2011年04月28日    朝鮮人街道道標探し№1(野洲駅~近江八幡駅)

  朝鮮人街道は、様々な呼び方がされてきた。このことが以前から何となく気にかかっていた。そこで、中山道との分岐点がある野洲市行畑から彦根市鳥居本付近の中山道の合流点まで、距離にして約41kmを歩き、道標を尋ねてみることにした。
 鉄道が出来る以前では、人の流れは街道であり、人、物、そして文化も運んでいった。街道には、行き先・方向・・距離などを記した道標が建てられ、旅人達にとっての案内人であった。今や、無用の長物になり下がり、路傍の傍らに追いやられたり、捨てられたりされ、残り少なくなった。

 野洲市行畑の三叉路には、右側が中山道で、左側が朝鮮人街道と記された表示板だけで、道標はこの場所にはなかった。
 この分岐点は、中山道の守山宿と武佐宿の「間の宿」としての地理的位置にあり、現在では「行畑」と言われているが、明治12年以前では行合村であった。「行合」と言う文字は、「ゆきあい」と読んで字のごとく「出あう」、また異なる方向から進んで来たものが「交差する」と言う意味がある。ここには多くの旅人が往来していたことから名づけられたのであろう。街道通行人が行き交い活気があるところと想像される。
 
朝鮮人街道道標探し№1(野洲駅~近江八幡駅)
 
 野洲市行畑蓮照寺境内の道標「右 中山道」「左 八まんみち」。写真№1 
 以前は中山道と朝鮮人街道の三叉路にあたるところに道標があったが、現在少し離れた蓮照寺にその役目を終え、歴史的遺産物として大切に保存されている。蓮照寺の奥さんは、「太平洋戦争の頃、折れていた道標が運ばれてきた」と語られていた。製作は享保四年(1719年)。この朝鮮人街道は、今までの田舎道を繋ぎ合わせたものと言われているが、わが道を勝手気ままに「八まんみち」との愛称で呼んでいたことが分かった。

 話が少しずれるが、明治24年(1891年)に東海道野洲駅の営業が開始された。その次の年に測量された「行畑」周辺の地図では、中山道・朝鮮人街道沿いに集落があるだけで、従来通りの街道がまだ主役であった。

 汽車の試運転が行われときは大変だったようだ。この蓮照寺で法要が行われた時、予告なしに試運転列車が黒煙を吐いて走ってきた。当時、本堂から汽車道まで田畑でなんの障害もなく手にとる様に見渡せた。全員が本堂の北の縁側に鈴なりになって歓声をあげ、本堂のおつとめは一時中断したと言い伝えられている。年月が経ち、交通手段が鉄道・自動車道路へと換わり、街道が衰退していった。

朝鮮人街道道標探し№1(野洲駅~近江八幡駅) 朝鮮人街道は、祇王井(ぎおうい)川沿いを進み、野洲駅を通り越し、久野部の陸橋を越えてJR線ぞいを進むと、松林の名残を留める松の木が一本あったが、数年前枯れてしまった。

 富波乙・富波甲・永原の集落を通過していくと、永原の外れには、常夜燈があった。ここからは、小南まで両側には桜並木のある街道となった。この辺りは、道標もなく田園地帯であった。
朝鮮人街道道標探し№1(野洲駅~近江八幡駅) やがて、大きく曲がりながら日野川の土手から仁保橋に至った。

 新しく付け替えられた仁保橋の欄干には「朝鮮通信使行列絵巻」と「琵琶湖図」が取り付けられていた。
 
 通信使を迎える周辺の村々は、最高のもてなしを提供するとともに、街道を整備するという重要な役割を担っていた。当時は通信使の往来のたびに川幅50m の日野川に、土の仮橋を設置していた。工事は「川元村」(江頭・十王村)と「仁保川橋掛組合」とよばれる小南を始として11ケ村が協力して土橋を架けたと表示板があった。この辺りの村人は、通信使が来るたびにかりだされたのであろう。

 仁保橋を渡り、堤防を左に下りていくと、ひっそりとしているが色んな店屋が揃っている町並みに入っていった。十王町・江頭・田中江を通り、加茂町と通じていた。県道が出来る前には、この通がバス・自動車も走っていた繁華街であった。かつて、江頭は湊があって、この交通の要所で物資の往来は盛んだったようだ。この街道には、真新しいが400年記念として2006年「朝鮮人街道」写真№2の道標が建てられていた。この界隈に同様の道標が2本あった。
朝鮮人街道道標探し№1(野洲駅~近江八幡駅) 旧道はやがて加茂町となり、県道と合流するが、再び、旧道を辿った。

 加茂町辺りから琵琶湖側を望むとこんもりとした山が二つ横たわっていた。長命寺山(333m)と少し奥に小高い山が奥島山(425m)であり、この山並みの全体の総称も奥島山と呼ばれている。この上ない上品さが漂う山並みである。このような風景は、いくら時代を遡っても、今と昔でそれほど変わらないであろう。余りにも、のどかな景色であったので、写真に切り取っておいた。
 
 白鳥川の歩道専用のある小船木橋を渡って、交差点の先で左折し旧道に入り、八幡城下へ向かった。そのまま真っ直ぐに進めば、土田から音羽へ通じている。八幡城が出来る以前の道である。

 小舟木町道標 「長命寺一里」「左 京みち」。写真№3。 この道標は、小舟木町観音山ふもとのL字型の曲がり角にあった。 近江八幡では朝鮮人街道を「京みち」「京街道」と呼ばれていた。「長命寺」は琵琶湖湖畔上にある西国三十三ケ所霊場第31番の長命寺のこと。

 1587年豊臣秀次は八幡城を築いた。町は碁盤状に区画され、図書館のある新町通・魚屋通・為心通・仲屋通と永原通を南下し山岸鶏肉店を東に向かい縄手通を南下。
 近江八幡市街地をこの朝鮮人街道を通るには一回では通過することは中々難しい。小生、近江八幡市一帯には、4~5回訪れている。この八幡は、中山道・朝鮮人街道を始として琵琶湖と内陸部を結ぶ街道などが行き交うところで、しばしば「八まん」と彫られた道標が多く見られた。遠くは八日市市清水の栄町通りにある後代参街道・八風街道の交差点に「八まん」の名前があった。このように八幡は、主要な街道中山道、東海道からはずれていたが、この辺りでは大きな影響を持っていた。また、「八まん」は「長命寺」とセットにした呼び方の道標もみられ、巡礼道とした役目も持っていたようだ。

朝鮮人街道道標探し№1(野洲駅~近江八幡駅)朝鮮人街道は旧市街地の中央を東西に走っており、碁盤状に区画されたところでは「京みち」写真№4「京街道」写真№5「朝鮮人街道」写真№6と刻まれた道標が見られた。寺恩寺町近くで非常に古く判読不明の道標№7があった。

 縄手町を南下して音羽町をぬけると、県道2号線に出くわした。そこには、大きな常夜燈と道標があり、八幡城下の東口にあたるところだ。
「すく 長命寺みち 是より 一里半と十丁」「くわんおん寺道 是より二里」写真№8の道標。くわんおん寺とは観音正寺のこと。

           №1                      №2
朝鮮人街道道標探し№1(野洲駅~近江八幡駅) 朝鮮人街道道標探し№1(野洲駅~近江八幡駅) 
           №3                      №4
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           №5                      №6
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           №7                      №8
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Posted by nonio at 12:05 │Comments( 0 ) 道標
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