2012年10月13日   紅葉の木曽駒ヶ岳

  千畳敷カールの紅葉は9月20日ころから始まり、10月上旬には紅葉の最盛期を迎える。運がよければ頂に雪の薄化粧を期待して、木曽駒ヶ岳を目指した。
 都会で、秋の気配が感じられるころ、高い山ではすでに紅葉が始まる。9月になると冷たい秋雨となり、初霜を見、10月上旬には降雪も珍しくない。緑・赤・白の三段染めの景観に出会うのではと、淡い期待を持って出かけたのだが、今年の紅葉は、残暑が厳しく遅れているようだ。

 「前週になって、やっと色づき初めてきた」と地元の人が語っていた。

 季節の巡りが少々遅いが、それでもナナカマドがすでに深紅の衣替えをし、潅木のダケカンバも黄金の葉樹に輝いていた。花崗岩の白い山肌に赤と黄の色模様が映え、半割のお椀をしたような千畳敷カールが、豊かな色彩に染め上っていた。

                        千畳敷カールの景観
 
宝剣の岩峰が、なだらかな千畳敷のカール壁の景観をひときわ引き締めていた。


 つづら折れの「八丁坂」を登り切ると、そこは乗越浄土(のっこしじょうど)というところ。ここを通り越すと駒ヶ岳神社の奥院がある。

 夕方の光に染まり、刻々色を変えていく光景は、死後の西方の浄土なのであろうか。現世の世界に別れを告げた仏や菩薩の住む世界の入り口なのであろうか・・・・・。

 いや、自然の営みだが、大いなる宇宙の営みであり、言語で言い尽くせない境地に引っ込んでいく。こうべが自ずと垂れるこの光景には、「自然への敬虔の念」が生まれてくるものだ。宗教を超越した世界だ。

 友人にこの1枚の写真を送った。「人がこの広大な大自然に立った時、今まで何を知ったといえるのか」との返事があった。

               宝剣山荘・左の奇岩天狗岳越しの茜色の光景          
 





Posted by nonio at 08:48Comments(0)アルプスなど

2012年09月07日   八ヶ岳白色のコマクサ

 梅雨が明けて、待望の夏山シーズンに入った7月27~29日、「コマクサ」が咲く八ヶ岳を訪れた。
1日目美濃戸から赤岳鉱泉(泊)2日目赤岳鉱泉ー硫黄岳ー赤岳(赤岳山頂小屋泊)3日目赤岳ー中岳ー阿弥陀ー美濃戸とゆっくりとした山旅であった。

 昭和37年(1962 年) 、赤岳の頂上に立って以来、実に50年ぶりに同じところに立った。

 青春は再び戻ってこないと言うのは、当たり前のことだが、この地に立つと、当時の様子が「ふつふつ」と甦ってくるから不思議だ。今では立派な赤岳頂上小屋が建っているが、当時、風雪に強いように石にかこまれ、屋根にも石が積まれた質素な石室であった。 
 この地を踏んだと云うことは、他人にとってはどっちでもよい、たわごとにきこえるかもしれない。でも、私の中では、色んな山行の体験が重層しながら、整然と位置づけられている。

 山行は普段の生活とは違い、それなりの緊張感が伴い強く記憶が刻みこまれている。この何気ないちょっとした心の財産が、過去の私へと誘ってくれる。


 赤岳鉱泉小屋から朝の冷気を体に受け止、出発していった。森林帯の坂道を喘ぎながら登っていった。姿が見えないが鳥がさえずる声、渓谷を流れる水が岩とぶつかるせせらぎの音、木々がふれあう音など、耳を澄まさなくても色んな心地良い音がしていた。

 ダケカンバが見られようになり、ハイマツ帯の赤くザレた登山路を登り詰めて「赤岩ノ頭」までやってきた。何時しか音も消え去り、静寂な世界となった。そこは、森林限界を超え、木が育つことができない砂礫帯である。硫黄岳の頂上から、「大ダルミ」にかけて荒涼とした岩屑斜面が谷底まで広がっていた。 
 選りによって、砂礫が動いている過酷な環境を好んで生育している植物がある。「高山植物の女王」と呼ばれている「コマクサ」だ。花弁は4個で外側と内側に2個ずつつく。外側の花弁は下部が大きくふくらんで、先が反り返り、内側の花弁はやや小さく、中央がくびれ、上端は合着している。この姿は人工的には作りえない自然界がなしえた神秘的な曲線を持っている。
 高山で花粉を運ぶ数少ない虫を呼び込むため、ますます艶やかな姿に変身し、魅惑的なピンク色に進化してきたのであろう。
 自分の美しさを知っているかどおうか分らないが、確かに言えることは、ひとがこの「コマクサ」の美しさに呼び込まれて、こんな辺境地までやってくるようになってきた。そして「コマクサ」は、手厚い保護を受けるようになり、いまや一大群落をつくっている。



 硫黄岳と横岳の鞍部にある硫黄岳山荘で「コマクサ」を眺めながら休んでいた。
一人の山ひとが興奮気味に話しかけてきた。「白いコマクサを見つけた」と・・・・・。
この一帯はコマクサの大群生しているところで、この白色の大発見を誰かに伝えたかったようだ。
「兎に角、赤岳に向かって右側を見ながら行きなさい」とアドバイスを貰った。
言われた通り、注意深く探しながら進んでいった。
しばらくして、ピンク色の花を咲き競っている中で、一株だけ純白のコマクサを観つけた。
その存在は際立っていた。







                            

 



Posted by nonio at 12:25Comments(0)アルプスなど

2012年06月25日   ガス中の恵那山

  岐阜県と長野県の県境の中央アルプス、その最南端に恵那山がある。この山は私にとって、北や南アルプスへ行く途中の通過点に過ぎない、中央自動車道の恵那サービスエリヤで見る程度であった。

 一昨年、歴史好きの仲間と木曽路の宿場を逍遥した。中山道の贄川(にえかわ)から馬籠(まごめ)までに11の宿場がある。この間を木曽路と呼ばれている。 1日目、馬籠~妻籠間の山越え、翌日、贄川関所・奈良井宿へ。昔日の風情が残る街道を散策しながら、五平餅をほおばり、江戸時代にしたりきった。 旅の最後に訪れたのが、木曽川の激流で岩石が浸食されて出来上がった巨岩・奇岩のある「寝覚の床」も訪れ、想いで深い旅であった。

 そんな中、私の目線は恵那山の山稜を追っていた。この圧倒的な存在感のある恵那山が鮮烈に脳裏に焼きついてしまったと同時に、体力がある内に、頂きを、どうしても極めたいと、心に誓った。



 後日、藤村が、馬籠宿の旧本陣で生まれ、少年時代を過ごした「島崎藤村」記念館に寄ったことを思い出し、「夜明け前」の小説を「ぱらぱら」とめくってみた。明治維新のあわただしい時代の移り変わりを描いた歴史小説である。木曽の山中を舞台にした主人公半蔵の半支配階級の世界は全く興味がなかった。が、私が馬籠から恵那山を眺めていたものと同じ情景の一文に出くわした。

―広い空は恵那山のふもとの方にひらけて、美濃の平野を望むことのできるような位置にもある。なんとなく西の空気も通って来るようなところだ。<中略> 古い歴史のある御坂越をも、ここから恵那山脈の方に望むことができる。大宝の昔に初めて開かれた木曽路とは、実はその御坂を越えたものであるという。その御坂越から幾つかの谷を隔てた恵那山のすその方には、霧が原の高原もひらけていて、そこにはまだ古代の牧場の跡が遠くかすかに光っている―
 御坂越とは、中央アルプスを越える東山道の「神坂(みさか)峠」のことである。近江を起点とし東国を結ぶ東山道の中で、ここが屈指の難所であった。旅人は覚悟の上で峠越えをしたところである。この荒ぶる神がいる峠を「神の御坂(みさか)」といい、「神坂(みさか)峠」と書くようになったようだ。滋賀に住む私にとっては、古道ロマンの東山道で通じていることに親近感を持った。麓にいる人をやさしく励ますように存在している恵那山が、身近な存在に思えてきた。

