2012年05月03日 桜咲く福知山線廃線ウォーク
昨年、平成23年11月25、紅葉の時期にJR福知山線廃線ウォーク に訪れたことがあった。この時、昼食をとったところが、水上 勉の「櫻守」の舞台になった「亦楽(えきらく)山荘」であった。知ったのは後であった。
4月14日、桜が咲く頃、再び訪れる機会があった。生瀬(なまぜ)駅から武田尾まで武庫川渓谷に沿ってウォーキングを行い、前回素通りしてしまった亦楽山荘から安倉山・大峰山の山越えをして、この山の斜面に広がる「桜の園」の山ザクを散策出来た。
この廃線コースは、従来、電車が走っていたところである。電車で通過していく景色を自ら歩きながら体得できる異色な空間である。トンネルが6箇所、鉄橋など・・・・。
通路は武庫川沿いの山腹にへばりつくように付けられており、巨岩や断崖絶壁の風景が眺められる。そして、何よりここを通過していく時に高揚感が起こる。元々レールが付設された線路は、何時、電車がやってくるか判らないところ。入ることを許されない境域である。廃線になり、滅多に電車に出くわさないことが判っているのだが、鉄橋を通過す場合には、つい早足になるから、面白い。
線路跡なので、山道のように上がったり下がったりするような通路ではなく、一定の勾配がつけられた平坦な通路なので、非常に歩き易い。ただ、難点と言えば枕木に、歩幅をあわせ難いことだ。
廃線跡を南下していくと山をバックに山腹一面に広がる素晴らしい桜の景色が見えてきた。
ここが、小説のモデルになった桜の研究者笹部新太郎氏が、サクラの品種保存や接ぎ木などの研究に使用した演習林であるのかと思った。全国から集められたヤマザクラやサトザクラが植えられていた。
訪れる前に、水上 勉の『櫻守』を読み込んできたので、山桜・里桜について理解を深めてきた。
桜といえば華やかに咲く染井吉野である。瞬く間に散ってしまう潔さが日本人に好まれ、日本の国花として親しまれてきた。だが、笹部新太郎によると、染井吉野はもっとも堕落した品種、本当の桜は山桜、里桜だという。『櫻守』の一節を引用してみる。
「これは日本の桜でも、いちばん堕落した品種で、こんな花は、昔の人はみなかったという。本当に桜というものは、花だけのものではなくて、朱のさした淡みどりの葉と共に咲く山桜、里桜が最高だった。 山桜が正絹やとすると、染井はスフいうところですな。土手に植えて、はよう咲かせて花見酒いうだけのものでしたら、都会のええ木イどす。全国の九割を占めるあの染井をみて、これが日本の桜やと思われるとわたしは心外ですねや」と書かれている。
染井吉野は江戸につくられた桜である。江戸彼岸桜、大島桜を交接して作られた品種で、害虫などに強い品種。だから、全国で植えられるようになった。 ソメイヨシノの植栽が普及する前の花見は、おっとりとしていた。山桜の開花は散発的である。ゆっくりと移り変わっていく花の咲き方、散り方を目にして”はかないものや、うつろいゆく”山桜に美を感じていたようである。染井吉野の桜の下で、宴会しているのとは、違っていた。
親水広場から、安倉山と大峰山を登り、尾根筋を下り『さくら道』の遊歩道を通り一周してきた。途中、ヤマザクラの幹を保全する為のワイヤー掛け・土留め工事など手入れがされていた。

小説では、武田尾駅から演習林の入口(亦楽山荘)まで、かよっていた様子がきめ細かく描かれている。「枕木伝いに演習林の入口まできた。線路はゆるやかなカーブで・・・二十三番トンネルで枕木のかずは、百二十一・・・一つをすぎると、すぐにまたトンネルがきた。これは二十三番より短くて枕木のかずは、九十八あった」。

京の植木屋に奉公、以来、四十八歳でその生涯を終えるまで、ひたむきに桜を愛し、桜を守り育てることに情熱を傾けつくした庭師弥吉。主人公の庭師・弥吉を通して笹部新太郎の桜に寄せる情熱を描いた弥吉が、竹部との出会いにより桜を守り育てる情熱に引き込まれていく物語である。荘川桜の移植の他、根接ぎの話、各地の桜のエピソードも多く紹介されている。
『櫻守』の小説は、昭和43年「毎日新聞」に連載されたものであるが、これは、民間の桜学者で有名な笹部新太郎と会って話をきいたことがヒントになっていると作家水上勉が述べている。この小説が進行中当の笹部翁から、再三忠告を受けた。というのは主人公弥吉への作者の傾斜が気にくわぬといわれるのだった。登場する人物が職人では翁も不快がったとみえる。仕事をしたのは職人だった。直接手を汚して働く人の中にも桜好きがいたことを、私は、この小説で描いてみたかったのだと作家は語っている。
桜学者を主人公とせずに職人の庭師の姿を借りて描くところが実に水上勉らしいと思った。
小説櫻守の中の一文に「山の自然は美しいというても、これはなかなかのことで美しいのやおへん。男が鉈をもって、藤つる切ってて、荒れんようにてを入れてこその山・・・・」と作家水上勉が自然へのかかわり方について語っている。
これは、駒が岳(高島)の蔓が巻きついたミズナラの樹 においても同じような内容の文章があった。
「私の祖父と父だけでなく、村のひとはみな、山に入るに、いつも腰にナタを下げていた。何をするでもなく、山へ入るには、ナタを持った。木を伐らなくても、ナタは持った。 …樵人や木地師はつるを見れば伐った、そうしてまっすぐに木を伸ばした。日本国じゅうの木地師たちが、この蔓伐りに歩いた姿を想起すると涙が出てくる。自然というものは人間が守り育てたことを私は知る」。
水上勉氏の祖父は、木こり、父も宮大工であった。だから、水上勉が自然の接し方を学んだのであろう。
4月14日、桜が咲く頃、再び訪れる機会があった。生瀬(なまぜ)駅から武田尾まで武庫川渓谷に沿ってウォーキングを行い、前回素通りしてしまった亦楽山荘から安倉山・大峰山の山越えをして、この山の斜面に広がる「桜の園」の山ザクを散策出来た。

