2013年05月06日 阿闍梨の先達で千日回峰をめぐる
二回も荒行である千日回峰に挑まれた大阿闍梨酒井が到達された悟りの言葉がある。「一日一生」。
酒井さんは言います。千日回峰では、1日はいた草履は、その日で終わりです(はきつぶしてしまうため)。明日は明日の草履をはいて、また歩きます。回峰行は毎日まいにち、同じ道を繰り返し歩きます。次第に酒井さんは気付いたそうです。
つまり、一日歩いて草履を脱いだら今日の自分はもう今日でおしまい。クヨクヨ考えたり、イライラしたりしても、明日また新しい草履をはけば、新しい自分もはじまる。
この言葉を実感するため、 光永圓道阿闍梨が先達する三塔巡拝(毎日新聞旅行の主催2013/4/20)の一日千日回峰行に参加した。
久しぶりに無動寺谷にやってきた。この場に足を踏み入れると独特の緊張感が漂い、自ずと厳粛な気持ちになっていた。数年前、雪が深々と降る中で、総ての障子が閉められていたが、腹に染み入るような読経が辺りに響き渡っていたことが蘇ってきた。雪が降る比叡山回峰行登山
大乗院で夕方のお勤めをして、17時過ぎに、夕食として、ごはん・ワカメのお吸い物、大根の煮物、もやしのあえ物、そして沢庵の精進料理を頂いた。お膳の横に「食前観」「食後観」と書かれた紙が用意してあった。
最初に阿闍梨がその場を圧するように物凄い音がする拍子木を打ちながら 「吾今幸いに」とおっしゃった後、全員で唱えるのである。私も皆さんに合わせて唱えた。が、ご飯を頂くだけなのに、これから何が始まるのかと思うほど大声であった。
「吾今幸いに(同)仏祖の加護と衆生の恩恵によってこの清き食を受く、つつしんで食の来由をたずねて味の濃淡を問わず、その功徳を念じて品の多少をえらばじ 『いただきます』」
そのあとは、私語もなく静寂に包まれ、もくもくと頂いた。昔、私は、半月以上の長期の山に出かけることもあり、大自然と相手をするときには、粗食が一番。明日の千日回峰を控えての食事を美味しくいただいた。ただ、ご飯を、もう一杯と思っていたのだが、皆さん一膳のご飯を食べ終わると、その器を手に持っておられた。世話をしていただく小僧さんにお茶をもらって沢庵でふき取っておられたので、見よう見まねで作法にしたがった。
全員が食べ終えると次に「食後観」を唱えた。「吾いま此の食を終りて、 心ゆたかに力身に充つ、 願わくば此の身心を捧げて己が業にいそしみ、 誓って四恩に報い奉らん。 『ごちそうさまでした』」
これから、私は”行”が始まるのだなーと実感しながら、場違いな所に来てしまったのではないかと一抹の不安を覚えた。
食後、阿闍梨さんから質問を受けていただく時間が設けられていた。事前に何人もの質問者が割り当てられ、最後に、私の番になった。
座右の銘に「一日一生」と言う言葉をしたい旨を伝えた。光永圓道阿闍梨はどのように解釈されているのかと問うてみた。
光永圓道阿闍梨少し考えてから「この言葉を言い出されたのは酒井大阿闍梨さんですね。明日、三塔巡拝の千日回峰行を辿るのですが、「東塔」「西塔」「横川」を辿っていきます。東塔の薬師如来様は現在、西塔の釈迦如来様は過去を表し、過去を反省しながら歩いてください。横川の聖観音菩薩様は未来を守られているので、未来に向かって歩いてください。そして、無動寺谷に戻ってくればそれで一日です。その積み重ねが一生です」
18時半には就寝となった。山小屋でも、暗くなれば寝る。何の違和感なく眠りについた。
阿闍梨が般若心経を唱えると、参加者のほとんどの人が後に続けて、一斉にお経を空で唱和した。どうも私だけが知らなかったようだ。後で聞いてみると皆さん何回も参加されているつわもの達であることを、今更知ることになった。
道路わきに待機していた小僧さんに「いってらっしゃいませっ」と大きな声に送られた。思わず励まされ、元気をもらった。しとしと降る冷たい雨の中、阿闍梨を先頭にした一行20名は、真っ暗の中、約七里半の道程を朝まで、夜道を黙々と進んでいった。東塔~西塔~横川の順に歩くのだが、闇の中どこをどう歩いたかほとんどわからなかった。
この間無論、私語は厳禁、限りなく静かな暗闇が支配する空間であった。
