「旅館かめや」の角にある道標に出会ったのは、奇遇だった。
中山道沿いの番場公民館にて、江竜喜之氏の講義を受けるため、早朝、JR米原駅から宿場町の面影を色濃く残している北国街道を北上していた。
かなり急ぎ足だったが、何気無しに左をむくと、私を呼び込むように彫の深い書体の整った道標が立っていた。何処かで出会っていたような気がした・・・・・。
道標には「左北陸道 右中山道」と刻まれていた。中山道の鳥居本宿から北国街道がはじまり長浜、木之本を経て、越前に至る方向と400年前、米原湊が開かれた時に開通した中山道の番場、醒井へ向かう間道との分岐点であった。
(民俗文化研究会とは連絡取れず、写真を無断で使用)
東面「弘化三丙午再建之」(1846年、ひのえ・うま)
南面「右 中山道 はんバ さめかゐ」(番場、醒井)
西面「左 北陸道 ながは満 きのもと」(長浜、木之本)
その時、分からなかったのだが、『近江の道標(歴史街道の証人)』木村至宏著には、『近江の道標』(民俗文化研究会、1971年)の前著がある。滋賀県全域にわたる450本余りを収録された道標の中で、表紙見開きに載せられたものであった。
眼にした光景は、書籍から私の記憶に刷り込まれていたのだ。
凍てついた雪解け道の三叉路に、この道標があり、後ろには鄙びた「商人宿」の看板を掲げた2階建ての家を、通り過ぎていく数人の学生が写されていた。これから本格的に始まろうとしている北国街道は、寒くて厳しいだろうとモノクロの写真が訴えていた。
道標の傾き加減からして、長年、旅人を案内してきたようだ。道標には、次の行き場所、道の方向など簡潔な情報だけが刻まれているだけだ。だからこそ、旅人達は文字を丹念に追ったことだろう。 歩く以外に手段がない時代には、道標が頼り。私は山野に行くので、標示板の恩恵をわかっているつもりだ。
かつての道標は、無用の長物となって、移動させたり、衝突により破損している。そんな中、 この道標は建立されたその場所で、道標の傾きも直され、更に太いパイプでガードされていた。この道標は、今や地域の歴史を知るうえで貴重な文化財である。
人生にも岐路が多々ある。分かれ道でどちらに行けばよいのか迷い、背中を押してくれるものが無ければ、なおさら迷う。
ところで、私は、それが重要な分岐点であったことを、後で気づき、反省すること頻りだ。
いずれにしても、”分岐点のみちしるべ”は、ロマンを感じさせる。
中山道沿いの番場公民館にて、江竜喜之氏の講義を受けるため、早朝、JR米原駅から宿場町の面影を色濃く残している北国街道を北上していた。
かなり急ぎ足だったが、何気無しに左をむくと、私を呼び込むように彫の深い書体の整った道標が立っていた。何処かで出会っていたような気がした・・・・・。
道標には「左北陸道 右中山道」と刻まれていた。中山道の鳥居本宿から北国街道がはじまり長浜、木之本を経て、越前に至る方向と400年前、米原湊が開かれた時に開通した中山道の番場、醒井へ向かう間道との分岐点であった。
(民俗文化研究会とは連絡取れず、写真を無断で使用)
東面「弘化三丙午再建之」(1846年、ひのえ・うま)
南面「右 中山道 はんバ さめかゐ」(番場、醒井)
西面「左 北陸道 ながは満 きのもと」(長浜、木之本)
その時、分からなかったのだが、『近江の道標(歴史街道の証人)』木村至宏著には、『近江の道標』(民俗文化研究会、1971年)の前著がある。滋賀県全域にわたる450本余りを収録された道標の中で、表紙見開きに載せられたものであった。
眼にした光景は、書籍から私の記憶に刷り込まれていたのだ。
凍てついた雪解け道の三叉路に、この道標があり、後ろには鄙びた「商人宿」の看板を掲げた2階建ての家を、通り過ぎていく数人の学生が写されていた。これから本格的に始まろうとしている北国街道は、寒くて厳しいだろうとモノクロの写真が訴えていた。
道標の傾き加減からして、長年、旅人を案内してきたようだ。道標には、次の行き場所、道の方向など簡潔な情報だけが刻まれているだけだ。だからこそ、旅人達は文字を丹念に追ったことだろう。 歩く以外に手段がない時代には、道標が頼り。私は山野に行くので、標示板の恩恵をわかっているつもりだ。
かつての道標は、無用の長物となって、移動させたり、衝突により破損している。そんな中、 この道標は建立されたその場所で、道標の傾きも直され、更に太いパイプでガードされていた。この道標は、今や地域の歴史を知るうえで貴重な文化財である。
2017年1月16日積雪時
人生にも岐路が多々ある。分かれ道でどちらに行けばよいのか迷い、背中を押してくれるものが無ければ、なおさら迷う。
ところで、私は、それが重要な分岐点であったことを、後で気づき、反省すること頻りだ。
いずれにしても、”分岐点のみちしるべ”は、ロマンを感じさせる。
前回は、近江八幡駅から能登川駅間に於ける朝鮮人街道の道標探しをした。引き続き、能登川駅から最終到達点、近江鉄道鳥居本まで歩くことにした。
朝鮮人街道道標探し№1(野洲駅~近江八幡駅)
朝鮮人街道道標探し№2(近江八幡駅~能登川駅)
能登川駅の元町通を北に進み天神社を通り過ぎ、「垣見」の踏み切りを渡ると県道に出た。ここから、荒神山に向かって真っ直ぐな街道になった。朝鮮人街道にしては、珍しい。目印になる道標も無く、眼の前にあるのは、なだらかな山容をした荒神山だけ。歩くものにとっては、茫洋と広がっている水田だけで、単調な風景に退屈するところだ。
この山は、琵琶湖から少し奥まったところにある独立した山塊である。山頂にある荒神山神社が、かまどの神様として崇拝され、五穀豊穣、無病息災が祈られ多くの人達に親しまれてきた。近年は県立荒神山少年自然の家などがつくられ自然に触れ、スポーツを楽しむ場として親しまれている。また、荒神山の山頂には、テレビ中継放送所が設置されていた。 荒神山(彦根)を散策
真っ直ぐに延びた県道は、彦根消防署南分署を少し進んだところから、給水用貯水槽と思われるタンクが見える正面の山を避けるように、右に大きくカーブしている。朝鮮人街道は、ここで県道と別れて山崎集落へと続いている。
かって、この山崎のあたりは「山崎御茶屋」と呼ばれ、通信使が休憩したと伝えられている。この集落に入った途端、「ほっこり」とした和んだ空気が漂い、そのまま通過してしまうのが勿体無いような気分になるところだ。茅葺き屋根があったり・屋根の上に煙出しがあったり、白い土蔵があったり、古きよき時代の面影が残り、ここだけ、時間軸がゆっくりしているようだ。
道標も大切に扱われていた。左側の角に「従是荒神道八丁」、左脇に「奥山寺」と刻まれた大きな道標(208X33.5X33.5cm)が建っていた。更にすすむと、山崎と清崎の境と参道入口に「従是荒神道八町」「寛政六戌壬歳三月」の大きな石柱が建っていた。この道に入っていくと、荒神山神社へ通じていた。
荒神山の東麓を左に回り込むように進むと、宇曽川の堤防に出た。堤防脇の道を歩き、天満橋にでると山際に「左 八まん道」 「右 千手寺」と書かれた道標が建っていた ここでも京都方面に向かって、行き先は「八まん」と呼ばれていた。千手寺は荒神山の東北の山腹にあり、行基が開いたと言われている。
右に折れて天満橋を渡り、再び県道と合流した。街道は日夏の家並みを通りぬけた。宇曽川に架かる天満橋を渡ると、その先には須越川に架かる横川橋があった。 朝鮮人街道はこの橋を渡り、三叉路で県道2号線に入り、左折して進むと日夏町中沢交差点に出た。甘呂町に入り彦根へと向かった。 このあたりは、朝鮮人街道はかなり入り組んでおり、案内板・道標もなく行き先を間違いやすいところである。最近、やっと地形的な理解が深まり、ここを通りぬけ、名水のある「十王村の水」宇尾町へ難無くいけるようになった。
「朝鮮人街道」と彫られた道標は、何本もあった。この中で、彦根市芹川の樹齢400年のケヤキ並木の芹橋のたもとに見つけた道標には、「人」の字が除かれ「朝鮮街道」と彫られていた。朝鮮人と言う言葉に含まれた蔑視のニュアンスを避けたようだ。
