福林寺跡磨崖仏
野洲市民である私は、野洲中学校の東側につけられた遊歩道を歩く事がよくある。田中山(相場振山)の山麓に位置し、殆ど人影もなく森林に囲まれ静寂なところである。時折、キジに出会うことがある。突然、静寂を突き破り、激しい羽音をさせて飛び立つことがある。キジが驚いているのだが、それ以上に私が驚いてしまう。
この遊歩道に沿って水が涸れた小川がある。その小川にかかる橋を渡り、細いが手入れされた林道を10mほど進むと、福林寺跡の磨崖仏がある。大きな石に左から観音さまと2体の阿弥陀さんの三尊が彫られていた。
やはり目に付くのは、親しみを感じる顔立ちの観音さまだ。如来様ほど恐れ多い存在でもない観音さまは、身近な存在でもあるので、より親しみを感じるようだ。
写生してみると、様々のところが観えてくる。「三尊とも、仏身から発する光明を表現したものであろう舟形に彫り込まれている。蓮華台に立つ像高は目測30㎝~40㎝程度であった。それにしても、如来様は観音像に比べて風雨に曝され損傷していた。特に、右端の如来様の傷みはひどかった」など。
表示板には、観音菩薩像は、室町時代初期の作風と記載されている。私にはどうしてこの時代と断定されたのかわからない。追々、磨崖仏を探索しているうちに判ってくるだろう。
それにしても、ノミの跡が痛々しい。
誰かが、ここで切り離し持ち帰ろうとしたが、途中で断念した痕跡である。
野洲町史には、大正9年の調査報告書に「近年コノ礎石ニ彫刻セル仏像ヲ取ラムセルモノアリ」と記述され、「当時大部分は、大阪、堺の富豪の庭に持ち去られた」と書かれていた。
大正11年「滋賀県史蹟名勝天然記念物調査報告書概要」は四個の花崗岩に合計22体の立像が彫刻されていることを確認している。そのとき、既に一つの石の三面が「各面かきとられ」ていること、他の二つの石が「大阪地方に売却せられたりと云ふ」ことも記録されている。
余談だが、ここから持ち出された「九重石塔」は大阪城内にあったけれど、再び、この地に来られた。いまなお、大阪、堺の富豪の庭に秘かに持ち込まれた仏像は、再びこの地に戻ってくるだろうか。
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