闇の中から、聞こえてくるのは、阿闍梨が突く杖の乾いた音が辺りに響いていた。ところどころで、石仏や祠に立ち寄っては柏手(かしわで)をパンパンと2回打つ音が樹幹にこだました。そして、般若心経を唱える遠くまで響く野太い声が終わるや、数珠の「じゃりっ」とした音は、闇夜を切り裂くように響いた。”行”から生じる音以外は、雨音であった。体験しなければ味わえない神秘に満ちた格別の世界に導かれた。
夜中の3時ごろ、横高山(767m)近くにある「玉体杉」(ぎょくたい すぎ)というところにやってきた。今までは見晴らしの悪い山野を駆け巡ってきたが、ここから眼下に仄かに明るくなった京都の街が見下ろされ閉塞感が解き放たれた。京都御所に向かって祈祷を始められた。鎮護国家、天皇の安穏つまり国家の平和を祈るらしい。千日回峰の行では、誰もいない夜中にこの場所から、祈っていたとは、なおさら驚きであった。
ここは、回峯行者が唯一腰を下ろして、休むことが出来るところでもあった。蓮台石が置かれていた。一言、京都御所からもこの「玉体杉」の杉が見えるとおっしゃっていた。ここは心休まるところであった。
横川にやってきた。比叡山の北端に位置し、叡山三塔のうちでも一番奥まっているので、より一層閑寂の地であった。 夜中3時半ごろであったが、本堂に明かりがつき、読経が漏れ聞こえていた。元三大師堂の住職のお勤めは厳しいところで、夜中から始めなければ一日でお勤めができないほど、膨大なお経を読みつづけなければならない。その厳格さを表して比叡山三大地獄行のひとつ「看経地獄」と呼ばれていると阿闍梨は説明されていた。元三大師堂で小休止しをとり、日吉大社へとむかった。横川の元三大師堂を出て少し行ったところで、鐘がつかれ、目が覚めた。
千日回峯の行者が駆け抜けていった八王寺山・三石岳王子山(381m)、三石岳(675.7m)
ただただ、歩いていると意外にも時間がたつのは早いものである。東の空がうっすらと白み始めていた。鳥が鳴けば、天気になるのであろうか、鳥のさえずるのが聞こえてきた。漆黒の闇が有色の風景へとわずかずつであるが移り変わっていった。光が射してくると辺りがざわめき始めた。坂本の町に降りたときにはすっかり夜明けとなった。
早朝の麓の町を歩いていると、道路脇に正座をして手を合わせ、頭をひれ伏している人にであった。どうも、阿闍梨がここ通っていく時間を事前に知っていたのであろう。阿闍梨は印をむすんで、頭や肩 を数珠でトントンと触れておられた。 「お加持」というものを初めて目にした。
死を覚悟した荒修行した阿闍梨に対して、尊敬の念を持って接する人がおり、そして、阿闍梨がその人見守るような仕草をしているやさしい姿があった。こんな不思議な光景は初めてであった。痛みを訴えるわが子に、お母さんがそっと子供の痛むところに手を当てる。すると、なぜか治ってしまうようであった。
日吉大社を経て滋賀院門跡へ。最後は無動寺谷を一気に登り、明王堂へ向かうことになった。阿闍梨より、立ち休憩してもよいが、座り込むと心が折れてしまうので、座って休憩してはいけないこと。現在、修行中の行者さんには、道をあけるようにと注意がされた。
坂本から明王堂までの最後の急登が続いた。途中で、念仏を唱えながら「あっ」という間に行者は追い越して行った。
小僧さんの「おかえりなさいませっ」の声を聞いて8時明王堂に到着した。
私にとっては、精魂を尽き果てた後にしか、訪れない爽快感に満ち溢れていた。「一日一生」とは、生かされた命を懸命に生き抜くことかなーと、自分なりの悟りができたようだ。
疲れていたが、”行”中の写真は撮ってはいけないので、昨夜訪ねた「東塔」「西塔」「横川の様子を写真に収めるため、シャトルバスに乗り込んだ。
ひとつ気がかりなこととして、呼吸を整えることは修行の基本とおっしゃっていた。数息観とは、呼吸を勘定して心を虚無にして集中力を高めることを学んだ。確かに、自分の呼吸を勘定していれば、雑念もなしに”行”を進められるようだが、もう少し詳しく聴きたいと思っている。
酒井さんは言います。千日回峰では、1日はいた草履は、その日で終わりです(はきつぶしてしまうため)。明日は明日の草履をはいて、また歩きます。回峰行は毎日まいにち、同じ道を繰り返し歩きます。次第に酒井さんは気付いたそうです。
つまり、一日歩いて草履を脱いだら今日の自分はもう今日でおしまい。クヨクヨ考えたり、イライラしたりしても、明日また新しい草履をはけば、新しい自分もはじまる。
古された草履がぶら下がった無動寺谷大乗院(親鸞上人修行の跡地)
