2017年05月26日   黄スミレ群落に出合った近江坂

 
 2017年5月15日花が咲く時期、ビラデスト今津から大御影山に訪ねてみた。この山は、滋賀県高島市と福井県美浜町の県境尾根にある。

 大御影山へ行くには、「能登野」と近江の「酒波(さなみ)」をつなぐ長大な近江坂を詰めなければならない。 なぜかこの道を近江峠とは言わない。なだらかな頂上を持つ大御影山を山越えしていくのだが、上りと下りがはっきりせず、「峠」と言いにくかったのであろう。
 この古道は道程が長いが、歩きやすい。地形を知り尽くした先人達が切り開いたもので、無理せずに高みへと導いてくれる。深く掘れこんだ山道は、多くの人々が通ってきた証である。

 今回ではないが、三重嶽へ向かった時だった、近江坂の伸びやかなさまが、後々まで心に深く刻みこまれた光景だった。写真に収めておいた。
 
三重嶽から眺めた一直線に延びた近江坂


 4月下旬、山仲間が同山へ訪れた時には「残雪が多く、山を通り過ぎる風は、まだ冷たく、梅花黄連、大イワカガミ、イワウチワ、カタクリが沢山咲き、ミヤマカタバミ、イカリソウもひっそりと。石楠花も咲き始めていた」と言っていた。
 今回、我々のグループが訪れた頃になると、残雪も殆ど消え、石楠花が咲き乱れ、大イワカガミ、イワウチワなど百花繚乱。そして、一番驚いたのが、大葉黄スミレの大群落に出合ったことだ。

ビラデスト今津付近の人口林

石楠花が咲き乱れ、緑豊かなブナ林のフォトコラージュ

 7年前の頂上の標示板の柱が腐っていたが、兎に角、健在だった


 ここには、花巡り山行に訪れる人が多いようだ。4月下旬、大御影山には登らず20名ほどで来ていたと言っていた。今回も30名ほどのツアー客に出合った。お目当ては珍しい大葉黄スミレに出会うことだ。

 このスミレは出合うとしても山道の脇に数株程度。

 ところで、少しルートから外れたガレ場に、百~数百いや、とても勘定できないぐらい黄色い花を見つけた。大群落を目の当たりにして、みんな声を失ってしまった。往復4時間かけても、大型写真機を持参して再挑戦してみたい。場所は、大御影山手前の林道に合流する付近だ。
大葉黄スミレの大群落を発見

 



Posted by nonio at 11:53Comments(0)滋賀県の山

2016年05月02日   懐かしい金糞峠/堂満岳

 
 2月末、イン谷から、金糞峠を目指し、堂満岳(標高 1,057 m)を登った。厳冬期だと言うのに、地肌がむき出しだ。

  イン谷で登山届を出し、大山口から青ガレへ。この正面谷では雪崩が発生するところだが、全く気にすることなく、金糞峠へと向かった。さて、この峠、どうして「金」と「糞」の文字を並べたのか、何と読んでいいのか戸惑ってしまう。でも、「くそ」と口に出すのは、はばかられると思われるが、そうでもない。

 「料理が下手くそ」など、接尾語的に「くそ」を付けて話している。また、糞はさまざまな慣用句にも用いられている。糞の役にも立たぬ・糞も味噌も一緒 ・糞を食らえと言い 。むかつく時など、「くそ」と叫んでいる。何気なく否定的な意味に使っており、あまり忌み嫌う言葉でもない。
 
 「糞(くそ)」という漢字は「米」と「異」を重ねたものである。米が別物になることを意味するのであろう。動物が栄養分を取って肛門から排泄する食物の不要物。つまり、糞には「カス」と言う意味が込められている。 
 かつて私は、大型電気炉を扱ってきた。2000℃の高温で鉱石を溶融していた。この時発生する不要物を、鉱滓とかノロとかと言っていた。金糞とは言わなかったが、この文字を見て、なんとなく分かっていた。

