2011年08月28日 樹木希林CMと山頭火
先日、女優樹木希林の出演する結婚情報誌「ゼクシィ」の新CMを目にした。
福山雅治さんの『家族になろうよ』の歌をバックに樹木希林さんが何かを語っていた。どうも引き付けられ言葉であったので、ビデオを聴き直してみると、「やっぱり一人がよろしい雑草 やっぱり一人じゃさみしい雑草」と語っていた。
樹木希林さんは種田山頭火の句をもじって、最近の連れ合いとの「ごたごた」を話しかけてきているのだろうか、意味深である。
『草木塔』柿の葉から引用された言葉である。
そのどちらかを捨つべきであらうが、私としては
いづれにも捨てがたいものがある。昨年東北地方
を旅して、郭公(カッコウ)が多いのに驚きつつ心
ゆくまでその声を聴いた。信濃路では、生れて始
めてその姿さへ観たのであつた。
「やつぱり一人がよろしい雑草」
「やつぱり一人はさみしい枯草」
山頭火は、色あせた法衣にすげがさ、地下足袋という托鉢のいでたちが生涯をかけた姿であった。
山頭火の旅は、目的地もなく、風の吹くまま、気の向くまま、ただただ、歩いた。
最初に宮崎、大分の九州山地へ向かった。
「分け入っても分け入っても青い山」と詠んだ句は余りにも有名。
「この旅 果てもない旅のつくつくぼうし」
「山を歩く、あてもなく歩くが本当に歩くのだ、枯れた木も拾ふたが句も拾ふた。味ふ、楽しむ、遊ぶ、それが人生といふものだろう・・・」。
自分の存在を歩くことに見出し、放浪し続けた。
山頭火が放浪の俳人とて、とても人気があるのは、あらゆる世間のまとわりつくものを断ち切って、自然の中に身をまかせ、放浪の旅をしたからだ。社会、家庭の枠から解き放たれ、自由な旅に出発した。それがうらやましがられた。
「山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 春夏秋冬 あしたもよろし ゆうべもよろし」
「笠にとんぼをとまらせてあるく」
「もりもりもりあがる雲へ歩む」
山頭火の酒豪ぶりはハンパじゃなかった。本人曰く泥酔への過程は「まず、ほろほろ、それから、ふらふら、そして、ぐでぐで、ごろごろ、ぼろぼろ、どろどろ」であり、最初の「ほろほろ」の時点で既に3合だった。「あゝ酒、酒、酒、酒ゆえに生きても来たが、こんなにもなった酒は悪魔か仏か、毒か薬か」。自分の言動を自分でいましめた句を、書き綴ってはいるが、止めようとして酒に手を出し、酒におぼれていった。
山頭火は何と淋しい、悲しいという言葉が、実に多いことか。
山口県防府の大地主の家に生まれる。父は村の助役を務めたが、妾を持ち芸者遊びに夢中になり、これに苦しんだ母は山頭火が10歳の時に、自宅の井戸に身を投げた。井戸に集まった人々は「猫が落ちた、子供らはあっちへ行け」と山頭火を追い払ったが、彼は大人たちの足の間から母の遺体を目撃し、心に深い傷を残した。のとに僧となって行乞(ぎょうこつ)の旅を続けることになった山頭火は白布に巻いた母の位牌をふところに偲ばせ、歩き続けた。山頭火の句の底流には悲しい思いがひそんでいた。
「何でこんなに淋しい風ふく」
山頭火、曲がった人生を歩んできたから、まっすぐな道が怖く、不安になるのであろう。一見なんでもないことに敏感であった。
「まっすぐな道でさびしい」
冷たい時雨が降り頻る中、時雨に消えていく自分の姿をもう一人の自分が、冷淡に眺めている。これほど淋しく、悲しさが伝わる句は見当たらない。
「うしろすがたのしぐれてゆくか」
50歳を迎えた山頭火は、肉体的にもぼろぼろになり、山口県小郡の小さな草庵にはいった。
あったかいご飯に感謝する句もあるが、昭和15年晩年、冷えたご飯を口に運ぶが、ぱらぱらになったご飯がぼろぼろこぼれる様は、侘しさが心に突き刺さる。
「ぼろぼろ冷飯ぼろぼろ秋寒」
最後に、余りにも淋しいので、鉢の子。(第3句集)「山行水行」より。土埃にまみれた、疲れた身体をときほぐしてくれる風呂は、行乞の楽しみのひとつになっていた。熱い湯舟につかったとき「ぽろりと」と浮かんだのであろう。声を出して喋るには、はばかるが、山頭火らしいユーモラスな句がこれだ。
「ちんぽこもおそそも湧いてあふるる湯」
若い頃は「知と愛」ヘッセのゴルトムントに憬れたが、年を重ねると種田山頭火へ。
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福山雅治さんの『家族になろうよ』の歌をバックに樹木希林さんが何かを語っていた。どうも引き付けられ言葉であったので、ビデオを聴き直してみると、「やっぱり一人がよろしい雑草 やっぱり一人じゃさみしい雑草」と語っていた。
樹木希林さんは種田山頭火の句をもじって、最近の連れ合いとの「ごたごた」を話しかけてきているのだろうか、意味深である。
『草木塔』柿の葉から引用された言葉である。
そのどちらかを捨つべきであらうが、私としては
いづれにも捨てがたいものがある。昨年東北地方
を旅して、郭公(カッコウ)が多いのに驚きつつ心
ゆくまでその声を聴いた。信濃路では、生れて始
めてその姿さへ観たのであつた。
「やつぱり一人がよろしい雑草」