昔から韓国・朝鮮は、文化のふるさとであったが、豊臣秀吉の無謀な朝鮮への侵略、さらに大日本帝国によって殖民地支配など複雑な過去をもっていた。1990年に日本を訪れた盧泰愚(ノ・テウ)元大統領が宮中晩餐会で、朝鮮通信使の話の中で、雨森芳洲のことに触れ、「現代の韓国で最も賞賛されている日本人の一人である」と称えたという話が残っている。やっと日本と韓国が共に二国間の歴史を語られるようになって、はじめて「朝鮮人街道」と彫られた道標が建てられたようだ。
彦根市内は、久左の辻から中央町を通り、左側の彦根城を見遣って、絹屋から鳥居本へ目指した。夢京橋キャッスルロードなどには、観光用の道標が建てられてあるが、小生が探し求めているものでないので割愛した。
国道8号線の佐和山トンネルを通り、出て直ぐのところを国道8号線と分かれて、右に入っていった。道なりに進んでいくと、町並みが現われ、右側の角に石造道標があった。ここが、中山道との合流点の鳥居本で、朝鮮人街道約41kmの道程の終点だ。
道標は「どうどう」とした書体で「右彦根道 左中山道」と彫られていた。文政十年(1827年)に建立され、彦文根蕃主井伊直弼が城下町と中山道を結ぶため建設したものである。この道標、昨年から縁があって4回目になる。この日は、にわか雨にたたられ、道標の先端部が雨にぬれて一層貫禄が増したように思われた。
この道標も折損事故を受けており、付け根のところが痛々しい。末永く建っていること願って、その場を去った。
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朝鮮人街道道標探し№1(野洲駅~近江八幡駅)
朝鮮人街道道標探し№2(近江八幡駅~能登川駅)
能登川駅の元町通を北に進み天神社を通り過ぎ、「垣見」の踏み切りを渡ると県道に出た。ここから、荒神山に向かって真っ直ぐな街道になった。朝鮮人街道にしては、珍しい。目印になる道標も無く、眼の前にあるのは、なだらかな山容をした荒神山だけ。歩くものにとっては、茫洋と広がっている水田だけで、単調な風景に退屈するところだ。
この山は、琵琶湖から少し奥まったところにある独立した山塊である。山頂にある荒神山神社が、かまどの神様として崇拝され、五穀豊穣、無病息災が祈られ多くの人達に親しまれてきた。近年は県立荒神山少年自然の家などがつくられ自然に触れ、スポーツを楽しむ場として親しまれている。また、荒神山の山頂には、テレビ中継放送所が設置されていた。 荒神山(彦根)を散策
真っ直ぐに延びた県道は、彦根消防署南分署を少し進んだところから、給水用貯水槽と思われるタンクが見える正面の山を避けるように、右に大きくカーブしている。朝鮮人街道は、ここで県道と別れて山崎集落へと続いている。
かって、この山崎のあたりは「山崎御茶屋」と呼ばれ、通信使が休憩したと伝えられている。この集落に入った途端、「ほっこり」とした和んだ空気が漂い、そのまま通過してしまうのが勿体無いような気分になるところだ。茅葺き屋根があったり・屋根の上に煙出しがあったり、白い土蔵があったり、古きよき時代の面影が残り、ここだけ、時間軸がゆっくりしているようだ。
道標も大切に扱われていた。左側の角に「従是荒神道八丁」、左脇に「奥山寺」と刻まれた大きな道標(208X33.5X33.5cm)が建っていた。更にすすむと、山崎と清崎の境と参道入口に「従是荒神道八町」「寛政六戌壬歳三月」の大きな石柱が建っていた。この道に入っていくと、荒神山神社へ通じていた。
荒神山の東麓を左に回り込むように進むと、宇曽川の堤防に出た。堤防脇の道を歩き、天満橋にでると山際に「左 八まん道」 「右 千手寺」と書かれた道標が建っていた ここでも京都方面に向かって、行き先は「八まん」と呼ばれていた。千手寺は荒神山の東北の山腹にあり、行基が開いたと言われている。
右に折れて天満橋を渡り、再び県道と合流した。街道は日夏の家並みを通りぬけた。宇曽川に架かる天満橋を渡ると、その先には須越川に架かる横川橋があった。 朝鮮人街道はこの橋を渡り、三叉路で県道2号線に入り、左折して進むと日夏町中沢交差点に出た。甘呂町に入り彦根へと向かった。 このあたりは、朝鮮人街道はかなり入り組んでおり、案内板・道標もなく行き先を間違いやすいところである。最近、やっと地形的な理解が深まり、ここを通りぬけ、名水のある「十王村の水」宇尾町へ難無くいけるようになった。
「朝鮮人街道」と彫られた道標は、何本もあった。この中で、彦根市芹川の樹齢400年のケヤキ並木の芹橋のたもとに見つけた道標には、「人」の字が除かれ「朝鮮街道」と彫られていた。朝鮮人と言う言葉に含まれた蔑視のニュアンスを避けたようだ。
昔から韓国・朝鮮は、文化のふるさとであったが、豊臣秀吉の無謀な朝鮮への侵略、さらに大日本帝国によって殖民地支配など複雑な過去をもっていた。1990年に日本を訪れた盧泰愚(ノ・テウ)元大統領が宮中晩餐会で、朝鮮通信使の話の中で、雨森芳洲のことに触れ、「現代の韓国で最も賞賛されている日本人の一人である」と称えたという話が残っている。やっと日本と韓国が共に二国間の歴史を語られるようになって、はじめて「朝鮮人街道」と彫られた道標が建てられたようだ。
彦根市内は、久左の辻から中央町を通り、左側の彦根城を見遣って、絹屋から鳥居本へ目指した。夢京橋キャッスルロードなどには、観光用の道標が建てられてあるが、小生が探し求めているものでないので割愛した。
国道8号線の佐和山トンネルを通り、出て直ぐのところを国道8号線と分かれて、右に入っていった。道なりに進んでいくと、町並みが現われ、右側の角に石造道標があった。ここが、中山道との合流点の鳥居本で、朝鮮人街道約41kmの道程の終点だ。
道標は「どうどう」とした書体で「右彦根道 左中山道」と彫られていた。文政十年(1827年)に建立され、彦文根蕃主井伊直弼が城下町と中山道を結ぶため建設したものである。この道標、昨年から縁があって4回目になる。この日は、にわか雨にたたられ、道標の先端部が雨にぬれて一層貫禄が増したように思われた。
この道標も折損事故を受けており、付け根のところが痛々しい。末永く建っていること願って、その場を去った。
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前回は、野洲駅から近江八幡駅間に於ける朝鮮人街道の道標探しをした。引き続き、近江八幡駅から能登川駅まで歩くことにした。 朝鮮人街道道標探し№1(野洲駅~近江八幡駅)
前回の到達点、県道音羽交差点沿いの道標・常夜燈が建っているところまでやってきた。近江八幡駅から約30分。
ここから、黒橋・西庄町・長田へと続く道は、朝鮮人街道特有の屈曲の多い七曲がりの道になった。よく言われている事で、「朝鮮人通信使に日本の国を大きく見せるために持って回った道を連れて行った」と言われているが、そうではない。「鍵之手町」と言われるように城下町の碁盤の道で、鍵のように曲がっている。更に、「縄手町」は条理制の名残のあるあぜ道を示す呼び名がある。これらの道を繋がれた街道なのである。
「くねくね」と折れ曲がった朝鮮人街道を進むと、見晴らしの良いところに出た。近江八幡市西庄町に「左 朝鮮人街道 右八風街道 いせ・八日市。ひの」の表示板があった。ここは、朝鮮人街道と八日市、永源寺を経て鈴鹿山脈をこえ、三重県桑名市に通じる分岐点である。木製であったが、方向が戸惑うところに建てられてあった。
指示通り朝鮮人街道を辿った。田園地帯を越えて安土へと向かった。JR安土駅に入る手前に立派な「安土淨厳院」と刻まれた道標を見遣りながら、曲がりくねった細い道を進むと、「下街道」の表示があった。
中山道の「上街道」に対して朝鮮人街道を「下街道」と言われたり、琵琶湖岸を走ることから「浜街道 」とも呼ばれていた。また、唐街道・安土街道・上洛道など色んな呼び方がされていた。
この写真1道標は、中山道と朝鮮人街道の間道である。朝鮮人街道を分かれて、JR安土駅前の常楽寺南交差点からJRの踏切を越えて安土街道を少し行ったところの左側にある。桑実寺「すく 桑実寺薬師 西国卅二番観音寺」「右 京 八まん 長命寺」と彫られてある。正面の山腹にある桑実寺を経由して観音正寺に通じる巡礼コースを案内している。また、「右 京 八まん長命寺」の行き先は朝鮮人街道を示している。
駅前通りを北に進み、安土町公民館の前を右におれて進むと、曲り角に写真2道標があり、「朝鮮人街道」「常の浜」「安土城跡」と刻まれていた。この道標は最近建てられたものだ。
