2009年01月23日 大津ウォーキング
日付 2009年1月14日(水)
距離 約8㎞ 16,000歩
コースタイム JR大津駅 9:30 三橋節子美術館 10:10 長等神社 10:25
三井寺(園城寺) 10:35~11:10 大津祭曳山展示場 11:35
ナギサ公園 12:00~12:30 義仲寺 12:50
膳所城跡公園 13:30 JR膳所駅 14:00
正月早々のウォーキングについて、友達は、「大津は飛鳥時代、僅か、5年間の短い期間であったが、大津京に遷都され、滋賀の歴史が動き出したところである」との提案で大津を今年度のウォーキングの出発点とした。
出発駅(大津) 到着駅(膳所)

滋賀を歩こう地図 (旧東海道の街並みと湖岸なぎさの散歩道)
毎回、駅発のウォーキングマップにしたがって歩いているが、今回も忠実に足跡を残した。
JR大津駅から、まず、三橋節子美術館を訪ねた。三橋節子は、滋賀県の童話を絵にした日本画家で若くしてこの世を去った。彼女は、ガンに侵され利き腕を切断、以後左手で「花折峠」「三井の晩鐘」など多くの代表作を生み出している。
その中の『三井の晩鐘』が展示されていたが、私にとっては、苦手なモチーフであったのでまともに見れなかった。しかし、なぜか気になる作品であった。
絵の中には、少しずつ表情が変わった子供が度々登場してくる。彼女は、当時まだ幼い自分の子を持っていた。子どもを残して逝かなければならない節子の母としての想いが込められていたのであろう。
小作の「かみなり退治」の画題に描かれていた首を横に曲げた子供が、特に印象深い。今回のウォーキング中、どうしても頭から離れない子供の画像が「ずーと」うずくように頭に刻み込まれた。それも後から、この思いが強くなってきた。ふしぎな感覚に引き込まれた絵に出合った。
緑豊かな長等山のふもとにある長等公園の一角に、美術館がある。ここを出ると、大津の町並みと山々が眼前に広がっており、重苦しい気持から少し開放された。
三橋節子美術館から見える大津の町並みと山々

長等公園を通って、山沿いの道を辿って三井寺(園城寺)にやって来た。
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仁王門