この言葉を実感するため、 光永圓道阿闍梨が先達する三塔巡拝(毎日新聞旅行の主催2013/4/20)の一日千日回峰行に参加した。
久しぶりに無動寺谷にやってきた。この場に足を踏み入れると独特の緊張感が漂い、自ずと厳粛な気持ちになっていた。数年前、雪が深々と降る中で、総ての障子が閉められていたが、腹に染み入るような読経が辺りに響き渡っていたことが蘇ってきた。雪が降る比叡山回峰行登山
大乗院で夕方のお勤めをして、17時過ぎに、夕食として、ごはん・ワカメのお吸い物、大根の煮物、もやしのあえ物、そして沢庵の精進料理を頂いた。お膳の横に「食前観」「食後観」と書かれた紙が用意してあった。
最初に阿闍梨がその場を圧するように物凄い音がする拍子木を打ちながら 「吾今幸いに」とおっしゃった後、全員で唱えるのである。私も皆さんに合わせて唱えた。が、ご飯を頂くだけなのに、これから何が始まるのかと思うほど大声であった。
「吾今幸いに(同)仏祖の加護と衆生の恩恵によってこの清き食を受く、つつしんで食の来由をたずねて味の濃淡を問わず、その功徳を念じて品の多少をえらばじ 『いただきます』」
そのあとは、私語もなく静寂に包まれ、もくもくと頂いた。昔、私は、半月以上の長期の山に出かけることもあり、大自然と相手をするときには、粗食が一番。明日の千日回峰を控えての食事を美味しくいただいた。ただ、ご飯を、もう一杯と思っていたのだが、皆さん一膳のご飯を食べ終わると、その器を手に持っておられた。世話をしていただく小僧さんにお茶をもらって沢庵でふき取っておられたので、見よう見まねで作法にしたがった。
全員が食べ終えると次に「食後観」を唱えた。「吾いま此の食を終りて、 心ゆたかに力身に充つ、 願わくば此の身心を捧げて己が業にいそしみ、 誓って四恩に報い奉らん。 『ごちそうさまでした』」
これから、私は”行”が始まるのだなーと実感しながら、場違いな所に来てしまったのではないかと一抹の不安を覚えた。
食後、阿闍梨さんから質問を受けていただく時間が設けられていた。事前に何人もの質問者が割り当てられ、最後に、私の番になった。
座右の銘に「一日一生」と言う言葉をしたい旨を伝えた。光永圓道阿闍梨はどのように解釈されているのかと問うてみた。
光永圓道阿闍梨少し考えてから「この言葉を言い出されたのは酒井大阿闍梨さんですね。明日、三塔巡拝の千日回峰行を辿るのですが、「東塔」「西塔」「横川」を辿っていきます。東塔の薬師如来様は現在、西塔の釈迦如来様は過去を表し、過去を反省しながら歩いてください。横川の聖観音菩薩様は未来を守られているので、未来に向かって歩いてください。そして、無動寺谷に戻ってくればそれで一日です。その積み重ねが一生です」
18時半には就寝となった。山小屋でも、暗くなれば寝る。何の違和感なく眠りについた。
出発時の無動堂谷の明王堂
0時起床。野外はしとしとと止むことがない冷たい雨が降りしきっていた。法曼院(ほうまんいん)で、おにぎりとお茶を頂き、雨具を着用して明王堂前に集合した。白装束に頭にはまだ開いていない蓮の華をかたどった笠をかぶり、草鞋ばきといういでたちで、阿闍梨がさっそうとあらわれた。昨夜、「若くてイケメン」と女性参加者が言っていたことを思い出した。阿闍梨が般若心経を唱えると、参加者のほとんどの人が後に続けて、一斉にお経を空で唱和した。どうも私だけが知らなかったようだ。後で聞いてみると皆さん何回も参加されているつわもの達であることを、今更知ることになった。
道路わきに待機していた小僧さんに「いってらっしゃいませっ」と大きな声に送られた。思わず励まされ、元気をもらった。しとしと降る冷たい雨の中、阿闍梨を先頭にした一行20名は、真っ暗の中、約七里半の道程を朝まで、夜道を黙々と進んでいった。東塔~西塔~横川の順に歩くのだが、闇の中どこをどう歩いたかほとんどわからなかった。
この間無論、私語は厳禁、限りなく静かな暗闇が支配する空間であった。
闇の中から、聞こえてくるのは、阿闍梨が突く杖の乾いた音が辺りに響いていた。ところどころで、石仏や祠に立ち寄っては柏手(かしわで)をパンパンと2回打つ音が樹幹にこだました。そして、般若心経を唱える遠くまで響く野太い声が終わるや、数珠の「じゃりっ」とした音は、闇夜を切り裂くように響いた。”行”から生じる音以外は、雨音であった。体験しなければ味わえない神秘に満ちた格別の世界に導かれた。
