2019年02月03日    京都北山の廃村八丁を巡る

 
 京都市右京区の北の端辺りの地図を見入っていると、標高1000mを越す山もなく、低山が幾重にも連なっていた。その中に、「廃村八丁」の文字を目にした。人が住み着いていたにおいと言うのか痕跡を訪ねてみたいと、無性に想いが高じた。

 廃村八丁は、ここを発する八丁川が由良川へ流れ出しているが、周りはくまなく山に囲まれた小盆地の内にある。  ここに訪れには、山越えをしなければ行けないところである。
 尾根筋の鞍部には、いたるところに峠名が付けられており、そのひとつのダノン峠を出発点とした。廃村八丁を囲むような尾根筋をたどり、途中から、谷を下り小盆地の中心部にたどり着き、再び元のダノン峠に戻ってきた。

 辿った峠は、ダノン峠・佐々里峠の分岐点・品谷峠・トラゴシ峠(虎越)と通過し、四郎五郎峠など、愛着ある呼称もつけられていた。谷にもホトケ谷・ババ谷・刑部谷など小さな谷にも名前が付けられ、細々と道で繋がっていた。 これらの小道は木材伐採の作業道であり、渓流の木材流しにも使用したのであろう、かつて人々が行き交う吐息を感じとれる起伏のゆるい山野であった。

 地名は受け継がれていた。それでいて、先人たちが暮らしていた遺物は見当たらなかった。シンボル的な三角小屋や崩れかけの石垣だけだった。通い道はいたるところで倒木のなすがまま。村人が大事に育てていた神木のような巨木も見られたが、その一方で、立ち枯れの大樹の朽ち果てた姿が、「廃村八丁」になっていたことを物語っていた。 
 
 殺風景極まりない「廃村八丁」であったが、今から80年前、廃村後間もない在りし日の八丁山村の様子が、森本次男(「京都北山と丹波高原」昭和13年刊)によって鮮明に綴られていた。

八丁に常住の人達は誰もいない。草葺屋根の大きな田舎家は屋根にチギを敷いて、今も其の主人の帰りを待つ様に立っている。少しばかりの山田も今は作る人も無く荒れはてて、芒が」丈高き穗をいたずらに空に向けてのばしている。淸水橋・學校橋・出会橋と今なお堅牢な木橋は八丁川源流にかかっているが通る人もない。静かに時と共に崩れていく砂時計の様に廃滅していく、これが廃村である。・・・・・・
淋しい分教場の教室へ山靴のまま上って行けば黒板も昔のまま、生徒への注意書きも算術の九九の貼紙も古ぼけたまま壁間に残って居り、オルガンさへ窓際に置かれてある。・・・・・・・

何時かは、このところに昔八丁と云う山村があったと云うことを、崩れかけた石垣の上で腰を掛けて語る時が来る事であろう」と結んであった。


京都北山の廃村八丁を巡る
京都北山の廃村八丁を巡る
京都北山の廃村八丁を巡る京都北山の廃村八丁を巡る京都北山の廃村八丁を巡る
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 出会った人物は、 三角小屋付近で、一人だけ。枝ぶりのよい古木を削っておられた。

「何をされていますか」と尋ねると、
「一本の古木を削り出して程よく座れるようにしょうと思っています」と、
「手元より少し上のところを削り出し、コップとか置けるように台も作ろうと思っています」。
限りなく人の気配がない山奥に、大した用事もないのに。八丁の地に留まることが、こころ休まるのであろう。

 彼は、この止まり木に腰かけ、何に想いを馳せるのだろうか・・・・。

京都北山の廃村八丁を巡る

 再びダノン峠に戻り、往路のホトケ谷をくだり、菅原の山村の近くまでくると、山間の狭い田んぼで親子が野作業をしていた。
今では、コンバインと云う機械が、実った稲穂を刈り取りさえすれば、収穫が仕上がる時代になったのに、一昔前と言っても、今から60~70年前の昔懐かしい農風景があった。

 稲刈りした稲穂は、田んぼでハザ掛けを行い、長らく天日干しされる。乾燥の頃合いを見計らって、ドラムを回転させる脱穀機を持ち込み、籾粒((もみつぶ)を回収するという昔ながらの米つくりを子供に伝えていた。

京都北山の廃村八丁を巡る

【補足】

 京都北山の辺鄙なところに、明治初期に5戸が定住し、一時は分教場まで設けられたのに、どうして全戸離村してしまったのであろうか。

 ここ八丁一帯は鎌倉時代より延々600年間、村間での境界争いが絶えない地であった。 争いが絶えないので、立ち入りを禁じる御留山(おとめやま)とされた。その後、八丁山の経営を取り仕切る御請山となったが、問題を起こし、御留山の手つかずの山林となった。

 明治維新、初めて土地の所有権が初めて法的に認められた時代である。既に入村していた元会津藩士原惣兵衛が、八丁山を村の私有地として、すき間を突いた申請をし、京都府に認められたのだ。私有山林を村の山林として広大な部分を村のものとした。限定された戸数に均等に割りあて、予想もしなかった財産が転がり込んだ。

 八丁の山村は、膨大な山林を財源にして平和な生活が続くように思われたが、そうでもなかった。
経済的に豊かになったが、僻地での不便さや環境の厳しさが襲って来た。その結果、財産を処分するものも出てきた。
一人抜けさらに次々と離れていった。 1941年(昭和16年)には、最後の1家族が八丁を捨て、廃村となった。


期 日 2018 年 11 月 24 日(土) 天候 曇り時々晴れ
所要時間 歩行距離 約 12.5km 累積標高差 約 938m 歩行時間 約 7.25H(昼食、休憩含む)
参 加 者 11 名
コースタイム
菅原登山口8:40 菅原P
9:00→9:45 ダンノ峠→10:25 佐々里峠分岐→10:55 品谷山 (昼食)11:30→12:10 品谷峠→12:50 トラゴシ峠付近→13:20 廃村八丁(休 憩)13:30→14:30 四郎五郎峠→15:15 ダンノ峠→16:05 菅原P





























 



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Posted by nonio at 04:07 │Comments( 0 ) 京都
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