2011年06月22日    朝鮮人街道道標探し№3(能登川駅~鳥居本)

  前回は、近江八幡駅から能登川駅間に於ける朝鮮人街道の道標探しをした。引き続き、能登川駅から最終到達点、近江鉄道鳥居本まで歩くことにした。
 
朝鮮人街道道標探し№1(野洲駅~近江八幡駅)
朝鮮人街道道標探し№2(近江八幡駅~能登川駅)

 能登川駅の元町通を北に進み天神社を通り過ぎ、「垣見」の踏み切りを渡ると県道に出た。ここから、荒神山に向かって真っ直ぐな街道になった。朝鮮人街道にしては、珍しい。目印になる道標も無く、眼の前にあるのは、なだらかな山容をした荒神山だけ。歩くものにとっては、茫洋と広がっている水田だけで、単調な風景に退屈するところだ。 

 この山は、琵琶湖から少し奥まったところにある独立した山塊である。山頂にある荒神山神社が、かまどの神様として崇拝され、五穀豊穣、無病息災が祈られ多くの人達に親しまれてきた。近年は県立荒神山少年自然の家などがつくられ自然に触れ、スポーツを楽しむ場として親しまれている。また、荒神山の山頂には、テレビ中継放送所が設置されていた。 荒神山(彦根)を散策

朝鮮人街道道標探し№3(能登川駅~鳥居本)

朝鮮人街道道標探し№3(能登川駅~鳥居本) 真っ直ぐに延びた県道は、彦根消防署南分署を少し進んだところから、給水用貯水槽と思われるタンクが見える正面の山を避けるように、右に大きくカーブしている。朝鮮人街道は、ここで県道と別れて山崎集落へと続いている。

 かって、この山崎のあたりは「山崎御茶屋」と呼ばれ、通信使が休憩したと伝えられている。この集落に入った途端、「ほっこり」とした和んだ空気が漂い、そのまま通過してしまうのが勿体無いような気分になるところだ。茅葺き屋根があったり・屋根の上に煙出しがあったり、白い土蔵があったり、古きよき時代の面影が残り、ここだけ、時間軸がゆっくりしているようだ。
 道標も大切に扱われていた。左側の角に「従是荒神道八丁」、左脇に「奥山寺」と刻まれた大きな道標(208X33.5X33.5cm)が建っていた。更にすすむと、山崎と清崎の境と参道入口に「従是荒神道八町」「寛政六戌壬歳三月」の大きな石柱が建っていた。この道に入っていくと、荒神山神社へ通じていた。

 朝鮮人街道道標探し№3(能登川駅~鳥居本) 荒神山の東麓を左に回り込むように進むと、宇曽川の堤防に出た。堤防脇の道を歩き、天満橋にでると山際に「左 八まん道」 「右 千手寺」と書かれた道標が建っていた ここでも京都方面に向かって、行き先は「八まん」と呼ばれていた。千手寺は荒神山の東北の山腹にあり、行基が開いたと言われている。
 右に折れて天満橋を渡り、再び県道と合流した。街道は日夏の家並みを通りぬけた。宇曽川に架かる天満橋を渡ると、その先には須越川に架かる横川橋があった。 朝鮮人街道はこの橋を渡り、三叉路で県道2号線に入り、左折して進むと日夏町中沢交差点に出た。甘呂町に入り彦根へと向かった。 このあたりは、朝鮮人街道はかなり入り組んでおり、案内板・道標もなく行き先を間違いやすいところである。最近、やっと地形的な理解が深まり、ここを通りぬけ、名水のある「十王村の水」宇尾町へ難無くいけるようになった。
 
朝鮮人街道道標探し№3(能登川駅~鳥居本) 「朝鮮人街道」と彫られた道標は、何本もあった。この中で、彦根市芹川の樹齢400年のケヤキ並木の芹橋のたもとに見つけた道標には、「人」の字が除かれ「朝鮮街道」と彫られていた。朝鮮人と言う言葉に含まれた蔑視のニュアンスを避けたようだ。

 昔から韓国・朝鮮は、文化のふるさとであったが、豊臣秀吉の無謀な朝鮮への侵略、さらに大日本帝国によって殖民地支配など複雑な過去をもっていた。1990年に日本を訪れた盧泰愚(ノ・テウ)元大統領が宮中晩餐会で、朝鮮通信使の話の中で、雨森芳洲のことに触れ、「現代の韓国で最も賞賛されている日本人の一人である」と称えたという話が残っている。やっと日本と韓国が共に二国間の歴史を語られるようになって、はじめて「朝鮮人街道」と彫られた道標が建てられたようだ。

 彦根市内は、久左の辻から中央町を通り、左側の彦根城を見遣って、絹屋から鳥居本へ目指した。夢京橋キャッスルロードなどには、観光用の道標が建てられてあるが、小生が探し求めているものでないので割愛した。
朝鮮人街道道標探し№3(能登川駅~鳥居本) 国道8号線の佐和山トンネルを通り、出て直ぐのところを国道8号線と分かれて、右に入っていった。道なりに進んでいくと、町並みが現われ、右側の角に石造道標があった。ここが、中山道との合流点の鳥居本で、朝鮮人街道約41kmの道程の終点だ。

 道標は「どうどう」とした書体で「右彦根道 左中山道」と彫られていた。文政十年(1827年)に建立され、彦文根蕃主井伊直弼が城下町と中山道を結ぶため建設したものである。この道標、昨年から縁があって4回目になる。この日は、にわか雨にたたられ、道標の先端部が雨にぬれて一層貫禄が増したように思われた。 
 この道標も折損事故を受けており、付け根のところが痛々しい。末永く建っていること願って、その場を去った。

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朝鮮人街道の歴史的背景
天正5年(1577年)織田信長は脇(浜)街道(後に朝鮮人街道と呼ばれる)をひらいた。安土城築城後、「安土山下掟書」をくだし、通行商人に中山道の素通りを禁じ、安土に寄宿するように命じ、この街道を通行させたことで大いに利用されたと言われている。また、関ヶ原の戦いで勝利をおさめた徳川家康が京都上洛時に用い、天下支配の吉道としたことが知られている。
朝鮮人街道の名がついたのは、朝鮮通信使が通ってからである。豊臣秀吉が無謀にも朝鮮を侵略以後断絶が続いていた。その後、徳川家康は朝鮮へ幾度となく使者を送り、国交の回復に努めた。その結果、寛永以降、朝鮮国より国王の親書をもって、徳川家の慶事や将軍の代替り毎に来日した際、通った街道である。



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Posted by nonio at 08:44 │Comments( 0 ) 道標
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