ところで、あたりを見ると、かまわず鋭い切り株が残された。このことから、数本を掴んでは、刃を斜め上に引き上げ刈り取っていった。つまり、根のところで切り倒す必要がないことが理解できたので、深く腰をしゃがまず作業ができ、仕事がはかどった。
4m近い背丈がある。扱いがやっかいなものである。はじめのうちは、刈り取ったヨシの頭をそろえず、メイメイばらばらに寝かしていった。
そのうち刈る人、頭を揃えておく人、60~70cmほど切った荒縄で縛る人。ルールが出来ていった。人数が多いので結構、刈り取ることが出来た。
滋賀県住人として、身近にある「蘆」を刈ることを通じて何か掴んだような気がした。
参考資料 ヨシの文化史 西川嘉廣 著