冬の日野山(越前富士)

nonio

2014年03月18日 16:16

 数年前、日野山(794.8m)と言う山名を知った。福井の経ヶ岳(1625m)に行った時である。山頂で二人ずれの若者が、「福井の越前から来ました。私等は近くにある日野山によく登ります」と話しかけてきた。「この山は越前富士とも呼ばれ、美しい姿をしています。紫式部をはじめ松尾芭蕉や与謝野晶子など名士がこの姿を褒め称えています。私等は日野山の山麓に住んでいます」と。山では、苦労して登ってくるので、全く知らない方でもすぐに友達になってしまうものだ。 まして”越前富士”と言う言葉を聞いて、一層親近感を持ってしまった。というのは、私は、三上山の近くに住んでおり、この山も別名近江富士と呼ばれているので、即座に親しみを持ってしまった。
 
 紫式部が、「源氏物語」に、名山日野山について書きとめている。

 長徳2年(996年)二年に越前守として、都から武生の国府に藤原為時が赴任した。この父と一緒に紫式部が1年半ほど滞在したことがあった。その時、日野山の様子を歌にしたためている。

      暦に初雪降ると書きつけたる日
      目に近き日野岳という山の雪
      いと深く見やらるれば
      ここにかく 日野の杉むら 埋む雪
      小塩の松に 今日やまがへる

暦に、「初雪降る」と書いてあるのを見て、目の前にある日野山に雪が、深々と積もっていた。日野川の杉木立も埋まるように雪が降り、埋もれんばかりになっていた。今日は、京の小塩山の松にも初雪が積もっているだろうかと、懐かしんでいる歌である。  1000年前に書き留められた光景である。この歌からして、北の国の越前市は冬になると根雪となり、日野山には、人も寄せ付けないほど深い雪が積もるのであろう。でも、いくら雪が深くても、富士に似たこの山には行ってみたいと思っていた。
 
 2月22日、念願がかない日野山に出かける機会を得た。
チャーターしたバスで、米原から北陸自動車道を進み、敦賀トンネル・今庄トンネルを抜け今庄ICで一般道に出た。一面の雪景色を予想していたのだが、住んでいる野洲と何ら変わらない景色に拍子抜けしてしまった。
 日野川沿いの202号道路を武生に向かってひとしきり走っていると、地肌をした畑越しにひときわ品のある形をした山容が見え始めた。頂上には薄っすらと白色をしていた。車窓から最も美しい形を求めて数枚写真を撮っていると、急に幹道を右折して、脇道に入り出し、眺めていた山に近づいていった。この山が、日野山であることを確信した。 私は、福井の山々へ度々行くので、越前市を通過している。この山を見ているはずだが、この時が始めて、山名と実物とが一致した。

日野川沿いの202号道路車窓から眺めた日野山


  頂上に達するコースは、色々あり、後述する地元のブロガーにより詳しく紹介されている。平吹コース・西谷コース・荒川コース・宮谷コース・萱谷コース・朝倉街道牧谷峠コース・牧谷コースの7コース。 我々の取ったコースは厳冬期でもあり、トレースもしっかりと付いた最もポピュラーである日野神社から登る平吹コースを選んだ。1000m以下の低山であるが、ここは北陸。 10人以上の高齢者も含むメンバーで、厳冬期の山行となると慎重になるものだ。下見も行い、「冬でも多くの登山者が訪れていて、踏み跡が絶える事がない」との情報も得て、出掛けることにした。

 平吹の集落を通り登山口の日野神社に向かった。境内に大きな石積みがされ、由緒ありそうな神社であった。昔、朝廷から重視されたことを示す格式は、郷社、式内社である。このことは、古来より霊験が著しいとされる名神を祀られているところである。また頂上には日野神社の奥宮が祀られていることから、日野神社は日野山を信仰する中心的な役割を持っているのであろう。 今日の山行の無事を祈願して出発していった。

古来より霊験がある日野神社


 登山路は境内の左にある中部北陸自然歩道(中平吹登山口)と書かれた表示板から延びていた。出足では雪がなかったが、やがて白い道となった。山道の脇には、少し変わった岩があると立札が立てられていた。「焼餅岩」「石の唐戸」と「弁慶の三枚切の岩」と。各札には歴史的謂れの能書きが付けられていた。登山者が飽きないようにと、色々配慮が行き届いていた。