 「たたら製鉄では砂鉄を炭で燃やし、溶かしながら、鉄を作った。鉄づくりの過程で鉄の『かす』を金糞と呼んでいたのであろう」。だから、この金糞の地名が言い伝えられ、いつの間にか「かなくそ」と呼ぶようになった。滋賀には金糞岳もある。この山は、伊吹山に次いで県内2番目に高い山である。たたらに関係があるので、付けられた山名である。製鉄は 5 世紀後半ないしは 6 世紀初頭、吉備国とこの近江国の高島町から志賀町にかけて位置する比良山脈山麓に始まったと言われている。

 この峠を「かなくそ」と喋っても、「くそ」そのものをイメージせず、「カス」を連想していれば、なんら違和感は生じない。わがクラブの女性も何のてらいもなく「かなくそ」、「かなくそ」と言っている。

金糞峠


 昭和30年代からは武奈ヶ岳を中心とする比良山地北部の観光開発が始まりだした。武奈ガ岳を目指すには 金糞峠を詰め、八雲ガ原のコースが通常であった。今では廃止された北比良峠山頂駅までの比良ロープウェイすらなかった。

 浜大津から二両編成の江若鉄道に乗り込み比良駅へ。私にとっては初めての本格的な登山であった。
布製の重たいテントを詰め込んだザックは肩に食い込んだ。よたよたと青ガレのガレ場を通過して、最後の急登を登り詰め、金糞峠(880m)にやっとたどり着いた。動くのも億劫な身体を振り向いた時、峠越しに琵琶湖があった。ここまで登ってくれば、前に進まなければと覚悟したことを覚えている。

 翌日、武奈ガ岳から八瀬まで歩き、バスで京都へと抜けていったが、想い出深い記憶がない。なぜか、いまだに、この峠の情景だけが、生き生きとして蘇ってくる。真っ赤に染まった金糞峠から琵琶湖を眺めている自分の姿を俯瞰している自分があった。

 金糞峠は私の登山の出発点、金糞峠の名前はいつまでも心に刻まれた峠であった。

金糞峠に至る最後の急登


 この峠に、「比良の暮雪」の絵図に関する掲示板がある。歌川広重(1797 ~1858)が最晩年に描いたと言う竪判構図絵。
金糞峠から眺めた構図は、U字型の峠を大胆に大きく描き、視線を近景から遠景に誘うように、その先に琵琶湖に浮かぶ島であり、対岸の山々が描かれている。
 
金糞峠に掲示されている説明板


 生憎、琵琶湖まで見通せる写真を撮ることができなかったので、(sprinterbears@yahoo.co.jp)さんの了解を得て、写真を載せた。山登り、写真など この写真と遥か昔の江戸時代に描かれた「比良の暮雪」が驚くほど一致している。この金糞峠が、「比良の暮雪」と言われる所以である。

金糞峠から眺めた光景

 
  歌川広重は比良暮雪として他にも色々描いている。その中で、 横大判 錦絵 保永堂版「比良暮雪」がよく知られている。

 幾重にも支稜が重なり、雪に覆われた迫力ある比良山岳が、美しく画かれている作品である。この絵図は、琵琶湖の湖西の入江を南から見た構図だが、琵琶湖の対岸の守山・野洲から眺めたように紹介されている・・・・・・?

 私には、少し違和感があったので、どこから望んだものだろうかと探っていた。堅田のバスの終点生津の一つ手前の「岡出」辺りから比良山を望んだ時、この構図とよく似た光景があった。 

 歌川広重の風景画は、四季の移ろいの一瞬を切り取り、詩情がそそられる上に、必ず人物を添え、哀愁、・切なさが滲みでいる。私は、出来るだけ、歌川広重が描いたとされている視点に立ち、描かれた絵図を原風景に注ぎ込むようにして、より深い情緒を楽しむようにしている。

 2016.02.21、この日、イン谷には大勢のヘルメットを被った若者が、集結していた。アイスクライミング訓練のために、ハーネスにアイスピック・カラビナ等を装着して早めに出発していった。われわれは一般ルートで登り、第3ルンゼ辺りを覗き込んだが、登攀者は見えなかった。ルンゼには余にも雪が少なく、撤退したのであろう。
堂満岳の第3ルンゼ辺り


