2015年06月17日 かつて米原駅周辺は水浸し/旧入江湖・松原湖の縦断
米原駅は 東海道線と北陸線の分岐点。関西へ、東海へそして、北陸へと乗り継ぐ人で構内は賑わっていた。喧騒な駅舎を一歩踏み出すと、寂々として限りなく平坦な大地が広がっていた。辺りを見渡して、雪をかぶった一際大きい伊吹山だけが分かった。ここは自然が豊かなところだが、人手が加わった気配も感じられた。
ここは、一体どういうところだったのか興味をもち、明治24年制作された国土地理院の地図を開けてみた。「米原駅」が(幹線鉄道:関ヶ原駅 - 米原駅 - 大津駅間)が開業した2年後の地形である。
信じがたいが、突っ立っているところは内湖のど真ん中。大きさは、琵琶湖周辺の内湖の中でも大中湖に次ぐ広さがあった。湖が陸地にはいり込んでいる入江みたいな地形なので、入江湖と呼ばれたようだ。琵琶湖との境目は、磯山から伸びた砂州で仕切られていた。
内湖の東端部は米原駅の付近まで広がっていた。江戸時代に遡るが、彦根藩が中山道を経て東国へ物資を輸送するための中継湊とするため、米原湊を開いたものである。この湊まで舟で行けるように舟入堀が設けられていた。つまり、米原駅の東口側まで水面が入り込んでいたのである。
さて、いつ頃陸地化されたのであろうか。
それほど古い時代でない。私が生きている間のことである。食糧増産を目的として干拓化された、昭和19年~25年。
この辺りに何回も訪れて内に、少年時代のころの風景を思い起しながらが、語ってくれた古老にも出会った。
「磯集落から米原へいくには大変だった」、と。
「葦が茂る荒地だったので、道に迷ったことから『まいはら』と呼んでいた」。
もっと古い奈良時代にまで遡って語ってくれた。
「磯集落より北へ3kmに艶っぽい地名である朝妻と言う湊があった。今では面影すら残っていない公園になっているのだが、奈良時代から江戸時代にかけて湖上交通の主な湊として賑わっていた。朝妻千軒と呼ばれる程、賑わい、遊女を乗せた朝妻舟もあった」。
「朝妻湊が米原湊にとって代わってから寂しくなっていった。今では、遊女に関わる鍋冠祭が盛大に行われ、昔の面影を残している」。 「かつて磯の周辺は、人の流れもあり、文化の中心であった」、と誇らしげんに語ってくれた、話しぶりが印象深かった。
このだだっぴろい処に、一本の川が琵琶湖に対して不自然に斜めに流れていた。辿っていくと、昭和19年から57年の間汲み上げていた70㎥/minの大型渦巻きポンプが展示されていた。なぜこのようなものがあるのか、その時、分からなかった。その後、太平洋戦争末期の学徒動員による入江湖干拓事業を題材にした「雪と泥沼」の赤座憲久著に以下の記述があった。
「入江湖の周囲に約7kmにわたる承水溝と言う溝を掘って、水を琵琶湖の方へ流してしまうと、入江湖はそのまま約ヘクタール水田になるというのだ。しかも、そうしてつくった水田は何年もの間肥料をいれなくても稲にはかなり大きな穂がつき、大粒の実がびっしりみのるというのである」
土砂を運び込み埋め立てるのでなく、琵琶湖本湖との間を堤防で仕切り、掘削した溝で水を集めてポンプで汲み上げていた。だから、色んな施設があった。つまり。旧内湖にできた農地は、今なおポンプで排水することにより、農地を確保されているのだ。
かつて入江湖の南端は、左から佐和山の丘陵が、右から磯山が迫り、かろうじて「指合」とよばれている水路で、松原湖とつながっていたようだ。
松原内湖は古く奈良時代から、風光明媚なところで、内湖にはいつも屋形船で舟遊びをする人が多くあった。ヨシ・ガマ・マコモなどが、内湖を埋め尽くし、どこまでが陸地でどこまでが水辺なのか曖昧で境が分からない琵琶湖特有の内湖の風景が広がっていた。そこは、魚の産卵場所となり、自然環境が豊かな場所であった。
戦後、松原内湖も同様に埋め立てられた。彦根市の少し高台に位置している彦根城の天守閣から望むと、井伊家の人々が大事にしていた庭園「玄宮園(げんきゅうえん)」が右眼下にあった。滋賀県立彦根総合運動場や近江高校の敷地にもなっていた。農地以外に、宅地化が進んでいた。
最後に、東海道本線の彦根駅と米原駅間が曲がっている。なぜなら、入江内湖・松原湖を迂回したためである。
