2010年04月21日    第2回目滋賀県中山道(JR醒ヶ井駅~鳥居本駅)

 2008年11月20日柏原~醒井ウォーキングを行った。柏原駅が、滋賀県の中山道の宿場で、最東端に位置すると言う理由で訪れた。この度、2010年3月31日、第2回目滋賀県中山道として前回に引き続いて醒ヶ井から鳥居本まで歩くことにした。
それは、「近江路を歩いた人々」などの著者江竜喜之(よしゆき)氏の「近江の歴史と名所図会」講義を8日に渡って受け、中山道の魅力に取り付かれたからだ。

日付:    2010年3月31日
距離:    9km 12000歩  
コースタイム:JR醒ヶ井駅9:00 番場宿・蓮華寺11:00 北野神社12:00~12:15
        望湖堂13:30 近江鉄道鳥居本駅14:30  

醒井宿・鳥居本宿コース
第2回目滋賀県中山道(JR醒ヶ井駅~鳥居本駅)  前回の終着点JR醒ヶ井駅を出発点として、近江鉄道鳥居本駅を目指した。メンバーは相変わらず野暮ったい男2人。距離もしれているのでゆっくりとした中山道の旅となった。尚、近江鉄道鳥居本駅から電車の待ち時間の関係でJR彦根駅まで歩くことになった。

 JR醒ヶ井駅付近の中山道は国道21号線に占領されているので、国道をたどることになった。自動車を注意しながら進み、程なく中山道の指示板を見遣りながら国道から離れ、河南の集落にはいった。
 途中、丹生川の辺りから、白い山塊の伊吹山が見えた。この山は旅人の目印になると思っていたが、番場宿まで見えず当てにできなかった。

第2回目滋賀県中山道(JR醒ヶ井駅~鳥居本駅) 河南集落は、落ち着いた街道であった。空き家の旧家を利用したのであろう「憩」の看板が吊るされベンチも置かれていたので、我々もここで、一休みした。

 岐蘇路安見絵図によれば、中山道沿いに集落が点在し、河南は牛内村と呼ばれ、続いて樋口村、樽水、門根と集落がならび久禮の一里塚…と中山道が続いているところだ。
 かつて樋口では、立場茶屋があり、饅頭や餡餅が名物だったらしいが、その面影の場所は分からなかった。この辺りは、「清水流れてきよし」と記されたとろだ。家の前には用水が引き込まれ今でも清水が流れていた。いつの間にか樋口の交差点に至り、国道を越して三吉へ進み、やがて広い国道にでた。

 中山道は左折し、名神高速道路の下をくぐると、 久禮の一里塚があった。 遺構は残っていないが、跡地を示す石碑が置かれていた。久禮の一里塚には右側に「とねり木」左側には「榎」が植えられていましたと表示板に書かれていた。

第2回目滋賀県中山道(JR醒ヶ井駅~鳥居本駅)
 この辺りは、右手は山が迫っているが、左手は田畑が広がっていた。山裾を辿っていくと、しだれ桜が咲いていた。桜が咲くと辺りも華やかになるのだが、伊吹山から冷たい風の吹き降ろしがあり、底冷えしていた。 
 乳母車を押したおばさんが、「今日は寒いね。寒いところごくろーさん」とヒトなつっこく話しかけてきた。どう答えたらよいのか戸惑った。家の軒の下で、白いものを練るような作業をしているので、尋ねてみると、”しいたけ”用の菌と答えた。世の中、時代が移り変わっていく中で、ここ山里では、時間がゆっくりと流れ、今も昔と変わらない生活をしているように思えた。

第2回目滋賀県中山道(JR醒ヶ井駅~鳥居本駅) 番場宿にやってきた。昨年11月、番場公民館にて江竜氏から番場宿について講義を受けたところである。

 中山道の宿場について学習した。『「木曽路名所絵図」より醒ヶ井まで30町。長浜より米原まで帰り、これより東山道をたどる。…この宿は山家なれば、農家あるは樵夫(きこり)ありて旅舎も麁(そ)なり…』と変体仮名で書かれていた。

 番場宿と蓮華寺の内容について僅か30~40行を理解するのに30分以上かかった。それも先生の解説を聞いてやっとわかった。例えば、変体仮名の”あ”の仮名文字だけで32文字もある。兎に角やっかいである。同じことを言い表すにも、学があることを示すため違う言葉で言い表し、より難しく書かれてあった。したがって、前後の文脈から変体仮名を類推しながら読む必要があった。

 いずれにしても、この絵図を持って旅した人達のガイドブックに過ぎないが、当時の一般の人々は読めたのである。この語学力には舌を巻く。尚、小生にとって、変体仮名にお目にかかったのは初めてであったのだが、生徒で、変体仮名を操り書けるヒトもいたのには驚きだ。

 天保14年(1843)の「中山道宿村大概帳」により、宿の長さは南北1町10間(127m)と中山道中最短の宿場で、人口808人、家数178軒、本陣1、脇本陣1、旅籠10軒、人馬継立問屋場6ヶ所があり、仲町に本陣、問屋場、高札場などの宿駅の主要施設が集中していたことも分かった。更に「中山道分間延絵図」で各場所の位置まで分かった。
 この100mそこそこの短い距離に、200年ほど前に書かれた「中山道分間延絵図」と見比べながら本陣・問屋、更に蓮華寺などを確認した。結構一致したことから、絵図の重要性も改めて理解できた。