 帰路は、堂満岳に登り、東稜道を辿ってイン谷に戻った。







Posted by nonio at 20:47Comments(0)滋賀県の山比良山

2015年12月15日   杉峠の立ち枯れした杉/千草越え

 
  近江から伊勢へ抜ける街道が 「千草越え(ちぐさごえ)」と言われている。甲津畑から、杉峠(1042m)・根平峠を越えて菰野町千種に至る長くて難路の山道である。
 かつて、2ツの峠には茶屋があり、武士、商人、旅人などが往来していた。主に近江商人が利用していたが、戦国の名だたる武将も行き来し、鉱山の採掘も行なわれていた。つまり、千古の歴史に刻まれたロマンに満ち、一攫千金を夢見た街道であった。が、今では、人気もない静寂が支配する自然に戻っている。

 先日、この杉峠を目指した。甲津畑から緩やかに続く藤切谷を登って行った。渋川を離れ、ジグザグの坂道になり、峠に近づいてきたことが感じられた。ずり落ちそうなところを通り抜け、灌木が点在する溝道を辿って行くと、標高が1036mの千種越え最高地点に達した。風の通り道になっているのであろう、県境主稜の山々の谷から吹き上げてくる風が気持ちいい。眼前に、「峠」独特の望洋とした景観が、広がっていた。幾度訪れても、ここに、佇むだけで感慨深い峠のひとつであった。

 ここには、この峠の名前に因んで付けられた大杉があった。風雪に耐えがたく1本が立ち枯れ、もう1本は足もとに朽ちていた。

 ここを通過して行った人々が、この樹を眺め、励みとなり、どれだけ力づけてきたことか。無残な姿は寂しい限りである。かろうじて、そばに若木育っていることが救いであった。

2015年11月30日、杉峠の杉が、2本共枯れていた


 2004年には1本は弱っていたようだが、兎に角健在であった。2009年4月、既に1本は落雷などで立ち枯れていたが、もう1本は主幹が枯れていたが、大きく垂れた枝から元気な葉を付けていた。2012年まだかろうじて1本が生きていたようだが、我々の仲間が2013年5月2本共枯れたことを確認している。 
 

2009年4月、1本は立ち枯れ、もう1本は取りあえず健在


 この杉峠については、「江戸時代の古図に杉が描かれている」との記述を読んだ記憶があったので、この情報から古図を手繰ってみた。

 滋賀県立図書館の「近江デジタル歴史街道」から絵図を丹念に検索した。その結果、滋賀県管下近江国六郡物産図説4/野洲郡・蒲生郡/近江国蒲生郡甲津畑村銅山絵図に杉の絵が描かれていた。  1872 年に滋賀県が作成したものである。

  杉は何も語らないが、ほぼ150年前、既に立派な成木であったように思える。そして、ここに描かれていることからして、ここを通過していく先人達に、特別な思いを抱かせた樹であったことには、間違いがない。この絵図から、この杉に因んで杉峠と言われてきた由縁の証である。

 2本の杉は江戸時代から生き続けてきたのであろう。2013年ごろに命が尽きて朽ちてしまった。

         千種越えの古地図              杉峠の拡大図



参考資料 「近江鈴鹿の鉱山の歴史」著者中島伸男氏、


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Posted by nonio at 22:02Comments(0)樹木

2014年05月01日   東山縦走後花見の海津大崎

 日付       :4月16日
 山名       :東山・海津大崎
 コースタイム   :永原駅 9:15 万路越え 10:30 電波反射板 13:00 東山 13:20 
            別荘地(海津大崎遊歩道) 14:40 マキノ駅 16:00

 東山と言えば、京都と思うだろう。海津の東山と言っても「その山どこにあると」と聞き返されるだけだ。でも、桜で有名な海津大崎と言えば、「日本さくら名所100選」に選ばれており、近畿の桜の盛りが終るころに満開になる。「もう一度花見をしょう」と、大勢の人がドット繰り出してくるところである。 ここに、東山がある。だが、殆どの人は、湖の碧、遠くに望む竹生島の景観に目が奪われ、山側にせりあがっている山に無関心である。むしろ、迫ってくる山は、あまりにも道路を狭くしているので、邪魔だと思っている人が多い。
 
