2010年06月01日 朝鮮人街道の出発・到達点道標
野洲市住人である私は、朝鮮人街道について、少なからず関心を持っています。ここ、行畑には、中山道から分岐した朝鮮人街道の出発点があるからです。この三叉路には、道標がないが、少し離れた蓮照寺に保存されています。 三叉路などの写真野洲ウォーキングを参照。
道標には、「右 中山道 左 八まんみち」と刻まれ、「八まんみち」とは、中山道に平行してつけられた朝鮮人街道のことを示しています。この街道は、八幡・安土・彦根を経由して、佐和山を越え彦根市鳥居本で再び中山道に合流しています。距離にして約41km。
中山道を柏原から京都に向かってぶらり旅をしていますが、鳥居本から高宮へ行く途中で、朝鮮人街道が中山道に到達する地点に設置してある道標に出合いました。
道標には、「右 彦根道 左 中山道 」と刻まれていました。この彦根道とは、朝鮮人街道のことを示しており、彦根藩主井伊直考が彦根城と中山道を結ぶために新道を整備したものです。
「朝鮮人街道」は、色々な呼び方がされています。野洲市・桑実寺薬師では「八まん」。十王町・近江八幡では、「朝鮮人街道」の真新しい石碑が見かけられます。近江八幡の郷土資料館近くでは、奥ゆかしく「京街道」とも言い、道標には「京みち」と彫られています。さらに、最終地点では「彦根道」となっています。 同じ街道でも地域で好き勝手に名前を変えられています。変体仮名と同じく、難しく表現する傾向があるようだ。元NHKの報道局記者池上彰さんとは大違いだ。
ところで、「朝鮮人街道」と刻まれた道標は、文字の形が整い綺麗に仕上がっていますが、あまり街道と言う趣が伝わってこない。機械彫りのせいだろう。その点、年期の入った道標には「八まん」とか「京みち」など簡単な文字が多いようだ。手彫りは複雑な字は彫りにくいのであろう。文字の持つ強弱を、それに合った深さで彫られていますので、一つひとつの文字が味わい深い。
さて、2003年末頃『冬のソナタ』が放送され、主演ペ・ヨンジュンの愛称から「ヨン様ブーム」としても知られる『韓流』が起きました。1607年~1811年にも韓流ブームが起こっていたのです。
豊臣秀吉が無謀にも朝鮮を侵略以後、断絶が続いていました。徳川家康は、朝鮮へ幾度と使者を送り、国交の回復に努めました。その結果、朝鮮国より国王の親書をもって「朝鮮通信使」が来日するようになりました。学者、文人、書家、医師なども選ばれた500名近くの大使節団がソウルから江戸へ約2,000kmの長旅をしてきました。
近江の国を縦貫する中山道のうち、野洲から彦根までを通信使通行のため新たに整備され、この街道が「朝鮮人街道」と呼ばれたのです。多くの朝鮮通信使は、往時に中山道を行き、復路に東海道を帰ってきたようで、その理由は琵琶湖を見たかったからだと云い伝えられています。 彦根の宗安寺では、通信使を肉料理でもてなすため、獣肉をお寺の正門から運び入れることははばかられたため、正門の脇にもうひとつの門を作られました。正門(赤門)の左に、黒門が残されています。
当時鎖国状態であり、民衆は珍しい異国の文化に触れようと「どっと」押し寄せ、豪華な行列は沿道の人々に強烈な印象を与えたようです。羽川藤永筆の「朝鮮人行列図」に当時の桟敷など様子が圧倒的な迫力で描かれています。
余談になりますが、キムチに唐辛子が入るようになったのは、この通信使が日本から唐辛子を朝鮮へ持ち帰ってからだそうです。
蓮照寺地図(小林歯科医院付近の三叉路)
鳥居本地図
野洲の道標
鳥居本~高宮の道標
道標には、「右 中山道 左 八まんみち」と刻まれ、「八まんみち」とは、中山道に平行してつけられた朝鮮人街道のことを示しています。この街道は、八幡・安土・彦根を経由して、佐和山を越え彦根市鳥居本で再び中山道に合流しています。距離にして約41km。
中山道を柏原から京都に向かってぶらり旅をしていますが、鳥居本から高宮へ行く途中で、朝鮮人街道が中山道に到達する地点に設置してある道標に出合いました。
道標には、「右 彦根道 左 中山道 」と刻まれていました。この彦根道とは、朝鮮人街道のことを示しており、彦根藩主井伊直考が彦根城と中山道を結ぶために新道を整備したものです。
「朝鮮人街道」は、色々な呼び方がされています。野洲市・桑実寺薬師では「八まん」。十王町・近江八幡では、「朝鮮人街道」の真新しい石碑が見かけられます。近江八幡の郷土資料館近くでは、奥ゆかしく「京街道」とも言い、道標には「京みち」と彫られています。さらに、最終地点では「彦根道」となっています。 同じ街道でも地域で好き勝手に名前を変えられています。変体仮名と同じく、難しく表現する傾向があるようだ。元NHKの報道局記者池上彰さんとは大違いだ。
ところで、「朝鮮人街道」と刻まれた道標は、文字の形が整い綺麗に仕上がっていますが、あまり街道と言う趣が伝わってこない。機械彫りのせいだろう。その点、年期の入った道標には「八まん」とか「京みち」など簡単な文字が多いようだ。手彫りは複雑な字は彫りにくいのであろう。文字の持つ強弱を、それに合った深さで彫られていますので、一つひとつの文字が味わい深い。
さて、2003年末頃『冬のソナタ』が放送され、主演ペ・ヨンジュンの愛称から「ヨン様ブーム」としても知られる『韓流』が起きました。1607年~1811年にも韓流ブームが起こっていたのです。
豊臣秀吉が無謀にも朝鮮を侵略以後、断絶が続いていました。徳川家康は、朝鮮へ幾度と使者を送り、国交の回復に努めました。その結果、朝鮮国より国王の親書をもって「朝鮮通信使」が来日するようになりました。学者、文人、書家、医師なども選ばれた500名近くの大使節団がソウルから江戸へ約2,000kmの長旅をしてきました。
近江の国を縦貫する中山道のうち、野洲から彦根までを通信使通行のため新たに整備され、この街道が「朝鮮人街道」と呼ばれたのです。多くの朝鮮通信使は、往時に中山道を行き、復路に東海道を帰ってきたようで、その理由は琵琶湖を見たかったからだと云い伝えられています。 彦根の宗安寺では、通信使を肉料理でもてなすため、獣肉をお寺の正門から運び入れることははばかられたため、正門の脇にもうひとつの門を作られました。正門(赤門)の左に、黒門が残されています。
当時鎖国状態であり、民衆は珍しい異国の文化に触れようと「どっと」押し寄せ、豪華な行列は沿道の人々に強烈な印象を与えたようです。羽川藤永筆の「朝鮮人行列図」に当時の桟敷など様子が圧倒的な迫力で描かれています。
余談になりますが、キムチに唐辛子が入るようになったのは、この通信使が日本から唐辛子を朝鮮へ持ち帰ってからだそうです。
蓮照寺地図(小林歯科医院付近の三叉路)
鳥居本地図
野洲の道標

鳥居本~高宮の道標

Posted by
nonio
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11:47
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