2010年06月25日    第4回目滋賀県中山道(高宮~愛知川)

 日付 6月9日(水)
場所 第4回目滋賀県中山道(高宮~愛知川)
コースタイム 近江八幡駅9:00 高宮駅 10:00 出町 11:30
         豊郷八幡神社 12:00~12:40 愛知川駅14:00

 近江鉄道は、「S・Sフリーきっぷ」について広告をしている。土曜・日曜・祝日、近江鉄道全線1日乗り放題が550円であることを皆さん知っている。
ところで、平日でも、同様の割引特典がある「ウォーキング・ハイキングフリーきっぷ」はあまり知られていない。ただし、一人又は二人では発売時間に制限があり、9:00~10:00となっている。したがって、この時間帯を外さないように家を出発しなければならない。

 朝の通勤・通学者などのラッシュ‐アワーを過ぎた2両編成の車内は、すでに急ぐ人がいなくなり、のどかな空気が漂っていた。車窓からは、近江ののどかな田園風景が広がっていた。「がたんごとん」と揺られながら、中山道が通っている方向を眺めながら「高宮駅から愛知川それとも武佐」と2人で計画を巡らしていた。この電車、地元の人達から「近江ガチャコン」と呼ばれているが、心地よく揺れる。
それにしても、高宮駅 - 五箇荘駅間で最先端の東海道新幹線と並走しているから面白い。音がしたと思った瞬間に駆け抜けていく、このギャップがたまらない…。
 高宮駅の駅前は、一軒の店屋があるだけの閑静なところである。とりあえず高宮地域文化センターへ行き、高宮周辺の様子を聞いた。高宮地図 

 多賀宿は江戸から中山道69番目にあたる。高宮宿は人口3500人、中山道第二の大きさの宿で、多賀神社への門前町としても栄えたそうだ。高宮上布の集散地として豊かな経済力も持っていたようだ。

 第4回目滋賀県中山道(高宮~愛知川)高宮宿で際立っているのが多賀大社の「一の鳥居」である。高さ11m、柱の直径1.2m、柱間8m。
ここから東へ3.5kmの参道の両側には、高さ1.6mの角柱のご神燈が1丁毎に建てられ、参詣者を案内していた。鳥居の傍らには常夜燈や道標、句碑があり、その続きに豪商の構えをした古い建物があった。この界隈は、江戸時代の面影を色濃く残していた。

 高宮宿は、芭蕉にゆかりの深いところでもある。高宮神社には「をりをりに伊吹を見てや冬籠」。中山道沿いに芭蕉が着ていた紙子(当時の雨具)を埋めた「紙氏塚」があり、「たのむぞよ寝酒なき夜の古紙子」と詠んでいる。

 これまで近江のあちこちと歩いてきたが、湖国を愛した芭蕉の痕跡をよく見かけた。芭蕉が大津の義仲寺を永眠の場所と決めたことを知ったのはつい最近。大津ウォーキングである。もう一度義仲寺に訪れ、芭蕉が辿った近江をゆっくりと尋ねてみたいと思った。

 高札場跡、脇本陣跡を通っていくと、本陣の前に円照寺の趣のある山門があったので入っていった。家康が立ちより、腰を下ろしたと言う「家康腰懸石」があった。 門前には、とてつも大きい「明治天皇行在所聖蹟」の石碑が建ってあった。明治天皇が北陸東海巡行の際、行き帰りに泊まられたと言うのである。
 
 水口宿でも、大徳寺には、「家康公腰掛石」があった。そして、本陣跡に「明治天皇聖跡」の石碑が新旧2本建っていた。入口付近から立派な「明治天皇聖蹟」と書かれた石碑。奥まったところに少し小ぶりな明治天皇行在所御旧跡の石碑。この石碑では、都合が悪かったのか、大きい石碑を作り直したのであろう。だが、潰すには恐れ多いので2本となったと推察される。田舎を歩くと思わぬものに出くわすものだ。
 
 江戸時代の徳川将軍、明治時代の国家の最高権威者である天皇など権力者の「ちょっとした」行動にも崇め敬う心があり、大切に保存されている。都会では滅多にお目にかからないものだ…。