写真1 写真2
尚、 安土駅前の朝鮮人街道には、1977年当時「すぐ くゎんおん寺 志ミづのはな/左 ひこ祢/右 京 八まん 長命寺」の道標があったが、現在、探したが、残念ながら、痕跡すらなかった。
セミナリヨ跡を見て、安土城の山裾を走っている県道を辿って行った。安土ウォーキング
県道はしだいに登り坂になり、上り詰めたところが、安土町と能登川町の境界になる北腰越峠である。この峠は、信長が湖東を南北に連絡させるため、鞍部を切り通したものである。「近江風土記の丘」の石碑が建ってある峠を越えたところで、県道と分かれて繖山の山裾を辿る道を進んだ。両脇には、長閑な集落が建ち並んでいた。
集落内に「従是南摠見寺領」と刻まれた石碑があった。この境界碑は、安土城にある信長が大事にしていた摠見寺の領地であったことを示していた。この石碑は真新しいもであったが、近くに「従是‥」と彫られた先端部の石碑がころがっていた。この集落は古い歴史のあることが窺われた。
朝鮮人街道は、JR線側に直角に曲がり、少し行って北に向かうのが正規の道筋だが、細道を直進して安楽寺に寄っていった。聖徳太子が近江に寺を建立された時、一番目に建った寺として伝承がある。入口に立派な自然石に「‥‥安楽寺道是より三丁」との道標があったので、急な苔むした階段を登っていった。不揃いな階段には妙に風情があったので、写生を試みた。
たまたま、この辺りに住んでいるおばあさんが話しかけてきた。「ぽっくりてら閻魔堂」からにぎやかな声が聞こえていたので、尋ねると「ここには昔から伝わる涅槃図がある」と言って、釈迦が入滅する情景を描いた図であると説明しながら、「ここは良いところでね、『わたしもぽっくり安楽に行くこと』をねがっている」と話されていた。この一角は本当に長閑な空気が流れているところであった。
更に進むと、繖峰(さんぽう)三神社の鳥居があった。毎年5月3日、繖峰山頂上近くの繖峰三神社から麓のこの鳥居まで、岩場もある急な坂道を氏子の手で御輿を引きおろす勇壮な祭り「伊庭の坂下ろし祭り」がある。TVで、放映されていたところだと分った。望湖神社参道前で左折してJR能登川踏み切りをわたり、能登川駅まで進み、この日は終わりにした。
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前回の到達点、県道音羽交差点沿いの道標・常夜燈が建っているところまでやってきた。近江八幡駅から約30分。
ここから、黒橋・西庄町・長田へと続く道は、朝鮮人街道特有の屈曲の多い七曲がりの道になった。よく言われている事で、「朝鮮人通信使に日本の国を大きく見せるために持って回った道を連れて行った」と言われているが、そうではない。「鍵之手町」と言われるように城下町の碁盤の道で、鍵のように曲がっている。更に、「縄手町」は条理制の名残のあるあぜ道を示す呼び名がある。これらの道を繋がれた街道なのである。
「くねくね」と折れ曲がった朝鮮人街道を進むと、見晴らしの良いところに出た。近江八幡市西庄町に「左 朝鮮人街道 右八風街道 いせ・八日市。ひの」の表示板があった。ここは、朝鮮人街道と八日市、永源寺を経て鈴鹿山脈をこえ、三重県桑名市に通じる分岐点である。木製であったが、方向が戸惑うところに建てられてあった。
指示通り朝鮮人街道を辿った。田園地帯を越えて安土へと向かった。JR安土駅に入る手前に立派な「安土淨厳院」と刻まれた道標を見遣りながら、曲がりくねった細い道を進むと、「下街道」の表示があった。
中山道の「上街道」に対して朝鮮人街道を「下街道」と言われたり、琵琶湖岸を走ることから「浜街道 」とも呼ばれていた。また、唐街道・安土街道・上洛道など色んな呼び方がされていた。
この写真1道標は、中山道と朝鮮人街道の間道である。朝鮮人街道を分かれて、JR安土駅前の常楽寺南交差点からJRの踏切を越えて安土街道を少し行ったところの左側にある。桑実寺「すく 桑実寺薬師 西国卅二番観音寺」「右 京 八まん 長命寺」と彫られてある。正面の山腹にある桑実寺を経由して観音正寺に通じる巡礼コースを案内している。また、「右 京 八まん長命寺」の行き先は朝鮮人街道を示している。
駅前通りを北に進み、安土町公民館の前を右におれて進むと、曲り角に写真2道標があり、「朝鮮人街道」「常の浜」「安土城跡」と刻まれていた。この道標は最近建てられたものだ。
写真1 写真2
尚、 安土駅前の朝鮮人街道には、1977年当時「すぐ くゎんおん寺 志ミづのはな/左 ひこ祢/右 京 八まん 長命寺」の道標があったが、現在、探したが、残念ながら、痕跡すらなかった。
セミナリヨ跡を見て、安土城の山裾を走っている県道を辿って行った。安土ウォーキング
県道はしだいに登り坂になり、上り詰めたところが、安土町と能登川町の境界になる北腰越峠である。この峠は、信長が湖東を南北に連絡させるため、鞍部を切り通したものである。「近江風土記の丘」の石碑が建ってある峠を越えたところで、県道と分かれて繖山の山裾を辿る道を進んだ。両脇には、長閑な集落が建ち並んでいた。
集落内に「従是南摠見寺領」と刻まれた石碑があった。この境界碑は、安土城にある信長が大事にしていた摠見寺の領地であったことを示していた。この石碑は真新しいもであったが、近くに「従是‥」と彫られた先端部の石碑がころがっていた。この集落は古い歴史のあることが窺われた。
朝鮮人街道は、JR線側に直角に曲がり、少し行って北に向かうのが正規の道筋だが、細道を直進して安楽寺に寄っていった。聖徳太子が近江に寺を建立された時、一番目に建った寺として伝承がある。入口に立派な自然石に「‥‥安楽寺道是より三丁」との道標があったので、急な苔むした階段を登っていった。不揃いな階段には妙に風情があったので、写生を試みた。
たまたま、この辺りに住んでいるおばあさんが話しかけてきた。「ぽっくりてら閻魔堂」からにぎやかな声が聞こえていたので、尋ねると「ここには昔から伝わる涅槃図がある」と言って、釈迦が入滅する情景を描いた図であると説明しながら、「ここは良いところでね、『わたしもぽっくり安楽に行くこと』をねがっている」と話されていた。この一角は本当に長閑な空気が流れているところであった。
更に進むと、繖峰(さんぽう)三神社の鳥居があった。毎年5月3日、繖峰山頂上近くの繖峰三神社から麓のこの鳥居まで、岩場もある急な坂道を氏子の手で御輿を引きおろす勇壮な祭り「伊庭の坂下ろし祭り」がある。TVで、放映されていたところだと分った。望湖神社参道前で左折してJR能登川踏み切りをわたり、能登川駅まで進み、この日は終わりにした。
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朝鮮人街道は、様々な呼び方がされてきた。このことが以前から何となく気にかかっていた。そこで、中山道との分岐点がある野洲市行畑から彦根市鳥居本付近の中山道の合流点まで、距離にして約41kmを歩き、道標を尋ねてみることにした。
鉄道が出来る以前では、人の流れは街道であり、人、物、そして文化も運んでいった。街道には、行き先・方向・・距離などを記した道標が建てられ、旅人達にとっての案内人であった。今や、無用の長物になり下がり、路傍の傍らに追いやられたり、捨てられたりされ、残り少なくなった。
野洲市行畑の三叉路には、右側が中山道で、左側が朝鮮人街道と記された表示板だけで、道標はこの場所にはなかった。
この分岐点は、中山道の守山宿と武佐宿の「間の宿」としての地理的位置にあり、現在では「行畑」と言われているが、明治12年以前では行合村であった。「行合」と言う文字は、「ゆきあい」と読んで字のごとく「出あう」、また異なる方向から進んで来たものが「交差する」と言う意味がある。ここには多くの旅人が往来していたことから名づけられたのであろう。街道通行人が行き交い活気があるところと想像される。
野洲市行畑蓮照寺境内の道標「右 中山道」「左 八まんみち」。写真№1
以前は中山道と朝鮮人街道の三叉路にあたるところに道標があったが、現在少し離れた蓮照寺にその役目を終え、歴史的遺産物として大切に保存されている。蓮照寺の奥さんは、「太平洋戦争の頃、折れていた道標が運ばれてきた」と語られていた。製作は享保四年(1719年)。この朝鮮人街道は、今までの田舎道を繋ぎ合わせたものと言われているが、わが道を勝手気ままに「八まんみち」との愛称で呼んでいたことが分かった。