遠くに伊吹山が見える寂々寥々とした大地
ここは、一体どういうところだったのか興味をもち、明治24年制作された国土地理院の地図を開けてみた。「米原駅」が(幹線鉄道:関ヶ原駅 - 米原駅 - 大津駅間)が開業した2年後の地形である。
信じがたいが、突っ立っているところは内湖のど真ん中。大きさは、琵琶湖周辺の内湖の中でも大中湖に次ぐ広さがあった。湖が陸地にはいり込んでいる入江みたいな地形なので、入江湖と呼ばれたようだ。琵琶湖との境目は、磯山から伸びた砂州で仕切られていた。
内湖の東端部は米原駅の付近まで広がっていた。江戸時代に遡るが、彦根藩が中山道を経て東国へ物資を輸送するための中継湊とするため、米原湊を開いたものである。この湊まで舟で行けるように舟入堀が設けられていた。つまり、米原駅の東口側まで水面が入り込んでいたのである。
さて、いつ頃陸地化されたのであろうか。
それほど古い時代でない。私が生きている間のことである。食糧増産を目的として干拓化された、昭和19年~25年。
この辺りに何回も訪れて内に、少年時代のころの風景を思い起しながらが、語ってくれた古老にも出会った。
「磯集落から米原へいくには大変だった」、と。
「葦が茂る荒地だったので、道に迷ったことから『まいはら』と呼んでいた」。
もっと古い奈良時代にまで遡って語ってくれた。
「磯集落より北へ3kmに艶っぽい地名である朝妻と言う湊があった。今では面影すら残っていない公園になっているのだが、奈良時代から江戸時代にかけて湖上交通の主な湊として賑わっていた。朝妻千軒と呼ばれる程、賑わい、遊女を乗せた朝妻舟もあった」。
「朝妻湊が米原湊にとって代わってから寂しくなっていった。今では、遊女に関わる鍋冠祭が盛大に行われ、昔の面影を残している」。 「かつて磯の周辺は、人の流れもあり、文化の中心であった」、と誇らしげんに語ってくれた、話しぶりが印象深かった。
このだだっぴろい処に、一本の川が琵琶湖に対して不自然に斜めに流れていた。辿っていくと、昭和19年から57年の間汲み上げていた70㎥/minの大型渦巻きポンプが展示されていた。なぜこのようなものがあるのか、その時、分からなかった。その後、太平洋戦争末期の学徒動員による入江湖干拓事業を題材にした「雪と泥沼」の赤座憲久著に以下の記述があった。
「入江湖の周囲に約7kmにわたる承水溝と言う溝を掘って、水を琵琶湖の方へ流してしまうと、入江湖はそのまま約ヘクタール水田になるというのだ。しかも、そうしてつくった水田は何年もの間肥料をいれなくても稲にはかなり大きな穂がつき、大粒の実がびっしりみのるというのである」
土砂を運び込み埋め立てるのでなく、琵琶湖本湖との間を堤防で仕切り、掘削した溝で水を集めてポンプで汲み上げていた。だから、色んな施設があった。つまり。旧内湖にできた農地は、今なおポンプで排水することにより、農地を確保されているのだ。
かつて入江湖の南端は、左から佐和山の丘陵が、右から磯山が迫り、かろうじて「指合」とよばれている水路で、松原湖とつながっていたようだ。
入江湖と松原湖の繋がり
松原内湖は古く奈良時代から、風光明媚なところで、内湖にはいつも屋形船で舟遊びをする人が多くあった。ヨシ・ガマ・マコモなどが、内湖を埋め尽くし、どこまでが陸地でどこまでが水辺なのか曖昧で境が分からない琵琶湖特有の内湖の風景が広がっていた。そこは、魚の産卵場所となり、自然環境が豊かな場所であった。
戦後、松原内湖も同様に埋め立てられた。彦根市の少し高台に位置している彦根城の天守閣から望むと、井伊家の人々が大事にしていた庭園「玄宮園(げんきゅうえん)」が右眼下にあった。滋賀県立彦根総合運動場や近江高校の敷地にもなっていた。農地以外に、宅地化が進んでいた。
彦根城郭旧観図(鳥瞰図彦根城天守内にて公開)
彦根城の天守閣から望む
辿ったルート
最後に、東海道本線の彦根駅と米原駅間が曲がっている。なぜなら、入江内湖・松原湖を迂回したためである。
四つ葉のクローバーが教えてくれたこと
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