2010年01月03日    安土ウォーキング(安土城)

安土ウォーキング(安土城)
地図 安土ウォーキング

 JR「滋賀を歩こう」の安土には、2ツのコースが用意されている。今回は、安土城を中心に散策することにした。前回は、安土ウォーキング(桑實寺・観音正寺)
 この安土の駅は、何時来ても風情のあるところだ。1番の乗場が上り本線、3番乗場が下り本線となっており、跨線橋(こせんきょう)で連絡されている。この橋は、昔懐かしい木製の窓枠がはめられており、鉄道マニアが訪れる駅でもある。安土ウォーキング(安土城)

 織田信長の銅像のある広場に出てみると、町そのものは物静かで平静さを装っていた。だが、近江八幡市と安土町の合併問題で、町中大騒動の最中である。安土の名前が、合併によって無くなることに懸念を抱いた住民団体「急ぐな合併・守ろう安土みんなの会」が立ちあがって、出直し町長選、更に議会のリコール運動まで発展させていた。前町長リコール署名の時に迫る数が集まり、議会解散に対する合併反対派のうねりはいまだ衰えていない。行き先が混沌として心配だ。

 この問題はさて置き、今日向かうところは、JR駅から始まるハイキング夏コースで昨年秋・今春に続いて第1位にあげられた人気コースである。JR「滋賀を歩こう」には色々辿ってきた。今まで余り人に会わないが、今日は違っていた。
安土ウォーキング(安土城) まず、セミナリヨ跡に向かった。住宅街の入り組んだ路地内にあるので、見過ごしがちになるが、下豊浦集落の外れの小さな史跡公園を探し当てた。 
イタリア人宣教師オルガンチノによって創建された日本初最初のキリシタン神学校伝承地である。

 織田信長は宇宙や地理など西洋科学に関心を持っていたのであろう。安土城下で教会や神学校(セミナリヨ)の建設を許している。そして信長がじきじき見学に訪れている。神学校が完成し、校舎からオルガンの音色が流れだすと、信長はひかれるように再び訪れたと言われている。

 ところで、信長のキリシタンへの肩入れとは逆に、宿敵朝倉の兵をかくまった比叡山延暦寺を攻略し、僧侶を含め3000~4000人を虐殺した後、焼き討ちなど、日本史上類例のない大量殺教を行っている。仏教勢力への弾圧をした信長が、なぜキリスト教を許したのか理解できないまま、安土山へと向かった。

安土ウォーキング(安土城) 百々橋(どどばし)にやってきた。欄干には昭和31年と刻まれている古びた橋である。この道は、信長時代にもっとも利用されていた「百々橋(どどばし)口道」の入口である。階段の登り口に「安土城跡の入山は出来ません」との表示があったので、安土山の麓を歩いて大手道まで行った。

 休日であり、何台もの観光バスが乗りつけ、にぎわいをみせていた。ひとつひとつのグループには、ガイドが付き添い、案内しながら説明をしていた。所々でそれらの団体に潜り込んでは、「安土城の解説・由来」を聞くことができ大いに参考になった。

 今までは、草が生えた広場に自動車を停め、安土山の入山も自由であった。最近では歴史ブームにあやかり多くの観光客に親しまれるようになり、訪ねる人も多くなったのか、入山料.大人500円 子供(小学生、中学生)100円を徴収するようになった。
敷地は摠見寺の個人の所有らしいから、入山有料なのは仕方ない。ただ、駐車場500円という便乗はどうも…。

安土ウォーキング(安土城) 受付で、安土城跡順路図のパンフレットをもらって大手道を辿っていった。いきなりの石段が一直線に上方に伸びていた。
 前々からこの階段には何か違和感があった。
よくよく考えると大阪城、姫路城の城内の道は、いたる所で折れ曲がり、幅員を狭くしたりして、敵の防御に備えて複雑なつくりになっていることに気づいた。