 さて、この山の山名を知るきっかけになったのは、2007年前に遡る。琵琶湖一周に出かけた時、交通の便が悪い琵琶湖北端部の付け根部に位置するところに、二つの出っ張った半島があることを知った。西側が海津の「海津大崎」で、東側が菅浦の「葛篭尾崎」。
 さらに、歩を進めマキノ駅・近江今津駅の中間の近江中庄駅辺りの湖畔から眺めた山並みが、とても印象深く頭に刻み込まれていた。優雅な稜線を持った山裾が琵琶湖へと沈み込んでいた。この時、初めて東山と言う山名を知り、この山を意識し始めた。2010年4月号 「山と渓谷」900号では、この東山が「全国隠れ名山」として紹介され、より詳しく知った。

 私は、地形を理解する場合、地図を調べるより、まず、実際歩くことにより、目にした地形をそのまま脳裏に収めていく。雨であったり、晴れであってもお構いなしに、季節も無論。またその時の体調も含めてありのまま受け入れている。つまり、感性を大切にして生きているようである。
その後、雑多の光景の中から、これはと気に入った光景を引き出してきては、地図を開けては名前を憶える。それをインデックスとしている。しかし、名前は、単なる”見出し”なので、いつまでたっても、それほど重要視していない。

マキノ駅と近江今津駅の中間あたりにある近江中庄駅の湖畔から眺めた東山の稜線


 東山の水際まで下山して、「海津大崎」の花見をしょうと言う「古道と桜の園をつなぐ湖の半島の尾根を歩く」計画に参加した。今年の海津大崎の桜は5日に開花し、11日満開となり、20日ごろまで見どころである。そこで、16日花見山行となった。 
 永原駅のコーナーには花見の観光客が詰めかけていたが、我々と同じように粋な花見をおこなう人は、我々パーティとその他2連れ夫婦の二組だけであった。 「山と渓谷」で紹介された割には、このコースを辿る人が少なく、まだまだ、隠れスポットである。
 長閑な田園帯を通り抜け、獣防止柵の扉を開けて林道に入り、万路峠に通じる古道に導かれて進んでいった。

永原駅から長閑な田園帯を通過し背後の山並みを目指す
 
しっかり整備された植林帯に付けられた林道

 
 杉の植林に囲まれた薄暗い古道をゆっくりとした坂道を登りきると、地蔵堂にお地蔵さんが祀られていた。地元小荒路村の人達によって赤い布が付けられ、お堂には平成10年再建と記されていた。また、この峠の通称名は、万路峠と書かれているのだが、設置されている標識には万治峠となっていた。

 小荒路から万路峠を越えて大浦へ抜ける「万路越え」と呼ばれる古道は、湖西と湖北を結ぶ生活道とし重要な道筋であった。でも、高島市マキノ町海津の湖岸の道が、昭和10年から昭和11年にかけてトンネルが掘られ、開通後、万路峠も役目が終ってしまった。  滋賀県には琵琶湖を中心として山に囲まれ、地形的に峠が多く見受けられる。古くから往来してきた峠には、その土地の歴史であり、文化が詰まり、その地域の人柄まで反映しているように思えるので、古い峠に訪れるのが楽しみにしていた。
ここにやってきて分かったのだが、峠の西直下まで林道がつくられ、地蔵堂の後ろには、大木の残骸もみられ、昔日の峠らしい風情は無くなっていたのが残念であった。

 
その昔湖西と湖北を結ぶ万路峠



  万路峠から半島を南北に500m前後の尾根伝いに、進んだ。送電線を越えていくと、尾根道の幅が広くなり、踏み跡が細くなり、遂に進むべき方向を見失った。この辺りに黄色と黒のテープがあちこちに巻かれていた。多分迷いやすい個所のようであった。皆で手分けしてルート探しだし、峰山(532m)にたどり着いた。 主稜線を外さなければ問題がないようだが、この辺りあちらこちらに踏み跡がある。仲間のN氏は、ここに足を踏み入れたのは4回目であるが、何れも迷ってしまったと言っていた。ここは、西側を辿る方がよさそう。