金堂
三重塔

途中、大津絵の店に寄り、さらに、中央町の丸屋町商店街アーケード内を通って大津祭曳山展示館に行った。
3階までくり抜いた館内に、原寸大の曳山模型が展示されていた。車輪だけは、実際使用していたものであった。シャフト部にヒビ割れが発生し、使用不能となったので持ち込んだものと案内の人が説明していた。
2階に行き、”からくり”のスイッチを入れると、音楽が流れ出し、桃が割れて唐子衣装の童子が現れた。お辞儀をしながら右へ、左へ向き。最後にくるりと身を翻すと元来た道を戻り、桃は、閉まり童子を包んでしまった。まじかに見学できるように配慮され、精巧な細工を見る事が出来た。ビデオ映像、展示品など一通り見学をした後、再び説明を受けた。
「大津市には、江戸時代初期から伝わる13基の曳山が巡行する祭りですが、京都の祇園祭の小型版と比較されてしまいます。また、滋賀に来る人は、大津を通り越して、長浜・日野などにいってしまい、大津が忘れられてしまうのが残念」と言っていました。
続けて、「大津祭には独特の味わいがいっぱいです 華麗に飾られた曳山が3輪形式であったり、町内各所で巧妙なからくりがあったり、ちまき投げがあったりと、親しみやすく、ぜひ足を運んでみてください」と強調していた。
10月10日(土) 宵宮 11日(日)本祭になっている。
本祭での曳山巡行は、朝9時に出発して、夕方5時頃まで街中を巡行しますが、ハイライトは、観覧席が設けられた中央大通りを巡行する13:45からですと小声で説明された。
艶やかな曳山模型の展示
義仲寺は、JR東海道膳所駅から、「ときめき坂」を北に約400mの街中の一角にあった。そこは、近江大橋に向かう幹線道路大津草津線が走るオフィス街であり、多くの人々が集まるショッピングセンターも近くにある。
日本歴史がそれほど理解していない私にとって、何ゆえ、こんな市街地の場所に、古めかしい寺が大事に保存されているのか、違和感を持った。
マップルートに示されているので、兎に角拝観料を支払って義仲寺に入ってみた。先客が熱心に、狭い境内の「義仲公の墓」、「芭蕉翁の墓」「木曾八幡社」、そして、「古池や 蛙飛び込む 水の音」の句碑を行ったりきたりしていた。
木曽義仲と松尾芭蕉の墓がなぜ並んであるのかもよく分からなかった。「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」の句碑は、この二つの墓を詠んだものであろう。益々二人の関係が分らなくなった。
寺務所の受付で義仲寺の成り立ちの説明を受けに行った。
主は、「俳諧を志す人は、ここに訪れるところです。聖地でもあります」
続けて「しかし、殆どの人は、何も知らずに入り、出て行く」と言っていた。
これだけでは、要領も得ず、ただ、由緒あるところであることだけ分った。 木曽義仲と松尾芭蕉の墓が、なぜ並んでいるのか。なぜこんな市街地に寺があるのか疑問がかなり残っていたが、この場を跡にした。
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市街地にひっそり佇む義仲寺
義仲寺の翁堂
今回のウォーキング最後の目的地である膳所城跡公園にやって来た。近江八景の”粟津の晴嵐”がある。晴れた日に松の木の葉がこすれておこる音が嵐のように聞こえ、遠く伊吹山までも臨まれたという。
江戸時代、芭蕉も湖面近くの松林が続く風景をながめたのであろう。
行春をあふみ(近江)の人とおしみける
と詠っている。近江によく訪れた芭蕉は、琵琶湖を抱く近江の光景をこよなく愛し、近江は心のふるさとであったに違いない。
松尾芭蕉が、なぜ若くしてこの世を去った義仲に共感を覚え、この地で共に永眠したのか、その原点を求めてやってくる人々の聖地であったことも少しは分ったつもりになった。しかし、大津・膳所周辺を、一回だけ訪れただけは、到底理解しがたい歴史があることを思い知らされたウォーキングになった。
膳所城跡公園から
距離 約8㎞ 16,000歩
コースタイム JR大津駅 9:30 三橋節子美術館 10:10 長等神社 10:25
三井寺(園城寺) 10:35~11:10 大津祭曳山展示場 11:35
ナギサ公園 12:00~12:30 義仲寺 12:50
膳所城跡公園 13:30 JR膳所駅 14:00
正月早々のウォーキングについて、友達は、「大津は飛鳥時代、僅か、5年間の短い期間であったが、大津京に遷都され、滋賀の歴史が動き出したところである」との提案で大津を今年度のウォーキングの出発点とした。
出発駅(大津) 到着駅(膳所)


滋賀を歩こう地図 (旧東海道の街並みと湖岸なぎさの散歩道)
毎回、駅発のウォーキングマップにしたがって歩いているが、今回も忠実に足跡を残した。
JR大津駅から、まず、三橋節子美術館を訪ねた。三橋節子は、滋賀県の童話を絵にした日本画家で若くしてこの世を去った。彼女は、ガンに侵され利き腕を切断、以後左手で「花折峠」「三井の晩鐘」など多くの代表作を生み出している。
その中の『三井の晩鐘』が展示されていたが、私にとっては、苦手なモチーフであったのでまともに見れなかった。しかし、なぜか気になる作品であった。
絵の中には、少しずつ表情が変わった子供が度々登場してくる。彼女は、当時まだ幼い自分の子を持っていた。子どもを残して逝かなければならない節子の母としての想いが込められていたのであろう。
小作の「かみなり退治」の画題に描かれていた首を横に曲げた子供が、特に印象深い。今回のウォーキング中、どうしても頭から離れない子供の画像が「ずーと」うずくように頭に刻み込まれた。それも後から、この思いが強くなってきた。ふしぎな感覚に引き込まれた絵に出合った。
緑豊かな長等山のふもとにある長等公園の一角に、美術館がある。ここを出ると、大津の町並みと山々が眼前に広がっており、重苦しい気持から少し開放された。
三橋節子美術館から見える大津の町並みと山々

長等公園を通って、山沿いの道を辿って三井寺(園城寺)にやって来た。
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仁王門

