米相場の旗振山/野洲周辺

nonio

2015年05月06日 07:30


 
                 田中山から三上山を望む
  三上山(432m)の北側に田中山(293m)がある。湖南岳友会が設置した道標では「かぶと山」となっているが、地元では田中山と呼んでいる。この山は、秀麗な三上山の近くにあるので、どうしても訪れる人が少なく、何時もひっそりとしている。夏場になるとブッシュが激しく一層行く人も少なくなる。この田中山の尾根続きに、田園が広がる野洲の土地柄に似つかわしくない”相場”と言う文字が頭に付けられ「相場旗振山(野洲)」の山名がある。

 案内してもらった山仲間O氏が、この山が、かつて金儲けにかかわることで脚光を浴びていた時があった、と説明してくれた。
 
  話は江戸時代中期まで遡るのだが、大阪の堂島には日本全国の年貢米が集められた。当時この米価が全ての物件の基本となっており、船場のあきんど達 は、米相場をいち早く知ろうとしていた。その方法として、見通しのよい山から山へと旗振り通信が行われていたと言うのである。そんな山のひとつであった。 明治26年3月に大阪に電話が開通すると次第に電話にとって代わられ、大正時代には完全に廃れてしまった。
                                    相場旗振山(野洲)の岩場
 旗振り通信をするには、四方見渡せる高い山と想像していたのだが、そうでもなさそうだ。この山は意外にも標高283mと低い。と言うのは一日に6回も行なっていたことから作業者の上り下りの肉体負荷も考えあわせた高さなのであろう。そして平野部に突き出している山なので、手旗信号の中継点となった。 作業者はあらかじめ決められ段取りによって、畳一枚程度の大きさの旗を振り、その日の米相場を伝えていた。望遠鏡を用いて、旗振り信号を確認し、次々と伝達していった。 大阪堂島の米相場が彦根に向かって、小関山(大津市)→安養寺山(栗東市)→相場旗振山(野洲)→岩戸山(十三仏)(東近江市)→荒神山(彦根市)・・・長浜と伝えられていた。その伝達速度は、熟練した旗振りさんが、相場を一回分、送信するのに1分程度らしい。大阪からここ田中山を経由して荒神山の彦根まで精々10分で伝達していたようだ。予想以上の伝達速度である。

 この三上山周辺の山々には、堂島から桑名方面への旗振り通信が滋賀県を経由して三重県に伝達されていた桑名ルートもあった。その中継地点として、菩提寺山も旗振り山であった。案内してもらった山仲間O氏が発見にかなり関与していた。旗振り山 「著者 柴田 昭彦」に詳細に記述されている。

いずれにしても、この辺りは商魂逞しい近江商人の土地柄、お蝶と言う米相場師が大儲けした話など伝わっており、色んなルートがあった。

野洲の相場旗振山周辺の相場に関った山々

写真1 相場旗振山(野洲)の岩場にある旗を立てた穴
写真2 相場旗振山(野洲)から安養寺山
写真3 岩戸山(十三仏)から三上山を望む
写真4 岩戸山頂上での受信方向を示した矢印
写真5 菩提寺山の展望岩から安養寺山

     写真1              写真2           写真3     
 
       写真4            写真5
  

 これほど張り巡らされた通信ルートが出来上がり、1日何回もおこなわれた。一刻を争って米相場を知る必要があるのであろうか疑問に思えた。 どうして、そこまでしてやるのか。よくわからなかった。 

 調べていくと、米の移動に伴う取引だけでなく、もう1つ、帳合米取引所も行われていた。帳簿だけの取引、つまり敷銀という証拠金を積むだけで、差金決済する先物取引が行なわれていた。米は不作もあれば豊作もあって価格は常に動いた。それを船場商人が予測して、買いつけては、売りつけていた。収穫前での帳簿の上の投機的取引である。思惑通りなら、大儲けになるが、逆の値動きになれば破産してしまう。だから、一攫千金を狙って、誰よりも一刻も早い情報がほしかったため、旗振通信を編み出していった。この方法は世界でも例を見ない方法らしい。


 参考資料  旗振り山 著者 柴田 昭彦
         おうみの旗振り山 中島伸男
 





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