2014年05月22日    箕面の散策/山頭火

箕面の散策/山頭火  2014年5月9日、フォトウオーク5月例会(箕面、「明治の森」ハイキング)に参加した。
 私は、関西に住んでいる割に、阪急沿線とはあまり縁がなかったが、昔から変わらない高級感が漂う”あずき色”の電車に乗れて、懐かしかった。高槻市駅から十三駅・石橋駅を乗り継ぎ箕面駅で下車した。駅前の「東海自然歩道西の起点」と彫られた道標前が集合場所であった。

 我々参加者25名に対して、 MVG と記した帽子をかぶったボランティアガイドさん5名に出迎えられた。 

 早速、「なぜ西の起点なのか」と、ガイドさんに尋ねてみた。
パンフレットと今日訪ねるハイキングコースを手渡しながら、「東海自然歩道は、東京の「明治の森高尾国定公園」高尾山から、大阪の「明治の森箕面国定公園」にある政の茶屋に至る1697kmの長距離自然歩道で ... 東海自然歩道の西の起点が、ビジターセンター近くにあります」と、説明された。
 そして、ここは、緑豊かな自然と貴重な歴史文化財があることも分かった。
箕面ハイキングコース    
箕面の散策/山頭火 計画では、勝尾寺を回って行く予定であったが、体力的・時間的からビジターセンターで昼食とし、ここから引返して箕面大滝に寄って戻ってくるコースを提案された。実際、歩くと24,000歩(0.75m/歩)と結構な歩数になった。計画通りでは軽く30,000歩を超えていただろう。 なお、一人のガイドを申し込むと、昼食弁当を支給して半日1000円が相場であるが、ここでは手持ち弁当で、かつ無料であった。

 一度ぐらい訪れただけで、この「明治の森箕面国定公園」を語るのはおこがましいが、自然の美しさとこの地に訪れた放浪文人について、2ツだけ印象に残ったものを紹介しょう。

 西江寺の謂れの説明を受けたあと、「聖天展望台」・箕面ビジターセンターへと向かった。ふと山を見上げると、新緑の黄緑色の中、山腹に淡黄色をした帯状の箇所が見られた。この色合の妙を見とれていると、最後尾についた女性ガイドさんが、「椎の花 八重立つ雲の如くにも」と口ずさみながら雲が湧き立つように、椎の花がもくもくと花を付けています」、と説明してくれた。

 子供の頃、神社や寺院の椎の木になったほのかな香りをした実を食べたものだ。古代から人々の暮らしと結びつき貴重な食糧であった。大阪の大都会から電車で1時間のところに、きはだ色に染めてしまう椎の木の群落が残されていたことに目を見張った。

山の中腹に黄肌色に染まった椎の木
箕面の散策/山頭火

椎の花八重立つ雲の如くにも 野村泊月
箕面の散策/山頭火
 
 西江寺境内に種田山頭火(1882~1940)作「みんな洋服で私一人が法衣で雪がふるふる」の句碑が建てられていた。
山頭火と言えば、ラーメン屋の屋号になったり、酒の銘柄であったり、食べもの屋の店舗名などでしばしば目にするのだが、そうではなく、托鉢姿で旅と酒と句に生きた人の名前である。一生を放浪のうちに過ごした山頭火は、常識を捨て去った行乞(ぎよう こつ)という暮らしを選んだ人なのである。
 大正15年、一笠一杖一鉢の行脚の旅を始め、山口県 小郡町に「其中庵」、湯田温泉に「風来居」、 昭和14年、友人の好意により御幸寺境内に庵住、「一草庵」にお世話になりながら、全国各地を転々と旅をした。
 
 ここ西江寺の訪れた昭和11年には、 五七五の定型にとらわれなく、季題にとらわれない異色俳人として知られる存在になっていた。以前の単なる行乞行脚と違って、各地で歓待されての旅であった。

