2009年02月05日    観音峰(大峰山系)

[南北朝時代] ブログ村キーワード


日付 2009年1月29日
距離  12,000歩  標高差 約550m

コースタイム  観音峰登山口 10:00  観音平展望台 11:30 観音峰頂上 12:10 
          観音平展望台 12:45~13:45 観音峰登山口 14:40


 観音峰は、大峰山系を一望できる展望台があり、多くのハイカー人で賑わう山である。特に、”冬景色in奈良いざ白銀の世界へ” と銘打った観音峰・高見山・三峰に人気が集中し、冬季には、奈良交通バスが直通「霧氷号」を土日祝運行されている。

 2008年02月9日(土)高見山の素晴らしい樹氷が見られたので、早速、N氏主催の観音峰に赴いた。今年、滋賀県の山の積雪が多くかなり手間取った。つい最近、山友達からのメールでも綿向山のラッセルが厳しく撤退したとの情報もあり、奈良県の紀伊山地でも、樹氷が観られると期待していたが、的外れになってしまった。後日、高見山に行った友達も駄目と言っていたことからして、奈良県の山奥より滋賀県の方が寒いのかな…。

 ところで、この観音峰は、1347mの三等三角点があるだけで展望も悪く平凡な頂であるが、この前衛にある観音平は、「大峰山系の全貌が見渡せる屈指のところ」と言われていたが、言葉通りの景観を観ることが出来、いささか満足した。

                  観音平より大峰山系の遠望

観音峰(大峰山系)

 虻トンネルを抜けると、直ぐ右の駐車場が観音峰登山口である。平日で、先客はなかった。東屋とトイレ休憩所周辺には雪が積もり、今まで大勢の登山客が押し寄せたのであろう、踏み固められ氷状になっていた。多分、登山路も同様に、踏み固められているに違いないと判断。 この処でアイゼンを装着し、右手にある「案内図」①の立て看板を見遣りながら出発した。
 東屋から『みたらい渓谷』を跨ぐ吊橋②が登山道への入口である。此処は直進し、木製の階段状の道を登っていった。少し登った所の水場「観音の水」で一口飲んだが、冷たくは無かった。

 山道③は4~5cmの雪が固まり、アイスバーン状態であったが、登山路は、杉の人工林帯を通って行くにも拘わらず、道にまたがった倒木が、一本も無くよく整備されていた。余りにも整備され過ぎ、妙味も感じないまま案内板に導かれていた。

突然目前に、1m以上の氷柱④が眼に入ってきた。日陰になったところに凍みずが湧き出し、何日もかかって山塊に氷柱が発達したのであろ。

   「案内図」①           吊橋②            山道③           氷柱④   
観音峰(大峰山系) 観音峰(大峰山系) 観音峰(大峰山系) 観音峰(大峰山系)


 沢の橋を2つ3つ渡って、小さな尾根を回り込むと自然林に囲まれた菊の紋が入った休憩所に着いた。観音平休憩所と書いていた。ここは、南北朝時代の天皇⑤に関わるところのようだ。
東屋で少し休憩して、石段を少し上ると十一面観音⑥の岩屋への分岐があったが、そのまま通り越し、上へ回り込み尾根上の階段道となって、ススキの原、観音平⑦へと進んだ。

南北朝時代の天皇⑤   十一面観音分岐⑥   観音平の石碑⑦
観音峰(大峰山系) 観音峰(大峰山系) 観音峰(大峰山系)

 進路を北にとり、ススキをかき分けて進み、やがて雑木林になった斜面を登り切り、ピークをひとつ越えて一旦下り、尾根を登って観音峰に着いた。途中、雪の中の二次林⑧は、素晴らしい情景であった。
頂上は、標識がなければ頂上とはわからないような場所であった。とに角、頂点を踏まなければ、始まらないので、雪を少し掻き分け、三等三角点⑨を確認して早々に下山。

  二次林⑧         三等三角点⑨
観音峰(大峰山系) 観音峰(大峰山系)

 再び、同じ道を引返し観音平で昼食をとった。眼前は、四方遮るものがない大展望だ。
40年以前、大峰山系に初めて入山したのが稲村ガ岳で、山小屋にお世話になった。小屋の主人と仲良くなり、滝壺の魚釣りに誘われ、クロモジ尾を降下した。神秘的な滝壺の情景が、忘れるともなく浮かんでくるから不思議である。大雨となり魚釣りどころではなくなり、退散したことも思い出しながら、若い時代を懐かしんだ。

               稲村ガ岳と奇異な形の大日山
観音峰(大峰山系)


 更に、左に見遣ると、弥山・(八経ガ岳)のパノラマも楽しんだ。昨年7月4日(土)〜5日行者環トンネル西口から 弥生・八経ケ岳に登山した。修験者が神々の道を辿り熊野へと通ずる道である大峰奥駈道を観音平から、再び見るとは思わなかった。
オオヤマレンゲを求め大峰山

                   弥生・(八経ケ岳)               
観音峰(大峰山系)



 観音平には、巨大な〔観音峯展望台〕と書かれた石碑が据え付けられていた。しかし、中央に亀裂が入っていた。リーダーに聞くと、「ここは雷が多いところだ。落雷のショックで上部が剥がれ落ち、再び載せたものだ」と説明していた。仲間の人も「ここには、隠れる所が無いので、雷の気配を感じて何回も逃げたことがあった」と話していた。
また、観音峰の字「峰」「峯」についても話した。登山関係の書籍・観光案内では、「峰」が使われているが、どうも後者の「峯」が、みんなの意見では正しいようである。したがって、史実に関しては、「峯」の漢字を使った。