 唯一迷ったところ

 
 植林と灌木が入り混じった尾根道を伝っていった。森林帯を抜けると、 電波反射板のある見晴らしのよい広尾根に出た。 ここまで、木々に邪魔されて琵琶湖すら見えなかったが、ここに来て初めて視界が開け、竹生島が見えた。山の上から、多少靄がかかっていたが、美しい姿を浮かべていた。
 峰山付近には、木の幹に鋭い爪痕が何か所もあった。熊が搔いたものだ。ここはカモシカ・猪など野生動物が生息域する領域であることを改めて分かった。ここには、手つかずの自然がそのまま残されていた。
        植林帯                              樹木越しに東山       

             電波反射板                      熊が掻いた爪痕
 


 
唯一視界が開け竹生島を眺望


  この稜線の最高点東山(594.8m)の山頂を踏んで、下山にかかった。湖水の標高が85m、ほぼ500mを一挙に下るのだから、かなりの急勾配。赤テープの印を頼りに進んでいった。途中、こんな山中に、ただならぬ気配がする朱色の鳥居に守られた祠に出くわした。その脇には、意味ありげな大岩があった。神霊は、すでに海津天神社境内に移されているようだが、ここが、この神様の起源の場所なのであろう。だから、鳥居と小さな社殿が残っており、祭祀も続けられているようで、手入れがされていた。  ここで一休みをして再び下山が続いた。やっと、たどり着いたところが別荘地の車道であった。
 
  海津大崎の桜並木道路には、車の通行が相変わらず多い。 何時もは、自家用車で大渋滞気味の琵琶湖沿いの県道557号線をソメイヨシノの花のトンネルを通過しながらの花見であるが、今回は山を下山しながらの粋な花見となった。 山での疲れを桜の花でいやしながらマキノの駅まで歩いた。
 
ただならぬ気配を醸し出す大前神社

  
海津大崎の遊歩道到着地点


海津大崎の並木道の桜





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Posted by nonio at 23:11Comments(0)滋賀県の山

2011年10月16日   小関峠でなく小関越え

 私の子供の頃、学校が終わると家にも立ち寄らず、日が暮れるまで野山を駆け巡っていた。あの山の向こう側の景色はどうなっているんだろう。まだ見ぬ未知の光景に憬れた。山路の向こうにある峠に来て立ち止まると、今まで吹かなかった風が吹き、光景もがらりと変わった。そして気分もがらりと変わっていた。

 峠は、小さい頃からの憬れの地点であった。

                     小関越えの頂上付近 


 山科と大津の札の辻までを結ぶ道の一つに、「小関越え」がある。ここには、京都・滋賀でウオーキングをしている人であれば一度は訪れる人気のあるルート。大津市北国町通りから小関峠を越え、琵琶湖疏水に沿って 横木一丁目の東海道までのおよそ4kmの古道である。

 「小関越え」と呼ばれたのは、近江から京都への東海道において、逢坂山の山越えが「大関越え」として知られている。その裏道にあたる坂越えとして北国・近江と京都を繋ぐ小関越えがあった。大関に対比して小関(こせき)と呼んでいたようだ。

 一般に、地形的に上りから下りに転ずるところを峠と呼ばれているが、時には、「~越え」「~坂」といった名前も付けられている。

 道標にも、「小関越」と言う文字が彫られ、「小関峠」と呼ばれなかった。峠とは、地形的に上りから下りに転ずる地点を表す言葉である。この「小関峠」にしては、山科と大津の間の峠として言い表すには、物足りなかったのであろう。大津から山科まで行くには、ひと山越えなければならない。その総称として「〇〇越え」と称したのであろう。
 因みに、「~坂」と言う峠もある。
 近江坂は、若狭の「能登野」と近江の「酒波(さなみ)」をつなぐ山間部を切り開かれた長大な峠道である。なぜかこの道、近江峠とは言わない。なだらかな頂上を持つ大御影山を山越えして行くのだが、「坂」が延々と続いているので「~坂」と呼ばれている。
峠一辺倒でなく、その地形の特長を捕えた言い方のほうが、味がある。
 