 この頂きが雲に覆われた写真を見ていると無性に恵那山へ行ってみたくなった。 代表的な御坂峠ルート、あるいは黒井沢ルートがあるが、いずれのコースも2日かかりである。避難小屋があるので食料さえ持てばいけるのだが、その他寝袋など持参しなければならず重荷になる。滋賀県から一日でとんぼ返りできる身軽なコースとして広河原ルートを選んだ。恵那山頂より東北に延びる尾根筋が張り出している、これを辿ることにした。
 思い立ったのが、梅雨時期である。雨は覚悟していたが、登山開始から下山するまで、ガスの中。木谷川の木橋で渡り、ここから山頂まで「ぐいぐい」と一方的な登りには、エキエキしてしまった。視界が利かず、雲の中では結構不安が襲ってくるものだ。 野熊ノ池避難小屋方向からの主尾根にでたところから雨足も強くなり、笹原の尾根道となった。 どこをどう登ったのかわからないまま、勾配が緩やかになってきたと思ったら頂上(恵那山の三角点2189.8m)に達していた。

        三角点上にGPSを載せた高度2189m

 頂上は意外にも寒く、長居は無用である。ほんの10分程度休憩しただけで、急いで下山にかかった。すでに時間も遅くなり、日没も想定してヘッドランプも装着して一挙に下山。スタート地点の木橋に戻ってきたときは「ほっと」とした。山の神に感謝しながら、帰路についた。往路とも誰ともすれ違わなかった。こんな梅雨時にくる馬鹿げた人はいないようだ。



 

 










Posted by nonio at 14:34Comments(0)アルプスなど

2011年11月24日   大荒れの大山

  若い頃、大山に何回も行った事があった。この山は、本格的な山登りを開始するとか、錬成登山として、登竜門的な山である。今では、近畿から日帰りでも大山に行けるが、当時、大山に行くのは結構大層であった。京都駅から夜行列車に乗り込み、翌朝大山口駅に到着。更にバスで大山寺に向かうのが普通だった。
 
 先日、「大山の登山中」の友達から電話があった。急に訪れてみたい気持ちが起こり、急遽、紅葉の大山へ行くことにした。 だが、何十年振りの大山であったが、土砂降りの上に、強風が吹き荒れ最悪の天気周りとなった。

              六合目から大山北壁を望む
          


 ほとんど人は「大山」の文字を見て、「おおやま」と読むと思うのだが・・。 
山を目指し始めた若い頃、大山隠岐国立公園の最高峯、大山「だいせん」を「おおやま」と読んでしまい、失笑されてしまったことがある。 山を「せん」と読む事が少ないが、鳥取県と島根県そして岡山県北部の一帯の「山」は、「せん」と読んでいることが多い。山は漢音「さん」呉音「せん」と呼ばれており、山を「せん」と呼ばれるのは、修験者がこもった山をさし、人と山の二文字で作られている漢字「仙」に通じるようだ。このようなことから山を「せん」と読むのであろうか?・・・。
 また、大山には「三鈷山」とか「宝珠越え」など修験者にかかわる密教法具などの言葉が地名として付けられている。そもそも大山の古名は大神山と言われて神宿る山であり、修験者による回峰行が行われた信仰山岳の霊場である。

 ルートは、頂上弥山に立つため、夏山登山路を辿った。下山は行者コースを選び、元谷から大神山神社を経由して、同じところに戻ってきた。登山口(標高780m)から弥山(標高1711m)標高差931m。
 登山道は当時の様子と殆ど変わらず、階段・土留め・木道などきちんと整備されていた。この夏山登山道は、大正9年につくられ、翌年には頂上小屋や石室がつくられ、年期の入った歴史ある登山路である。

 大山寺から佐陀川の架かる橋を渡って夏山登山路から入っていった。はじめ登山路は石段であったが、その内、丸太が階段状に設置されていた。途中、志賀直哉が書いた「暗夜行路」に出て来る阿弥陀堂を見遣りながら、先が長いので、ゆっくりと登っていった。
 四合目を過ぎると標高1200mの表示板があった。 

 六合目付近からは視界が開けてきた。一瞬ガスが晴れ、崩落している荒々しい北壁が望め、三鈷峰も望めた。

 八合目を過ぎると、登山路は緩やかな登りになった。国の天然記念物であるダイセンキャラボク群落を保護するため木道が取り付けられていた。ここまで来ると遮るものがなく、一挙に横殴りの風雨に悩まされることになった。下山者が続々と下ってきたので尋ねて見ると「余りにも風が強烈過ぎて引返してきた」と口を震わせて言っていた。

 やがて、避難小屋を越して、弥山の頂上にたった。だが、頂上は霧が立ちこめ、その先にある「剣が峰」があるのだが、その雄姿は見る事ができなかった。
  大山と言うピークは無く、頂上は弥山1711m、最高点は剣が峰1729mとなっている。その他、天狗が峰(てんぐがみね)、槍が峰(やりがみね)、三鈷峰(さんこほう)の総称として大山と呼ばれている。
 何十年も前、弥山から最高点の剣ヶ峰を越えユートピア避難小屋まで縦走したものだ。この稜線は砂山化が激しく、北壁と南壁を分ける稜線であったが、難無く越えていった。現在は、毎年無謀な縦走を試みる人が後を絶たず、死傷事故も発生しているルートである。特に2000年に発生した鳥取県西部地震以降、山肌の崩落が激しくなっている。

 余りにも吹き曝しに絶えられないので、弥山の直下の避難小屋に飛び込んだ。2~3人の若者が天候悪化にも臆することなく「わいわい」言いながら熱いラーメンをすすっていた。一向に吹き止まない中、兎に角、森林帯まで一目散に下って行きたいと考える私と較べて、「彼らは若いなー」と、実感した。

 10分ほど小休止し、直ぐに下山にかかった。八合目を過ぎると森林帯となり急に風は収まった。六合目の避難小屋を過ぎたところの分岐点から行者コースを取った。
 ブナ林帯に木道がつけられ、急な箇所には木段が整備されていた。下り終えると、崩落してきた砂礫の川原に出た。ここから眺める北壁は迫力があった。以前、元谷の付近で、野宿したときには、落石によるごう音が鳴り渡り、一晩中寝られなかったことがあったこと思い出しながら、元谷の堰堤の対岸に急いでを渡りきった。

 

 大神山神社奥宮にやって来た。その佇まいから荘厳さを感じる檜皮葺の立派な奥宮だった。ここには以前参拝しているのだが、全く記憶がなかった。神門を潜り抜け、 杉やブナの巨木の中に自然石を敷いた石畳の道が続いた。この参道の長さが約700mで我が国最長である。しかし、石畳が雨でぬれていて滑りやすく歩き難い。疲れ切った体には、応えてしまった。




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Posted by nonio at 22:52Comments(0)アルプスなど

2011年10月03日   由布岳で「光速より速いニュートリノ」ニュース

 九州には魅惑的な山がある。滋賀県からハイキング気取りで訪れるには、ちょっと遠いが、9月23~25日由布岳を目指し、大阪港から船旅に出かけた。

 数年前、ミヤマキリシマを見るため九重山群の山旅に出向いたことがあった。別府港からバスに乗り込み、九州横断道路(やまなみハイウェー)の山岳地帯を通過した際、突如、見上げるような山塊が眼に飛び込んできた。天空を突き刺すかのような迫力のある山容で、その裾野は、どこまでも長く引いていた。この山を取り巻くように黄緑色の草山が、やわらかい曲線を描いていた。
 仲間に山名を教えてもらった。由布岳であった。小生、どうも無粋で、有名な温泉地「由布院」の地名を知っていただけで、この時初めて訪れた。
 
 今回、この場に立って、以前車窓から眺め心に焼き付けていた山容と寸分変わらない姿を目の前にして、再会の喜びを感じ入った。

                   由布岳登山口 駐車場から


 由布岳はその名の通り由布院盆地の北に位置し、遠くからでも見える独立峰である。裾野を長く引いた山容から別名、豊後(ぶんご)富士と呼ばれている秀峰。
緑をまとった飯盛城(1067m)の後に鋭い双耳峰が見える。東峰と西峰2つのピークからなり、標高は1,583m(西峰)。下山後、場所を変えて、見飽きる事がない眺望を楽しんだ。

