2025年04月26日   雑草の赤紫色の楽園

 日が暮れる頃自動車を運転していると、ある一角から溢れんばかりの「赤味かかった紫色」が飛び込んできた。紫色と言えば、赤の持つ活力や生命力というのか、また青の持つ冷静さや深みの相容れない色調が共鳴しあっている色である。
単なる自然の色彩の中での希少性だからこそ視覚的に目立つというだけでなく、見る者にとって何かを訴えかけてくる色合いである。



 一旦帰宅して、すぐさまカメラを持参して赤紫色を放っているその場に出かけた。あたりが暗くなってきていたが、赤紫の主は何かと近寄ってみると、赤紫色の小さな筒状の花がお互い負けじと数え切れないほど咲き乱れていた。
この花はよく見ると我が畑にも侵入してきている「ホトケノザ」であることが分かった。葉は茎を抱くような形をしており、それが名前の由来にもなっているので、この草の名前をよく覚えていた。 ここでは競争相手もなく、春になると爆発的に増え、一面を赤紫色で染め上げ、楽園を築いていたのだ。

私は、ある一点のホトケノザに焦点を定めシャッターを切った。写真を撮るだけでなく、ここにしばらく佇んでみた。

 この花々が作り出すこの赤紫色は本来は花粉を運ぶミツバチや蝶などを呼び寄せるために進化してきた色だが、その色彩の魅力は昆虫だけでなく、私も呼び込んでいた。昆虫にとってこの色は、蜜のありかを知らせる重要なサインだろう。しかし、私には、それ以上の何かを語りかけてくるようだ。ホトケノザは昆虫以外の生物に興味を持っていたのではないかとの意思さえ感じた。

 ここには面白い関係が生まれていた。植物が昆虫を誘うために作り出した色の信号に、人間も同じように反応している。自然が用意した虫たちへの招待状を、人間も受け取ってしまう構図である。

 人間の感受性もまた、自然の一部として形作られていると考えれば、「植物の色彩への共鳴も不思議ではないのでしょう」と説明されると、誰もが納得するだろう。そうだろうか。
 ミツバチは蜜を求め、ホトケノザは確実に受粉させるために花びらの形状や彩色を進化させてきた。これらは、途方もなく長い時間、何千万年、いや億年にもわたる試行錯誤の中で生み出された色である。単純な話でもない。

 私は、人間も生物と一緒でなく、むしろ、畏敬の念が先行すべきか。
その色彩は、目的達成のための手段でありながらも、本来持つ畏敬すべき存在感を秘めている。人間はその存在を単に「割り込む」のではなく、この壮大な自然の営みに対して謙虚に、そして敬意をもって接するべきだと思う。ただし、こうした問いに答えを定めるのは極めて困難だ。なぜなら、進化が何千万年もの時の中で無数の微細な変化を積み重ねた結果として現れた現象と、私たちが抱く美意識とは、時に全く異なる側面を持っている。

 このように、ホトケノザの鮮やかな赤紫色は、昆虫との共進化という自然の摂理に加え、人間の美意識というフィルターを通して、新たな価値を生み出しているといえるかもしれない。一枚の花の写真から、自然界の巧妙な戦略と、それに対する人間の感性が織りなす、奥深い関係性を垣間見ることができたかもしれない。それは、単なる植物の生存戦略を超えた、自然と人間との間の静かな対話とも言えるかもしれない。