金堂

三重塔

途中、大津絵の店に寄り、さらに、中央町の丸屋町商店街アーケード内を通って大津祭曳山展示館に行った。
3階までくり抜いた館内に、原寸大の曳山模型が展示されていた。車輪だけは、実際使用していたものであった。シャフト部にヒビ割れが発生し、使用不能となったので持ち込んだものと案内の人が説明していた。
2階に行き、”からくり”のスイッチを入れると、音楽が流れ出し、桃が割れて唐子衣装の童子が現れた。お辞儀をしながら右へ、左へ向き。最後にくるりと身を翻すと元来た道を戻り、桃は、閉まり童子を包んでしまった。まじかに見学できるように配慮され、精巧な細工を見る事が出来た。ビデオ映像、展示品など一通り見学をした後、再び説明を受けた。
「大津市には、江戸時代初期から伝わる13基の曳山が巡行する祭りですが、京都の祇園祭の小型版と比較されてしまいます。また、滋賀に来る人は、大津を通り越して、長浜・日野などにいってしまい、大津が忘れられてしまうのが残念」と言っていました。
続けて、「大津祭には独特の味わいがいっぱいです 華麗に飾られた曳山が3輪形式であったり、町内各所で巧妙なからくりがあったり、ちまき投げがあったりと、親しみやすく、ぜひ足を運んでみてください」と強調していた。
10月10日(土) 宵宮 11日(日)本祭になっている。
本祭での曳山巡行は、朝9時に出発して、夕方5時頃まで街中を巡行しますが、ハイライトは、観覧席が設けられた中央大通りを巡行する13:45からですと小声で説明された。
艶やかな曳山模型の展示

義仲寺は、JR東海道膳所駅から、「ときめき坂」を北に約400mの街中の一角にあった。そこは、近江大橋に向かう幹線道路大津草津線が走るオフィス街であり、多くの人々が集まるショッピングセンターも近くにある。
日本歴史がそれほど理解していない私にとって、何ゆえ、こんな市街地の場所に、古めかしい寺が大事に保存されているのか、違和感を持った。
マップルートに示されているので、兎に角拝観料を支払って義仲寺に入ってみた。先客が熱心に、狭い境内の「義仲公の墓」、「芭蕉翁の墓」「木曾八幡社」、そして、「古池や 蛙飛び込む 水の音」の句碑を行ったりきたりしていた。
木曽義仲と松尾芭蕉の墓がなぜ並んであるのかもよく分からなかった。「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」の句碑は、この二つの墓を詠んだものであろう。益々二人の関係が分らなくなった。
寺務所の受付で義仲寺の成り立ちの説明を受けに行った。
主は、「俳諧を志す人は、ここに訪れるところです。聖地でもあります」
続けて「しかし、殆どの人は、何も知らずに入り、出て行く」と言っていた。
これだけでは、要領も得ず、ただ、由緒あるところであることだけ分った。 木曽義仲と松尾芭蕉の墓が、なぜ並んでいるのか。なぜこんな市街地に寺があるのか疑問がかなり残っていたが、この場を跡にした。
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市街地にひっそり佇む義仲寺

義仲寺の翁堂

今回のウォーキング最後の目的地である膳所城跡公園にやって来た。近江八景の”粟津の晴嵐”がある。晴れた日に松の木の葉がこすれておこる音が嵐のように聞こえ、遠く伊吹山までも臨まれたという。
江戸時代、芭蕉も湖面近くの松林が続く風景をながめたのであろう。
行春をあふみ(近江)の人とおしみける
と詠っている。近江によく訪れた芭蕉は、琵琶湖を抱く近江の光景をこよなく愛し、近江は心のふるさとであったに違いない。
松尾芭蕉が、なぜ若くしてこの世を去った義仲に共感を覚え、この地で共に永眠したのか、その原点を求めてやってくる人々の聖地であったことも少しは分ったつもりになった。しかし、大津・膳所周辺を、一回だけ訪れただけは、到底理解しがたい歴史があることを思い知らされたウォーキングになった。
膳所城跡公園から