                東峰と西峰2つのピークが見えるところ

 
 由布岳を正面に見ながら牧草地の中を進んだ。左手に飯盛城を見ながら樹林帯を進むと合野越えに着いた。左側の飯盛城を見遣りながらツヅラ折の道を進んだ、振り向くと下方に由布院の盆地が望まれた。再び、潅木帯の道になり、急坂を登りきると「マタエ分岐」に登り詰めた。東峰と西峰の鞍部になっているここから一休みして、まず、西峰をピストンし、東峰頂上を踏んだ。

               西峰・東峰の「マタエ分岐」


 西峰は、東峰に較べて僅か高いようで、一等三角点もあり、標高1583.3m。ただ、「障子戸」と呼ばれる難所があった。僅かな足場を探しあてながら、垂直に降りるのではなく、カニのヨコバエ的に絶壁を渡りきらなければならない。この写真は、山の経験も少ない名も知らない若者であった。自ら勇気を奮い立たして果敢に挑戦している写真である。後日、彼の雄姿の写真を約束通りEメールで送付したもので、無論、ブログに掲載することも了承。

                 「障子戸」と呼ばれる難所


 
 下山して、関西汽船フェリーさんふらあに乗り込み、帰途についた。「ほっと」していると、隣の人が新聞をむさぼる様に読んでいた。覗き込むと「光より速いニュートリノ」との見出しがあり、ニュートリノが光速よりも60ナノ秒(60秒の10億分の1)早く到着した。

 「それがどうしたの」と言われるかも知れないが、光速より速いニュートリノの出現は、時間の概念すら変更しなければならいものである。 1905年に発表されたアルベルト・アインシュタインの創始した相対性理論は、ものが速く動くほど時間の進み方は遅くなり、光速ではゼロ。さらに光速を超えると時間の進み方は逆になり、過去に踏み込むことになる。アインシュタインはこのようなことが起こらないとして「光速を超えるものがない」とした。
 だが、この測定結果が正しかったら、ニュートリノは時間をさかのぼり、過去へのタイムトラベルも現実味を帯びてくる。

 人類史上はじめて、光速を測ったのはガリレオ・ガリレイである。それまでは、光速は無限大であると考えられていたのだが彼は測定をした。遠く離れた二カ所に置いたランプの合図を用いて光速度を測定する方法を提案した。この方法では光速があまりに速い為に有意な結果を得られなかった。その後、光速の測定にはじめて成功したのは数学者レーマーであった。木星の衛星が木星の影に入ったり出たり周期が変化することに目を着けた。これを計算し、20万km/秒とした。桁があっているという、当時驚くべきもであった。その後、フィゾー・フーコー・マイケルソンなどによって 光速の測定を続けた。
現在、真空中における光速の値は、 299 792 458 m/s(≒30万キロメートル毎秒)である。地球を7回半回る速さとも表現されている。

 こういう歴史の積み重ねの上、光速が重要な役割を演じる相対性理論が出現した。20世紀に物理学が発展する土台となった理論である。 この光速度不変を前提にして相対性理論が組み立てられた。一昔は、時間や空間は予め神によって与えられたもので、形而上学や哲学のテーマであった。一般相対性理論が提唱された現代では、全宇宙の時空の構造や今後の宇宙の姿についても語れるようになった。

 ところで、このようなことを家に帰って興奮気味に家内に話したところ「あーそう」で終わってしまった。
 確かに、光速を超えるものがあろうがなかろうが、宇宙の成り立ちには何ら変わりがしない。が、宇宙の中に存在している宇宙の落し子、人間が、この宇宙の構造を数式で持って理解しょうとしている。むしろ、宇宙の時空の成り立ちを、人間に理解してもらおうと人類に託しているのかもしれない。





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Posted by nonio at 09:05Comments(2)アルプスなど

2011年08月05日   白山の日の入りと日の出

  
日付 2011年7月23~24日(日)
山名 白山
コースタイム 23日 別当出会12:00 中飯場 12:40 別当覗13:30
             甚之助避難小屋14:20 黒ボコ岩16:00  室堂16:40
         24日 室堂4:00 御前峰5:00 翠ヶ池5:30 室堂7:00 
            (エコーライン)甚之助避難小屋11:00 別当出会12:30

 富士山や立山とともに「日本三名山」といわれてきた白山。文字通り白く冠雪した山には、神々が住む山として崇められ、古くから信仰登山が盛んに行われた。また「ハクサン」の名を付けた植物も多く、「高山植物の宝庫」ともいわれ、多くの登山客が訪れる山である。
  
 1日目は別当出合登山口(標高1260m)を出発。中飯場で一息入れ、その後、別当覗・甚之助避難小屋(標高1975m)で小休止し、南竜分岐点から黒ボコ岩・室堂(標高2450m)を目指した。2日目は御前峰(2702m)のご来光を迎え、池廻りをして、一旦室堂に戻った。その後、エコーラインを下山して別当出会に戻るポピュラーなコースをたどった。

 別当出会から吊橋を渡るとブナ林の緩やかな登り道となった。今日は、白山室堂ビジターセンターまで標高差1190mを登り一筋に耐えに耐える1日となった。
 登山開始後4時間経過して、白山の主峰の御前峰が仰ぐ事ができる黒ボコ岩にやって来た。木道を進んでいくとコバイケイソウ・イワイチヨウ、ハクサンフウロ、ミヤマクロユリなどお花畑に迎えられ、今日の目的地に到着した。

 やっと、白山室堂ビジターセンターに辿り着き、ビールと夕食を頂き、一息ついた。

 辺りが赤色に染まり、雲海の彼方に太陽が沈みかけていく荘厳な光景に出くわした。白山室堂センター前の小高い丘に夕日を楽しむ登山者が集まっていた。太陽の上縁が西の地平線に沈みきった瞬間。日没。思わず手を合わし、素晴らしかった一日に感謝し、太陽が沈んでいくのを楽しんだ。これで二度と太陽が現われないのではないかと、錯覚さえ覚えるほど暗黒となってしまった。太陽神信仰では、日没とは「死」を象徴しているのだが・・・・。

              午後7時室堂から見た日没


 翌日、朝早く3時半起床し、真夏に拘らず、防寒具を着込んでいても肌寒い中、御前峰頂上(2702m)に向かった。真っ暗な中、御来光を待ちわび、4時55分待望の一瞬を迎えた。

 御来光が出る少し前から雲海がほんのり赤くなると、剣岳、立山連峰、槍ヶ岳などの山並みを背景にして太陽が上がってきた。神官の音頭にあわせて、参加者全員が何のためらいもなく万歳三唱を口にした。この恍惚の瞬間を、万歳三唱以外の表現がないのかよくわからないまま、神官の言う通りに従っていた。

「1日の始まり」である。
 下界では一々ご来光に感動も感じないが、ここ霊峰白山は神に近いところなのであろう、こうした光景を目の当たりにしていると、「大自然に生かされている」と思ってしまう自分が、そこに存在している。この大自然の一部である傍観者である「おのれ」が感知している存在が、より一層不思議に思えてならない。
            白山の主峰の御前峰からご来光を仰ぐ


 ご来光を拝み、その足で山頂の神秘の湖を訪ねた。 頂上部には大小7つの湖がある。お池巡りコース沿いに登場する湖のうち最も大きいのが"翠ヶ池"だった。次いで紺屋ヶ池、油ヶ池、血の池、五色ヶ池、百姓池、と続き、それぞれ美しい水をたたえて、白山の代表的な景観の一つとなっていた。

                神秘的な翠ヶ池(みどりがいけ)
 

 今回、色んな高山植物に出会ったが、ひときわ、小生の眼を惹いたのがイワギキョウ。高さはせいぜい10cm前後、花は釣鐘型で長さ約3cm程度。平地に咲くキキョウはすくすく育つが、2500mの高山に咲くイワギキョウは、大きくなった枝葉は風雪にもぎとられ、何百年、いや何万年それ以上の自然の摂理に従って耐え忍んで生延びて来た姿なのであろう。