      レリーフ
観音峰(大峰山系) 登山開始の案内図に「南朝ロマンの小径」のタイトルがあった。ここは、南北朝時代の所縁の地で、南朝にまつわる歴史の山であるようだ。観音峯の登山道には、登山口からコース沿いに、南北朝絵巻・「お歌石」のレリーフが整備されていた。
銘文には、「動乱の勃発(建武の中興)」 「吉野の南朝」 「吉野山炎上」 「天川郷位衆伝御」 「観音峯の戦い」 などの物語が書かれ、700年前の世界に導かれた。

 掻い摘んで史記の話をすると、京都の天皇が「こっち本家です」と言い、吉野の天皇は「こちらが元祖だ」と約60年間争いごとである。 鎌倉時代の中頃、天皇家は、2ツの系統に分かれて、地位、皇室領の所有をめぐって対立があった。後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒し、天皇中心の専制政治を300年ぶりに復活させた。しかし、天皇が進めた政策は、武士社会の習慣を無視したため、武士の不満や反発を買ってしまった。 尽力を尽くした足利尊氏(たかうじ)は、反旗をひるがえし、三種の神器を持たない光明天皇を立てて後醍醐天皇に譲位を迫った。後醍醐天皇は、吉野の山中にのがれ、「南北朝の内乱」の時代になった。
 1330~1390年頃当時、こんな山深いところに、日本の中心と言うべき一方の南朝があった由緒ある場所であった。歴史書をひもといても、興味もわかないが、歴史の登場人物と同じ場所に立つと、少しは、分る気がした。

 レリーフの記述を要約しました。 

物語 「動乱の勃発(建武の中興)」  

 これは後醍醐天皇の御世のことでございます。鎌倉幕府の君主の徳はうすれ、荘園の支配に反抗した武士たちの戦がそこここで起こり、民の安穏な暮らしは失われてゆきました。醍醐天皇は、天皇政治の復興をお図りになりましたが、この事がもれ、天皇は無念にも隠岐島に配流となりました。一人大塔宮護良(だいとうのみやもりなが)親王は、からくも追捕軍の手をのがれ、大峯から吉野へ、天川から高野へと潜行しながら活躍され、ついに鎌倉幕府は倒れました。

2物語「吉野の南朝」

 後醍醐天皇の建武の中興の夢は、わずか一年余りで破れました。足利尊氏が離反して光明天皇を擁立しますと、後醍醐天皇は吉野に逃れて朝廷をお開きになり、ここに再興のすべてをかけられました。吉野天川は、吉野山を入り口とし、けわしい山々が連なって天然の砦となり、山岳地帯で、後醍醐天皇ら後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇の四代にわたって南朝の拠点とされました。後村上天皇が吉野から天川へ落ちのびられたとき、この観音の岩屋に籠もられた一夜の夢に十一面観音が現れて、河合寺が安住の場所とのお告げをお受けになられました。爾来、この観世音を守り本尊としてご信仰になり、この山を観音峯と名付けられました。

3物語「吉野山炎上」  

 四条畷の決戦前、死を覚悟した楠木正行兄弟は、吉野山での後村上天皇との涙の別れのなかで、「進退を慎重にし、永く忠勤を励め」とのおことばをいただきましたが、圧倒的な幕軍に果敢にいどみ、奮戦むなしく討死なさいました。三種の神器を携えて、天皇、女院、皇后、准后、内親王、宮々などとともに、とるものとりあえず、あわて騒いで尾根づたいに吉野の奥、ここ観音峯へと落ちのびられました。

第4物語「天川郷位衆伝御」  
 
 天川郷には、多くの南朝方の武将たちが住み着くことになりました。天川の郷士たちは、これらの人々を中心として奥吉野の基地を整えるべく、南朝警護隊を組織しました。そして正平五年(1350)、後村上天皇より「後醍醐天皇の綸旨(りんし)にあるように、天川郷の課役免除に変わりはないので忠節を尽くすように」との綸旨とともに、南朝警護隊の天川郷士たちに、位衆傳御(いしゅうおとな)の命名を賜るに至りました。

終物語「観音峯の戦い」

 正平七年(1352)、吉野朝廷の人々が夢見た京都奪回がついに実現いたしました。が、それも束の間のこと、再び北軍が巻き返し、南軍北軍めまぐるしく京都を奪い合い、結局北軍の勝利に終わりました。さて、南朝軍の柱である楠木正儀が甘言に誘われて突然幕府方に寝返ったことから、長慶天皇は皇太子煕成(ひろなり)親王に三種の神器をもたせ、吉野の奥深くにお隠しになりました。その後楠木正儀をはじめとする幕軍の攻撃により、天皇もまた吉野の奥へと遷幸され、天川郷位衆傳御組はこれを警護し奉って河合寺の黒木御所に迎えました。そして、郷民をあげて長慶天皇や煕成親王らを坪内の御所ノ坊、沢原の光遍が、野川勢を中心とする逆徒が執拗に襲来したため、これを迎え撃って戦いをくりひろげました。この戦いで河合寺は焼失し、長慶天皇や煕成親王は観音の岩屋に避難されました。が、ここまでも追手があり、天川郷士たちはこれを撃退し、尾根づたいに洞川の龍泉寺へとご案内申し上げたのでございます。





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Posted by nonio at 18:59 │Comments( 1 ) 近隣の山
この記事へのコメント
こんばんは~♪
お元気で山歩きされてます。
滋賀県の方が山に雪多いですね!!
この日も晴れて綺麗な景色見られましたね  大きな氷柱も!!
歴史の事も詳しく書いて頂き ありがとうございます。
もう一度ゆっくり読ませていただきますので、、、、、
Posted by パルパル at 2009年02月06日 23:02
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