九重山群きっての紅紫色のミヤマキリシマの平冶岳(ひいじだけ)


6月5日夕方、大阪南港コスモフェリーターミナルから、直行便”さんふらわあ”に乗り込んだ。展望通路に酒飲み数人が陣取り、出港前にワインで出来上がってしまった。酔いに任したとりとめのない話が続く、やはり山の話になってくる。
自然を相手しているので、結構厳しい状況下に出遭う。危険と隣り合わせの経験は、自己防衛に関わってくるので大脳旧皮質が頭をもたげる…。話で盛り上がる。色んな角度から微に入り細に入り全員が分り合うまで、楽しかった想いで、危なかったこと、辛かったことを繰り返し話す。「終わったかなー」と思ってもまだまだ話が続く。このテーマに語ることがなくなるまで続けられる。そして次のテーマへと移っていく。数々の本能に近い記憶が走馬灯のように駆けめぐっていく。
これらのひとつひとつの話には、大した意味がないが、何人が集まり話しているそのことに充実感が存在する。自己実存に触れることができたような気がした。
そうこうしていると、船窓から六甲山の黒い山陰と神戸の繁華街の明かりのコントラストが見事だ…。
翌日目が覚めると、霧で辺りが見えない中、別府観光港についた。
山名には、いきさつがある。豊後では九重山、肥後では久住山と長らく言いあっていたが、「山群の総称を九重、その最高峰を久住と呼んで、…」と山名の痛みの分けになった。この一節は深田久弥の「日本百名山」新潮社。
昭和39年刊行された以前は、久住山(1786m)が九州本土で最高峰の山となっていたのであろう。その後、昭和60年頃の再測量により、現在中岳が最高峰(1791m)となった。最高峰は大船山になったこともあり、九重山群の山々は突出した山がない。中岳・久住山・大船山は、5m以内で、ひしめきあい、造山活動からするとどれが最高峰になるか分からない。
今回、牧ノ戸峠から久住山、中岳、大船山、平冶岳と人気コースを辿ったが、6日はあいにく天気が悪く、久住山の登りは、ガスの中。でも、久住山の頂上では、時折雲が切れた。この一瞬、広がる裾野、遠くの阿蘇、祖母山の山並み等を垣間見て、久住山の山容の大きさの片鱗を見た。その後、雲もなくなり中岳から、御池越し見える久住山は、やわらかい山容で且つ威厳を保ちながら鎮座していた。やはり、深田久弥が言う、最高峰の座を譲っても久住山は、”品のある山”のようだ。
九重山群を探る基地になっている法華院温泉山荘にやっかいになった。東側には、大きな船がひっくり返ったように見える大船山、その並びに二つ山の優雅な姿の平冶岳があり、存在感のある三俣山の間に坊ガツルの平原が広がっていた。6月と言うのに夜間3時ごろ寒さで起こされた。真っ黒の山並み囲まれたこの盆地状に筋状に霧が漂い、天空には、星がまばたく幻想的な世界が広がっていた。
大船山に向かって木道を伝って歩き出した。平治岳をめぐるコースは、ミヤマキリシマの開花時期になっていた。中でも九重山群で最もミヤマキリシマが多いのが、平冶岳。南斜面から頂上までピンクに染まっていたジュウタンを敷き詰めたかのような素晴らしい光景に出合った。大戸越から仰ぎ見る平治岳は、ピンク一色だ。ミヤマキリシマの中に登る道、降りる道に分かれているが人の大渋滞。30分程度のところが3時間待ちとなり、途中の岩場手前で退却となった。
大船山頂上付近から段原火口と背景平冶岳