 砂礫地や岩陰にひっそりと控えめに、素朴で清楚な花を付ける。無駄のない美しさは、いとしいほど神々しいと思った。
                  可憐なイワギキョウ
 
 白山室堂ビジターセンターで朝食を頂いて、エコーライン・南竜道を下山していった。

 小屋の脇から、五葉坂を下り弥陀ヶ原を横切るように付けられた木道に沿ってエコーラインに入った。道脇にはニッコウキスゲが群生して、眼下には赤い屋根の南竜山荘が見え、油坂ノ頭・大屏風ノ頭そして別山(2399m)の雄大な山稜がくっきり見えた。ここは、喧騒とはかけ離れ、感じのとても静かな道だった。
            エコーラインから望む雄大な山稜をした別山                


 小生にとっては、白山は相性があまりよくない山のひとつで、あまり踏み入りたくない鬼門の山となっていた。
若者の頃、冬季3月、白山から大倉山を経由し岐阜県白川村へと挑戦するため、鉄道金名線の「白山下」駅に降り立った。(御母衣ダムが注水を開始したころ)

 かって「白山下」駅は白山登山へのバスの中継点であった。今では鉄道金名線が廃線に伴い廃駅となったようだ。 アクセスも悪く冬季のため2日かかりで、弥陀ヶ原まで上り詰めていた。当時GPSもなく、簡単な磁石を持っていただけで、冬仕度の装備も貧弱であった。

 全面積雪で真っ白で、おまけに一寸先が見えないガスに覆われ、方向感覚が全くなくなっていた。幾ら歩いても、平面で「おかしいなー」と言いながら、それでも歩き続けていた。
その内、仲間が、「真新しい跡足を見つけた」と言い出した。だが、この白山に入山しているのは我々4人だけだ。どうもおかしいと感じるのだが、抜け出す事がどうしてもできなかった。4人が手を繋いで、幅を持って進んだりしたが、跡足が増えていくばかりであった。精神的にも焦りが生じ、疲労困憊(こんぱい)状態に陥っていた。だが、女神が微笑み、我々をまだ生かそうとしたのであろう。太陽が、射しこみ辺りのガスが晴れ渡り、九死に一生を得た。

 所謂、「リング ワンデルング」にはまりこんでいたのだ。ドイツ語で、視界が悪い積雪期の平らなところで、歩いているうちに元の場所に戻ってきてしまっていたことが判った。人間、視界を閉ざされと、楽な方に歩んでいくもので、あえて五葉坂を登りきることなく、平らな弥陀ヶ原を回ってしまっていた。

 この時に、危険度は相当なもので、この山には二度と行きたくない山と心に誓ったものだ。それでも、無人の室堂にもぐりこみ、引返すことなく岐阜県白川村まで抜けきっていった。
                   弥陀ヶ原周辺の地形


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Posted by nonio at 07:04Comments(2)アルプスなど

2010年09月06日   北アルプス 大日岳・奥大日岳

  8月20日、室堂バスターミナルに降り立つと、ここは、標高差2400mの高地であり、青空に包まれた雲の上の世界。空気も、カラッと乾いた涼しい別世界であった。

 立山には、何回も訪れている。昭和46年、黒部アルペンルートが開通する何年も前に、友人2名と私は立山連峰を通り、目と鼻先に剣岳が一望できる別山乗越に初めて立った。
それも、上高地から何日もかけて穂高から槍が岳、雲の平を越えて、薬師岳そして剣岳まで縦走してきた。無論、テント泊である。
 その後、積雪期に雄山から真砂岳、別山を通り、岩と雪の剣岳を前にした別山乗越に立ったこともあった。この別山乗越は、私にとってはとても思い出のある懐かしいところだ。

当時の写真(下段の続きを読むをクリック)

 近代化された山小屋の建物、商店などは、一昔前訪れた時と比べると随分様変わりしていたが、ぐるりと取り囲む立山連峰の景観は、記憶にあった映像と何ら変わらなく、直ぐに馴染むことができた。ただ、立派な石畳の遊歩道が至るところに張り巡らされ、ホテルさながらの山小屋につながっているのには、驚かされた。ここは、登山基地であったのだが、ハイヒール姿でも支障がない山岳観光地として変貌していた。

 我々は2班に分かれた。浄土山、一の越そして雄山を目指す班と室堂平を散策する班である。無論、後者を選んだ。まだ行った事がないと言うより、素通りしていた玉殿の岩屋、旧室堂建物を見学したかったからだ。

 急な坂を下っていくと崖のところに祠が祭られている岩屋が二箇所あった。奥の岩屋が「玉殿の岩屋」であった。立山開山の祖、有頼がこの岩屋にこもって修行中に、阿弥陀如来に立山を開くように告げられたと伝えられている。この原点と言うべき箇所を見る事ができ、立山とは、奈良時代から人びとが自然に対して畏敬の念を持って、ここに分け入ったことを知った。この一帯は信仰の対象であった。最高峰の大汝山・主峰の雄山・富士ノ折立の3つの山からなり、雄山の山頂には雄山神社本宮が祀られた古い歴史を持っていたことを再認識した。

 ミクリガ池を通り今夜泊まる雷鳥沢ヒュッテに向かった。
この辺りに雷鳥が棲息していたので、雷鳥沢と呼ばれたのであろう。だが、今回一度も見かけなかった。雷鳥は、霧や雷雨で視界の良くないときに出てくるのだが、当時ヒトを天敵と思わず怖がらずに登山路にも現れ、ニワトリのように砂浴びをしていたことを、今更のように思い出した。何匹もの子供連れだ。
昔と山容が変わらずとも、微妙に自然が損なわれてきていることを「じわっと」感じ取った。




 今回、Sクラブでは、別山乗越から別山と大日岳・奥大日岳に行く2コース計画された。懐かしい別山乗越に赴いてみたかったが、散々迷った末、後者を選んだ。

 当時ケーブルカーの駅美女平駅から立山高原バスは、弥陀ヶ原までしか行かなかった時代だ。室堂に入るにも1日かかりであった。その結果、弥陀ヶ原越しに見える優雅な山並みの大日岳と奥大日岳を眺めながら「てくてく」と歩いたものだ。「ぜひ未踏のところに登ってみたい」と想いが以前から募っていた。

 この山塊は、立山・剣岳と尾根続きでありながら、縦走路から外れているので、別山乗越から室堂に下山してしまい、訪れる機会が失ってしまい、今日に至っている。このようなことから、大日岳と奥大日岳に行くことに決めた。


大きな地図で見る

 大日岳山塊は、剣岳と立山を南北に結ぶ稜線から西に延びる尾根の上にあり、脚光を浴びる山々の支峰になるため、訪れる人が少なく、静かな山旅を期待した。
 写真は雷鳥沢ヒュッテ前から早朝に写したものだ。中央の無名山(2511m)まで登り詰め、右側の最高峰奥大日岳(2,611m)に回り込み、最後に、左側の大日岳(2501m)の征服を目指した。雷鳥沢ヒュッテをベースにしているので、大日岳をピストンしょうと言うのである。

 標高差はそれほどないが、往復するので10時間は、優に越えることを覚悟した。今夏、異常気象とも言われるこの炎天下では、水が最も大切であり、尾根筋では水分補給がままならないので、3リットルを準備して朝早く出発した。



 雷鳥沢の橋を渡って少しの登りで新室堂乗越の稜線に出た。途中、振り向くと雷鳥沢には何張りものテントがあり、浄土山が朝日で「すっく」と顔をみせ、さわやかな1日の始まりとなった。朝のこの時間帯は、山が、一番明るい顔を見せるときだ。

  

 新室堂乗越沿いに進むと、鋭い剣岳が圧巻であった。積雪期の剣岳への登山ルートでもある早月尾根を駆け上がる剣岳は、黒い谷筋を幾条も落とし、どこから見ても人を寄せ付けない凄みがあった。これを上回る頼もしい二人の女性も同行した。