話が少しずれるが、明治24年(1891年)に東海道野洲駅の営業が開始された。その次の年に測量された「行畑」周辺の地図では、中山道・朝鮮人街道沿いに集落があるだけで、従来通りの街道がまだ主役であった。
汽車の試運転が行われときは大変だったようだ。この蓮照寺で法要が行われた時、予告なしに試運転列車が黒煙を吐いて走ってきた。当時、本堂から汽車道まで田畑でなんの障害もなく手にとる様に見渡せた。全員が本堂の北の縁側に鈴なりになって歓声をあげ、本堂のおつとめは一時中断したと言い伝えられている。年月が経ち、交通手段が鉄道・自動車道路へと換わり、街道が衰退していった。
朝鮮人街道は、祇王井(ぎおうい)川沿いを進み、野洲駅を通り越し、久野部の陸橋を越えてJR線ぞいを進むと、松林の名残を留める松の木が一本あったが、数年前枯れてしまった。
富波乙・富波甲・永原の集落を通過していくと、永原の外れには、常夜燈があった。ここからは、小南まで両側には桜並木のある街道となった。この辺りは、道標もなく田園地帯であった。
やがて、大きく曲がりながら日野川の土手から仁保橋に至った。
新しく付け替えられた仁保橋の欄干には「朝鮮通信使行列絵巻」と「琵琶湖図」が取り付けられていた。
通信使を迎える周辺の村々は、最高のもてなしを提供するとともに、街道を整備するという重要な役割を担っていた。当時は通信使の往来のたびに川幅50m の日野川に、土の仮橋を設置していた。工事は「川元村」(江頭・十王村)と「仁保川橋掛組合」とよばれる小南を始として11ケ村が協力して土橋を架けたと表示板があった。この辺りの村人は、通信使が来るたびにかりだされたのであろう。
仁保橋を渡り、堤防を左に下りていくと、ひっそりとしているが色んな店屋が揃っている町並みに入っていった。十王町・江頭・田中江を通り、加茂町と通じていた。県道が出来る前には、この通がバス・自動車も走っていた繁華街であった。かつて、江頭は湊があって、この交通の要所で物資の往来は盛んだったようだ。この街道には、真新しいが400年記念として2006年「朝鮮人街道」写真№2の道標が建てられていた。この界隈に同様の道標が2本あった。
旧道はやがて加茂町となり、県道と合流するが、再び、旧道を辿った。
加茂町辺りから琵琶湖側を望むとこんもりとした山が二つ横たわっていた。長命寺山(333m)と少し奥に小高い山が奥島山(425m)であり、この山並みの全体の総称も奥島山と呼ばれている。この上ない上品さが漂う山並みである。このような風景は、いくら時代を遡っても、今と昔でそれほど変わらないであろう。余りにも、のどかな景色であったので、写真に切り取っておいた。
白鳥川の歩道専用のある小船木橋を渡って、交差点の先で左折し旧道に入り、八幡城下へ向かった。そのまま真っ直ぐに進めば、土田から音羽へ通じている。八幡城が出来る以前の道である。
小舟木町道標 「長命寺一里」「左 京みち」。写真№3。 この道標は、小舟木町観音山ふもとのL字型の曲がり角にあった。 近江八幡では朝鮮人街道を「京みち」「京街道」と呼ばれていた。「長命寺」は琵琶湖湖畔上にある西国三十三ケ所霊場第31番の長命寺のこと。
1587年豊臣秀次は八幡城を築いた。町は碁盤状に区画され、図書館のある新町通・魚屋通・為心通・仲屋通と永原通を南下し山岸鶏肉店を東に向かい縄手通を南下。
近江八幡市街地をこの朝鮮人街道を通るには一回では通過することは中々難しい。小生、近江八幡市一帯には、4~5回訪れている。この八幡は、中山道・朝鮮人街道を始として琵琶湖と内陸部を結ぶ街道などが行き交うところで、しばしば「八まん」と彫られた道標が多く見られた。遠くは八日市市清水の栄町通りにある後代参街道・八風街道の交差点に「八まん」の名前があった。このように八幡は、主要な街道中山道、東海道からはずれていたが、この辺りでは大きな影響を持っていた。また、「八まん」は「長命寺」とセットにした呼び方の道標もみられ、巡礼道とした役目も持っていたようだ。
朝鮮人街道は旧市街地の中央を東西に走っており、碁盤状に区画されたところでは「京みち」写真№4「京街道」写真№5「朝鮮人街道」写真№6と刻まれた道標が見られた。寺恩寺町近くで非常に古く判読不明の道標№7があった。
縄手町を南下して音羽町をぬけると、県道2号線に出くわした。そこには、大きな常夜燈と道標があり、八幡城下の東口にあたるところだ。
「すく 長命寺みち 是より 一里半と十丁」「くわんおん寺道 是より二里」写真№8の道標。くわんおん寺とは観音正寺のこと。
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鉄道が出来る以前では、人の流れは街道であり、人、物、そして文化も運んでいった。街道には、行き先・方向・・距離などを記した道標が建てられ、旅人達にとっての案内人であった。今や、無用の長物になり下がり、路傍の傍らに追いやられたり、捨てられたりされ、残り少なくなった。
野洲市行畑の三叉路には、右側が中山道で、左側が朝鮮人街道と記された表示板だけで、道標はこの場所にはなかった。
この分岐点は、中山道の守山宿と武佐宿の「間の宿」としての地理的位置にあり、現在では「行畑」と言われているが、明治12年以前では行合村であった。「行合」と言う文字は、「ゆきあい」と読んで字のごとく「出あう」、また異なる方向から進んで来たものが「交差する」と言う意味がある。ここには多くの旅人が往来していたことから名づけられたのであろう。街道通行人が行き交い活気があるところと想像される。
野洲市行畑蓮照寺境内の道標「右 中山道」「左 八まんみち」。写真№1
以前は中山道と朝鮮人街道の三叉路にあたるところに道標があったが、現在少し離れた蓮照寺にその役目を終え、歴史的遺産物として大切に保存されている。蓮照寺の奥さんは、「太平洋戦争の頃、折れていた道標が運ばれてきた」と語られていた。製作は享保四年(1719年)。この朝鮮人街道は、今までの田舎道を繋ぎ合わせたものと言われているが、わが道を勝手気ままに「八まんみち」との愛称で呼んでいたことが分かった。
話が少しずれるが、明治24年(1891年)に東海道野洲駅の営業が開始された。その次の年に測量された「行畑」周辺の地図では、中山道・朝鮮人街道沿いに集落があるだけで、従来通りの街道がまだ主役であった。
汽車の試運転が行われときは大変だったようだ。この蓮照寺で法要が行われた時、予告なしに試運転列車が黒煙を吐いて走ってきた。当時、本堂から汽車道まで田畑でなんの障害もなく手にとる様に見渡せた。全員が本堂の北の縁側に鈴なりになって歓声をあげ、本堂のおつとめは一時中断したと言い伝えられている。年月が経ち、交通手段が鉄道・自動車道路へと換わり、街道が衰退していった。
朝鮮人街道は、祇王井(ぎおうい)川沿いを進み、野洲駅を通り越し、久野部の陸橋を越えてJR線ぞいを進むと、松林の名残を留める松の木が一本あったが、数年前枯れてしまった。
富波乙・富波甲・永原の集落を通過していくと、永原の外れには、常夜燈があった。ここからは、小南まで両側には桜並木のある街道となった。この辺りは、道標もなく田園地帯であった。
やがて、大きく曲がりながら日野川の土手から仁保橋に至った。
新しく付け替えられた仁保橋の欄干には「朝鮮通信使行列絵巻」と「琵琶湖図」が取り付けられていた。
通信使を迎える周辺の村々は、最高のもてなしを提供するとともに、街道を整備するという重要な役割を担っていた。当時は通信使の往来のたびに川幅50m の日野川に、土の仮橋を設置していた。工事は「川元村」(江頭・十王村)と「仁保川橋掛組合」とよばれる小南を始として11ケ村が協力して土橋を架けたと表示板があった。この辺りの村人は、通信使が来るたびにかりだされたのであろう。
仁保橋を渡り、堤防を左に下りていくと、ひっそりとしているが色んな店屋が揃っている町並みに入っていった。十王町・江頭・田中江を通り、加茂町と通じていた。県道が出来る前には、この通がバス・自動車も走っていた繁華街であった。かつて、江頭は湊があって、この交通の要所で物資の往来は盛んだったようだ。この街道には、真新しいが400年記念として2006年「朝鮮人街道」写真№2の道標が建てられていた。この界隈に同様の道標が2本あった。