 あるグループの一員のような顔をしてガイドさんに、この質問をぶつけてみると丁寧な返答をしてくれた。「この大手道は、天皇が来たときとか、公家など重要な貴人を迎えいれるための道です」続けて「この道の両側には石垣が築かれ家臣の郭(くるわ)が配置されていました。左右に羽柴秀吉、前田利家の邸があります。信長から信頼を得た家臣に屋敷をあたえたものです。
 この道は象徴威風とした『見せる道』なのです」。
「そうなですか」と相槌をして「では、普段使われていた道は」と聞くと、ガイドさんは「百々橋口道です。百々橋は安土山の西側の山麓にある水路にかかる橋で、安土の城下町と繋がっておりました。家臣らはこの橋を渡って摠見寺(そうけんじ)を通って城内に招かれていた」と説明された。

更に「安土城に入城する道は4ツあります。人目にとまらない『搦手(からめて)道』、『七曲がり道』があります。ただし立ち入り禁止です」と言っていた。 【続き読む①(どこにあるのか)

 いずれにしても、この石段は幅6m直線部180mの堂々とした道だが、歩きにくい。ほとんど段差がなく歩き易いと思っていると、急に段差が50cm以上にもなり、一歩踏み出すのに苦労するところもあった。やはり隠れたところに防御がされているようだ。 
 登りにくいので、足元を注意していると、一円玉などのお金が置いてあった。よく眺めてみると石仏が埋め込まれていた。ここを登る人は、わからないまま踏みつけていたようだ。尚、お釈迦様の足跡がある仏足石(室町時代)まで石材として扱われていた。やはり、信長は神仏を恐れぬ「無神論者」のように思われた。

安土ウォーキング(安土城) 安土ウォーキング(安土城)
 曲がって急な石段になるところで330段と墨で書かれた表示があり、天主跡まで75段と示されていた。更に登っていくと、西からくる百々橋口道と合流する地点に来た。今回は、摠見寺跡・三重塔に通じる百々橋口道には行かず、天主の方に登っていった。【続き読む②(仏教を弾圧した信長はなぜ摠見寺を建立したのか気になった)

 城の主郭部へは黒金門跡から入るが、突然、安土城内で最も広い、木々に囲まれた広い空間にでた。ここは、本丸跡であった。安土ウォーキング(安土城)
 再び、違ったグループの後ろで立ち聞きをした。
 「東西50メートル、南北34メートルのこの場所に、調査では119個の礎石が見つかっています。かつて本丸御殿がありました。通常、ここが、城主が住まいとするところなのです。ところが、この本丸御殿は、天皇の日常の住まいである清涼殿とよく似ていることから、ここに天皇を住まわせようと信長は考えていたのではないかと言われています。天主は、信長が住み、天皇を見下ろす格好にしょうと考えたようです」と説明をしていた。

 ここに備え付けの表示盤には、信長は、二度安土城への天皇行幸(ぎょうこう)を計画したが実現しなかったと記されていた。つまり、この本丸・大手門にしても信長の独り相撲で、正しく徒労に終わったまぼろしの建造物であったのであろうか。

 本丸跡のすぐ上のところに天守跡があった。安土ウォーキング(安土城)
 大きな礎石が整然と並んでいたが、往時の天守が築かれていたのだが、遺跡だけでは、イメージがわかない。「信長の館」には、原寸大の安土城天主(5・6階)が展示されていたので、早々に下山した。


 




安土ウォーキング(安土城) 道順からして、田園が広がるところに建てられてある「県立安土城考古博物館」によってみた。

 ここには、第1常設展示室では「考古」をテーマに弥生時代、古墳時代の近江。第2常設展示室では、「中世・戦国時代」をテーマに、安土城をはじめとする城郭の変遷が展示されていた。安土城の300分の1スケールの復元模型では周辺の地形もひと目で判るように工夫がされていた。