 
 2511mのピークを越え、巻くようにして高度を上げていった。お花畑あり、剣岳の西面、立山、遠くに薬師岳が望め、退屈しなかった。尾根の南側山腹を登るようになり、ここを登りきって稜線の上に出ると奥大日岳頂上に出た。頂上は花崗岩の石が積み重なっていて、絶好の展望台となっていたので、全員で写真を撮った。



 次の目標は、大日岳である。手前にある赤い屋根の山小屋が見えるが、中々近づかない。直線距離にすると僅かなのであろうが、一旦ザレた急斜面を下り、崩壊地には備え付けのハシゴを通過して、登り返さなければならない。七福園の巨石のある自然庭園を通り抜け、中大日岳(2500m)には気づかず、大日小屋広場にたどり着いた。ここまで奥大日岳から1.5時間も費やした。

 尚、私は、それほど山のピークを大切に思ってなったが、最近、色んな事が重なり数回ピークに立ってなかったので、是が非でもとの思いで大日岳の頂上を踏んでおいた。



 本来、ここから大日平に下山して、称名滝へのコースを辿るのだが、我々は、もときた道を引返していった。リーダーを含め2~3名は元気であったが、全員疲労が積もってきた。こうなると人によって心臓と脚力の強さによって遅い、速いができてくる。私は体調が芳しくないので、全体の迷惑がかからないように、休み休み帰路についた。もはや、ルートには新鮮味がなくなり倦怠感も襲ってきた。

 気持ちの切換えが大事だ。このルート沿いには、意外にもあっちこっちに「野いちご」が実っていた。少し黒味かかった果実は甘味であったが、赤い粒は、まだ完熟していないのか「すっぱみ」があった。疲れは酷かったが、できるだけ色んなものに目をむけ、楽しみを見つけては、疲れを和らげるように心がけた。

 新人の自称「マ-ちゃん」は、風貌と大違いで、結構気立てが優しいようだ。喋り方がキツイのは、照れ屋なのであろ。このルートに「野いちご」をいち早く見つけ出したのは彼女であった。自分で食べたらよいものを、大粒を摘み取っては、みんなに手渡していた。無論、私にもくれた。
いずれにしても、帰路は極度の疲労感に襲われ一歩が辛かった。

 奥大日山の山塊を右から巻くようにして登りきると、後は降りとなり、幾分楽になった。地獄谷が見えるところまでもどり、全員無事に雷鳥沢ヒュッテに下山した。すぐさま、脱水症状を解消するため、ビールで乾杯となった。この一杯のビール、体に沁み込み、堪えられなかった。この日、ビールをあわせて水分4リットル以上となった。



 3日目は、雷鳥沢ヒュッテから地獄谷を通り、天狗平にやってきた。ここから全長で2.4Kmの美松坂コースを辿り、弥陀ヶ原ホテルまでウォーキングを行った。弥陀ヶ原高原は標高約1,600~2,100m、南北2km、東西4kmにわたり広がる静かな大高原だ。美松坂コースで視界が広がったところから眺めは素晴らしかった。



 弥陀ヶ原ホテルで昼食となった。食事まで時間があったので、新聞を開いていると、「8月22日 北アルプスの雷鳥坂にある登山路で新潟県加茂市 K氏が下山中転倒。県消防防災へりで運ばれた」との記事があった。この時、我々も丁度、下山中の出来事であった。無事に搬送されたことに「ほっと」した。

長野県警山岳遭難救助隊の数名が、代わる代わる足を固定した男性を背負って下ってきた。雷鳥沢の川原まで運び出し、ヘリを待った。このキビキビした救助隊員達には好感が持てたが、2名の報道陣であろう、負傷者に対して遠慮なくカメラを向け取り続けた。それも笑いながらの撮影には、我々も「むっと」なった。

 

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Posted by nonio at 07:21Comments(0)アルプスなど

2010年08月02日   中央アルプス千畳敷から三ノ沢岳で遊ぶ

  7月18日、山仲間8人が2台の自動車で中央アルプスの赴き、千畳敷から三ノ沢岳に挑戦した。前日まで、集中豪雨が各地を襲い、地盤が緩み家屋崩壊などの被害が発生していた。山行きも危ぶまれたが、この日を境にして、嘘のように晴れ渡った。同時に、夏山シーズン最盛期となって、行楽客がどっと繰り出したようだ。

 我々も、前日、駒ヶ根市内のビジネスホテルに泊まった。4時起きで朝食もそこそこにして早立ちした。JR駒ヶ根駅から始発の路線バスに乗り込み、直接ロープウェイの出発点「しらびそ駅」まで運んでもらった。途中、菅の平バスセンターには、自家用車が溢れんばかりに押し寄せていた。マイカーの進入禁止地点だ。「しらびそ駅」に行くための専用バスに乗り換えのため、既に長蛇の列ができていた。だが、我々のバスは、ここを経由するだけで、この混乱には巻き込まれなかった。どうも、自動車が集中する菅の平バスセンターを避けたほうが、スムーズのようだ。

 これほど大勢の人達がやってくるのは、標高2612mの千畳敷までロープウェイで一挙に運んでくれ、氷河拡大期に形成されたすり鉢状のある高山山岳の風景を味わえるからだ。眼前には、宝剣岳や伊那前岳と言った山々を従えたカールが見事に広がっていた。稜線には、米粒のような人影が見え、よく観ると動いている…。

私は、この大自然が放つ拡がりと言うのか、開放感がとても気に入っている。



 午前6時過ぎの時間帯、千畳敷にやって来る人達には観光客がいない。登山者の殆どが乗越浄土を経て木曽駒ガ岳を目指し、続々と八丁坂に向かっている。

 そんな中で、極楽平を経由して三ノ沢岳または空木山を目指す人は、少ないようだ。三ノ沢岳は、中央アルプスの主稜から少し外れている独立峰なので、訪れる人が極端に少なくなるとガイドブックには案内されている。確かに、宝剣岳と極楽平の中間にあたる支尾根を辿るへんぴなところである。したがって、自然が保たれ、山野草が咲き競っているようだ。

 だが、30名以上の大集団の山岳ツアーの客を、何組も見かけた。想像だが、お花畑の山岳ツアー業者が目を付けて、中高年客を送り込んできているのであろう。人もまばらな静かな山行きと期待していたが、そうでもなかった。
 入山計画書を書き、いよいよ登山開駒ガ岳神社で安全を祈願して出発していった。山腹を巻き込むように付けられた山道には、人影が上に上にと繋がり、極楽平に向かっていた。 
 
 

 残雪を登り詰めると、稜線に飛び出た。ここが極楽平だ。一汗かくと、全員山にきた充実を感じつつ満面の笑みになってきた。

 左側は、空木山の縦走路であるが、ロープが張られ通行禁止の札が立ててあった。空木山から駒ヶ根高原へ下山ルートの迷尾根においてハシゴ・鎖場が連続している小地獄が崩落したようだ。

 

 ここから、右側の主稜線に出て北上した。南宝剣岳の緩やかな尾根を進んでいくと、宝剣岳の背後に力強い御嶽山、優美な乗鞍岳の姿を眺める事ができた。北アルプスの南の端に乗鞍岳。少し隔てて御嶽山が孤立高峰として存在している。

 乗鞍から張り出してきた裾野と御嶽さんの山裾がお互いにうねうねと繋がり、美しい曲線を創り上げている。今回の山旅は山野草よりこの優雅で、艶かしい曲線を観るためにやってきたと言っても過言ではない。釈迦様の涅槃像を彷彿させるようだ。思わず手を合わせたくなるほどの神々しい。
 
 因みに、数年前、阿蘇の外輪山から、阿蘇5岳を眺めたことがあった。阿蘇山に五岳(阿蘇中央火口丘)はお釈迦様が仰向けに寝ている姿に似ていることから「阿蘇の涅槃像」と呼ばれている。根子岳が顔、その右の高岳が胸、中岳が臍(へそ)、杵島岳と烏帽子岳が膝(ひざ)に例えられている。かつてこの地を訪問したこと思い出していた。