旧道はやがて加茂町となり、県道と合流するが、再び、旧道を辿った。
加茂町辺りから琵琶湖側を望むとこんもりとした山が二つ横たわっていた。長命寺山(333m)と少し奥に小高い山が奥島山(425m)であり、この山並みの全体の総称も奥島山と呼ばれている。この上ない上品さが漂う山並みである。このような風景は、いくら時代を遡っても、今と昔でそれほど変わらないであろう。余りにも、のどかな景色であったので、写真に切り取っておいた。
白鳥川の歩道専用のある小船木橋を渡って、交差点の先で左折し旧道に入り、八幡城下へ向かった。そのまま真っ直ぐに進めば、土田から音羽へ通じている。八幡城が出来る以前の道である。
小舟木町道標 「長命寺一里」「左 京みち」。写真№3。 この道標は、小舟木町観音山ふもとのL字型の曲がり角にあった。 近江八幡では朝鮮人街道を「京みち」「京街道」と呼ばれていた。「長命寺」は琵琶湖湖畔上にある西国三十三ケ所霊場第31番の長命寺のこと。
1587年豊臣秀次は八幡城を築いた。町は碁盤状に区画され、図書館のある新町通・魚屋通・為心通・仲屋通と永原通を南下し山岸鶏肉店を東に向かい縄手通を南下。
近江八幡市街地をこの朝鮮人街道を通るには一回では通過することは中々難しい。小生、近江八幡市一帯には、4~5回訪れている。この八幡は、中山道・朝鮮人街道を始として琵琶湖と内陸部を結ぶ街道などが行き交うところで、しばしば「八まん」と彫られた道標が多く見られた。遠くは八日市市清水の栄町通りにある後代参街道・八風街道の交差点に「八まん」の名前があった。このように八幡は、主要な街道中山道、東海道からはずれていたが、この辺りでは大きな影響を持っていた。また、「八まん」は「長命寺」とセットにした呼び方の道標もみられ、巡礼道とした役目も持っていたようだ。
朝鮮人街道は旧市街地の中央を東西に走っており、碁盤状に区画されたところでは「京みち」写真№4「京街道」写真№5「朝鮮人街道」写真№6と刻まれた道標が見られた。寺恩寺町近くで非常に古く判読不明の道標№7があった。
縄手町を南下して音羽町をぬけると、県道2号線に出くわした。そこには、大きな常夜燈と道標があり、八幡城下の東口にあたるところだ。
「すく 長命寺みち 是より 一里半と十丁」「くわんおん寺道 是より二里」写真№8の道標。くわんおん寺とは観音正寺のこと。
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野洲市役所入口の左手の前庭に、なぜか2ツの道標が立てられていた。野洲市にとってゆかりがあるのであろう。早速、調べることにした。道標には、「ミやうけん」と言う文字が刻まれていた。
この言葉は、聞き覚えがあった。確か、三上山の表登山路から200mほど石段を上り詰めると、広場があった。 そこには、周囲に巡らした垣や建物の基部に築いた考えられる石造などと共に、「妙見宮」と彫られた常夜灯があることを思い出した。訪れてみると記憶に間違いはなかった。
なぜ、このような聞き慣れない「妙見宮」が三上山の中腹にあったのか…。
「妙見宮」とは、星の中の王と言われる北斗七星を「妙見さん」として古くから信仰されてきたもので、中央アジアの遊牧民が、北極星あるいは北斗七星を信仰したのが始まりと言われています。
ところで、道標が市役所にあったことから三上藩を思い出し、この藩主遠藤氏を調べると、妙見堂とのかかわりが分かってきた。
房総半島を中心に栄えた豪族(千葉一族)は「妙見」を守護神として崇拝して一族の結束を深め、千葉氏一族の分布するところには、必ず妙見信仰がされ、この妙見菩薩を祀っていた。 この一族は、源頼朝を挙兵から一貫して協力してきたので、鎌倉幕府の成立後、各地に領地を与えられたのです。そのひとつが、近江三上藩10、000石の遠藤氏であったのです。
妙見菩薩をまつり、三上村にも勧請(かんじょう)し、参拝者のための道標も立てられたのです。尚、妙見堂の石玉垣刻印が174ケについて克明に調べられているが、やはり関東の人々が圧倒的に多く奉納されていることは、千葉一族とのつながりを物語っているようです。
野洲市にある道標で最も数の多いのが錦織寺で次いで妙見宮でした。したがって、多くの信者が訪れたのであろうと思われた。しかし、道標が野洲川周辺でしか見つかっていないことが、妙に気になった。関東から遠路尋ねてくる参拝者もあり、三上村周辺以外の人達も来られたと思うが…。よく分からない。
この妙見宮に来る参拝者の広がりを知るため道標を調べていると、野洲市から約8km離れた湖南市岩根に、「三上妙見」と彫られた道標が、木村至宏著書「近江の道標」に記述されていた。早速、岩根に訪れ、近江と伊勢を結ぶ伊勢参宮道に沿って辿ってみた。3~4本の古い道標を見つけたが、目当ての道標はなかった。
そのうちに、野洲川の支流思川土手沿いに、かなり沈みこんだ妙な道標を見つけた。「右 やす ぼだひ(菩提寺)」など描かれているようだ。どうも思川沿いのルートが三上村に通じているように思えた。
その後、行俊勉氏の「野洲川の支流思川沿いの朝国に道標がある」との助言通り、「三上妙見三り」の道標を見出した。これで、妙見堂に関わる道標は4ツとなり、結果を一覧表にした。
①道標 ②道標 ③道標 ④道標
妙見堂(神仏分離により「宮」が「堂」に変更された)に関わる道標が3里も離れた三雲近くの朝国まで立っていた。文化七 施主 植村となっている事からして、多分、三上藩にかかわる人が施主になっているだろうと行俊勉氏は推測された。
現在では、妙見堂の面影は全くなく、ススキが生茂り廃墟となり、建物も崩壊し閑散としていますが、昔は、三上藩の守護神でもあったので、にぎわっていたようだ。明治中頃の「三上山略図扇子」を眺めてみますと、石段の途中に茶屋、宿ヤがあり、初午(はつうま)の日は,多くの参拝者が訪れていたようだ。
更に、道標をきっかけに繰っていくと、三上山山麓にある「天保義民碑」の道標です。
忘れてはならない天保の農民一揆です。
天保13年(1842年)、矢川寺(現在の矢川神社)の鐘の合図で起こりました。これは甲南、三雲、北杣、石部、野洲の百姓たちが三上藩陣屋に向って土地検地の取り止めを願った騒動です。妙見堂の道標が1807年立てられていますが、その35年後に、この悲しい出来事が起こっていたのです。
これらは、僅か200年前、三上村の三上藩に関わった出来事です。現在では、その存在すら忘れられています。栄枯盛衰とは世の習いといいますが、この歴史の移り変わりに驚かされました。道標だけが、後世まで伝えているようです。
領地の村々の分布を描いた「三上藩領絵図」からすると、三上藩は、滋賀郡10ケ所、野洲郡8ケ所栗東郡5ケ所甲賀郡4ケ所の領地があったようだ。今後、妙見堂の道標は、かなりの範囲で発見されるかもしれない。特に、琵琶湖を渡った堅田も大きな領地があったので、道標を探してみたい。また、「ミやうけん」に関する道標があれば、ご一報ください。
この調査にあたっては、野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)研究紀要 第11号「野洲の道標」 行俊勉氏の多大なアドバイスをもらった。この場を借りてお礼を申し上げます。
参考資料
東氏・遠藤氏と三上藩 発行銅鐸博物館
近江富士 三上山 発行銅鐸博物館
野洲のミニ百科辞典 発行野洲町生涯学習のまちづくり会議
この言葉は、聞き覚えがあった。確か、三上山の表登山路から200mほど石段を上り詰めると、広場があった。 そこには、周囲に巡らした垣や建物の基部に築いた考えられる石造などと共に、「妙見宮」と彫られた常夜灯があることを思い出した。訪れてみると記憶に間違いはなかった。
なぜ、このような聞き慣れない「妙見宮」が三上山の中腹にあったのか…。
「妙見宮」とは、星の中の王と言われる北斗七星を「妙見さん」として古くから信仰されてきたもので、中央アジアの遊牧民が、北極星あるいは北斗七星を信仰したのが始まりと言われています。