通路は武庫川沿いの山腹にへばりつくように付けられており、巨岩や断崖絶壁の風景が眺められる。そして、何よりここを通過していく時に高揚感が起こる。元々レールが付設された線路は、何時、電車がやってくるか判らないところ。入ることを許されない境域である。廃線になり、滅多に電車に出くわさないことが判っているのだが、鉄橋を通過す場合には、つい早足になるから、面白い。
線路跡なので、山道のように上がったり下がったりするような通路ではなく、一定の勾配がつけられた平坦な通路なので、非常に歩き易い。ただ、難点と言えば枕木に、歩幅をあわせ難いことだ。

ここが、小説のモデルになった桜の研究者笹部新太郎氏が、サクラの品種保存や接ぎ木などの研究に使用した演習林であるのかと思った。全国から集められたヤマザクラやサトザクラが植えられていた。
訪れる前に、水上 勉の『櫻守』を読み込んできたので、山桜・里桜について理解を深めてきた。
桜といえば華やかに咲く染井吉野である。瞬く間に散ってしまう潔さが日本人に好まれ、日本の国花として親しまれてきた。だが、笹部新太郎によると、染井吉野はもっとも堕落した品種、本当の桜は山桜、里桜だという。『櫻守』の一節を引用してみる。
「これは日本の桜でも、いちばん堕落した品種で、こんな花は、昔の人はみなかったという。本当に桜というものは、花だけのものではなくて、朱のさした淡みどりの葉と共に咲く山桜、里桜が最高だった。 山桜が正絹やとすると、染井はスフいうところですな。土手に植えて、はよう咲かせて花見酒いうだけのものでしたら、都会のええ木イどす。全国の九割を占めるあの染井をみて、これが日本の桜やと思われるとわたしは心外ですねや」と書かれている。
染井吉野は江戸につくられた桜である。江戸彼岸桜、大島桜を交接して作られた品種で、害虫などに強い品種。だから、全国で植えられるようになった。 ソメイヨシノの植栽が普及する前の花見は、おっとりとしていた。山桜の開花は散発的である。ゆっくりと移り変わっていく花の咲き方、散り方を目にして”はかないものや、うつろいゆく”山桜に美を感じていたようである。染井吉野の桜の下で、宴会しているのとは、違っていた。
親水広場から、安倉山と大峰山を登り、尾根筋を下り『さくら道』の遊歩道を通り一周してきた。途中、ヤマザクラの幹を保全する為のワイヤー掛け・土留め工事など手入れがされていた。

小説では、武田尾駅から演習林の入口(亦楽山荘)まで、かよっていた様子がきめ細かく描かれている。「枕木伝いに演習林の入口まできた。線路はゆるやかなカーブで・・・二十三番トンネルで枕木のかずは、百二十一・・・一つをすぎると、すぐにまたトンネルがきた。これは二十三番より短くて枕木のかずは、九十八あった」。


『櫻守』の小説は、昭和43年「毎日新聞」に連載されたものであるが、これは、民間の桜学者で有名な笹部新太郎と会って話をきいたことがヒントになっていると作家水上勉が述べている。この小説が進行中当の笹部翁から、再三忠告を受けた。というのは主人公弥吉への作者の傾斜が気にくわぬといわれるのだった。登場する人物が職人では翁も不快がったとみえる。仕事をしたのは職人だった。直接手を汚して働く人の中にも桜好きがいたことを、私は、この小説で描いてみたかったのだと作家は語っている。
桜学者を主人公とせずに職人の庭師の姿を借りて描くところが実に水上勉らしいと思った。
小説櫻守の中の一文に「山の自然は美しいというても、これはなかなかのことで美しいのやおへん。男が鉈をもって、藤つる切ってて、荒れんようにてを入れてこその山・・・・」と作家水上勉が自然へのかかわり方について語っている。
これは、駒が岳(高島)の蔓が巻きついたミズナラの樹 においても同じような内容の文章があった。
「私の祖父と父だけでなく、村のひとはみな、山に入るに、いつも腰にナタを下げていた。何をするでもなく、山へ入るには、ナタを持った。木を伐らなくても、ナタは持った。 …樵人や木地師はつるを見れば伐った、そうしてまっすぐに木を伸ばした。日本国じゅうの木地師たちが、この蔓伐りに歩いた姿を想起すると涙が出てくる。自然というものは人間が守り育てたことを私は知る」。
水上勉氏の祖父は、木こり、父も宮大工であった。だから、水上勉が自然の接し方を学んだのであろう。
Posted by
nonio
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14:33
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ウォーク
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