自然が織り成す雄大な風景には、理屈などなく、ただただ感動してしまう。小生一人悦になった。



 三ノ沢分岐点やってきた。ここで、宝剣岳への主稜線と別れ、三ノ沢岳方面へ左折すると、三ノ沢岳まで一本道となる。ここからピークが見えているが先は結構長い。背の低いハイマツの中を「これでもか、これでもか」と下っていった。ここが鞍部と思うとその下が現れてくる。やはり、諦めなければ、最低地(2605m)に到達しない。今度は、三ノ沢岳の頂までイッキに高度を上げていくことになる。この辺りには休憩している人が目立ってきた。多分、一挙に2600mまでロープウェイで来た為、高度に順応できていない人達であろう。かなり苦しそうであった。

 慰霊碑のケルンが立つ草原状の幅広い尾根まで登ると山頂は近い。東側の山腹を絡むように登り、緩やかな斜面を回り込むと大きな露岩が積み重なった三ノ沢岳(2847m)山頂がみえた。私は事情があり、頂上1m手前で、往路を辿った。

 

 当初の計画では、全員で宝剣岳を越え、できれば木曽駒ガ岳を目指していたが、軽い高山病の症状が出た。3名は計画通り宝剣岳を越え、5名は、残念ながら往路を辿ることになった。


  
 
 今回、三ノ沢岳に来たいきさつには、仲間一人が高山帯に咲く花の姿を観たいとの強い願望があった。中央アルプス一帯でお花畑と云えば、千畳敷カールのお花畑は見事であり、夏から秋にかけて素晴らしい風景が広がっている。簡単に入山できるので、花を求めている人は、ここにやってくる。更に切なる思いをもっている人は、三ノ沢岳を目指すだろう。

 ここ中央アルプスで見られる代表的高山植物といえば、「クロユリ・ヒメウスユキソウ・ハクサンイチゲ・コバイケイソウ・ミヤマエンレイソウ・イワヒゲ・ウサギギク・シナノキンバイ・キバナシャクナゲ・クルマユリ・イワカガミ・・・・等々」いくらでも挙げられる。「コマウスユキソウ」はこの中央アルプスの駒ヶ岳周辺でしか見られないウスユキソウ(薄雪草)の仲間である。別名『ヒメウスユキソウ(姫薄雪草)』とも呼ばれている。ヨーロッパ・アルプスのエーデルワイスは1種しかないが、日本にもその仲間達がいるが、生育地域で色々な名前が付いている。

この高山植物にはどうしても出会いたかった。

 昨年、赤兎山でウスユキソウのつぼみに出会っている。ゲートのある赤兎山・大長山
 頂上手前で「エーデルワイスが咲いている」と言う声が聞こえたので、覗き込むとウスユキソウのつぼみが見られた。
「エーデルワイス」と言うとこの言葉を知らない人は殆どいない。この言葉の響きから大層綺麗な花のイメージが先行しているが、花そのものは地味である。
 
 待望のヒメウスユキソウを砂礫地帯の岩陰に見つけた。ウスユキソウは、30~50㎝の背丈があるが、ここでは精々背丈が10cm前後と低く、風から身を守るため、地面すれすれの背丈である。銀白色の毛が密生した薄い雪をかぶったようであった。「ヒメ」と名づけられたのは、ウスユキソウの仲間でもっとも小さな姿に付けられた名称でもあることから、厳しい環境であることが窺える。

 風雪に耐え抜いたウスユキソウだけが生き残った。背丈の高いものは風に飛ばされ、防寒着のような綿毛のない葉っぱは、枯れおちたのであろう。強風と寒さに耐え忍んだ結果、生き残った姿がここにあった。



  既に、午後3~4時になっても旗を持ったガイドさんに連れられた観光客の団体が、次から次ぎとロープウェイで運び込まれてきた。ここは、登山の登り口ではなく観光地と化し、人ひとでごった返していた。

その結果、帰りのロープウェイ待ちの整理券が配られ、2時間ほどの時間待ちとなった。

 両チーム共、午後2時にロープウェイ前に戻った。お互い、「宝剣岳の岩場は見た目と違い安全なルートであった」「空木山の縦走路の通行禁止の札を取り越したところに高山植物が咲き競っていた」など話しながら休憩をかねながら時間を過ごした。
各自、3000m弱の高山に行くのだから、それなりの覚悟と体力の酷使がある。その上、危険に晒される。だから、コーヒーショップでコーヒーをすすりながら、お互いの健闘を称え、無事に生還したことへの感謝を語りながら、お互いの絆を深めあった。




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Posted by nonio at 11:40Comments(4)アルプスなど

2010年05月09日   残雪の北八ヶ岳(天狗岳・北横岳)

山名 八ヶ岳
日付 4月29日~5月1日
コースタイム 
   4月29日 麦草峠 13:30 白駒池  麦草峠16:20  
   4月30日 麦草峠  6:45 ニュウ分岐 7:45 中山峠 10:00
        天狗岳 11:30 黒百合ヒュッテ 12:20~12:45        
        中山峠 14:10 高見石小屋 14:50 麦草峠 16:00
   5月1日  麦草峠  6:40 出遭いの辻 7:15  北横岳 9:45
        縞枯山山荘 11:20~11:50 茶臼山 13:00
        麦草峠 14:00
 
 気の合う仲間で、北八ヶ岳の山域に赴き、麦草ヒュッテをベース基地として白駒池の散策、並びに天狗岳・北横岳の登山を楽しんだ。 このヒュッテは八ヶ岳中信高原国定公園の中ほどにあり、諏訪市と佐久穂町を横断するメルヘン街道の最高地点の麦草峠2,127mに位置する。
 この北八ヶ岳は、険しい南八ヶ岳と違って、樹林帯に包まれ、湖が点在し、穏やかな山並みが広がっている。特に、長く優雅に延びた何本もの山裾の曲線が艶かしく、以前から気に入っているところだ。 

 4~5月、まだまだ雪積があり、降雪を見ることもある。現に、我々が入山した前日、山は大荒れのようだ。麦草ヒュッテの管理人が「前日、雪も降った。ここずっと天気がぐずついた」と言っておられた。だが、我々はこの3日間好天に恵まれた。強い日差しを受け、爽快な雪山登山を十二分に満喫することになった。

 今回の登山で最も美しい写真はこれだ。3日目麦草峠から北横岳へ向かう際、左に迂回するようなコースをとった。出遭いの辻~五辻付近から、天狗岳などを眺望した。南アルプスも遠望出来た。何時も高山に来ると青色の空・真っ白な峰を期待するのだが、期待に違わず素晴らしい光景に出くわすことが出来た。



 第1日目は、滋賀県野洲市を車で午前7時出発し、麦草ヒュッテに13時到着。余った時間で白駒池を散策することにした。
 北八ヶ岳の魅せられるひとつには、湖・湿地帯が点在している。そんな中で、白駒池は、標高2115mにある白駒池は、日本の標高2000m以上にある池では最も大きい。ここは、入りやすいので秋には観光客も訪れる紅葉の名所として知られたところである。
  国道299号線沿いにある麦草峠の草原を辿り、深々とした森林帯を真っ直ぐ進んだ。明日通過する丸山へ行く道標を見遣りながら、左へ進路を取りしばらく進むと白駒池に到着した。この時期の白駒池は、一面氷に覆われた別世界であった。周囲にびっしりと針葉樹が生い茂り、原生林の圧倒的な存在と、ヒトも寄せ付けない静寂が漂っていた。

 山奥の白駒池畔にある青苔荘は、年中営業しているようである。入口の軒先には暖をとるための薪が揃えて積み上げられていた。山荘内に入らなかったが、外部からでもヒトの気配が感じられ、ほのかに温かさが伝わってきた。より寒さを感じながら周遊コースを歩き対岸までいった。空はブルーに澄み渡り、樹林帯の緑、湖面の白が眩い。