ところで、道標が市役所にあったことから三上藩を思い出し、この藩主遠藤氏を調べると、妙見堂とのかかわりが分かってきた。
房総半島を中心に栄えた豪族(千葉一族)は「妙見」を守護神として崇拝して一族の結束を深め、千葉氏一族の分布するところには、必ず妙見信仰がされ、この妙見菩薩を祀っていた。 この一族は、源頼朝を挙兵から一貫して協力してきたので、鎌倉幕府の成立後、各地に領地を与えられたのです。そのひとつが、近江三上藩10、000石の遠藤氏であったのです。
妙見菩薩をまつり、三上村にも勧請(かんじょう)し、参拝者のための道標も立てられたのです。尚、妙見堂の石玉垣刻印が174ケについて克明に調べられているが、やはり関東の人々が圧倒的に多く奉納されていることは、千葉一族とのつながりを物語っているようです。
野洲市にある道標で最も数の多いのが錦織寺で次いで妙見宮でした。したがって、多くの信者が訪れたのであろうと思われた。しかし、道標が野洲川周辺でしか見つかっていないことが、妙に気になった。関東から遠路尋ねてくる参拝者もあり、三上村周辺以外の人達も来られたと思うが…。よく分からない。
この妙見宮に来る参拝者の広がりを知るため道標を調べていると、野洲市から約8km離れた湖南市岩根に、「三上妙見」と彫られた道標が、木村至宏著書「近江の道標」に記述されていた。早速、岩根に訪れ、近江と伊勢を結ぶ伊勢参宮道に沿って辿ってみた。3~4本の古い道標を見つけたが、目当ての道標はなかった。
そのうちに、野洲川の支流思川土手沿いに、かなり沈みこんだ妙な道標を見つけた。「右 やす ぼだひ(菩提寺)」など描かれているようだ。どうも思川沿いのルートが三上村に通じているように思えた。
その後、行俊勉氏の「野洲川の支流思川沿いの朝国に道標がある」との助言通り、「三上妙見三り」の道標を見出した。これで、妙見堂に関わる道標は4ツとなり、結果を一覧表にした。
タイトル | 妙見堂道標① | 妙見堂道標② | 妙見堂道標③ | 妙見堂道標④ |
銘文 | 三上妙見□従是十三町 施主 彦根 八百屋九兵衛 | 右ミやうけん道 文化六年巳五月 仁保村 | ミやうけみち 文化四 | 左 三上妙見 三り 文化 |
大きさ | 高さ143cmX幅24cmX奥行24cm | 高さ1193cmX幅24cmX奥行24cm | 高さ57.5cmX幅16cmX奥行14cm | 高さ109cmX幅21.5cmX奥行21.5cm |
かたち | 方柱型 | 左同じ | 左同じ | 左同じ |
行き先と距離 | 三上妙見堂 | 三上妙見堂 | 三上妙見堂 | 三上妙見堂 |
十三町 | なし | なし | 三里 | |
建立年 | 1807年 | 1809年 | 1807年 | 1810年 |
建立者・寄進者 | 施主 彦根 八百屋九兵衛 | 仁保村 | 不明 | 判読不明 |
所在地 | 野洲市野洲 | 野洲市野洲 | 野洲市三上 | 湖南市朝国 |
建立箇所 | 国道8号線野洲川付近 | 中山道野洲川付近 | 悠紀斎田地(ゆうきさいでん)近くの田んぼ | 不明 |
現設置場所 | 野洲市市役所庭 | 左同じ | 三上集楽センターに保管 | 朝国思川沿いの高徳寺付近 |
摘要 | 当初は「妙見宮」であったが、明治の神仏分離により「妙見堂」と呼ばれる。 | 仁保村とは、近江八幡市十王町の通称。三上藩嶺で称。三上藩嶺であった。 | 野洲川から山出集落にいく道に傾いて埋まっていたが、現在、三上集楽センターに一時保管。 | 木村至宏氏の資料によれば、施主は「植村」上村藤左エ門。 |
①道標 ②道標 ③道標 ④道標
妙見堂(神仏分離により「宮」が「堂」に変更された)に関わる道標が3里も離れた三雲近くの朝国まで立っていた。文化七 施主 植村となっている事からして、多分、三上藩にかかわる人が施主になっているだろうと行俊勉氏は推測された。
現在では、妙見堂の面影は全くなく、ススキが生茂り廃墟となり、建物も崩壊し閑散としていますが、昔は、三上藩の守護神でもあったので、にぎわっていたようだ。明治中頃の「三上山略図扇子」を眺めてみますと、石段の途中に茶屋、宿ヤがあり、初午(はつうま)の日は,多くの参拝者が訪れていたようだ。
更に、道標をきっかけに繰っていくと、三上山山麓にある「天保義民碑」の道標です。
忘れてはならない天保の農民一揆です。
天保13年(1842年)、矢川寺(現在の矢川神社)の鐘の合図で起こりました。これは甲南、三雲、北杣、石部、野洲の百姓たちが三上藩陣屋に向って土地検地の取り止めを願った騒動です。妙見堂の道標が1807年立てられていますが、その35年後に、この悲しい出来事が起こっていたのです。
これらは、僅か200年前、三上村の三上藩に関わった出来事です。現在では、その存在すら忘れられています。栄枯盛衰とは世の習いといいますが、この歴史の移り変わりに驚かされました。道標だけが、後世まで伝えているようです。
領地の村々の分布を描いた「三上藩領絵図」からすると、三上藩は、滋賀郡10ケ所、野洲郡8ケ所栗東郡5ケ所甲賀郡4ケ所の領地があったようだ。今後、妙見堂の道標は、かなりの範囲で発見されるかもしれない。特に、琵琶湖を渡った堅田も大きな領地があったので、道標を探してみたい。また、「ミやうけん」に関する道標があれば、ご一報ください。
この調査にあたっては、野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)研究紀要 第11号「野洲の道標」 行俊勉氏の多大なアドバイスをもらった。この場を借りてお礼を申し上げます。
参考資料
東氏・遠藤氏と三上藩 発行銅鐸博物館
近江富士 三上山 発行銅鐸博物館
野洲のミニ百科辞典 発行野洲町生涯学習のまちづくり会議
私は、滋賀県のJR各駅に備えられている「滋賀を歩こう」の地図を頼りに、ウォーキングを楽しんでいます。それも気がよく合う男二人だ。相手方は必ず、正確にウォーキングマップに描かれた道順を辿って先導くれるので、私はついていくだけです。予定コースを完歩すると、至福の時間を得るため決まって酒屋を探すことになります。ただし、田舎に行くと店屋が見つからないで苦労するのです。
ところで、最近、長浜城歴史博物館 江竜喜之館長の「近江の歴史と名所図会」の講義を8回X2時間受け、道標に興味をもってしまったようだ。最近のウォーキングでは、古い石碑があると、必ず目で追ってしまう自分に気がつきます。
近江の最も古いものは1680年に建立されたと言われ、特に江戸時代中期から後期が多いようです。およそこの300年の間に、街道沿いに立てられた道標には、主に「行き先」「方向」「距離」「その他」が刻み込まれているシンプルなものです。
たったこれだけの情報だけですが、同じ行き先の道標が数多くあると何らかの意味が持ってきます。
守山宿を訪れたとき、中山道守山宿の高札場の一角の目抜き通りに、立派な道標があった。「右 中山道 并 美濃路」、「左 錦織寺 四十五丁 こ乃者満ミち」①と刻まれていた。
ここは、中山道・美濃路と錦織寺の分岐点で、右に曲がると守山宿の中心街を通り武佐・愛知川と進み、美濃へと続いていること示されています。左手に進めば、ここから錦織寺まで約5km、また、「このはまミち」は、琵琶湖の舟着き場として栄えた木浜港に通じることも示されています。この道標は1744年に作られた古いもので 昭和52年守山市の文化財に指定されています。
当時の旅人が1日に歩く距離は8里(約32キロ)とされ、守山宿が京都から丁度8里の場所にあることから「京立ち守山泊まり」と言われ繁栄した宿場町として賑わっていました。特に、この道標の近くには高札場があった。多くの旅人が、宿駅で人馬を替えての継ぎ立て、賃銭をはじめ法度(はっと)や掟書(おきてがき)などの触れ書を見るため立ち寄るところです。
ところで、私だけかも知りませんが、錦織寺の存在すら知らなかった。このような往来の激しいところに「錦織寺」の道標がなぜあるのか不思議に思えた。
さらに、守山宿から中山道を東下りしていくと、野洲行畑において、中山道と朝鮮人街道の分岐点に至ります。現在、ここには道標はありませんが、少し離れた蓮照寺に保管されていた。「左中山道(北国みち) 右八まんみ(ち)」の道標と並んで、「自是錦織寺迄四十口」②の道標がありました。当時の野洲郡のヒトの流れの中心は、中山道、朝鮮人街道であったと思われますが、「錦織寺」道案内がされており、丁寧に距離まで表示されていたのです。それだけ、ここへ訪れる旅人が多かったのでしょう。