大津京
西暦667年、近江の大津に遷都が行われた。しかし、大半の人が反対であったが、当時、朝鮮半島の新羅(しだら)が勢力を拡大していたので、防衛のため万が一攻められても琵琶湖を船で、逃げることが出来る場所として大津が選ばれたらしい。
しかし、わずか、5年間で姿を消してしまった。
壬申(じんしん)の乱
皇位継承をめぐる壬申の乱があった。天智(てんじ)天皇の後継者は、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)に決まっていたが、息子の大友皇子を選び大津京に遷都した。ところが、大友皇子が太政大臣になってまもなく天智天皇が亡くなった。
吉野に退いていた大海人皇子が反乱を起こした。進攻してきた大友皇子軍と瀬田橋で衝突し、大海人皇子が勝ち飛鳥で即位して、天武天皇となった。
その後、壬申(じんしん)の乱で亡くなった大友皇子と天智天皇を弔うために、息子の大友与多麻呂は、大津の地に三井寺(園城寺(おんじょうじ))が創立した。
滋賀県の歴史など参照
手渡された義仲寺案内など
手渡された、義仲寺案内書などをひらい読みすると、
芭蕉は、若くしてこの世を去った山家育ちの不器用な木曽義仲に共感を覚えたのであろう。義仲寺を愛した芭蕉は、「骸(から)は木曽塚に送るべし」と遺言。その言葉通り、境内には義仲と芭蕉の墓が並んで立っています。また、義仲寺一帯は、「粟津ヶ原」(あわづがはら)と呼ばれ、琵琶湖に面した景勝地であったが、現在では湖面からは遠ざかり、周囲に建物が建ち直接琵琶湖を望むことが出来なくなっている。
芭蕉ゆかりの寺だけに、境内には芭蕉門下をはじめ、著名な俳人が詠んだ句碑が立ち並んでいます。芭蕉を祀った「翁堂(おきなどう)」や芭蕉の文献を収集した「粟津文庫」もあり、全国から訪れる芭蕉の跡をたどってみたい人が尋ねてくるところである。
西暦667年、近江の大津に遷都が行われた。しかし、大半の人が反対であったが、当時、朝鮮半島の新羅(しだら)が勢力を拡大していたので、防衛のため万が一攻められても琵琶湖を船で、逃げることが出来る場所として大津が選ばれたらしい。
しかし、わずか、5年間で姿を消してしまった。
壬申(じんしん)の乱
皇位継承をめぐる壬申の乱があった。天智(てんじ)天皇の後継者は、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)に決まっていたが、息子の大友皇子を選び大津京に遷都した。ところが、大友皇子が太政大臣になってまもなく天智天皇が亡くなった。
吉野に退いていた大海人皇子が反乱を起こした。進攻してきた大友皇子軍と瀬田橋で衝突し、大海人皇子が勝ち飛鳥で即位して、天武天皇となった。
その後、壬申(じんしん)の乱で亡くなった大友皇子と天智天皇を弔うために、息子の大友与多麻呂は、大津の地に三井寺(園城寺(おんじょうじ))が創立した。
滋賀県の歴史など参照
手渡された義仲寺案内など
手渡された、義仲寺案内書などをひらい読みすると、
芭蕉は、若くしてこの世を去った山家育ちの不器用な木曽義仲に共感を覚えたのであろう。義仲寺を愛した芭蕉は、「骸(から)は木曽塚に送るべし」と遺言。その言葉通り、境内には義仲と芭蕉の墓が並んで立っています。また、義仲寺一帯は、「粟津ヶ原」(あわづがはら)と呼ばれ、琵琶湖に面した景勝地であったが、現在では湖面からは遠ざかり、周囲に建物が建ち直接琵琶湖を望むことが出来なくなっている。
芭蕉ゆかりの寺だけに、境内には芭蕉門下をはじめ、著名な俳人が詠んだ句碑が立ち並んでいます。芭蕉を祀った「翁堂(おきなどう)」や芭蕉の文献を収集した「粟津文庫」もあり、全国から訪れる芭蕉の跡をたどってみたい人が尋ねてくるところである。
琵琶湖の鳥たちとの出会い/浮御堂
薹の文字から見るフキノトウ
「新春の光を追いかけて――比叡山と三上山の風景から」
四つ葉のクローバーが教えてくれたこと
水位の低下が紡ぐ琵琶湖の幻の道
三上山でホトトギスとの出会い
薹の文字から見るフキノトウ
「新春の光を追いかけて――比叡山と三上山の風景から」
四つ葉のクローバーが教えてくれたこと
水位の低下が紡ぐ琵琶湖の幻の道
三上山でホトトギスとの出会い
Posted by
nonio
at
08:57
│Comments(
2
) │
滋賀を歩く
この記事へのコメント
おはようございます。
滋賀に移り住んだ頃は、県内あちこちくまなくといって
いいくらい行きました。
このコースも行きました。懐かしく見ました。
膳所公園も子供とおにぎり食べたの思い出しました。
滋賀に移り住んだ頃は、県内あちこちくまなくといって
いいくらい行きました。
このコースも行きました。懐かしく見ました。
膳所公園も子供とおにぎり食べたの思い出しました。
Posted by 花かんざし
at 2009年01月25日 09:41

こんにちは~! 寒くなりました。
この地図コピーさせて頂きますね!!
機会を見て歩きたくなりました。
美術館は以前行き帰りに「妹がり」万葉の頃の献立?の食事を思い出しました。
この地図コピーさせて頂きますね!!
機会を見て歩きたくなりました。
美術館は以前行き帰りに「妹がり」万葉の頃の献立?の食事を思い出しました。
Posted by パル at 2009年01月24日 11:47
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