 第4回目滋賀県中山道(高宮~愛知川) 高宮宿の外れにあまり聞きなれない「むちんはし」の道標が建っていた。
 当時、川渡りは有料であったが、1832年、彦根藩は寄付を募って高宮川(犬上川)に橋を架け無料とした。「無賃」がそのまま無賃橋となった。
橋のたもとに、昭和52年犬上川の無賃橋を改修した時、橋脚下から二体の地蔵尊が発掘された。平成11年8月、お堂を建て”むちん橋地蔵尊”と名付けて祀られていた。

 この無賃橋について、高宮:犬上川の広重画『木曽海道六拾九次』に当時の川渡しの様子が描かれている。大きな荷を背負う嫁と姑の後に、門型の仮橋が何本も描かれている。常時は橋板を外していたが、増水して渡る事ができない時、仮橋に板を架けたと言う面白い絵図を江竜氏から教えてもらったことがある。

第4回目滋賀県中山道(高宮~愛知川) 高宮宿を後にした中山道は、田園風景の中、東に鈴鹿山脈を見ながら南進した。家もまばらになってきた。不思議な品物が陳列されている店屋さんがあった。覗いてみると、なんとお地蔵菩薩を奉るお堂が何基も並べてあった。

 一の鳥居にあった店先にちょうちんをぶら下げていた提灯屋といい、既に忘れ去った品物が、今も現役で商売されている。興味が尽きない街道だ。



 葛籠(つづら)町にやってきた。ここはかつて着物を入れる葛篭の細工をしていたところだ。
第4回目滋賀県中山道(高宮~愛知川) この集落を過ぎたところの街道には、昔の名残を残した松やケアキの並木が続いていた。この中に、「おいでやす彦根」の3本の中山道モニュメントが迎えてくれた。

 摺針峠の手前の名神高速トンネル付近で同じような標柱があった。台座につけられた3ツの像は異なっていた。

 出町の休憩所を過ぎ、豊郷の最初の集落が四十九(しじゅうく)院であった。豊郷小学校まえに「やりこの郷」の石碑があった。昔旱魃に悩んだ農民が、矢を射って清水を湧かせたと言う「矢り木」伝説が説明されていた。更に、「一里塚の郷・石畑」の石碑近くで昼食を取った。
2008年10月17日 豊郷ウォーキングで伊藤忠兵衛家屋敷跡、伊藤忠兵衛記念館、 江州音頭の発祥地などに訪れたことがあり、記憶している風景が懐かしい。

第4回目滋賀県中山道(高宮~愛知川) 町の名前が八目にやってきた。この北にかつて金田池と称する湧水があって、この地の田畑を潤し、街道を旅する人達の喉を潤してきた。
 街道沿いに「水香る郷・四ツ谷」の石碑が立っていた。案内板には「近年、地球温暖化により出水しなくなり埋め立てられた。当区の名水として親しまれたゆえ再現された」と記されていた。

 こんな田舎まで渇水してしまうとは残念なことだ。



 第4回目滋賀県中山道(高宮~愛知川) 更に進むと「又十屋敷」の看板が上がっていた。ここが豊会館と言う歴史資料館があった。たまたま、館長が居られ、玄関前の一里塚跡碑が移設された経緯などを聞く事ができた。
 又十は豪商藤野喜兵が、文政(1818~1830年)の頃北海道で漁業や廻船業を営んだときの商号である。その旧宅を、明治百年記念資料館と民芸展示館とし整備されていた。




 橋の名前が歌詰橋と言い、愛知川町に入った。まもなく、道路は二股となり、愛知川宿の追分となった。
左手は近江鉄道愛知川駅へ通じていたが、右手に進んでいくと、愛知川小学校があった。校庭に二宮尊徳の銅像を見つけ二人で懐かしんだ。間も無く街道の頭上に「中山道愛知川宿」の看板が見えたので、近江鉄道の愛知川駅に向かった。第4回目滋賀県中山道(高宮~愛知川)駅舎は地域のコミュニティーハウスを兼ねて、土産物の販売や展示会が開かれていた。何分、電車の本数が少ないので、ビールを買い込んで、今日1日の反省会となった。







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Posted by nonio at 00:34 │Comments( 0 ) ウォーク
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