荒神山(彦根)を散策

nonio

2010年08月07日 12:06

  鈴鹿山系を源とした愛知川、犬上川が湖東平野に流れ込んでいる。県下で最大の平野を横切るように中山道や朝鮮人街道が通っている。

 これらの街道から湖方面を望むと、否応無しになだらかな山の姿が目に入ってくる。周囲約6kmのこんもりとした姿をしている。荒神山である。
彦根西部地域にあり、琵琶湖に流れ込む宇曽川の河口近くで、南彦根の稲枝と日夏地区にまたがっている。この山塊だけが、広々とした湖東平野に残されたようにたたずんでいる。
荒神山地図

  数年前、琵琶湖一周を試みた時、近江八幡~彦根間で初めて荒神山を目にした。新海浜町にさしかかると、靄にかかった山並みが目の前に迫ってきた。

 彦根市に向けて真っ直ぐに延びた「さざなみ街道」が続いていた。この道と左湖岸に沿ってもうひとつ湖畔べりに「近江湖の辺の道」が平行設けられている。時折、二つ道は合流していた。つねに琵琶湖が見渡せる水辺にある道を選んで歩んだ。

 更に柳川町、薩摩町までやってくると岸沿いには、見事な松林となった。対岸から吹き寄せてくる風が強いのであろう防風林帯のようだ。松林の幹の間から、右手の荒神山を望むと、山頂付近にテレビなどのアンテナの鉄塔が見えた。

このときには、この山は「電波を受けやすい場所にある山」としか映らなかった。

 その後日が変わるが、中山道を南下していた。豊郷町に入ると左側には青味かかった鈴鹿山系の山々が連なり、右側に振り向くと荒神山が見え、意識する山となった。

 江戸時代、一面田んぼが広がるところでは、荒神山は旅人達の目印になったに違いない。

 ここ豊郷町にも一里塚が設けられ、『松の木が植えてあって、塚の上から湖水がみえた』と豊郷村史に記されている。今より遮蔽するものもなく荒神山を見ながら、旅人達が広々とした湖東平野を通過していったであろう。

 宇曽川に架かっている歌詰橋を通過する際にも、遠くに荒神山がまだ見えている。
「歌詰橋」とは妙な言い伝えのある橋だ。
ここには伝説が残っており、昔、平将門の乱を鎮めた藤原秀郷将門の首を都へ運んでいたところ、 その首が目を開いて秀郷に襲いかかってきた。 秀郷はとっさに「 歌を詠んでほしい 」 と頼むと、首は歌に詰まって橋詰に落ちたということから、歌詰橋と言う面白い名前が付いた橋であるので、よく覚えていた。この宇曽川は、江戸時代物資の運搬もされていたので、運送川が訛って宇曽川となったとも言われている。この川の先にある荒神山に繋がっている。益々、この山が気にかかった。

 朝鮮人街道を辿っていた時も、荒神山の東側の山麓を通り日夏の集落を通り抜けたこともあった。この辺りの宇曽川は、琵琶湖に近く川幅もあり、荒神山を巻くようにしてゆったりとした流れとなっていた。

天満橋付近の山裾に「右 千手寺」「左 八まん」の道標があった。荒神山を目指し、この道標を探しにやってきたのだ。

 この山にはどうしても踏み跡を残したいとの思いと、頂上からの遠望も見たかったので、荒神山に登ってみた。
 標高「284m」の荒神山には、舗装された林道や山道があり、気軽に登ることができる手軽な山である。尾根縦断をしても、2時間もあれば通り抜けできる。湖岸が標高80mであるので、標高差200mほど登ればよい。昔から郷土の人によって、火と竃(台所)の神・祓え神の「荒神さん」と親しまれてきた山なのだ。

 古くは平流山(へいるやま)と呼ばれていたが、奈良時代、行基が山頂に奥山寺を開山した際に、三宝大荒神の像を作ったことから荒神山と呼ばれるようになった。
 
 古くから人々が住みついた地域である。中国大陸や朝鮮半島からの多くの渡来人が、この山を目当てとして、湖北の港から湖上を渡ってきたと考えられている。山頂の北側には4世紀末の前方後円墳がつくられ地域有力者の祭祀の場として使われてきた。ここを治めた首長は、琵琶湖を望む湖上交通の要衝の地に構え、この辺りを掌握していたのであろう。

 また、この山には、山城が築かれていたようだ。築城年代は定かではないが、観音寺城主六角氏の重臣日夏氏累代の居城で、日夏安芸守が荒神山上に城を築いたと言われている。
現在は、穏やかな山であるが、色んな歴史があるところだ。

 山頂には「火の神」「竈の神」が祀られた神社が有る。毎年6月30日には「水無月の千日詣」が行われ、3歳までにこの祭りにお参りすると、一生火事を出さないとのいい伝えがある。

 山頂付近から見る琵琶湖の眺めは、彦根八景の一つに選ばれている。東側は湖東平野が広がり彦根城も確認できた。写真でも観られるように真下に曽根湖そして琵琶湖。

 

 


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