大戸越から仰ぎ見る平治岳

ミヤマキリシマは、九州の比較的標高の高い火山地帯に分布しているが、山ツツジが長年火山性ガスに晒され、できた品種とされている。ミヤマキリシマが群生しているところは、頂上付近のみで、山の裾野では殆ど見かけられなかった。硫黄岳から噴出するがスは高い頂き一帯を覆い、ミヤマキリシマ以外の植物の進入を拒んでいるのであろう。その結果、ミヤマキリシマだけの楽園になっている。50~100cm程度の背丈で、枝先に2,3個ずつ可愛らしい2cmほどの花で埋め尽くされていた。
それにしても、都会並みの人出である。ミヤマとは、人里はなれた深山に自生するというという意味で命名されたようだが、 これだけ人が押し寄せている昨今では、深山でなくなり、浅山である。これでは能がない。人里に近いところと言う意味から外山・端山でどうだろう。それとも裏山…。これもしっくりいかない。やはり美山キリシマか。
帰路も船旅となった…。
瀬戸内海の早朝
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香美町のシンボルである余部(あまるべ)鉄橋は、トレッスル橋として日本で一番高く、明治の鉄道建築としても貴重なものです。
消え行く余部鉄橋に向かっています。地図余部 京都府舞鶴市から鳥取県岩美町まで海岸沿いの町・集落を結んでいる国道178号線を走っています。豊岡から、香住を通り抜け山間部から坂を下っていくと、かすかに海が見えたと思った瞬間、余部鉄橋が現れました。
500~600m手前の路肩に自動車を止めて、鉄橋を眺めると、この巨大な人工物は、余部集落をまたいで2ツの山をつなぐように建てられています。徒歩で近づいていくと、そびえたつ建造物は益々威圧的になります。間近で見上げると、三角形をつなぎあわせたトラス構造をしており、無骨な鉄骨が幾何学状に配置された塔が何基も並んでいます。この異様な人工物は、山と海があるのどかな集落の風景には決して似合わない物体ですが、長年この土地に住み着き今では許してもらったのでしょう。違和感がありながら、なぜか風景に溶け込んでいました。
この余部鉄橋は、松本零士氏代表作の「銀河鉄道999」を彷彿させ、夜間、列車が空中に浮いているように見えるとして多くの鉄道ファンを中心に知られております。{銀河鉄道999}
案内板には、施工明治42年、橋脚の高さ41.5m、長さ約310mとの説明がありました。 当時の強度計算では、三角形を単位とした構造骨組(トラス構造)により近似的な解析をしたのでしょう、また、あまりにも架橋が高いので挫屈も心配したのでしょう、その他風・地震など考慮して、安全率を高く見込んだ結果、310mの間に11基もの橋脚で設計されたのです。あまりにも橋脚の数が多くて、この田園地帯の風景に馴染むと言うより、威圧感を与えていました。
当時、部材の接合は、リベット工法でした。現在では滅多に見られないやっかいな施工法です。部材に穴をあけ、リベット軸を差し込み、両側または片側から叩いてかしめていくのです。この作業は熟練を要します。1本つづ真っ赤に熱しては放り上げ、上で職人が受け取り、素早く打ち込んでいく作業です。リベット数にして六万八千本にのぼり、大工事であったことが推測されました。その上に、リベット構造の保守点検も大変です。1本つづリベットを確認しながら頭が外れていれば打ち直しが必要になります。
風景には見えないが、その風景の裏側に潜んでいる先人達の苦労を思い浮かべていました。
この鉄橋は、すでに100年経過し、老朽化が進んでいることや、昭和61年の大惨事以降、強風が吹けば列車が止まり、山陰本線の運行ダイヤが大幅に乱れの原因にもなり、架け替えが決定されています。地元の香美町にとって、大切な建造物の架け替えは残念ですが、住民の安全などを考えればやむを得ない判断と思います。
2010年秋頃に完成予定の新橋の架け替え工事が始まっていました。現鉄橋の南側には、PC橋(コンクリート橋)が新設され、タワークレーンによる作業も稼動中で、新旧入り混じった橋梁風景となっていました。
このような訳で、余部鉄橋もいよいよその役目を終えることになりました。
余部鉄橋の立て替え工事
PC橋(コンクリート橋)の工事現場

余部橋梁の案内板

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