夜中の3時ごろ、横高山(767m)近くにある「玉体杉」(ぎょくたい すぎ)というところにやってきた。今までは見晴らしの悪い山野を駆け巡ってきたが、ここから眼下に仄かに明るくなった京都の街が見下ろされ閉塞感が解き放たれた。京都御所に向かって祈祷を始められた。鎮護国家、天皇の安穏つまり国家の平和を祈るらしい。千日回峰の行では、誰もいない夜中にこの場所から、祈っていたとは、なおさら驚きであった。
ここは、回峯行者が唯一腰を下ろして、休むことが出来るところでもあった。蓮台石が置かれていた。一言、京都御所からもこの「玉体杉」の杉が見えるとおっしゃっていた。ここは心休まるところであった。
横川にやってきた。比叡山の北端に位置し、叡山三塔のうちでも一番奥まっているので、より一層閑寂の地であった。 夜中3時半ごろであったが、本堂に明かりがつき、読経が漏れ聞こえていた。元三大師堂の住職のお勤めは厳しいところで、夜中から始めなければ一日でお勤めができないほど、膨大なお経を読みつづけなければならない。その厳格さを表して比叡山三大地獄行のひとつ「看経地獄」と呼ばれていると阿闍梨は説明されていた。元三大師堂で小休止しをとり、日吉大社へとむかった。横川の元三大師堂を出て少し行ったところで、鐘がつかれ、目が覚めた。
千日回峯の行者が駆け抜けていった八王寺山・三石岳王子山(381m)、三石岳(675.7m)
ただただ、歩いていると意外にも時間がたつのは早いものである。東の空がうっすらと白み始めていた。鳥が鳴けば、天気になるのであろうか、鳥のさえずるのが聞こえてきた。漆黒の闇が有色の風景へとわずかずつであるが移り変わっていった。光が射してくると辺りがざわめき始めた。坂本の町に降りたときにはすっかり夜明けとなった。
早朝の麓の町を歩いていると、道路脇に正座をして手を合わせ、頭をひれ伏している人にであった。どうも、阿闍梨がここ通っていく時間を事前に知っていたのであろう。阿闍梨は印をむすんで、頭や肩 を数珠でトントンと触れておられた。 「お加持」というものを初めて目にした。
死を覚悟した荒修行した阿闍梨に対して、尊敬の念を持って接する人がおり、そして、阿闍梨がその人見守るような仕草をしているやさしい姿があった。こんな不思議な光景は初めてであった。痛みを訴えるわが子に、お母さんがそっと子供の痛むところに手を当てる。すると、なぜか治ってしまうようであった。
日吉大社を経て滋賀院門跡へ。最後は無動寺谷を一気に登り、明王堂へ向かうことになった。阿闍梨より、立ち休憩してもよいが、座り込むと心が折れてしまうので、座って休憩してはいけないこと。現在、修行中の行者さんには、道をあけるようにと注意がされた。
坂本から明王堂までの最後の急登が続いた。途中で、念仏を唱えながら「あっ」という間に行者は追い越して行った。
小僧さんの「おかえりなさいませっ」の声を聞いて8時明王堂に到着した。
私にとっては、精魂を尽き果てた後にしか、訪れない爽快感に満ち溢れていた。「一日一生」とは、生かされた命を懸命に生き抜くことかなーと、自分なりの悟りができたようだ。
疲れていたが、”行”中の写真は撮ってはいけないので、昨夜訪ねた「東塔」「西塔」「横川の様子を写真に収めるため、シャトルバスに乗り込んだ。
「あっ」という間に追い越して行った現在修行中の行者
お世話になった光永圓道阿闍梨
東塔の根本中道
西塔
比叡山の北端に位置する横川の元三大師堂
坂本ケーブル付近から昨日とはまるで違う琵琶湖を一望
ひとつ気がかりなこととして、呼吸を整えることは修行の基本とおっしゃっていた。数息観とは、呼吸を勘定して心を虚無にして集中力を高めることを学んだ。確かに、自分の呼吸を勘定していれば、雑念もなしに”行”を進められるようだが、もう少し詳しく聴きたいと思っている。
四つ葉のクローバーが教えてくれたこと
水位の低下が紡ぐ琵琶湖の幻の道
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40年に一度の花が咲いた/水生植物公園みずの森
ウツギの魅力と思い出/花緑公園にて
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