 「小関越え」の道標は、大津側の小関町に、三井寺へ向かう道の分岐点にある。

三面には
「左り三井寺 是より半丁」
「右小関越 三条 五条 いまくま 京道]
「右三井寺]と刻まれている。

 江戸時代中頃の建立されたもので、その当時から小関峠は「小関越え」として親しまれ、この峠を通過すると、三条・五条 いまくま・京道に通じる行き先が刻まれ、刻銘の「いまくま」は第十五番札所の京都今熊野観音寺のことで、巡礼者の案内をしていた。また、北国海道にも通じ、物資の運搬にも京都と近江・北国を結ぶ役割もあったところだ。

 高さ約95cmの道標は、川べりに何気なく立っているが、大津市指定文化財・有形民俗文化財に指定されて、いにしえを伝える重要な役割を持っている。 

 もうひとつ横木1丁目の東海道に「小関越」の道標がある。
 この道標の左側面には、「小関越」の文字がみられる。京から西国札所の三井寺への最短でもあることから、三井寺観音道とも呼ばれることから、正面には「三井寺観音道」と彫られていた。右側面には、「願諸来者入重玄門」。

 文政5年に大阪・江戸・京都の定飛脚問屋によって建立された。高さ約2.5メートルの大きい道標であった。1822年には、「小関越」と呼ばれていた。









 舗装された坂道を上り詰めると、峠手前左手に、”峠の地蔵さん”として親しまれている「喜一堂」が祀られてある。地元の有志が世話をしており、いつ行っても花が手向けられている。このあたりの山路には、昔峠の茶屋でもあったのだろう。風情が漂っていた。




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Posted by nonio at 09:56Comments(0)

2011年04月15日   鈴鹿峠(近江)

  近江は周辺を山に囲まれており、多くの峠に出合う。その中で鈴鹿峠は、京への入口、江戸への出口として、歴史上重要な役割を持っていた。日本が国家として形づくられて来た頃、東は東国または関東と呼ばれ、これらから近畿を守るため、はじめて「関塞」(せきそこ)が鈴鹿峠に置かれた。正に天皇を中心とする中央集権国家の建設を目指した大化の改新の頃にこの峠が登場してきた。
鈴鹿峠地図(378m)←クリック

  平安時代、鈴鹿峠を越える道は「阿須波(あすは)道」と呼ばれ、初めて開通した。八町二十七曲といわれるほど、急な曲がり道の連続する難所であった。斎王群行がこの道を通って伊勢神宮へ向かうように定められたことからこの鈴鹿峠越えが東海道の本筋となったと表示板に解説されていた。
 江戸時代に入ると参勤交代の制度が出来上がると、街道・宿泊が整備され、大名行列を初めとして多くの旅人が伊勢参りなどでにぎわっていた。だが、現在の鈴鹿峠は、自動車の単なる通過点に過ぎない。

 全く人気がない片山神社の階段を通り抜けると、旧街道の歩きにくい石畳が上に上にと連なっている。この一帯は昔日の面影を偲ばせるところだ。急坂の途中、馬の水のみ鉢が置かれていた。峠をはさみ、西に土山宿(滋賀県)、東に坂下宿(三重県)があり、鈴鹿馬子唄には「坂は照る照る鈴鹿は曇る/あいの土山雨が降る」と歌いながら馬子が馬を曳(ひ)いて行った光景が浮かんでくる。

 ここを登りきり、鬱蒼とした檜の林を進むと鏡岩の標識がある。「鈴鹿山の鏡岩鏡岩」に寄って見ることにした。別名「鬼の姿見」といい、峠に住む盗賊が、街道を通る旅人の姿をこの鏡の肌面に写して待ち伏せしたといわれるという伝説がある。岩上の見晴台からは、今は、上下線に分離されている国道1号が、手に取るように見えた。高畑山←クリック



 両脇の茶畑を通り過ぎると、今から約270年前、四国の金比羅参りに行く人の道中安全を願い、「万人講常夜燈」が建てられてあった。高さ5.44m、重さ38トンもある巨大な自然石である。

