2016年06月16日 己高山の巨木「逆杉」を探しに
己高山と書いて「こだかみやま」と読む。この山は、岐阜県との境にそびえる美しい稜線を持つ金糞岳の西方に位置する。この山中に”どでかい杉”があると聴き、出掛けた。でも、簡単ではなかった。
頂上から石道寺へ下山した際、枝道の選択を誤ったり、杉の分岐点を見過ごした。 好き好んだ訳でもないが、何回も訪れる羽目になった。
やっとのこと巨木に出会った時、 期待に違わない大杉の姿に感動し、重々しくおごそかさを覚えた。杉の木の枝は横か下に伸びるのが普通だが、上に向かって元気よく伸びていた。その枝ぶりから、地元では逆杉と呼ばれていた。 「近江の名木・並木道」滋賀植物同好会の著者達は、この逆杉の写真を裏表紙に扱っている。このことからして、近江に於ける代表格の樹なのであろう。

JR北陸線木ノ本駅から金居原行きのバスに乗り、古橋にて下車、己高山を目指した。谷川沿いの林道を進み、二股の分岐を右へ。次の分岐は左に進む。やがて山コースと谷コースの分岐で、右側の稜線に取りついた。
頂上まで、高時小学校の生徒が書いた励ましの言葉板に導かれた。『あせらず 自分のペースで!!』から始まり、最後が『てっぺんのけしき見たらえがをになるよ』で終わっていた。
中には『この山はぼくらのたからもの』・・・・。 この小学校の子供たちは「学己高山」「己高山に学ぶ」として、この山に接しながら”高く・強く・美しく”をモットーに学んでいるから、このような言葉を使ったのだろう。



六地蔵と言うところで一息。中央の大きな地蔵さんに左右3体の石仏が横一列に並んでいた。7体あるのに六地蔵と呼ばれているようだ。
稜線を登って行くと大岩があり、牛止め岩と言い、山頂の寺院まで荷物を運ぶのに、牛ではこの辺りまでしか運べなかったので、名前がついたのであろう。ここから、かなたに比良の山々や琵琶湖が、直下に湖北の平地が美しい。
やがて、頂上近くの湿地の広場についた。木之元教育委員会による立札を見かけ、ここが奈良時代に建立された鶏足寺跡と分かった。
己高山は、湖北の各地から朝夕眺められ、暮らしに関わる神々が宿る聖なる山として仰がれてきたのであろう。そして、湖北の北東に位置するこの山は、近江国の鬼門にあたり、修行の場として目がつけられた。行基・最澄など古代を代表する修行僧が、唐から伝わってきた仏と神を同一視して、神道と仏教を同化して行ったところであった。 当時、標高800mの山深いところに、本堂、中ノ坊、権現堂、経蔵、多宝塔など立派なお堂が建ち並び、大勢の僧侶が修行されていた。だが、戦国期以降はその隆盛もすたれ、麓の寺院へ仏像などが全て移されしまった。
今では、散らばっている礎石・石柱などの遺構が、かつての繁栄を示し、境内のあちこちに、枝を一杯広げた樹々が大木になり、時の流れを感じた。ここは、人も訪れない静寂が支配していた。
ここを通り抜け、回り込むようにして急登の稜線を辿り、922.6mの己高山頂上へ。
山になれないパーティーなら同じ道を戻るのがよい。縦走路を辿る場合には分岐点の選択を誤らないように細心の注意を要するからだ。頂上から南へよく踏まれた稜線を気分よくドンドン下って進んでいくが、P778m辺りから、丹念に読図しなければならない。分岐点を誤ると、道が無くなったり、また現われたりするから厄介だ。そのような場合は分岐点まで戻ることだ。我々が迷って、バス停の最終便を待っている時、地元の人が「何年かに一回、道に迷った人を捜索されている」と忠告していた。




旧鶏足寺の配置図 鶏足寺の説明


さて、高尾寺跡の「逆杉」へと向かう降下ポイントは、非常に分かりづらい。そこで、仲間が、分岐点の緯度と経度を国土地理の地図から割り出した。N35° 30' 27" E136° 16’ 15”である。
この地点の標高はP532mの地点でもある。ここには、旧飯福寺の案内板のある左の幹に赤ペンキで高尾寺跡への近道を示した目印もある。ただ、薄い字であるので見つけるのが難しい。
やっと見出した地点から、一気に降りると台地状にでた。そこに滋賀県の天然記念物に指定された堂々とした大杉が根付いていた。その昔、最澄が、高尾寺を参拝し、 小さな祠の前で、杉の枝を一本折って玉串を作り、地面に立てたところ、その杉の枝が生長したと地元の言い伝えがある。毎年4月29日の祭りには、地元の人達によって注連縄のかけかえが行われ大事にされていた。
あとは、よく踏まれた山道をくだり、林道に出て、石道寺へとくだっていった。



