ウッディパル余呉菅山寺
今年4月10日(土)、菅山寺へは呉枯ノ峰(くれかれのみね)から訪れたことがあった。このときは、縦走していたので、菅山寺はひとつの通過点に過ぎなかった。一等三角点の呉枯ノ峰と巨木の菅山寺
今年11月2日(火)、今回は、壇上俊雄氏(高島トレイル運営協議会)の案内のもとに、ブナの原生林など森林帯を散策しながら、菅山寺、朱雀池(すじゃくいけ)、近江天満宮だけをゆっくり周遊することを目的にやってきた。
既に見慣れた風物もあったが、見えていなかった世界も発見できた。見方に余裕ができてきたのか、それとも、無駄な景色をみなくなったのか定かでないが、同じところに訪れても、飽きるどころかより深みを知り、楽しい山旅となった。ウッディパル余呉の管理棟(赤子スキー場)で予約しておいた弁当を受け取り出発していった。
林道赤子線が尾根近くまで伸びており、標高450m余りの大箕山(だいきさん)付近まで自動車でのぼった。この駐車場からは、余呉湖を見下ろす位置である。
菅山寺は、明治以降無住となりひっそりしていたが、大正元年(1912)に保勝会が組織されたここを管理しているようだ。 本堂、護摩堂、経堂、鐘楼などが建ち並び、鎌倉中期の作銘を持つ銅鐘は大正15年(1926)国の重要文化財に指定され、他にも、本尊の不動明王や十一面観音、木造の狛犬、石灯籠など寺宝が多くある歴史的にも由緒あるところである。
このケヤキの樹は、長年風雪に耐え生延びて樹皮がはげ落ち、残った部分にはコブもでき苔がむしている。
学問の神様、菅原道真公が平安前期に宇多天皇の勅使として入山した44歳の時のお手植えだと伝えられている。なお、「伝承1000年余」と記してあった。人づてに伝わってきた年数であり正確性に欠けるが、かなりの老木である。この老木から、伝わってくるはるかかなたの時の流れを感じ、菅原道真公が、ここで過ごしたとされる昔日が偲ばれた。
菅山寺から森林帯を進むと、静寂さを漂う朱雀池と、その奥には近江天満宮が現れた。朱雀(しゅじゃく)と呼ばれていたことから、中国の伝説上の神獣(神鳥)でも住むほど恐れ多い様相が醸し出てきているところだ。
池周辺には、鬱蒼とした樹木に覆われ神秘的ベールに包まれていた。樹木の影を映す孔雀池は、湧き水でできた池面には蓮が群落をつくり、鯉がゆったりと泳いでいた。
人間によってつくられた近江天満宮などの建物は、歳月を超越した自然に飲み込まれそうである。往時3寺49坊からなる大寺院がここにあったが、歴代住職の荒れた墓石群が、この山中で僧侶が暮らしていた証しとして残っていた。
本堂、護摩堂、経堂、鐘楼を眺めている内に、その中に歴史があり、僧侶たちとの一生があったのだなーと言う想いが、胸にこみ上げてきた。
以前、菅山寺分岐点から坂口集落の赤い鳥居まで下山して行った時、参道の脇にお地蔵さんに出会った。だが、いたるところのお地蔵さんに顔がなかった。異様な雰囲気でもあり、お地蔵がそこには居なかったと自分に言い聞かせ、視線を避けて下山に熱中になった。
聴いたり、調べてみると、「参道には、四国八十八ヶ所巡りの八十八地蔵が並んでいる。高さ30cm程の石仏は、石質がもろいので弱いところ取れてしまう・・・。 また、明治初めの廃仏毀釈による破壊によるものだとも言われている」とのこと。
明治政府の神道国教化政策に基づいて起こった仏教の排斥運動で、明治元年(1868)神仏分離令発布とともに、仏堂・仏像・仏具・経巻などに対する破壊が各地で行われたようだ。
それにしても、頭部が壊されたものが多く並んでいるとなんとも無惨で心が痛む・・。しっかりとしたお地蔵さんを写真に納めた。
近江天満宮の本殿裏から美しい2ツの峰を持つ横山岳を眺められたのは望外の喜びだ。また蕎麦粒山も確認できた。 湖北 横山岳のブナ林に遊ぶ
気に入ったらクリック願います。
にほんブログ村
関連記事