滋賀県下の中山道一里塚

nonio

2010年12月12日 15:50


  一里塚に出会ったのは、柏原~醒井ウォーキングの折、復元された「柏原の一里塚」が、初めてであった。
 一里塚を気にしながら、柏原宿を皮切りに、中山道を南下し草津宿の追分までやってきた。ここは、東海道と中山道の分岐点でもあり、中山道の終着点である。
 この間、一里塚跡の石碑を含めて5箇所ほど目にしたが、どうもすくないようだ。一里塚と云えば、一里(約4km)ごとに築かれたものである。柏原宿は、日本橋から距離にして115里に位置し草津宿は、129里になる。つまり、この間には、14箇所とはじめの1箇所をあわせて15箇所の一里塚があるはずだ。明治以降、鉄道が敷かれヒト・モノの流れが一変したため、一里塚は用済みとなり、次々と壊され、跡形も残されていないようだ。

 そもそも、一里塚は江戸時代に登場してくると思っていたが、これが意外に古い。
 一休さんが「門松は冥土の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし」との歌を詠んでいる。元旦になると門松が飾られ、皆が「おめでとう」と言っている。しかしよく考えるとひとつ歳をとることで、冥土の旅の一里塚を越すことになり、おめでたいのかどうか分からないと皮肉っている。この話、鎌倉時代である。さらに、さかのぼり平安時代末期に、道に里程標を立てたのが最初と言われており、一里塚は昔からつくられていたようだ。

 一里塚が全国的に整備されるようになったのは江戸時代である。1604年、徳川家康が、2代将軍秀忠に整備を命じた。江戸幕府は日本橋を起点として全国の街道に並木の築造と合わせて、一里塚を設置するよう指令を出し、10年ほどで完了したと言われている。
 一里ごとに榎(えのき)などの木を植え、一里ごとに街道の両側に9m四方の土盛りをつくって、木陰で休憩したり、馬子人馬賃銭の支払いの目印ともなった。旅人にとっては、シンボルのような存在であった。

 守山市今宿地区にやってきた。滋賀県内で唯一現存する一里塚に出合った。江戸・日本橋から数えて128番目の一里塚。 
  
 一里塚は道の両側に一対つくられたのだが、片側だけだ。榎の大木は立派な姿をとどめ、昔の面影を残していた。樹齢:150年、樹高:8m、樹幹周囲:1.9m。先代の榎は昭和中期に枯れたが、脇芽が成長して現在にいたっている。



これまでに出合った一里塚は、柏原・一色・久禮・石畑・愛知川そして今宿であった。
     柏原             一色             久禮            石畑
             

     愛知川


 柏原宿場が終わって、右側田圃の中にこんもりとした小山があった。復元された一里塚であったが、一里塚とはこのような格好であったのか初めてお目にかかった。
 一色の一里塚跡は、醒井宿に入る手前の名神高速(国道21号)フェンス前に真新しい石碑が据え付けられていた。良く見ていないと通り過ぎてしまうところだ。
 番場宿に入る前、立派な久禮の一里塚があった。 遺構は残っていなかったが、「中山道一里塚の跡」の大きな碑跡地を示す石碑が建てられていた。『右側に「とねり木」左側には「榎」が植えられていました』と表示板に書かれていた。もとの位置より100mほど東のところ。
 石畑の一里塚は、高宮と愛知川宿の間の宿(あいのしゅく)として発展して来たところである。立場茶屋が設けられ旅人や馬の憩い場となっていた。ここに一里塚が設けられ、『松の木が植えてあって、塚の上から湖水がみえた』と豊郷村史に記されていた。
 愛知川一里塚は、不飲川のすぐ先の国道8号。合流点向こう側の広場奥に「一里塚跡碑」が立っていた。


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