地図とにらめっこしながら挑戦していると、己高山の地形のイメージが出来上がり、この山に愛着を持ってしまったようだ。
ここは、比叡山よりも古い歴史を持った独自の「己高山仏教文化圏」が構築されたところである。世代閣與志漏神社をはじめ己高山にあった鶏足寺や山中にあった文化財が古橋の集落に集められているので、近いうちに訪れて、「観音さま」を通して、かつての仏教の思想に触れてみたい。
頂上から石道寺へ下山した際、枝道の選択を誤ったり、杉の分岐点を見過ごした。 好き好んだ訳でもないが、何回も訪れる羽目になった。
やっとのこと巨木に出会った時、 期待に違わない大杉の姿に感動し、重々しくおごそかさを覚えた。杉の木の枝は横か下に伸びるのが普通だが、上に向かって元気よく伸びていた。その枝ぶりから、地元では逆杉と呼ばれていた。 「近江の名木・並木道」滋賀植物同好会の著者達は、この逆杉の写真を裏表紙に扱っている。このことからして、近江に於ける代表格の樹なのであろう。
「高尾寺跡の逆杉」推定樹齢1000年(伝承)、樹高35m、幹周7.8m

JR北陸線木ノ本駅から金居原行きのバスに乗り、古橋にて下車、己高山を目指した。谷川沿いの林道を進み、二股の分岐を右へ。次の分岐は左に進む。やがて山コースと谷コースの分岐で、右側の稜線に取りついた。
頂上まで、高時小学校の生徒が書いた励ましの言葉板に導かれた。『あせらず 自分のペースで!!』から始まり、最後が『てっぺんのけしき見たらえがをになるよ』で終わっていた。
中には『この山はぼくらのたからもの』・・・・。 この小学校の子供たちは「学己高山」「己高山に学ぶ」として、この山に接しながら”高く・強く・美しく”をモットーに学んでいるから、このような言葉を使ったのだろう。
高時小学校の生徒による微笑ましい案内板






六地蔵と言うところで一息。中央の大きな地蔵さんに左右3体の石仏が横一列に並んでいた。7体あるのに六地蔵と呼ばれているようだ。
稜線を登って行くと大岩があり、牛止め岩と言い、山頂の寺院まで荷物を運ぶのに、牛ではこの辺りまでしか運べなかったので、名前がついたのであろう。ここから、かなたに比良の山々や琵琶湖が、直下に湖北の平地が美しい。
やがて、頂上近くの湿地の広場についた。木之元教育委員会による立札を見かけ、ここが奈良時代に建立された鶏足寺跡と分かった。
己高山は、湖北の各地から朝夕眺められ、暮らしに関わる神々が宿る聖なる山として仰がれてきたのであろう。そして、湖北の北東に位置するこの山は、近江国の鬼門にあたり、修行の場として目がつけられた。行基・最澄など古代を代表する修行僧が、唐から伝わってきた仏と神を同一視して、神道と仏教を同化して行ったところであった。 当時、標高800mの山深いところに、本堂、中ノ坊、権現堂、経蔵、多宝塔など立派なお堂が建ち並び、大勢の僧侶が修行されていた。だが、戦国期以降はその隆盛もすたれ、麓の寺院へ仏像などが全て移されしまった。
今では、散らばっている礎石・石柱などの遺構が、かつての繁栄を示し、境内のあちこちに、枝を一杯広げた樹々が大木になり、時の流れを感じた。ここは、人も訪れない静寂が支配していた。
ここを通り抜け、回り込むようにして急登の稜線を辿り、922.6mの己高山頂上へ。
山になれないパーティーなら同じ道を戻るのがよい。縦走路を辿る場合には分岐点の選択を誤らないように細心の注意を要するからだ。頂上から南へよく踏まれた稜線を気分よくドンドン下って進んでいくが、P778m辺りから、丹念に読図しなければならない。分岐点を誤ると、道が無くなったり、また現われたりするから厄介だ。そのような場合は分岐点まで戻ることだ。我々が迷って、バス停の最終便を待っている時、地元の人が「何年かに一回、道に迷った人を捜索されている」と忠告していた。
登山口付近から右上がりの稜線を目指す

山コースと谷コースの分岐点、稜線沿いの登山路

7体の地蔵さんがあるのに六地蔵

鶏足寺跡の台場

旧鶏足寺の配置図 鶏足寺の説明


己高山頂上922.6m

さて、高尾寺跡の「逆杉」へと向かう降下ポイントは、非常に分かりづらい。そこで、仲間が、分岐点の緯度と経度を国土地理の地図から割り出した。N35° 30' 27" E136° 16’ 15”である。
この地点の標高はP532mの地点でもある。ここには、旧飯福寺の案内板のある左の幹に赤ペンキで高尾寺跡への近道を示した目印もある。ただ、薄い字であるので見つけるのが難しい。
やっと見出した地点から、一気に降りると台地状にでた。そこに滋賀県の天然記念物に指定された堂々とした大杉が根付いていた。その昔、最澄が、高尾寺を参拝し、 小さな祠の前で、杉の枝を一本折って玉串を作り、地面に立てたところ、その杉の枝が生長したと地元の言い伝えがある。毎年4月29日の祭りには、地元の人達によって注連縄のかけかえが行われ大事にされていた。
あとは、よく踏まれた山道をくだり、林道に出て、石道寺へとくだっていった。
高尾寺跡の「逆杉」の降下ポイント

旧飯福寺の案内板 GPSの表示


登り終えて己高山を望む

地図とにらめっこしながら挑戦していると、己高山の地形のイメージが出来上がり、この山に愛着を持ってしまったようだ。
ここは、比叡山よりも古い歴史を持った独自の「己高山仏教文化圏」が構築されたところである。世代閣與志漏神社をはじめ己高山にあった鶏足寺や山中にあった文化財が古橋の集落に集められているので、近いうちに訪れて、「観音さま」を通して、かつての仏教の思想に触れてみたい。
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