 自然石の山燈籠の竿石に「金比羅大権現 永代常夜燈」と大きく彫り、基礎石には大きな字で[万人講」と刻まれていた。金比羅信仰は、講で広がり、讃岐の金比羅さん」として昔より全国的に信仰を集めてきた。この常夜燈は、もとは東海道沿いに立っていたが、国道1号線の鈴鹿トンネル工事に伴い、トンネルの上の山腹に移設された。

 



  





































































 





Posted by nonio at 17:22Comments(0)

2010年11月25日   ナベクボ峠の自然石道標

 古来から日本では登り切った山道の上りと下りの境目を「とうげ」と言われてきた。この言葉を「山」「上」「下」を組み合わせて「峠」と言う漢字が作られた。所謂、漢字の字体にならって作られた国字である。したがってこの文字は訓だけで音読みがない。

 低い鞍部を古語で「タワ」「タオリ」「タル」「タオ」などと呼ばれていた。「トウゲ」は「タムケ(手向)」から「たうけ」に転化し、さらに「とうげ」になったと言われている。「たむけ」とは「手向け」と書き、神仏に物を供える意味である。

 要するに、峠には道の神がいると信じられ、特別なところであった。
かつて峠はクニ境であり、その先は異郷の地であった。そのため、峠は、これから先の無事を祈り、帰り着いた時の無事を感謝する場所でもあったことから、祠を設けている所が多い。道の神であるお地蔵さんや道祖神がまつられ、往来する安全を願うところであった。また外部からいろんな禍の侵入を防ぐ祈りも込められていた。  

  「ナベクボ峠」この峠、何となく縁がある峠である。今年だけでも、3回目指したことになる。
まず、ワカンビ谷に入ったつもりが、ひとつ谷を間違え、どうしてもたどり着けなかったこともあった。その後、根来峠から三国峠へ縦走した時は、難なくこの峠を通過していった。そして、「湖西の山ネット協議会」(壇上俊雄事務局長)の案内により3回目の「ナベクボ峠」に行く機会があった。

 二回目の時、この峠には、「おにゅう←ナベクボ峠 →三国峠」というしっかりとした標識が立っていた。今回、三国峠寄りに、少し上がった所にかなり風化した自然石の道標を紹介された。
 文字は「○経墓」と彫られてあった。この自然石の道標を観ていると、しみじみとした歴史的な峠であることを感じた。
 この峠は「鍋窪峠」とも呼ばれているが、これは若狭側の谷である鍋窪谷からつけられた名称である。一方「クチクボ峠」とも言われており、朽木の朽と鍋窪の鍋をとって「朽窪峠」と呼ばれているそうで、近江側からの呼称のようだ。

 さて「○経墓」の意味合いがどうしても知りたいので、守山市立図書館T女史を尋ねた。彼女、朽木町史など徹底的に調べた結果、結論を出してくれた。

 この自然石の道標については、参考文献もなく、口伝えでしか言い伝わっていないようだ。
謎めいた石碑の「○」は、奉納した人を識別するためのもので、単なる目印でそれ以上の意味合いはないらしい。なお、確認をしていないが、この道標と同じものが、岩谷峠、地蔵峠、朽窪峠にある。

 「墓」の文字は、どなたかを奉ったものであるが、単なる墓ではない。例えば、事故のあったところにお地蔵さんを奉るのと同じ程度のものである。また、「経」の文字が入っていると、旅人の安全を祈願したものと考えられるが、この文字が刻まれていないので、旅人に関わることを示していないようだ。

これ以上、探索しないで、謎めいたままにして置くのもよいようだ。
  


 






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2010年09月29日   中山道随一の絶景磨針峠

  今年3月31日、番場宿から鳥居本宿の山間で、滋賀県彦根市鳥居本町の磨針峠を通過したことがあった。この時、「すりはり」と呼ぶ峠があることを知った。
第2回目滋賀県中山道(JR醒ヶ井駅~鳥居本駅)

 ここは、「木曽路名所図会」で、『此嶺の茶店より見下せば 眼下に磯崎、筑摩の祠、朝妻の里、長浜、はるかに向ふを見れば 竹生嶋、澳嶋、多景嶋、湖水洋々たる中に行きかふ船見へて風色の美観なり…』と案内された中山道随一の絶景を誇るところであった。