 山頭火全集(春陽堂書店)に、当時の様子をこと細かく日記として書き綴られている。
種田山頭火が、神戸直行の汽船バイカル丸に乗り込み、近畿から伊勢、名古屋、鎌倉、伊豆そして東京から信州、奥羽の大旅行を行っている。その時に、箕面の句会に呼ばれている。


三月八日 愚郎居。

雪中吟行、神戸大阪の同人といつしよに、畑の梅林へ、梅やら雪やら、なか/\の傑作で、忘れられない追憶となるだらう、西幸寺の一室で句会、句作そのものはあまりふるはなかつたが、句評は愉快だつた、酒、握飯、焼酎、海苔巻、各自持参の御馳走もおいしかつた。
夕方私一人は豊中下車、やうやく愚郎居をたづねあてゝほつとした、例によつて酒、火燵、ありがたかつた。
雪は美しい、友情は温かい、私は私自身を祝福する。

・暮れて雪あかりの、寝床をたづねてあるく
・木の葉が雪をおとせばみそさゞい
・雪でもふりだしさうな、唇の赤いこと
・春の雪ふるヲンナはまことにうつくしい
・春比佐良画がくところの娘さんたち
・からたちにふりつもる雪もしづかな家
   追加一句
 みんな洋服で私一人が法衣で雪がふるふる


 この句は、句作そのものはあまりふるわなかつたと、言っているように、人の魂まで入り込むほどのインパクトを与えるものではない。だが、句会に呼ばれて、うれしかったのであろう。周りを見渡すと、自分だけが風変わりな法衣姿であった。 

 法衣に身を包んだいでたちは、あまりにも場違いなところに来たものだと悔いているようにも思える。が、旅行脚の装束である法衣姿は、彼自身慣れ親しんだ衣装でもあり、彼らしさのスタイルでもあった。法衣と言う文字を用いて自分らしさを示したかったのであろう。実際、この文言が多く見受けられる。「法衣こんなにやぶれて草の実」、「雪の法衣の重うなる」 「春が来た法衣を洗ふ」 「旅の法衣に蟻が一匹」「 旅の法衣は吹きまくる風にまかす」など・・・。
 
 「私一人」と言う言葉は、この句会で法衣を身に着けているのは、文字通り一人だけであった。それだけではない。この言葉の背景には、ただひたすら一人で歩いて歩いて歩き続けてきた山頭火であるが故に、妙に味わい深い。 
酒、魚、美味い食べ物を頂いた感謝の気持ちと、すでに世の中に知られた存在になっていたので皆さんに演じなければならない自分とが交錯しているようにも思える。最後に、雪がふるふるで結んでいる。 法衣では正直寒かったに違いない。
このように、思いつくまま言葉にした句が多いのが、山頭火の魅力である。
 
西江寺境内に種田山頭火(1882~1940)の句碑「みんな洋服で私一人が法衣で雪がふるふる」
箕面の散策/山頭火

昭和11年年頭の所感が書き記されている。

芭蕉は芭蕉、良寛は良寛である。芭蕉になろうとしても芭蕉にはなりきれないし、良寛の真似をしたところではじまらない。私は私である、山頭火は山頭火である、芭蕉になろうとも思わないし、また、なれるものでもない、良寛ではないものが良寛らしく装ふことは、良寛を汚し、同時に自分を害ふ。私は山頭火になりきればよろしいのである、自分を自分の自分として活かせば、それが私の道である。

歩く、飲む、作る、――これが山頭火の三つ物である。
山の中を歩く、――そこから私は身心の平静を与へられる。
酒を飲むよりも水を飲む、酒を飲まずにはゐられない私の現在ではあるが、酒を飲むやうに水を飲む、いや、水を飲むやうに酒を飲む、――かういふ境地でありたい。
作るとは無論、俳句を作るのである、そして随筆も書きたいのである。


樹木希林CMと山頭火
ヒガン花の山頭火














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Posted by nonio at 06:20 │Comments( 0 ) ウォーク
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