鈴鹿峠(近江)
近江は周辺を山に囲まれており、多くの峠に出合う。その中で鈴鹿峠は、京への入口、江戸への出口として、歴史上重要な役割を持っていた。日本が国家として形づくられて来た頃、東は東国または関東と呼ばれ、これらから近畿を守るため、はじめて「関塞」(せきそこ)が鈴鹿峠に置かれた。正に天皇を中心とする中央集権国家の建設を目指した大化の改新の頃にこの峠が登場してきた。
鈴鹿峠地図(378m)←クリック
平安時代、鈴鹿峠を越える道は「阿須波(あすは)道」と呼ばれ、初めて開通した。八町二十七曲といわれるほど、急な曲がり道の連続する難所であった。斎王群行がこの道を通って伊勢神宮へ向かうように定められたことからこの鈴鹿峠越えが東海道の本筋となったと表示板に解説されていた。
江戸時代に入ると参勤交代の制度が出来上がると、街道・宿泊が整備され、大名行列を初めとして多くの旅人が伊勢参りなどでにぎわっていた。だが、現在の鈴鹿峠は、自動車の単なる通過点に過ぎない。
全く人気がない片山神社の階段を通り抜けると、旧街道の歩きにくい石畳が上に上にと連なっている。この一帯は昔日の面影を偲ばせるところだ。急坂の途中、馬の水のみ鉢が置かれていた。峠をはさみ、西に土山宿(滋賀県)、東に坂下宿(三重県)があり、鈴鹿馬子唄には「坂は照る照る鈴鹿は曇る/あいの土山雨が降る」と歌いながら馬子が馬を曳(ひ)いて行った光景が浮かんでくる。
ここを登りきり、鬱蒼とした檜の林を進むと鏡岩の標識がある。「鈴鹿山の鏡岩鏡岩」に寄って見ることにした。別名「鬼の姿見」といい、峠に住む盗賊が、街道を通る旅人の姿をこの鏡の肌面に写して待ち伏せしたといわれるという伝説がある。岩上の見晴台からは、今は、上下線に分離されている国道1号が、手に取るように見えた。高畑山←クリック
両脇の茶畑を通り過ぎると、今から約270年前、四国の金比羅参りに行く人の道中安全を願い、「万人講常夜燈」が建てられてあった。高さ5.44m、重さ38トンもある巨大な自然石である。
自然石の山燈籠の竿石に「金比羅大権現 永代常夜燈」と大きく彫り、基礎石には大きな字で[万人講」と刻まれていた。金比羅信仰は、講で広がり、讃岐の金比羅さん」として昔より全国的に信仰を集めてきた。この常夜燈は、もとは東海道沿いに立っていたが、国道1号線の鈴鹿トンネル工事に伴い、トンネルの上の山腹に移設された。
関連記事