2012年01月21日 鵜川四十八体石仏群・滋賀
数年前、琵琶湖一周した時、心に留まってしまった石仏があった。
高島から国道161号線を南下し、白髭神社にあとわずかに近づいたところで「鵜川四十八体石仏群」(←地図)に出合った。
当時、「とにかく、琵琶湖一周をするんだ」との思いで、完遂することだけを目標に歩き切ったのだが、不思議と蘇ってくる風景もあった。このようにさりげなく思い出す記憶には、自分が追い求めている原点らしいものに触れる事ができるようである。
西近江路は、琵琶湖の西側を通っている道である。奈良時代、京都と北国を結ぶ道として重要視され、北国道、北国海道、西近江路と呼ばれていた。現在、敦賀から大津へ行く国道161号線をほぼ辿っているルートでもある。
湖西地方は安曇川の三角洲のある平地を除いて、湖と山地に挟まれ、街道は山麓を這うように道筋がつけられている。特に、白髭神社辺りは、湖と山地が競い合って狭く交通の難所でもある。自動車が頻繁に走る161号線を避けて、出きるだけ、山沿いにある細長い勝野・打下集落を通っている西近江路を辿った。その内、木が生茂る山沿いの道に入った時に、偶然にも草深い共同墓地の前列に鵜川四十八体石仏群にであった。
先日、ふとこの記憶が蘇り、再び訪れる気になった。「なんであんなところに、阿弥陀如来像さまが何体も整然と並んでいるのか」との疑問が頭をよぎり、早速出向いていった。
高島市高島の白髭神社付近に「いにしえの道西近江路」の道標があり、上り坂になっている道を辿っていくと、鵜川四十八体石仏群に再び出合った。
東を向いて並んで座っている石仏は、ひとつとして同じ顔はない。やさしい顔つき・にこやかな顔つき・おかしみのある顔つき・いつくしむような顔つき・柔和な顔つき、慈愛に満ちた顔つき・・・・やはりその表情は母親の顔つきであった。少し風化も始まり、より一層風情が伝わり親しみを覚えた。
「観音寺城主六角義賢(ろっかくよしかた)が亡き母上の追善のための阿弥陀48願にならって阿弥陀如来坐像を石で刻んだ」と表示板に説明されていた。観音寺城から琵琶湖の対岸にある鵜川を極楽浄土と見立てて、四十八体石仏を作らした。亡き母上を偲ぶ気持ちはいつになっても、変わらないようだ。
勘定すると「48体にどうも足りない」ようだ。更に表示板を詳しく読んでみると「48体あった石仏のうち13体が、大津市坂本の慈眼大師廟に移され、2体は盗難、ここ鵜川には33体」。
後日、信長による焼き打ちのあと、延暦寺の復興に尽力した慈眼大師天海を祀る廟所を訪ねることにした。
以前、比叡山を隠居した僧侶が住む里坊がある坂本に、訪れた事があった。
白壁が見事な滋賀院門跡を訪れた際、慈眼堂に寄り道をした。
石積みの似合う門前町 ←クリック →写真クリック拡大
滋賀院門跡から案内板に導かれて奥へ奥へ辿っていくと、階段を登りきったところにひっそりと鎮まる慈恵堂に至った。元々、坂本の町は都会の喧騒の世界と違って、落ち着いた静かな雰囲気を持った町並みである。更に奥まったところにある慈眼堂は益々静かであった。
僧侶が丁寧に落ち葉1枚1枚を拾い集め、竹ほうきの掃く音が、より一層静けさを深めていた。この情景が、なぜか心に沁みこんでいた。そこは妙に落ちつき、世俗離れをした特別の空間のように思えた。
「静」とは文字通り静かであり、「謐」も「しずか」とう意味である。ここは「しずか」が二つ重ねられた「静謐(せいひつ)」と言う言葉が相応しい。静寂を通り越して繭(まゆ)に包まれたような穏やかな心地よさが漂っていた。
先日、再び訪れたが、慈眼堂の印象は従前と何ら変わっていなかった。ただ、その時には13体の石仏が慈眼堂に運び込まれていた事を知らなかった。今回では阿弥陀如来像さまの顔つき・姿を知っていたので直ぐに目がいった。石仏が山手にひな檀状に並んでおり、上段に鎮座されていた。
この話を親友に話したところ、この13体をひとつひとつ、いつくしむように眺め、慈眼堂のよさを発見したようだ。ここには、観光客もあまり訪ねてこないところでもあり、そっとしておくところかも知れない。