 山にきた時は、常に空の青色にこだわっている。高い山から眺める空の方が濃い空色になる。空気が澄み切っているほど、青味が深くなる。藍に近い青色になる。これは空気が薄いためで、青色の散乱が減り、さらに波長の短い紫や藍色が散乱するためである。

 小生求めている「空色」は、日頃目にする「うす青色」ではない、強いて色名を挙げれば「群青色」である。フェルメールの代表作『青いターバンの少女』のターバンに見られる青かも知れない。

 二日目、ニュウを経由して天狗岳に登り麦草峠の戻ってくるコースである。天狗岳はアルピニスト野口健が 16歳の時に始めて登頂した山でもあり、彼の原点の山である。この山は、積雪期の初歩から中級クラスの登山家の登竜門でもある。

 殆どのヒトは、黒百合平から天狗岳に行くコースを選ぶが、ニュウから中山峠を通り、頂上を目指した。このルートを辿る登山者はおらないようだ。白駒荘を通り過ぎニュウへの道標以降全くトレースがなくなった。麦草峠から天狗岳へ行くにしても、丸山から高見石小屋を経由しているようだ。

 樹下は積雪しているのでどこでも進めるが、出来るだけテープを辿っていった。やがて展望が開け露岩のニュウやってきた。今日目指す双耳峰の険しく突き立った天狗岳を目にした。鋭角的な岩峰を突き出しているのが東天狗、丸みを帯びているのは西天狗である。

 再び、台地状の深い針葉森林帯を越え、中山峠にやってきた。ここから天狗岳を眺めてみると白一色の急峻な尾根に、何人かのパーティーが点の様になって張付き登頂していた。下から見る限りでは、かなりの高度差があるように思え、全員安全に登りきれるかとの思いで緊張感を覚えた。

 いつの間にかダケカンバ林の限界森林帯を抜け厳しい登りになった。アイゼンの爪を利かし慎重に登って行った。頂上近くには、大きな雪庇が張り出してので、回り込み直下の岩盤帯にでた。

 小生、アイゼンの紐が岩場に接触し切断するトラブルに巻き込まれ、足を痛めてしまった。パーティーの支障が無い様に左足をかばいながら最大限の努力を払いながら上頂に達した。ここからが辛い歩行になったが、余り口には出さなかった。

 東天狗岳の頂上では、休息の間、補足のロープでアイゼンを取り付ける作業に手間取った。
ここは、南・北八ガ岳のほぼ中央に位置し、全山が手に取るように見えるところである。南八ヶ岳は、主峰の赤岳を中心に阿弥陀岳・権現岳などの鋭く立つ峰が並び、危険が伴うところだ。以前、積雪期に硫黄岳の背後にある赤岳へと何回も縦走したこともあった。この天狗山はひとつの通過点であったので、余り記憶にない。だが、今ではここを登りきるのが精一杯である。

 風が吹きさらしの頂上は、体力が奪われる。早々に下山にかかった。東・西天狗岳の中間点の鞍部から山腹を巻くルートを取った。トラバースが強いられた。雪面に慣れていない者はかなり恐怖を感じたようだ。天狗の奥庭の岩盤帯を通り黒百合ヒユッテに下りてきた。たいした距離がなかったが、アイゼンを装着したまま岩場を通過したため以外に時間をくってしまった。ここで昼食をとった。午後になると雲も発生し空模様も怪しくなり、早めの出発となった。中山峠から丸山を経て麦草峠に戻ってきた。写真クリックすると拡大

   頂上直下          東天狗岳        主峰の赤岳         西天狗岳 
   

 全員、雪面を重いアイゼンを付け歩き回ったので足の疲労もかなり激しい。その上、小生は、左足の痛みもあったので、尻で雪面をすべるようにして下山していった。はじめはどこまで滑っていくのか不安がって誰も真似なかった。その内、案外滑り落ちないことが判り、女性達も、急坂になると「グリセード」でなく「シリセード」になってしまった。

 こうなるとおばちゃんではなく、「きゃーきゃー」と叫ぶ正真正銘の二十歳に娘に変身していた。自然と戯れていると、このような”ふと”した行為から、生きるエネルギーをもらうことができる。山は良いところだ。

 3日目、北横岳を目指した。全員疲労も溜まってきているので、当初の計画していた三ツ岳経由を止めた。五辻・ロープウェイの山頂駅を経由して北横岳へ。帰路は縞枯山・茶臼山を通り戻ってくることにした。
 ピラタス横岳ロープウェイ駅前には、登山姿、観光客など色んな方が、たむろしていた。ここは、標高2237m。目指す北横岳までの標高差は僅か240m。冬化粧をした北横岳の人気が高いことがうかがえる。

 駅前の左手には雨池山・三ツ岳・横岳に囲まれた台地が広がって、右手には縞枯山の笹原がある。正面の坪庭には、自然庭園と呼ばれるにふさわしい溶岩の台地に整備された道が付けられていた。散策する観光客に混じって北横岳に向かった。
 一旦沢に下り針葉樹林帯に覆われた山腹に取り付いた。ジグザグ道を刻んでいくと、三ツ岳分岐の道標を見遣って、ヒュッテを通り過ぎ、けっこうきつい坂道を辛抱して進んでいくと北横岳南峰に飛び出した。

 南北二峰からなる南峰p2472mのピークに着いた。ここから昨日苦労して登って来た天狗岳を眺めるとより一層感慨深い。更に背後にある南アルプス連山…。横を向くと南峰より7mほど高い北横岳北峰(2480m)の頂があった。

 山の神から送られた見渡す限りの快晴に感謝した。






 この辺りはまだまだ冬化粧で樹木には、樹氷の華が咲き厳しさを見せつけていた。
この氷ついた平坦な樹林帯を辿って行くと、北横岳北峰(2480m)の頂に繋がっていた。
 秀麗な丸みを持った山容の蓼科山が、直ぐそこに見えた。その背後には北アルプスの山並みが望めた。

 十分に光景を堪能した後、再び来た道を下山していった。大きな「つるはし」を持ち、且つ「ぼっか」している山人に出遭った。昔は荷物を頭の上まで背負った山男はよく見かけたものだが、最近、ヘリで輸送するため、めっきり見かけなくなった。懐かしい姿だ。凍った山道にステップを切りながら話しかけて「あれが浅間山で谷川岳だ」と親切に教えてくれた。

 坪庭周遊から雨池峠に向かった。木道を進んでいくと大きな2つの三角屋根の縞枯山荘のある草原が広がる八丁平にでた。この辺りではヒトも少なくなり静けさを取り戻していた。程なく縞枯山・茶臼山を経て麦草峠にいく分岐点にやってきた。
 
 ここから縞枯山頂まで、分岐からしばらくは緩い傾斜だが、途中から急登になった。雪も融けてステップを切って歩けるが、ずり落ちるので止む無くアイゼンを装着。
 両脇にはシラビソの密林が覆っていた。山名の通り縞状に樹木が枯れていた。古木が枯れ、林内に太陽が射し込み若木も育ち、森林の世代交代がうまく行われているようだ。

 縞枯山を越え、茶臼山(2384m)の頂上は展望がないが、2分ほど右手の森林帯を抜けると大岩が重なる展望台からの眺めは圧巻だ。北には蓼科山、その背後に北アルプスの山並みが続いていた。独立峰の御嶽山、更に中央アルプス、南アルプスの真っ白な峰々が競うように続いていた。

 特に目を惹いたのが、縞枯山、横岳、蓼科山からのびやかに広がっている裾野は見事だ。吹き上げてくる風が強かったが、暫し、茫洋とした光景に慕たり、見飽きることがなかった。
 眼前に広がる風景は、二度と見る事がないが、何時までも心に留めて置きたいものであった。山旅が終わりに近づいているので、一層感傷的になったのかもしれない。ひとりひとりこの風景を肌で感じ、何かを感じとった。その何かは定かではないが、人間本来持っている自然を崇める素直な気持ちが宿っていたように思えた。



 小生の青春時代には、雪積期、この山系は入山しやすいので何回も出向いてきた。当時は、大阪駅から午後10発の夜行列車に乗り込み、塩尻駅から茅野駅まで行き、早朝にバスに乗り換えて美濃戸口・麦草峠・蓼科山登山口などから入山した。