 主に古道を進んだ。昔から使われていた山道なのであろう。古道1・2.・・・と番号が付けられた標識が立てられていた。この古道を交差するように、3m程度の林道が、頂上まで続いていた。自動車も登っていけるように、緩い勾配になるようにジグザグに付けられていた。したがってトレースは古道を進んでいたかと思っていると、林道になったりとお互いに入り組んでいた。いずれにしても、雪山の勝手がわからない山なので、地元の人達が付けられた道筋に忠実に従った。程なく立派な仏像のある室堂についた。

 室堂を過ぎると雪も増え、そうこうしている内に「大比丘尼ころがし」の場所にやってきた。比丘尼ころがしとは、女人禁制で女子は登ることが出来なかった。たまたま尼僧がこれに反して登ろうとしたところ神のお怒りにふれ、ころげ落ちたのでこの名が生まれたと伝えられている。まさにこの辺から最後のきつい登りとなった。ふと、目についたのは、地元の王子保小児童会がつくったもので「もすこしがんばれ」などとかかれた絵いりの案内板が100mごと設置されていた。後何メート進めば頂上に到着することを示した表示板である。いつの間にか残りの距離が50mごとになっていた。



 

「あと50mで頂上」との表示板に導かれて、山頂広場の一角にでた。ふもとから眺めていると、雪らしきものも見えていなかったが、頂上直下の奥の宮鳥居までやってくると光景が一変していた。この鳥居を潜るには、腰をかがめてなければ、通りきれないほど、積雪があった。2メートル以上であろう。山頂の立派な奥社まで登り切った。この平吹コースの所要時間は2時間であったが、積雪で歩きにくいこともあって3時間要した。

頂上直下の雪の埋まった鳥居


頂上に備えられた日野神社の奥の宮


 日野山は独立峰であるので白山・別山、また荒島岳、能郷白山など見られる。だが、頂上からの眺めはあいにく、見渡す限り雲がたなびき視界を遮った。横に、山名が書き込まれた鳥瞰図があった。高みから見おろしたように描いた誇張された図である。が、書かれた山名の方向を向けば、目的の山が見られるので非常に便利な図である。最も期待していた白山について眺めたが、どうしても姿が見られなかった。

日野山頂上から白山・別山の方向を望む


  白一色の世界から避難小屋に一歩踏み入ると、そこは、数人の先客がくつろいでおり、安堵の空気が漂っていた。室内は二室に間仕かれていて右側には床が張られていた。ここに10人前後は泊まることが出来るようだ。一方が、かなり広い土間になっていた。雪山の小屋は本当に助かるものである。冷たい風も一切受けずに、熱いカップヌードルを美味しく味わった。寒い所では、熱い食べもが何よりうれしい。気持ちも直ぐに和らいだ。

 あたりを見渡すと”3000回記念”と書かれた文字があった。書かれた通り独り言を言っていると、仲間が”裸足まいり”だ、と念を押された。はだしと言うことは、この山は古くから山岳信仰の霊山である。修行していたのであろう。
それにしても、地元の人達が足繁く訪れ整備をされ大事にされている山である。途中、何人もの地元の人達から声をかけられた。我々は、アイゼンを装着して臨んだのだが、長靴を履き、冬季の山行を気軽に楽しまれていた。

 室内の入口付近に「また日野山においでよ」と書かれた”ちらし”が無造作に置かれていた。ブログのハンドルネームは「日野の旋風」である。後日、このブログ(日野山 7-585)を開くと、何時の間に出合ったのかわからなかったが、「下山時、滋賀県からの13名の団体さんが登って来られていました」と書かれていた。これは我々のチームのことである。このブログ、日野山に関する情報を逐次発信されておられ、特に冬季の積雪状態についても貴重な情報が得られる。

頂上直下の難小屋


 冬季の頂上での長居は危険である。再び鳥居を潜り、早々に下山にかかった。頂上を踏んだことの満足感からか、全員足取りも軽く、同じコースだが主に林道を下った。


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