 歌川広重の番場宿には、「一膳めし酒さかな」「いせや」など書いたちょうちんを下げた居酒屋とその前で馬の横で3人が話しこんでいるのんびりとした宿場の様子が描かれていた。
 先生、「奥の軒下に歌川と書かれている」ことを指摘しながら「これは、絵の中に歌川広重自身を売り込んでいるために書き込んでいる」と面白い指摘もあった。当時の描かれた版画・絵図をじっくり眺めると、いろんなことが分かってくる。一から過去を理解する手立てを学ぶことができた。このことは、小生にとって貴重な体験であった。

 第2回目滋賀県中山道(JR醒ヶ井駅~鳥居本駅) 番場宿の手前には街道碑が整備され、その向かいに、明治時代に立てられた「米原 汽車汽船道」の道標があった。琵琶湖の米原港と中山道を結ぶこの米原道は、中山道の貨物を琵琶湖水運に運ぶために産業道路として、切り開かれたものである。
 もともと、米原の湊に行くには、もう少し番場宿に入った法雲寺辺りから道があった。中山道分間延絵図には小さい字で米原村湊道1里程と記されていたが、途中で道が消えていた。
 米原道は歩いたが、絵図に描かれたこの道は一度辿ってみたい。

第2回目滋賀県中山道(JR醒ヶ井駅~鳥居本駅) 西番場公民館近くの北野神社で昼食を食べていたら、地元の親切なおじさんが寄ってきて鎌刃城跡のこと、これから行く小磨針峠の道順を説明してもらった。わざわざ、米原市観光協会の「中山道ぶらり旅 番場宿をゆく」の地図を家まで取に行って手渡された。玄関には、この地図が何枚も重ねてあったことからすると、時折、番場宿を訪ねてくるヒトを案内していたようだ。 

 名神高速道路建設によって小磨針峠は消失していたが、付け替えられた道路を辿っていった。登り切ったところから下っていくと昭和50年の刻銘のある道標があった。ここで言われた通り右手に折れた。畑を通り抜けると、山間部の旧道は磨針峠へと続いていた。
 
第2回目滋賀県中山道(JR醒ヶ井駅~鳥居本駅)  

 街道筋に集落があったが、人気がしない家も見られた。峠付近に来ると、上から声がしたので、横向くとお婆さんが「ここまで来なさい、景色がよいで」と呼び止められた。近江路の名勝望湖堂であった。

 眺めてみたが、中央に無粋な背の高い塔があり、遠くにかすんだ琵琶湖の湖面があった。広重の描いた望湖堂とは、程遠い光景であった。だが、長年この風景を眺めてきた老婆には、「きれいだね」としか言えなかった。

 ここ町から離れた山郷には、現在10軒程度しか住んでいない。お互いに親戚関係で喧嘩もなく、助け合って生活しているなど色々と話かけてきた。平日、ここを訪れヒトは滅多におらず、話し相手もなく、人恋しかったのであろう。
 出会うことがないヒトであったが「では、たっしゃでなー」と再び逢うかのような言葉をかけて、峠を下っていった。
 
 峠を降りきると国道21号線に出た。矢倉川を渡って国道と別れて進んでいくと「おいでやす 彦根市」の標柱が迎えてくれた。大きな石柱の上には昔の旅人の像(薬売り、商人、虚無僧)が乗せてあった。いくてには、松が植えてあり、二階家の屋根は低く、塗り壁、格子造りの家々が並び、中山道の風情があった。

第2回目滋賀県中山道(JR醒ヶ井駅~鳥居本駅)第2回目滋賀県中山道(JR醒ヶ井駅~鳥居本駅) 

 街道が枡形になっているところにやってきた。次の宿場が近いと思った。道路が直角に折り曲げて、敵の侵入を阻むために道を防塞施設という意味合がある。

 街道の折れ曲がる角に面したところに大きな商家があった。「有川製薬」である。この辺りで一際大きい城郭のような建物で、主屋は入り母屋造りで外側から見るだけでも七棟造りになっていた。赤玉神教丸は、その名の通り赤い丸薬で、多賀大社の神教によって調合したといわれその名がつけられた。下痢・腹痛・食傷などに効果があり、街道を旅する人の道中薬として重宝された。

 この近くに、もうひとつの名産合羽を商っていた家があった。「本家 合羽所 木綿屋 嘉右衛門」と記した看板が今でもぶら下がっていた。山中の雨の多い木曽に向かう旅人にとっては、ここで合羽を買い求めたのであろう。ここの合羽が有名になったのは、従来の「こうぞ」を原料にした紙に菜種油を使用していた。新しく柿渋を塗布し保温、防水としての機能を高めたそうである。雨の降りやすい山道を控えている鳥居本宿にふさわしい名物となった。
 古い看板だけが、その頃の華やかな面影を伝えていた。

第2回目滋賀県中山道(JR醒ヶ井駅~鳥居本駅) 最終地点、近江鉄道鳥居本駅にやってきた。東海道新幹線を横目に、「ガチャコン電車」の愛称で親しまれる列車が走るのどかな駅である。駅舎は開業時からのもので、独特の外見を持つ洋風建築。現在、終日無人駅となっていた。
 
 昭和6年、開業当時のままの駅舎は、「鉄道の日」記念行事の一環として選定した日本の近畿地方の特徴ある100の鉄道駅である。「第4回近畿の駅100選」に選定されていた。洋風木造平屋建てで、赤い瓦屋根と高い煙突が印象的であった。

 





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Posted by nonio at 17:30 │Comments( 0 ) 滋賀を歩く
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