まず、この寺の様子を観るために野洲市木部(きべ)にある錦織寺に赴いた。
この寺は野洲川と日野川間の広大な沖積流域に広がる平野部の真ん中にあった。湖東平野部を見守るように三上山が見えた。この山を後景に威風堂々とした錦織寺があった。当時の旅人にとっても、この寺は、大きいので遠くからの目印となったと思われた。
広い寺域には、左右に立派な築地塀(ついぢべい)が延び、境内には阿弥陀堂・御影堂・宝蔵(ほうぞう)・書院・講堂・鐘楼といった大きな建物が立ち並び、威厳と格式を感じた。そして、親鸞聖人が阿弥陀像を安置して再興した時、天女が下り、蓮の糸で綿を織って献じたことから寺号がついたと言われています。
この寺は親鸞聖人を祖とする浄土真宗十派の一の真宗木辺派の総本山です。木辺の里から発祥しているので木辺派と呼ばれ、全国に220の末寺を傘下に持っているようです。九州など他県には大勢の門徒がおられるようですが、野洲と近江八幡あたりに50か寺ほどで、県内では余り知られていないのです。
滋賀県は浄土真宗に対する信仰が厚く、「火事になったらまず仏壇から持ち出す」という土地柄であると言われています。 そして、この寺密度が日本で一番高い県は、近江なんです。ここには、1600の真宗のお寺がありますが、そのほとんどが東西両本願寺を本山とする大谷派と本願寺に属しています。 その中の一派の真宗木辺派の本山であったが、あまりにも巨大な教団に圧倒され気づかなかったようです。
そこで、野洲周辺にどれだけ「錦織寺」の道標があるのか調べることにした。これらを一覧表にして、場所も印した。
道標② 道標③ 道標④ 道標⑤
江戸時代、参勤交代が始まる頃には、大名が宿泊できるように宿場も充実され街道も整備され、一里塚も築かれた。道が2本に分かれるところや曲がり角には、道標も立てられた。旅人は、安心して草津から守山、武佐、愛知川、…柏原と旅したのでしょう。
この往来の激しい街道沿いの要所、要所に、「錦織寺」の道標が揃えられていたのです。一地域のお寺ではないようです。参拝する人々が多く、錦織寺を目指して、訪れるヒトも多かったのであろうと推測されます。
大げさに言えば、約100年~250年前の野洲を代表するところは、「錦織寺」ともいえるのではないか…。道標を通して、江戸時代に旅をしたような世界に舞い込んでしまったようだ。
資料・調査にあたっては、野洲市歴史民俗博物館 行俊(いくとし)勉氏には多大な助言を頂ました。
この場を借りましてお礼を申し上げます。
参考資料
近江の道標 木村至宏著者 京都新聞社
東氏・遠藤氏と三上藩 銅鐸博物館
野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)研究紀要 第11号
近江中山道 木村至宏など著者・朝鮮人街道を行く 門脇正人著者 サンライズ出版
ところで、最近、長浜城歴史博物館 江竜喜之館長の「近江の歴史と名所図会」の講義を8回X2時間受け、道標に興味をもってしまったようだ。最近のウォーキングでは、古い石碑があると、必ず目で追ってしまう自分に気がつきます。
近江の最も古いものは1680年に建立されたと言われ、特に江戸時代中期から後期が多いようです。およそこの300年の間に、街道沿いに立てられた道標には、主に「行き先」「方向」「距離」「その他」が刻み込まれているシンプルなものです。
たったこれだけの情報だけですが、同じ行き先の道標が数多くあると何らかの意味が持ってきます。
守山宿を訪れたとき、中山道守山宿の高札場の一角の目抜き通りに、立派な道標があった。「右 中山道 并 美濃路」、「左 錦織寺 四十五丁 こ乃者満ミち」①と刻まれていた。
ここは、中山道・美濃路と錦織寺の分岐点で、右に曲がると守山宿の中心街を通り武佐・愛知川と進み、美濃へと続いていること示されています。左手に進めば、ここから錦織寺まで約5km、また、「このはまミち」は、琵琶湖の舟着き場として栄えた木浜港に通じることも示されています。この道標は1744年に作られた古いもので 昭和52年守山市の文化財に指定されています。
当時の旅人が1日に歩く距離は8里(約32キロ)とされ、守山宿が京都から丁度8里の場所にあることから「京立ち守山泊まり」と言われ繁栄した宿場町として賑わっていました。特に、この道標の近くには高札場があった。多くの旅人が、宿駅で人馬を替えての継ぎ立て、賃銭をはじめ法度(はっと)や掟書(おきてがき)などの触れ書を見るため立ち寄るところです。
ところで、私だけかも知りませんが、錦織寺の存在すら知らなかった。このような往来の激しいところに「錦織寺」の道標がなぜあるのか不思議に思えた。
さらに、守山宿から中山道を東下りしていくと、野洲行畑において、中山道と朝鮮人街道の分岐点に至ります。現在、ここには道標はありませんが、少し離れた蓮照寺に保管されていた。「左中山道(北国みち) 右八まんみ(ち)」の道標と並んで、「自是錦織寺迄四十口」②の道標がありました。当時の野洲郡のヒトの流れの中心は、中山道、朝鮮人街道であったと思われますが、「錦織寺」道案内がされており、丁寧に距離まで表示されていたのです。それだけ、ここへ訪れる旅人が多かったのでしょう。
まず、この寺の様子を観るために野洲市木部(きべ)にある錦織寺に赴いた。
この寺は野洲川と日野川間の広大な沖積流域に広がる平野部の真ん中にあった。湖東平野部を見守るように三上山が見えた。この山を後景に威風堂々とした錦織寺があった。当時の旅人にとっても、この寺は、大きいので遠くからの目印となったと思われた。
広い寺域には、左右に立派な築地塀(ついぢべい)が延び、境内には阿弥陀堂・御影堂・宝蔵(ほうぞう)・書院・講堂・鐘楼といった大きな建物が立ち並び、威厳と格式を感じた。そして、親鸞聖人が阿弥陀像を安置して再興した時、天女が下り、蓮の糸で綿を織って献じたことから寺号がついたと言われています。
この寺は親鸞聖人を祖とする浄土真宗十派の一の真宗木辺派の総本山です。木辺の里から発祥しているので木辺派と呼ばれ、全国に220の末寺を傘下に持っているようです。九州など他県には大勢の門徒がおられるようですが、野洲と近江八幡あたりに50か寺ほどで、県内では余り知られていないのです。
滋賀県は浄土真宗に対する信仰が厚く、「火事になったらまず仏壇から持ち出す」という土地柄であると言われています。 そして、この寺密度が日本で一番高い県は、近江なんです。ここには、1600の真宗のお寺がありますが、そのほとんどが東西両本願寺を本山とする大谷派と本願寺に属しています。 その中の一派の真宗木辺派の本山であったが、あまりにも巨大な教団に圧倒され気づかなかったようです。
そこで、野洲周辺にどれだけ「錦織寺」の道標があるのか調べることにした。これらを一覧表にして、場所も印した。
タイトル | 錦織寺道標① | 錦織寺道標② | 錦織寺道標③ | 錦織寺道標④ | 錦織寺道標⑤ |
銘文 | 右 中山道 并美濃路左 錦織寺 四十五町 こ乃は満みち | 自是錦織寺迄四十口 | 真宗木邊派 本山錦織寺 1り | 錦織寺江三十 | 兵主大社従是錦織寺 三十八丁 |
大きさ | 高さ155cmX幅30cmX奥行30cm | 高さ87cmX幅25cmX奥行24cm | 高さ220cmX幅45cmX奥行44cm | 高さ88cmX幅23cmX奥行20cm | 高さ114cmX幅23cmX奥行23cm |
かたち | 方柱型 | 左同じ | 左同じ | 左同じ | 左同じ |
行き先と距離 | 錦織寺 | 左同じ | 左同じ | 左同じ | 左同じ |
四十五町 | 四十口(町か) | 1里 | 三十町 | 三十八町 | |
建立年 | 1744年 | 江戸時代 | 不明(明治~大正) | 1806年 | 不明 |
建立者・寄進者 | 大津西念寺講中 | 不明 | 不明 | 不明 | 比江村役人 |
所在地 | 守山市本町 | 野洲市行畑 | 野洲市小篠原 | 野洲市大篠原 | 野洲市比江 |