 ところで、県立安土城考古博物館に来た目的は、同博物館の裏側に「みぎハ京ミチ、ひだりハふしミミち、柳緑花紅」と刻まれている道標を見るために訪れた。この道標は東海道、伏見、奈良に向かう街道の三差路にあった。だが、一旦琵琶湖文化館前に移された。さらに、現在は県立安土城考古博物館に移された貴重な道標である。

 隣の「信長の館」にやってきた。1992年に開催されたスペイン・セビリア万博へ出展され、万博終了後その「天主」を安土町が譲り受けたものだ。天主5階・6階の展示場を観ながら信長はどのような思いで天主を建てたのか考えめぐらした。
安土ウォーキング(安土城) 5階部分の内部には正八角形の「八角の段」と称し、宇宙を形どり、地獄より天国へいたる仏教観を示すらしい。

 この信長の館の内部に表現されたことが事実ならば、無抵抗の坊主さんを殺す残虐の君主でなく、むしろ、仏教にも深い造詣を持ち合わせていたように思えた。


安土ウォーキング(安土城)  6階部分は正方形で、外観は金箔で仕上げられ、内部は黒漆塗りである。「天子南面」する 「四角の段」と言われ、中国故事に基づく、道徳、儒教の思想が描かれていた。一段と奥深い思想の持ち主であったように考えられた。









安土ウォーキング(安土城) 金箔10万枚を使用した外壁、金の鯱をのせた、「金箔の鯱を乗せた大屋根」が取り付けられた天主である。
 
 これがさっき見てきた天主台の遺構に乗っていたのであろう。日常生活をしていた下層部と違って、この場所は、信長にとって真に神聖なところであったことには間違いがない。

 見せる道の大手道、天主と本丸御殿の関係、そして天主5・6階の復元した構築物などから、織田信長は、天皇を越えた絶対的な神となり、天下統一を実現したい願望を込めて安土城の天主を築いたのであろう。少しだけ信長の像に迫れたようだ。

 


 

①搦手(からめて)道・七曲がり道

 早速、ガイドが話していた搦手道・七曲がり道を探すため、貞亨(じょうきょう)古図を調べてみた。近江国蒲生郡安土古城図
 安土山の周辺は、かっては湖水に接する位置にあり、後ろ三方は、琵琶湖の内湖で囲まれ、琵琶湖に半島のように突き出た小山であった。この古図の東側に臺所道が記されていた。腰越峠を北上して永尾と記された辺りだ。どうもこの臺所道が搦手道であると思えた。七曲がり道は記されていないが、反対側の百々橋口道と並ぶようにあるようだ。

 立ち入り禁止地区であったが、後日、安土山の山麓を一周すれば手がかりがあるだろうと思い赴いた。この山は、琵琶湖から数キロ奥まった繖山(きぬかさやま)の支脈にあたる。
 この北腰越峠を越えて北に向かって歩いていった。二つ目の昔入江と考えられる箇所に集落があった。植木を手入れされていた古老に聞くと、「ここらは昭和20年ごろ浅い内湖で、埋め立てられた。21~22年頃入植してきた」と言っていた。やはり、古図通り安土山は湖水に囲まれていたようだ。

 更に山麓に沿って北の方向に歩いていった。中之湖神社の脇から山手に入る道があったので進んで行くと、安土城の鬼門の方向に当たる神社で清掃作業をしている人に出会った。搦手道について尋ねた。「ここは来過ぎている」と言われたので北腰越峠近くまで引返し、古図を観ながら辺りを散策して、搦手道と思われる入口を見つけた。
安土ウォーキング(安土城)
 この道は、少し登っていくと竹やぶで前に進めなくなったが、明らかに本丸跡の北東出入口から台所跡・伝米蔵跡に繋がっているようだ。 ここは、大手道から迂回した城の裏手から城内に向かう道であった。搦手とは、一般に有事の際、領主などはここから城外や外郭へ逃げられるようになっていた道を言うが、台所道と記されていることから生活物資を舟で運びこんでいたのであろう。 

