亀山宿~関宿/野村一里塚 

nonio

2014年12月25日 14:44

 かつて、一里塚は旅する人にとって、大事な目印であった。この文字が示すように、1里(約4km)ごとに街道の両側に9m四方の土盛りした塚が設けられ、榎・松などの樹が植えられていた。旅人はここを通過する個数で距離を知り、時には木陰で休息をとった。変わった使われ方として、馬子・人馬賃銭の支払いの目安にもなったと言われている。だが、明治以降鉄道が敷かれると、時代が移るたびに人・物の流れが変わっていき、瞬く間に一里塚は、見向きもされない無用の長物となっていった。4km毎に造られたが、今では、滅多に出くわさない。

  今年も既に師走。まじかに正月を迎えるようになり、人生の一里塚をまた一つ越えようとしている。この時期になると、思い出すのが、頓智で有名な一休さんの作だ。
「門松は冥土の旅の一里塚 、目出度くもあり目出度くもなし」。一里塚を嬉しさと物悲しさが入り混じったニュアンスの場面に使われ、知られてきた。 本来この言葉は、先に進む上での道しるべであり、目標へむかう過程での一つの段階を示す言葉で、「目標」や「達成」など力強い意味合いが含まれる。私は、さらに「希望」みたいな意味も含んでいるように思っている。だから、一里塚は、以前から思い入れの塚であり、言葉であった。

 平成26年10月28日(火)、久しぶりにフォトウォーク32に参加した。東海道五十三次の46番目の亀山宿から関宿までを散策した。
 JR亀山駅⇒亀山宿⇒野村一里塚⇒布気皇舘太神社⇒大岡寺畷(鈴鹿川北堤)⇒東海道47番/関宿・東追分(入口) ⇒大鳥居(伊勢街道分岐点)⇒関まちなみ資料館⇒関宿旅篭玉屋歴史資料館⇒足湯交流施設⇒地蔵院⇒道の駅関宿
 
 JR亀山駅から古い町家のある街道を30分ほど歩いたところに、江戸時代初期に築かれたままの野村一里塚に出合った。もともと、道の両側にあったが、北側だけが残っていた。想像以上に盛り土が高いのに驚いた。塚の上には、迫力満点の椋(むく)の巨木がそびえ立っていた。 樹齢400年と言う歳月は、いささか大きくなり過ぎたようだ。当時は手ごろな大きさで旅人に親しまれていたことであろう。

 今では、わずかな歴史探訪者や観光客が時折訪れ、ひっそりとしているが、かつては、1日当たりの人数にしては300人弱、参勤交代を加えて約420人の人々を毎日見守り続けてきた歴史の生き証人である。

野村一里塚幹周/5.36m、樹高/18m、樹齢/約400年


  関宿の東の入口にやってきた。関宿は東の追分と西の追分の間に宿場が設けられ賑わったところだ。追分とは街道の分岐点。ここ東の追分は東海道と伊勢別街道の分かれ道。伊勢別街道の入口には大きな鳥居が建てられていた。この場所にしてはあまりにも立派な鳥居と思った。が、表示板に「伊勢神宮の式年遷宮の際、古い鳥居を移築するのがなわらしになっている」と説明されていたので納得。

 関宿に初めて一歩を印したのが、東海道と大和・伊賀街道の西の追分。明星ケ岳から観音山を経由して下山し、突如、古い町並みに出会った。 この時、強く印象に残ったのが、見慣れた電柱が一本も見当たらなかった。電線を地下に埋設させると、これほど街並みの景観がすっきりさせるものだと、分かった。今回改めて納得。

関宿の無電柱化された街道の景観

 
 江戸時代の旅人は男性で1日約40㎞、女性で1日約36㎞歩いた、と言われている。健脚だった。
さて、亀山宿から関宿までわずか約9kmであったが、最後に関宿の「小萬の湯」で足をほど良い湯に浸けて、疲れた足を癒して一日を終えた。
この足湯は、自噴の関宿温泉を泉源地からパイプで運び、掛け流しであった。 関宿には縁があって、何回か訪れたことがあったが、ここは、今回初めて知った隠れた穴場。

足湯関宿足湯交流施設 小萬の湯癒しのひと時

 

 

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