2010年05月12日    奥嵯峨・野洲の祇王寺

 平家物語は「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ…」で始まります。平清盛の寵愛を受けた白拍子である祇王・仏御前のはかなく哀れな物語。 祇王・仏御前物語のあらすじ 続き読むをクリック

 奥嵯峨・野洲の祇王寺野洲市中北の祇王寺で、井上由里子氏の「白拍子の舞いと語り」に出逢いました。ここは常時門が締まり、閑散としたところですが、知る人ぞ知る有名なところです。

 立烏帽子(たてえぼし)、白い水干(すいかん)に長袴で、太刀を腰に差した男装で、「平安時代…」と語りながら、物腰柔らかな舞が始まりました。女性にもかかわらず、背筋を伸ばした姿は、少年のようでもありました。そして、倒錯的な官能美が見え隠れする怪しげなる雰囲気を醸し出していました。 

 井上氏は白拍子の第一人者として活躍。端正な美しい容姿で、気品ある優美な舞や語りを演じる白拍子として人気があます。
 舞い後、語っていました。2000年祇王の法要で「祇王の舞い」を奉納した。このときほど、「祇王さんになりたい」と切実に願った。8年後、庵主さんがなくなり祇王寺は無住となった。仏前に飾られた庵主さんの写真に向かって、「仏もむかしは凡夫なり…」と。

奥嵯峨・野洲の祇王寺 今回の舞いはどのような題目なのか全く分からなかったのですが、舞いの中で「凡夫」の言葉を耳にしました。

 これは、平家物語の中で、平清盛の寵愛が白拍子の祗王から仏御前に心変わり。仏御前が退屈しているからと無理やり祇王を呼びつけました。参上してみると、祇王の席は、末席で惨めな扱いを受け、かつての栄光とはかけ離れた自分の姿を思い知りました。悲しんでいる祇王に、清盛は謡を命じ、祇王は答え即興的に今様を謡ったのです。

仏もむかしは凡夫なり我等もつひには佛なり
  いづれも仏性具せる身をへだつるのみこそ悲しけれ


この今様は、梁塵秘抄(りょうじんひしょう)に所収された「仏も昔は人なりき、我等もつひには仏なり、三身仏性具せる身と、知らぜりけるこそあはれなれ、」 の替え謡なのです。
 原歌は仏も凡夫もともに仏になり得る性質を持っているのに、人々がそれに気付かないと言う意味ですが、「仏」御前と「われら」祗王祗女姉妹に置き換えて、人を凡夫(高貴な人)に謡い替え、同じ白拍子なのにと強調しながら、嫌って遠ざけることは悲しいと訴える今様の謡にしてしまったのです。

 この白拍子、体も売る遊女なのです。しかし、今様貴族や皇族などの一流の人々と渡り合える学力を持ち合わせていました。今様歌とはこの通り今風の歌であり、当時の流行歌でもあった。歌詞が、7、5、7、5、7、5、7、5で1コーラスを構成するのが基本で、様々な歌詞が生み出されました。

 多分、今回観賞した舞いは、「祇王の舞い」であったと思われます。平安時代のいとも不思議な世界に連れて行かれました。

 後日、野洲市の祇王寺から京都、奥嵯峨野の祇王寺に訪れました。

 愛宕山への参道鳥居本周辺は、化野(あだしの)と呼ばれ、平安時代は最果ての場所、「あだし野の露消える時なく、鳥部山のけむり立ち去らで…」と歌われた風葬地でありました。坂道を下っていくと、道の左端に何本もの石柱が立っていました。そのかの祇王寺の名を刻んだ石柱に導かれて進んでいきました。
 奥嵯峨・野洲の祇王寺
 小倉山の麓に向かって薄暗い小道を通っていくと質素な茅ふき屋根の家草庵がありました。奥嵯峨野祇王寺です。

 ここは、野洲市の閑散とした祇王寺と違って若い女性が入口に行列をつくっていました。順路に従って進み、草庵内の仏間には、本尊大日如来を中央に、左から祇王・その母(刀自)平清盛・妹の祇女・同じ白拍子の仏御前5人の木像が安置されていました。平清盛に翻弄された捨てられた祇王達でありましたが、平清盛の恩義も忘れず並んでおられました。益々この世のあわれを感じさせられます。
多くの観光客が詰め掛けていましたが、なぜか物音もしない静けさが漂いより一層物悲しい。奥嵯峨・野洲の祇王寺 

 控えの間にある丸窓は、吉野窓とも呼ばれ、光の入り方によって影が虹色に映るという不思議なところと言われています。
 静かに座り、吉野窓から、苔むした庭を清浄な浄土と見立て、彼女等は一心に阿弥陀仏のもとに生きる決心を固めていたのでしょう。
 
 暫し眺めて、祇王寺を出ました。落柿舎を見遣りながら、トロッコ嵐山駅を経由して、竹林を通りへ。長く真っ直ぐに伸びた竹同士が僅かな風で触れ合い独特の音がする道を通り過ぎて繁華街の嵐山に着きました。平安時代から現在に舞い戻ってきました。
 
奥嵯峨・野洲の祇王寺










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平家物語「巻第一 妓王の章」あらすじ

 白拍子であった祇王は権勢を誇っていた平清盛の寵愛を受け暮らしていた。
 ある日、清盛に歌舞を披露したいという白拍子、仏御前が現れた。最初、彼女は門前払いをうけますが、見かねた祇王がとりなしで、清盛の前で歌舞を披露することとなった。 ところが、清盛は心を奪われ、彼女に心変わりをしてしまった。祇王の座を奪うという意図がなく辞退しますが、逆に、清盛は祇王を追放してしまった。

   萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の花 いづれか秋に あわではづべき

出て行く祇王がせめてもの忘れ形見にと詠んだ句である。
 翌春、清盛は退屈している仏御前を慰めるためといって、祇王に仏御前の前で舞を披露するように強要された。やむなく清盛の館へ向かい、

   仏もむかしは凡夫なり われらも遂には仏なり いずれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ

と舞い踊りを披露して諸臣の涙を誘った。

 祇王は都におれば同じような思いをしなければならないと、母、妹と共に尼となり、嵯峨の山里で仏門に入った。当時祇王21歳、妹の祇女19歳、母の刀自45歳であった。

 その後、仏御前は祇王の元を訪れた。祇王の運命を自分に重ねて世の無常を思い、清盛の館を抜け出して尼となっていた。
 こうして祇王一家と仏御前は、日夜余念無く仏道に励み、みな往生の本懐を遂げたのでした。










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Posted by nonio at 13:40 │Comments( 0 ) ウォーク
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