 磨針峠を描いた歌川広重の浮世絵では、籠から出てきて一服する人、ござを敷いた二人連れなどがしばしの憩いをとっている。眼下には松林に囲まれた内湖に、一隻の帆船が浮かび、その背後に琵琶湖が描かれている。多くの旅人が望湖堂から琵琶湖を一望しながら、西から東へ行く旅人は これから始まろうとする山中の長い道中を思案したり、東からやってきた旅人は、京都に近づき、「ほっと」した息遣いが伝わってくるようだ。

 近江路では旅人が琵琶湖を目にできなかったが、ここでは眺めをほしいままにできるところであった。参勤交代の大名や朝鮮通信使の使節も自然と立ち寄った。これに困った鳥居本宿や番場宿の両本陣は、お客をとられ、望湖堂に本陣まがいの営業を謹むようにと奉行に訴えたというぐらい人で賑わったと言われている。

 
 磨針峠について「おばあさんが石で斧を研ぐ姿」と「若い僧」の絵画を観ることがあった。この絵に何の意味が込められているのか全く分からず、気にもかけなかった。

 たまたま、今年7月、元滋賀県立近代美術館長石丸正運氏により、優れた業績を残してきた滋賀県ゆかりの近代画家3人について拝聴する事があった。その中で磨針峠に伝わる伝説を描いた小倉遊亀の作品が紹介された。彼女は、戦争中でこれから何年か筆をとることができないとの思いで描き、自分自身の画道精進の決意を込めたと言われている作品であることを聞かされ、磨針峠について興味を持ってしまった。 
 
 若い僧が厳しい修行に耐えかねて故郷に戻る途中、日暮れ時に峠にさしかかり、山中の一軒家に一夜の宿を乞う。ふと見ると、老女が斧を研いでいる。二人の視線がぶつかる。「一本しかない針が折れたので、斧を研いで針を作るのじゃ」と老女が言う。
若い僧は自分の浅はかさを悟り、寺に戻って修行を続ける。老女は観音菩薩の化身、僧は若き日の弘法大師と言われる。いさめる老女の目、己の弱さに気づいた瞬間の青年僧の目。見る者はその目に吸い込まれる。
 
 この民話を絵にしたものであり、「磨針峠」の名が付けられたことを知った。
 
 この広重の迫力のある浮世絵であり、磨針峠と言う経緯を知り、再び訪れてみたいと思っていた。
 そんな矢先、9月、レイカの仲間と鳥居本宿から磨針峠に足を運ぶ機会を得た。早速出向くことになった。

 今回は、磨針峠に関わることを下調査してやってきたのだが、望湖堂からの眺めには新たな感動が沸かなかった。眼下にあったと思われる内湖がなく、遠くにかすんだ琵琶湖の湖面だけであった。食料増産の名のもとに、小中の湖(安土町)を皮切りに、琵琶湖が埋められてきた土木事業が優先されてきた結果がこれだ。西の湖・大中干拓地を歩む

 この美しい内湖が、昭和18年前には存在していたと思うと残念だ。今は、歌川広重の浮世絵から当時の内湖を偲ぶしかない。

 鳥居の下に付いている階段の急勾配の凄さは、歌川広重が描いた坂道そのものであった。この描かれた迫力ある坂道の構図の方が、実光景より印象深く脳裏に焼きついてしまったようだ。 ここはかっての賑わいもなく、中山道を回顧する人達が、時折訪れる時代遅れの観光スポットになってしまったようだ。
 
 人通りも殆どないところに、大勢が詰めかけたものだから、望湖堂の田中さんが気を利かして敷地内の庭に招いてもらった。手入れされた庭から眺める風景は、エレベータ会社・フジテック彦根工場の実験搭(高さ170m)や琵琶湖や湖東平野がよく見え、一味変わった風景であった。



近江の宿駅勉強会(高宮宿・鳥居本宿を巡る) 長浜城歴史博物館館長江竜喜之とレイカの仲間達






 



 







Posted by nonio at 08:39Comments(0)