建立箇所 | 中山道守山宿の高札場の一角 | 中山道と朝鮮人街道の分岐点 | 野洲駅前の朝鮮人街道交差点 | 中山道沿い西池付近 | 長澤神社の野洲川沿い土手 |
現設置場所 | 上記同じ | 戦後、蓮照寺境内に移設 | 上記同じ | 中山道からやや北側に設置 | 比江松林交差点に設置 |
摘要 | 「こ乃は満みちと」は木浜港 | 根元部分破損 | 野洲駅、開駅1891年以降に設置 | 工事中、土中から発見 | 同じ場所に⑥小型道標あり |
道標② 道標③ 道標④ 道標⑤
江戸時代、参勤交代が始まる頃には、大名が宿泊できるように宿場も充実され街道も整備され、一里塚も築かれた。道が2本に分かれるところや曲がり角には、道標も立てられた。旅人は、安心して草津から守山、武佐、愛知川、…柏原と旅したのでしょう。
この往来の激しい街道沿いの要所、要所に、「錦織寺」の道標が揃えられていたのです。一地域のお寺ではないようです。参拝する人々が多く、錦織寺を目指して、訪れるヒトも多かったのであろうと推測されます。
大げさに言えば、約100年~250年前の野洲を代表するところは、「錦織寺」ともいえるのではないか…。道標を通して、江戸時代に旅をしたような世界に舞い込んでしまったようだ。
資料・調査にあたっては、野洲市歴史民俗博物館 行俊(いくとし)勉氏には多大な助言を頂ました。
この場を借りましてお礼を申し上げます。
参考資料
近江の道標 木村至宏著者 京都新聞社
東氏・遠藤氏と三上藩 銅鐸博物館
野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)研究紀要 第11号
近江中山道 木村至宏など著者・朝鮮人街道を行く 門脇正人著者 サンライズ出版
私は山にいきますが、案内板、道標には注意深く確認をしてきました。山でひとつ谷筋をくるう些細な間違いであっても、次第に大きくずれはじめ、とんでもない危険なことに遭遇してしまうことも多々ありました。このような事から、街中の道標であっても、ついつい観てしまい慣れ親しんできました。最近では、変体仮名にも興味を持ち、古い道標に関心を持ち始めました。
近江は地形的に、京都、伊勢、美濃、敦賀、小浜などに通ずる位置にあり、東海道、中山道、北国道、更に八風街道、朝鮮人街道、北国海道などの数多くの街道が多く貫通しています。そこには、旅人のために道標が建てられました。
古きよき時代の旅人になった気分で矢橋(やばせ)港を目指した事がありました。草津本陣から、東海道を南へ進み、立木神社を越え、更に歩んでいくと、矢橋街道との分岐点に「 右やはせ道 」の道標がありました。瓢箪の商いをしている瓢泉堂の店前です。
道標は、 建てられて210年経ち、下の字が崩れ始め、分りにくくなっていました。後で調べてみますと、「 是より廿五丁 大津へ舟わたし 」 と刻まれているらしい。
丁とは、尺貫法における距離の単位で、1丁は、約109メートルです、廿とは、これは「十」を二個組み合わせた合字、二十のことで、廿五丁は、2.7kmです。つまり、「琵琶湖方面へ約3km行けば、大津まで舟で」と旅人に案内がされていたのです。
かつては、ここが、老舗の「姥が餅屋」あったところです。
「 瀬田に廻ろか矢橋へ下ろか 此処が思案の乳母が餅 」と俗謡はここで唄ったものです。
当時、どっちに行こうか思案しながら、旅する人達は、茶店の縁台に腰をおろして、一杯の緑茶と乳母の乳の形をした姥ヶ餅を食べながら、しばし一服していたのでしょう。
ここは、東海道と矢橋街道の重要な分岐点になっていました。江戸時代、「 勢多へ回れば三里の回りござれ矢橋の舟にのろ 」と、歌われました。東海道を草津から大津まで行くと瀬田の唐橋を通って約12km。草津から矢橋まで約4kmを歩き、あとは大津まで船旅で行くと楽をすることができたところから、たいへんな賑わいだったようです。ところが、比叡おろしの突風で進まなくなったり、舟が転覆する危険もあった。 このことを「武士の(もののふの) やばせの舟は 早くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋(唐橋)」と詠んだのが急がば廻れの語源といわています。
古くから矢橋港は、東海道と大津とを結ぶところとして栄え、近江八景「矢橋の帰帆」として知られてきました。しかし、港付近は埋め立てられ、波止場の石垣が復元されていました。矢橋の帰帆時代の趨勢には勝てず、明治になり鉄道の開通にともない、矢橋港は次第に見向きもされなくなりました。
1846年に建てられた常夜灯が残るのみです。尚、古木の松は、マツクイムシにやられたのか、無残な姿のまま放置されていました。
港跡の西には、人工島「矢橋帰帆島」が作られ、歌川広重が描いた景色は見る影もなくなっていました。
公園の中に、「 菜の花や みな出はらひし 矢走舟 」という、蕪村が詠んだ句碑がありました。
比叡山を背景にして、乗船の時は騒々しかったが、舟が出てしまうと菜の花だけが風に揺れて、のどかな雰囲気を醸し出している風景を詠ったものです。
栄えた矢橋港も無く、矢橋帰帆島を見て 蕪村はどう詠うのであろう。
「 菜の花や いくてさまたげ 帰帆島 」 とでも言うのかなー。
近江は地形的に、京都、伊勢、美濃、敦賀、小浜などに通ずる位置にあり、東海道、中山道、北国道、更に八風街道、朝鮮人街道、北国海道などの数多くの街道が多く貫通しています。そこには、旅人のために道標が建てられました。
古きよき時代の旅人になった気分で矢橋(やばせ)港を目指した事がありました。草津本陣から、東海道を南へ進み、立木神社を越え、更に歩んでいくと、矢橋街道との分岐点に「 右やはせ道 」の道標がありました。瓢箪の商いをしている瓢泉堂の店前です。
道標は、 建てられて210年経ち、下の字が崩れ始め、分りにくくなっていました。後で調べてみますと、「 是より廿五丁 大津へ舟わたし 」 と刻まれているらしい。
丁とは、尺貫法における距離の単位で、1丁は、約109メートルです、廿とは、これは「十」を二個組み合わせた合字、二十のことで、廿五丁は、2.7kmです。つまり、「琵琶湖方面へ約3km行けば、大津まで舟で」と旅人に案内がされていたのです。
かつては、ここが、老舗の「姥が餅屋」あったところです。
「 瀬田に廻ろか矢橋へ下ろか 此処が思案の乳母が餅 」と俗謡はここで唄ったものです。
当時、どっちに行こうか思案しながら、旅する人達は、茶店の縁台に腰をおろして、一杯の緑茶と乳母の乳の形をした姥ヶ餅を食べながら、しばし一服していたのでしょう。
ここは、東海道と矢橋街道の重要な分岐点になっていました。江戸時代、「 勢多へ回れば三里の回りござれ矢橋の舟にのろ 」と、歌われました。東海道を草津から大津まで行くと瀬田の唐橋を通って約12km。草津から矢橋まで約4kmを歩き、あとは大津まで船旅で行くと楽をすることができたところから、たいへんな賑わいだったようです。ところが、比叡おろしの突風で進まなくなったり、舟が転覆する危険もあった。 このことを「武士の(もののふの) やばせの舟は 早くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋(唐橋)」と詠んだのが急がば廻れの語源といわています。
古くから矢橋港は、東海道と大津とを結ぶところとして栄え、近江八景「矢橋の帰帆」として知られてきました。しかし、港付近は埋め立てられ、波止場の石垣が復元されていました。矢橋の帰帆時代の趨勢には勝てず、明治になり鉄道の開通にともない、矢橋港は次第に見向きもされなくなりました。
1846年に建てられた常夜灯が残るのみです。尚、古木の松は、マツクイムシにやられたのか、無残な姿のまま放置されていました。
港跡の西には、人工島「矢橋帰帆島」が作られ、歌川広重が描いた景色は見る影もなくなっていました。
公園の中に、「 菜の花や みな出はらひし 矢走舟 」という、蕪村が詠んだ句碑がありました。
比叡山を背景にして、乗船の時は騒々しかったが、舟が出てしまうと菜の花だけが風に揺れて、のどかな雰囲気を醸し出している風景を詠ったものです。
栄えた矢橋港も無く、矢橋帰帆島を見て 蕪村はどう詠うのであろう。
「 菜の花や いくてさまたげ 帰帆島 」 とでも言うのかなー。