 八ヶ岳を南から北へと縦走した際、「ほっと」する箇所は、麦草峠であった。赤岳・横岳・天狗岳を越えて麦草峠にやってくるとヤレヤレとの気持ちになり、1日休憩日としたものだ。1日中、濡れたテント・寝袋・衣服を干し、寝ながら雲の流れを追っていた。

 現在、ボランテアで運営されているようだが、たまたま、当時の山小屋の主が槙ストーブに当たっていたので尋ねてみると「小屋は、現在より山手にあった」と言っていた。この辺りの光景は頭で描いていた映像とは、かなり違っていた。と言うより風景の記憶は忘れ去り、ただ、雲がどんどん湧いては去って行くことだけが妙に心に染み付いていた。
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2009年09月07日   御池めぐり木曽御嶽山

日付 2009年8月22日~23日
山名 木曽御嶽山
コースタイム  22日 野洲駅 6時30分 中津川 田の原 12:30 石室 13:30
               王滝頂上山荘 15:50(泊り)
          23日 王滝頂上山荘 6:00 剣ケ峰 6:45 賽の川原 7:30 
               五ノ池 9:00 女人堂 12:00 中ノ湯 13:35
地図 

 標高3067mの霊峰「御嶽山」は、長野県南西部に位置し、日本百名山の一つにも数えられています。他のアルプスの山々には属さない独立峰で、広大な山麓を持ち量感に溢れていると同時に、信仰の山でもあります。
                 田の原登山口から木曽御嶽山の全貌を望む


 今回は、御嶽山登山の定番「王滝ルート」を辿り、剣ケ峰から古代噴火で出来た二ノ池、三ノ池、四ノ池、五ノ池などの火口湖廻りをして黒沢口に戻る1泊2日コースのSクラブに参加しました。

 チャーターしたバスは、名神高速から中央道中津川ICを通過し、国道19号の元橋から県道256号を走り、田の原天然公園駐車場に向かった。車窓から御嶽山の山容が見え隠れするところまで登ってくると、道路の両側には、森林帯の所々に立派な霊神碑を見かけた。霊神碑は普通のお墓とは少し違うようで、醸し出す雰囲気には威厳があって恐れ多さを感じた。ここは、古くから神々のいる信仰の山に踏み入ったようだ。

 登山口となる「田の原」の御嶽観光センターの前で下準備を行い、御嶽山の威容を正面に眺めながら歩き出した。登山客、白装束の信者、スーパートライアスロンの若者、中には子供連れの観光客など様々の人達と混じった出発となった。これから神社に参拝するような気分で大きな鳥居を潜り、砂利が敷かれた平坦な道を進んでいった。

 大江権現から階段状の登りが始まった。目指す山頂がハッキリ見え、登山口田の原から王滝頂上小屋まで標高差740mと分かっているので、力配分が出来やすい。ただ、今夜の王滝頂上小屋の標高2920mと高く高山病の恐れもあるので、できるだけ時間をかけて登ることになった。
 金剛童子像のある石室にやって来た。この辺りになると、軽装の観光客はさすがにいなくなり、時折スーパートライアスロン用の出で立ちをした身軽な若者は、追い抜いていったが、重いザックを背負った登山客とは、抜いたり抜かれたりしながら登っていった。振り向くと、田の原の出発点が既に遠のき、かなり登ってきたことを実感した。
 九合目近くの左側には、ひと口水と呼ばれている清水が湧いていた。ひと口頂き、更に火山礫のザレ場を登り、避難小屋を過ぎると王滝頂上山荘が頭上に迫ってきた。ここで高度調整も兼ねて後続者を待った。

 王滝頂上山荘で一泊した。酒盛りも悪影響をしたのであろう。夜中、目が覚めると頭が痛くなっていた。多分寝た姿勢が胸部の動きを圧迫し、呼吸が浅くなったのであろう。翌朝、頭痛を訴え、寝苦しかったと言う人が、以外に多かった。3000mになると血中酸素濃度 が低下するのであろう。

 次の朝、王滝神社を通り抜け、すこし平坦な登山路を進み、黒い行者像から剣ガ峰を目指した。強風に見舞われながら、御嶽山頂剣が峰(3067m)に達した。神社にお参りをして展望を楽しんだ。 

                   王滝神社から剣ガ峰を望む


 火口湖二ノ池~五ノ池めぐりに出向いた。階段を下り、頂上山荘の間を通り抜けて稜線に出た。雲間から朝日が射し込む光景はすがすがしい。見入っていると眼下に懐かしい開田高原を見つけた。

 御嶽山では、思い出したくないこともあったが、濁河温泉から御嶽山を経由して開田高原に抜けていったことがあった。9月だった。アケビ、野ぶどう、野いちご、小さい野生の梨・りんご・もも・すもも…など高原の秋は自然の恵みでいっぱい。あれもこれもと片っ端から食べていった。頂上周辺の様子の記憶は全くなく、開田高原の川ベリで過ごしたひと時の映像が甦っていた。

                    朝日が射し込む光景に開田高原


コバルトブルーをした二ノ池にやってきた。雪渓も残る標高2905mの日本最高所の高山湖。
                 日本最高の所にある二ノ池


 二ノ池のふち付けられた山道を下っていくと二ノ池新館にやってきた。この小屋のおじさんによると「数日前から賽の川原に下っていく途中で、子供連れライチョウが時々現れる」と聞き、膝までの高さのハイマツを驚かせないように慎重に下っていったが、出会うことはなかった。賽の川原まで下り、更に上り返して避難小屋で一服した。摩利支天の手前の急斜面を下って五ノ池小屋にやってきた。五ノ池は水も少なく、水溜りのようだった。
 尚、五の池小屋前の温度計は10℃。真夏に拘わらず寒く、やはりここは「木曾の御嶽さんナンジャラホイ夏でも寒いヨイヨイヨイ…」 。

                  五の池小屋前から五ノ池

 三ノ池の水深は御嶽山最大の池で、日本の高山湖の中でも最も深い湖(最大深度約13m)として知られています。この火口湖は、神秘的な深い青色をしていた。酸性の強い水で腐ることがなく、ご神水として信者の間で崇められています。御池めぐりの中で、規模と言い姿が最も美しかった。
              麻利支天手前のガレ場から三ノ池を望む

 五ノ池小屋から飛騨頂上を通過して、三ノ池を囲むようにした尾根を時計回りにぐるっと回って三ノ池避難小屋に向かった。途中、盆地状の四ノ池は、今までと違い、水が涸れていますが、真ん中に小川が流れている川筋が見られ、緑豊かな高層湿原になっていた。この背後にはなだらかな継子岳が控え、継子岳頂上を目指している数人の米粒のような人影も確認できた。また、この四ノ池から流れ出る水は、滅多に見られない幻の巨大滝といわれ、落差90mの大きな滝となっているらしい。円形の火口壁に囲まれた四ノ池は、東端が切れて水を溜めることなく、滝となって落ち、御岳ロープウェイ駅からしか見ることができないらしい。

 一台のヘリが、我々の頭上近くまで接近してくれて、歓迎してもらった。

 
                      高山植物が豊富な四ノ池


 御嶽小屋から四ノ池を眺めながら、三ノ池周辺の山並みを一周して、三ノ池避難小屋にやって来た。ここから、開田口コースと分かれて腹を巻くように延々と延びている黒沢口コースで下山にかかった。このコースは、覚明行者によって開かれたと言われている古山道。山肌に無理なく付けられた味わい深い山道であった。崩壊地の桟橋、雪渓を渡り、まじかに迫る乗鞍岳、その背後の北アルプス、更に南アルプスの山並みを堪能した。

 森林限界を抜けると八合目金剛堂に着いた。八合目は女人堂ともいわれ、明治時代まではここが女人結界であった。俄かに人出が多くなった。さらに、中ノ湯にと進み今年の夏山は終わった。
                     腹を巻くように付けられた 黒沢口コースで下山


  





Posted by nonio at 09:45Comments(0)アルプスなど