「やつぱり一人はさみしい枯草」
山頭火は、色あせた法衣にすげがさ、地下足袋という托鉢のいでたちが生涯をかけた姿であった。
山頭火の旅は、目的地もなく、風の吹くまま、気の向くまま、ただただ、歩いた。
最初に宮崎、大分の九州山地へ向かった。
「分け入っても分け入っても青い山」と詠んだ句は余りにも有名。
「この旅 果てもない旅のつくつくぼうし」
「山を歩く、あてもなく歩くが本当に歩くのだ、枯れた木も拾ふたが句も拾ふた。味ふ、楽しむ、遊ぶ、それが人生といふものだろう・・・」。
自分の存在を歩くことに見出し、放浪し続けた。
山頭火が放浪の俳人とて、とても人気があるのは、あらゆる世間のまとわりつくものを断ち切って、自然の中に身をまかせ、放浪の旅をしたからだ。社会、家庭の枠から解き放たれ、自由な旅に出発した。それがうらやましがられた。
「山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 春夏秋冬 あしたもよろし ゆうべもよろし」
「笠にとんぼをとまらせてあるく」
「もりもりもりあがる雲へ歩む」
山頭火の酒豪ぶりはハンパじゃなかった。本人曰く泥酔への過程は「まず、ほろほろ、それから、ふらふら、そして、ぐでぐで、ごろごろ、ぼろぼろ、どろどろ」であり、最初の「ほろほろ」の時点で既に3合だった。「あゝ酒、酒、酒、酒ゆえに生きても来たが、こんなにもなった酒は悪魔か仏か、毒か薬か」。自分の言動を自分でいましめた句を、書き綴ってはいるが、止めようとして酒に手を出し、酒におぼれていった。
山頭火は何と淋しい、悲しいという言葉が、実に多いことか。
山口県防府の大地主の家に生まれる。父は村の助役を務めたが、妾を持ち芸者遊びに夢中になり、これに苦しんだ母は山頭火が10歳の時に、自宅の井戸に身を投げた。井戸に集まった人々は「猫が落ちた、子供らはあっちへ行け」と山頭火を追い払ったが、彼は大人たちの足の間から母の遺体を目撃し、心に深い傷を残した。のとに僧となって行乞(ぎょうこつ)の旅を続けることになった山頭火は白布に巻いた母の位牌をふところに偲ばせ、歩き続けた。山頭火の句の底流には悲しい思いがひそんでいた。
「何でこんなに淋しい風ふく」
山頭火、曲がった人生を歩んできたから、まっすぐな道が怖く、不安になるのであろう。一見なんでもないことに敏感であった。
「まっすぐな道でさびしい」
冷たい時雨が降り頻る中、時雨に消えていく自分の姿をもう一人の自分が、冷淡に眺めている。これほど淋しく、悲しさが伝わる句は見当たらない。
「うしろすがたのしぐれてゆくか」
50歳を迎えた山頭火は、肉体的にもぼろぼろになり、山口県小郡の小さな草庵にはいった。
あったかいご飯に感謝する句もあるが、昭和15年晩年、冷えたご飯を口に運ぶが、ぱらぱらになったご飯がぼろぼろこぼれる様は、侘しさが心に突き刺さる。
「ぼろぼろ冷飯ぼろぼろ秋寒」
最後に、余りにも淋しいので、鉢の子。(第3句集)「山行水行」より。土埃にまみれた、疲れた身体をときほぐしてくれる風呂は、行乞の楽しみのひとつになっていた。熱い湯舟につかったとき「ぽろりと」と浮かんだのであろう。声を出して喋るには、はばかるが、山頭火らしいユーモラスな句がこれだ。
「ちんぽこもおそそも湧いてあふるる湯」
若い頃は「知と愛」ヘッセのゴルトムントに憬れたが、年を重ねると種田山頭火へ。
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Posted by
nonio
at
08:57
│Comments(
3
) │
CM
この記事へのコメント
ブナそれは命の母さん
若い頃は「知と愛」ヘッセのゴルトムントに憬れたことがありました。一人旅を続けけることの自由・放たれる魂が生きている証しなのでしょう。
若い頃は「知と愛」ヘッセのゴルトムントに憬れたことがありました。一人旅を続けけることの自由・放たれる魂が生きている証しなのでしょう。
Posted by nonio at 2011年09月29日 22:42
山頭火 名前は聞いたことがありますが人物像を知らなかったので、貴殿の記事大変勉強になります。
放浪の俳人 世俗のもろもろを断ちあてのない旅を続ける ですか。
私も週末はブナ林をプチ放浪(10時間から12時間ほど徘徊)しますが、帰るべき家、家族があるからこそしみじみ自然や一人を満喫できるのではないかと思います。
そういう意味では、一人旅を続けた山頭火の寂しさ、精神的強さは計りしれません。
放浪の俳人 世俗のもろもろを断ちあてのない旅を続ける ですか。
私も週末はブナ林をプチ放浪(10時間から12時間ほど徘徊)しますが、帰るべき家、家族があるからこそしみじみ自然や一人を満喫できるのではないかと思います。
そういう意味では、一人旅を続けた山頭火の寂しさ、精神的強さは計りしれません。
Posted by ブナそれは命の母 at 2011年09月02日 20:57
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