安土ウォーキング(安土城)  次に七曲がり道を見つけるため、安土山の山麓を回っていった。目の前に広がる干拓地は、区画整備も行き届き幾何学的な風景が真にきれいだ。ほぼ百々橋近くまで一周し、頂上が見えるところまで戻ってきた。安土城跡の北西部にあたる。この道は、古図に記されていないので、はっきりとはしないが、写真の中央辺りと思われた。七曲がりの名前からしてジグザグで厳しい道を信長の家臣たちが、頂上を行き来したのであろう。

 ガイドの一言で、搦手道・七曲がり道を探すと言う回り道をしてしまった。その結果、より一層、大手道の意味合いが分かりかけたようだ。脚光を浴びている箇所を訪れるより、むしろ隠れた箇所をたずねる方が、理解が深まるようだ。そして、目的を持って訪れることは、ワクワク感があり、一層楽しい。

②なぜ摠見寺を建立した 

 もうひとつの疑問があった。石仏やお釈迦様の足跡がある仏足石を石材にした信長が、なぜ城内に摠見寺、三重塔などを建立させたのかよく分からない。日を改めて「百々橋道口」に赴いてみた。

 既に摠見寺は焼失しているが、大手道にある摠見寺仮本堂にいけば、何かヒントがあるのかと思い、入場料に、特別拝観の共通券1000円を購入した。
 展示物を見学し、薄暗いところを進んでいくと突然、若い女性が現れた。背丈の低い入り口の茶室に案内された。この部屋には、既に寒くなってきたので火鉢が備えられており、炭がいこっていた。お抹茶を振舞ってもらった。この女性は、近くのお寺の住職の娘。ここにきた主旨を説明し、信長の逸話などを話しながら、ゆっくりと時間を過ごした。信長が愛した吉野(きつの)の話をすると興味を持って聴いてくれた。
 娘に、「せっかく来たので、信長の公像は見ていきなさい」といわれ、案内してもらった。よく見る信長の顔立ちそのものであった。
摠見寺仮本堂のある徳川家康邸跡を出って、百々橋口道へと向かった。 
 西湖が見渡せる摠見寺跡にやってきた。その横には永い間風雨にさらされた三重塔があり、少し下ったところに仁王門があった。

 ここに来る前に摠見寺の文字について調べておいた。「摠」とは、「總」と同じで、総てとか、集めると言う意味がある。「見」とは、物事の見方・考え方と言う意味がある。つまり、考え方を総て集めた寺と言うのであろう。正しく、この寺の成り立ちは、近隣の社寺から多くの建物を移築した寺であった。手当たりしだい各寺の資材を持ち寄り、従来の宗教をバラバラにして再構築したかったのであろうか…。

安土ウォーキング(安土城) 織田信長も西湖を眺めながら思索していたのであろう。
 
 戦国時代、戦ってきたのは、宗教勢力であった。「南無阿弥陀仏」の旗を掲げた本願寺門徒・一向宗門徒の統制に長年手こずり続けた。
浄土真宗の教えは、「本尊である阿弥陀仏を信じ念仏を唱えれる者は、罪人であっても必ず極楽浄土へいける」であった。この教えをないがしろには出来なかった。
 庶民に受け入れられるには、宗教が必要欠くべからざるものと考え、城内に摠見寺を建立することで、人心の掌握を図ろうとしたのではないか。






 




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Posted by nonio at 15:47 │Comments( 1 ) 滋賀を歩く
この記事へのコメント
明けましておめでとうございます。
安土城や考古博物館の写真を見せて頂きながら以前に何度か行った折の事を思い出しました。
その頃は大手道は無かったんですが、確か発掘されたんですね?
何時もながらの解り易い説明ありがとう御座いました。
今年もよろしくお願いします。
Posted by パル at 2010年01月06日 22:28
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