2014年04月15日    三上山の「姥の懐」のご案内

 三上山、その姿は美しいと言う言葉がピッタリ。そんな中、御上神社の森越しに見える姿は、神々しさが増して美しい。ここにくると、人に出合わない日がない。毎日日課として登っているひと・車窓からその端正な姿を見て再び遠くから来られるひと・ツアーの案内人に引率されてきたグループなど様々。にぎやかな山です。そして、誰もが意外に岩場が多いと実感されるでしょう。 

御上神社の森越しの三上山(別名近江富士)
三上山の「姥の懐」のご案内
 この山は珪酸質のチャートと呼ばれる固い岩石で出来上がっています。だから、富士山似た端麗な姿を保ち、近江富士とも呼ばれています。二越付近の大きな岩塊・表登山道の途中に、人が一人すり抜けられる割れ目ができた割岩・頂上の社の前に磐座(いわくら)など、岩に関わる見どころが多々あります。今回は「姥の懐(姥のふところ)」と言うちょっとした岩に関わる洞窟を紹介します。俵藤太が三上山の大ムカデを退治したことから別名「むかでの穴」とも呼ばれています。 

 このコースを案内紹介しょう。
 三上山(432.0m)は、主峰を男山(おやま)、副峰を女山(めやま)の双耳峰です。まず、幾分低い女山を経由する三上山裏登山道を辿ります。
途中から、姥の懐の谷筋に付けられた階段を登り詰めれば行くことが出来ます。このコースのポイントは、緊急連絡ポイントC-4の表示板から、三上山裏登山道と別れて左手に登り詰めることです。尚、直進する獣道は、表登山に通じていますが、入らないこと。

 地元では、山頂近くあるこの洞窟は、「ウバガフトコロ」とも「オンバノフトコロ」として知られていましたが、山頂から80mほど下ったところにある「姥の懐」に行くには困難でした。この登山道を2年がかりで切り開いたのがO氏です。時折、出会う「希望が丘」のサポートしている知人ですので、当時の様子を聞くと「310段ほどの階段をつくるのに、ネジキの木を倒して登山道をつくった」と語っていました。

天保義民碑の道標がある三上山裏登山道から入山
三上山の「姥の懐」のご案内
緊急連絡ポイントC-2を右側。山側の裏登山道を登りだす
三上山の「姥の懐」のご案内
緊急連絡ポイントC-4を山手の左へ曲がり、道なりに進む
三上山の「姥の懐」のご案内
「姥の懐」の表示板を左へ
三上山の「姥の懐」のご案内
目的の洞窟
三上山の「姥の懐」のご案内
元の「姥の懐」の表示板に戻りそのまま登りきると頂上に通じる
三上山の「姥の懐」のご案内

 姥の懐(姥のふところ)については、面白い話があります。

 写真の天保義民碑と姥の懐とは関係があるのです。これらの歴史的背景を知ると更に興味も湧いてきますので、記しました。

 天保13年(1842年)と言えば、170年ほど前、それほど遠い昔でもない時、こんな片田舎に起こった事件でした。江戸幕府の勘定役市野茂三郎らの検地人が年貢を増やす企みで、野洲川筋の村々へやってこようとしていました。伝わってくる話として、検地の際に使用された測量用具として、5尺8寸(1m75㎝)しかない間竿を、普通の6尺1分(1m82㎝)の間竿として使用していることを漏れ聞きました。短くなった寸法はわずか4%ですが、年貢としては、面積計算になりますので、1.82/1/75の2乗となり、8%に増徴されます。遂に我慢ならず農民は立ち上がったわけです。
農民が不正な検地に抗議するため、旧甲賀郡、旧野洲郡、旧栗太郡の総勢約4万人の農民が一斉に蜂起しました。これが、歴史に有名な天保一揆なのです。

 さて、この騒ぎの時、「姥の懐」に逃げ込んだ者がいました。てっきり、逃げ込んだのは、役人に追われた地元の農民だと思っていました。実は、あまりにも農民の怒りが凄まじく、命が危うくなった勘定役市野茂三郎が「姥の懐」へ追跡者を振り切って逃げ込んだのです。この様子については宇野宗佑著 『庄屋平兵衛獄門記』 青蛙房に描かれています。

 話がそれますが、時が経ても、お上は増税をしてきます。年貢に変わって消費税という形で民衆から取り立てます。奇しくも8%。でも世間は静かなものです。 賢い皆さんは膨らむ赤字国債からして、消費税の増加については、一定の理解をしているのでしょう? でも、おかみ達の自らを律しない姿勢には怒りを。
2007年4月23日付けで京都新聞にて掲載
三上山の「姥の懐」のご案内



 約4万人の農民らは、役人の泊まっている三上 山麓の陣屋を包囲。そしてついに検地を10万日(約270年)日延べする検地中止書を書かせました。検地をただちに中止とせずに、できもしない日延べ証文として、かろうじて江戸幕府の立場も保ったものでした。

 一揆を首謀した11名は、とらわれ江戸に護送されました。三上庄屋土川平兵衛や市原庄屋田島治兵衛などは石部の宿で丸かごに入れられたまま、家族と今生の別れをしました。沿道に並んだ群衆の中から「平兵衛大明神」「治兵衛大権現」との声が起こったと言われています。農民のため命を賭けた庄屋に対して、生きているうちから、神と崇められました。この地に再び戻ってこなかったのです。 

三上庄屋土川平兵衛の辞世の句
 
「人のため身はつみとがに近江路を別れて急ぐ死出の旅立ち」






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Posted by nonio at 08:46 │Comments( 0 ) 滋賀県の山 三上山
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