
「タムシバは香りがない」と言われがちだが、そうとも限らない。奥美濃の蕎麦粒山でタムシバに近づいたとき、若い花弁からほのかに高貴な香りが漂っていた。どうやら、咲き始めの花だけが香るようなのだ。それ以来、春先のくすんだ雑木林の中で、この花に心を奪われるようになった。
野洲市には、今も豊かな自然が残っている。希望が丘文化公園の北陵、山城から鏡山へ続く尾根の脇に、小規模ながらタムシバが育つ場所がある。私たちの山仲間はそこを「タムシバ山」と仮称していた。地元では「タムシバ100本」とも呼ばれているらしい。友人O氏によると、実際には50~60本ほどの規模だというが、その後、正式に「タムシバ山」と呼ばれるようになった。
以前、山で見かけた白い花を巡り、「あれはタムシバかコブシか」で、ちょっとした議論になったことがある。「こんな山奥に咲くんだからタムシバだよ」とTさんが言い、みんなうなずいたものの、「どちらに葉がつくか」で話が再燃した。
Tさんが携帯の植物図鑑を確認し、「タムシバは花のすぐそばに葉が一枚つく」と言い出した。しかし、花は高い位置にあり、確かめようがない。目の良いKさんが「葉がついているように見える」と言ったことで、一応「タムシバだね」とまとまった。誰かが「山桜と同じで、花と葉は一緒に出るものだ」と説明を加えたりもした。
ところがOさんが「うちの庭のコブシにも葉っぱがある」と言い出し、また混乱が生じた。私は内心、「タムシバには葉がある場合も、ない場合もあるし、両方あるかもしれない」と思ったが、言葉にはできなかった。まるで、観察するまで状態が定まらない“もつれ”のようなものだ。
結局、森林センターに着いたとき、偶然見つけたコブシの木に「花元に一枚の葉」と書かれた札があり、ようやく全員が納得した。あの時の白い花は、私たちがそれを正確に観察するまでは、タムシバでもありコブシでもあるような、曖昧な存在だったのかもしれない。
まるで「シュレーディンガーの猫」だ。観察するまで正体は不確定で、見た瞬間にひとつに決まる。私たちは、そんな“もつれた量子の世界”に足を踏み入れていたのだ。誰かが言っていた。「神はサイコロを振らない」と——本当にそうだろうか。