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高島から国道161号線を南下し、白髭神社にあとわずかに近づいたところで「鵜川四十八体石仏群」(←地図)に出合った。
当時、「とにかく、琵琶湖一周をするんだ」との思いで、完遂することだけを目標に歩き切ったのだが、不思議と蘇ってくる風景もあった。このようにさりげなく思い出す記憶には、自分が追い求めている原点らしいものに触れる事ができるようである。
西近江路は、琵琶湖の西側を通っている道である。奈良時代、京都と北国を結ぶ道として重要視され、北国道、北国海道、西近江路と呼ばれていた。現在、敦賀から大津へ行く国道161号線をほぼ辿っているルートでもある。
湖西地方は安曇川の三角洲のある平地を除いて、湖と山地に挟まれ、街道は山麓を這うように道筋がつけられている。特に、白髭神社辺りは、湖と山地が競い合って狭く交通の難所でもある。自動車が頻繁に走る161号線を避けて、出きるだけ、山沿いにある細長い勝野・打下集落を通っている西近江路を辿った。その内、木が生茂る山沿いの道に入った時に、偶然にも草深い共同墓地の前列に鵜川四十八体石仏群にであった。
先日、ふとこの記憶が蘇り、再び訪れる気になった。「なんであんなところに、阿弥陀如来像さまが何体も整然と並んでいるのか」との疑問が頭をよぎり、早速出向いていった。
高島市高島の白髭神社付近に「いにしえの道西近江路」の道標があり、上り坂になっている道を辿っていくと、鵜川四十八体石仏群に再び出合った。
東を向いて並んで座っている石仏は、ひとつとして同じ顔はない。やさしい顔つき・にこやかな顔つき・おかしみのある顔つき・いつくしむような顔つき・柔和な顔つき、慈愛に満ちた顔つき・・・・やはりその表情は母親の顔つきであった。少し風化も始まり、より一層風情が伝わり親しみを覚えた。
「観音寺城主六角義賢(ろっかくよしかた)が亡き母上の追善のための阿弥陀48願にならって阿弥陀如来坐像を石で刻んだ」と表示板に説明されていた。観音寺城から琵琶湖の対岸にある鵜川を極楽浄土と見立てて、四十八体石仏を作らした。亡き母上を偲ぶ気持ちはいつになっても、変わらないようだ。
勘定すると「48体にどうも足りない」ようだ。更に表示板を詳しく読んでみると「48体あった石仏のうち13体が、大津市坂本の慈眼大師廟に移され、2体は盗難、ここ鵜川には33体」。
後日、信長による焼き打ちのあと、延暦寺の復興に尽力した慈眼大師天海を祀る廟所を訪ねることにした。
以前、比叡山を隠居した僧侶が住む里坊がある坂本に、訪れた事があった。
白壁が見事な滋賀院門跡を訪れた際、慈眼堂に寄り道をした。
石積みの似合う門前町 ←クリック →写真クリック拡大
滋賀院門跡から案内板に導かれて奥へ奥へ辿っていくと、階段を登りきったところにひっそりと鎮まる慈恵堂に至った。元々、坂本の町は都会の喧騒の世界と違って、落ち着いた静かな雰囲気を持った町並みである。更に奥まったところにある慈眼堂は益々静かであった。
僧侶が丁寧に落ち葉1枚1枚を拾い集め、竹ほうきの掃く音が、より一層静けさを深めていた。この情景が、なぜか心に沁みこんでいた。そこは妙に落ちつき、世俗離れをした特別の空間のように思えた。
「静」とは文字通り静かであり、「謐」も「しずか」とう意味である。ここは「しずか」が二つ重ねられた「静謐(せいひつ)」と言う言葉が相応しい。静寂を通り越して繭(まゆ)に包まれたような穏やかな心地よさが漂っていた。
先日、再び訪れたが、慈眼堂の印象は従前と何ら変わっていなかった。ただ、その時には13体の石仏が慈眼堂に運び込まれていた事を知らなかった。今回では阿弥陀如来像さまの顔つき・姿を知っていたので直ぐに目がいった。石仏が山手にひな檀状に並んでおり、上段に鎮座されていた。
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Posted by
nonio
at
11:50
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磨崖仏など石仏
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