かつて丸子舟が行き交っていた塩津浜

nonio

2017年06月30日 05:40

  目の前に広がる光景は琵琶湖の最北端。風や波から守られた奥深い入り江で、出船入り船で賑わったところである。
平安時代から江戸時代、敦賀で荷揚げされた物資は、深坂、沓掛といった塩津海道を通り、塩津浜まで運ばれた。ここで丸子船に積み替えられ、琵琶湖を縦断して大津へ、そして京都・大阪へと運ばれていた。この中継地の塩津浜は、多くの問屋が立ち並び、大津湊に引けをとらない都市的要素を持った地域として繁栄した。

 
琵琶湖の最北端からの眺め


  山沿いのゆるやかにカーブした塩津海道をそぞろ歩きすると、いまなお当時そのままの廻船問屋、造り酒屋、旅籠だった建物が軒を連ね、往時の繁栄がしのばれた。

 海道の真ん中に、消雪パイプが埋め込まれ、ここは改めて雪国だと知った。
「最近では雪が積もらないが、凍てついた道路に散水している」と人懐こい奥さんがここでの暮らしぶりを色々説明してくれた。
「山裾野のタンクにためられた水には金気が多いので、街中も赤茶けている」と・・・。

くすんだ赤茶けた色合は、かつてここが、琵琶湖湖上交通の要衝だった。が、いまではその役目が終えたことを物語っているように思え、一層過去へと誘った。

カーブした塩津海道に、当時そのままの建物


 琵琶湖一周している時、塩津浜近くまで歩を進めていくと、地表から4メートルほどの深さに矢板を打ち込んだ穴に出くわした。この街に興味を持ったのは、これが最初であった。

 京都新聞で、「長浜市西浅井町塩津浜の塩津港遺跡から、国内最古級の大型の「構造船」の部材だったとみられる板材が見つかった」との記事を知り、再訪した。地元の古老が、「塩津港遺跡の丸子船のことがニュースになった」と自慢げに教えてくれた。日ごろ、ゆっくりと流れる時間で暮らしている人々にとっては、この話でもちきりだったようだ。
 
 「湖上水運の主役を務めたのが丸子船。平安時代後期、最盛期には丸子船が大小およそ1,400隻も湖上を行き交っていた」と丸子船について切り出すと
 小さい頃、敦賀に働きに出された古老が、「私が若かったころ、丸子船がまだ活躍していた」、と言っていた。

長浜市西浅井町塩津浜の塩津港遺跡


 丸子船は塩津海道の歴史を伝える貴重な遺産である。この街道界隈で、何とか丸子舟に関る痕跡を探してみたくなり、地元の人が言った月出集落まで出かけたが、何も見つからなかった。

 街中をウロウロしていると、丸子舟を描かれた旗が電信柱に付けられたであった。 そんな中、古びた土塀の屋号「吉平」を見出した。
 ニシンを貯蔵したという道具蔵である。庇の瓦まで見事な龍の飾りつけがされていることからして隆盛を極めたことだろう。
高いところにある棟瓦の鬼瓦の先に「丸子船」らしき小さな丸い瓦がみえたが、何が描かれているのか肉眼では確認できなかった。

 再度、望遠の写真機を持参して、拡大してみると、「丸子船」であった。
ここは、「丸子船」が行き交っていたのだ・・・・・。

鬼瓦の先に琵琶湖水運最盛の象徴である丸子舟を模した瓦 


庇瓦に見事な龍の飾りがある


 やっと、念願の痕跡を探し出したので、塩津神社に寄って帰宅した。右手の石段を登っていくと、由緒ありそうな古ぼけた小堂があった。
 



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