2012年05月30日   学徒動員の若者に求められた中宮寺菩薩半跏像

  昨年の暮れ、近鉄沿線で漆黒の仏像を背景にした大和路を案内するポスターを見かけた。一度、目にすると、心を揺さぶられる像であった。

 今年4月4日「極上美の饗宴」のBSプレミアムで「たおやか思索ポーズの謎~中宮寺“菩薩半跏像”」を観た途端、深く沈殿していた像がよみがえってきた。

 仏像写真家の小川光三氏が、1枚の写真を持ち出してきた。父親の小川晴暘(せいよう)が、大正時代の終わりに、ガラスに薬品を塗った「ガラス乾板」で撮った写真である。光線を軽く半面に受けた優しい眼差しをした中宮寺の菩薩半跏像である。 太平洋戦争が始まって2年目、敗色が濃厚になった頃の話である。学徒動員が行われた。若者が生きては帰れない命のやりとりをしている戦地に送り込まれた。

  その際、この1枚の写真を求めて、若者がやってきたというのである。
 戦地に赴く、若者が、恋人であり、母親の面影すべてを包み込んだ像の写真を求めた。たぶん、出撃すれば、たおやかな菩薩半跏像と一緒であれば、「死ねる」とも思ったのであろうか。 写真は一枚ごと焼き付けられ、戦地の赴く若者に手渡され。この仏像には、このような悲しい秘話があった。
 
 この話を知った以上、若者の心の糧になったという仏像を、どうしても拝んでみたいとの思いで、法隆寺に出向いた。法隆寺前の町立駐車場に車を止め、法隆寺の玄関に当る南大門へ向かった。
 門前で、「私は、無料のガイドです」と話しかけてきた。
法隆寺に来られたのですかと尋ねられ、「今日は、中宮寺の菩薩半跏像を鑑賞するために来ました」と返答した。 
 たぶん、法隆寺について説明したかったのであうが、私には中宮寺しか関心がなかった。
ガイドさんは、「中宮寺は法隆寺の夢殿の裏手にある小さなお寺で、すぐに行ける」と言いながら、自前のガイドブックを開けて、中宮寺に安置されている仏像の説明をされた。
 顔の美しさが、レオナルド・ダ・ビンチ作のモナリザと、エジプトのスフィンクスと並び「世界の三つの微笑像」とも呼ばれている・・・・など。

 最後に、「夢殿の本尊の救世観音(ぐぜかんのん)は中々見られない。今、開帳されているので、是非立ち寄ってください」と言われたが、私は全く行く気がなかった。あれもこれも観ると印象に残らない。できるだけひとつに絞って鑑賞することにしていた。帰り際、「藤ノ木古墳石室特別公開」の見学があったが、丁寧に断った。

 後方にそびえる五重塔を見ながら、西院伽藍から大宝蔵院と歩いて夢殿を抜けると、中宮寺の入口にやってきた。拝観料を払い、門をくぐると本堂があった。階段を上ると 観覧の広間があり、その奥に「中宮寺の菩薩半跏像」が目の前に鎮座されていた。何人もの人が菩薩さまに向かって正座していたので、私も手を合わせ、じっくり、お姿を眺めた。 
 足を組み、右手をそっと頬に添えて、静かに微笑む半跏姿から伝わってくるものは、何物にも動じない構えであり、安心感があった。「うっとり」として眺めていると、深い冥想をされている姿は近寄りがたい威厳に満ちていたが、何時しか、やさしいまなざしになり、そっと近づき抱いてくれる慈母にも思えた。そのやさしさとは、神聖な慈愛に満ちたやさしさである。

 当初この仏像は彩色されていたようだが、長い時間を経て、つやのある漆黒色になったのであろう。この黒色の色彩は、顔の表情なども細やかに伝わってきた。眼を閉じたようにみえるが、上まぶたと下まぶたの陰影で表現され、目元が柔らかである。ほほえんだ唇のあたりが、さらに柔らかな線であった。若者が、この姿を求めに来たのかと、少し納得した。

 この仏像から醸し出される美しさは、現代彫刻にも通じる斬新が感じられた。作者は、飛鳥時代の無名の仏師。すでに、現代の美意識を持っていた人物なのであろう。
 
 今回訪れた菩薩さまは、端に移動して拝見したが、どうしても正面しか見られなかった。機会があれば、日本国のため玉砕していった若者が、求めていた左角度の菩薩さまを観て、とむらいたい気持であった。

  奈良には、これで3人の心の恋人が出来てしまった。興福寺の懐かしい阿修羅像、秋篠寺の艶めかしい技芸天像、そして中宮寺の最も物悲しい菩薩半跏像。







Posted by nonio at 21:30Comments(0)仏像