2015年05月28日 幻想的な若葉のシダ群落/三上山
歳を重ねてきても、自分を自然の中に置くようにしている。それも高山に出かけるより、身近な三上山に出向くことが多くなった。この山、結構岩場が多い。何回も訪れていると、どこに岩があり、足をどう運べば、最も簡単に登り切れるかまで分かってくるものだ。何より、しみじみとした四季の移ろいも楽しみにしている。
生命あふれる初夏の季節になると、三上山のあっちこっちで、「シダ」が一斉に芽吹いてくる。中でも、希望が丘側の裾野の林床には、溢れんばかりに生い茂り、脇役が主役になっていた。
昨年までの濃い深緑色の葉色をした親の葉っぱから、一本の茎が、立ち上がり、その先端から新たに左右に一対の葉がすらりと伸びていた。この一帯は若葉によって黄緑色の大海原となっていた。 シダとは、葉が垂れている姿と結びついて「下垂れる」という意味である。が、この溌剌として伸び盛りの若葉の姿は、横に限りなく真っ直ぐであった。
一つひとつの若葉が、一斉に私を見詰めるようで嬉しくなる。時たま「イケズ」な向きをしているものもあるが、人間ほどでない。お互い僅かな光を分けあって住み分けながら、日が射す方向に行儀よく開いていた。
いずれの角度も同じ120度位であった。規則正しく同じ角度をしているのは、この植物にとっては大事なことなのであろう。この幾何学模様は神秘に満ち溢れていた。このようにして毎年葉を延ばし、2枚の葉の段が何世代か積み上がっていた。 写真に切り取った光景は、何時頃から始まったのであろうか。私の一生だけ ・・・。いや気の遠くなるほど太古から繰り返されてきた光景なのであろう。昨日今日、知った私が、あれこれ詮索するのが、烏滸がましい。
この山に来ると、色んな人に出会う。子供ずれの家族一家のハイキング、本格的な登山前のトレーニングで来る人、日課として来る人といろいろだ。私は、身体を鍛えるのでなく、ただ健康を維持するためである。
美しさに目を奪われ、シダの写真を懸命に撮っていると、「何を調べておられるのですか」と知人が近寄ってきた。
「シダだヨ」と返答すると、
葉っぱをひっくり返しながら「シダに違いないが、裏が白いので、ウラジロ」と呼ばれていると教えてくれた。
裏が白いとは、日本人の大切な心がけを表している言葉。正月飾りに使われている、あのウラジロであった。

生命あふれる初夏の季節になると、三上山のあっちこっちで、「シダ」が一斉に芽吹いてくる。中でも、希望が丘側の裾野の林床には、溢れんばかりに生い茂り、脇役が主役になっていた。
昨年までの濃い深緑色の葉色をした親の葉っぱから、一本の茎が、立ち上がり、その先端から新たに左右に一対の葉がすらりと伸びていた。この一帯は若葉によって黄緑色の大海原となっていた。 シダとは、葉が垂れている姿と結びついて「下垂れる」という意味である。が、この溌剌として伸び盛りの若葉の姿は、横に限りなく真っ直ぐであった。
一つひとつの若葉が、一斉に私を見詰めるようで嬉しくなる。時たま「イケズ」な向きをしているものもあるが、人間ほどでない。お互い僅かな光を分けあって住み分けながら、日が射す方向に行儀よく開いていた。
いずれの角度も同じ120度位であった。規則正しく同じ角度をしているのは、この植物にとっては大事なことなのであろう。この幾何学模様は神秘に満ち溢れていた。このようにして毎年葉を延ばし、2枚の葉の段が何世代か積み上がっていた。 写真に切り取った光景は、何時頃から始まったのであろうか。私の一生だけ ・・・。いや気の遠くなるほど太古から繰り返されてきた光景なのであろう。昨日今日、知った私が、あれこれ詮索するのが、烏滸がましい。
この山に来ると、色んな人に出会う。子供ずれの家族一家のハイキング、本格的な登山前のトレーニングで来る人、日課として来る人といろいろだ。私は、身体を鍛えるのでなく、ただ健康を維持するためである。
美しさに目を奪われ、シダの写真を懸命に撮っていると、「何を調べておられるのですか」と知人が近寄ってきた。
「シダだヨ」と返答すると、
葉っぱをひっくり返しながら「シダに違いないが、裏が白いので、ウラジロ」と呼ばれていると教えてくれた。
裏が白いとは、日本人の大切な心がけを表している言葉。正月飾りに使われている、あのウラジロであった。
気に入るまで撮り続けた中の1枚写真

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